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家なき子(いえなきこ)01

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-1 11:43:28 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     ジョリクール

 夜明けまえの予告よこくはちがわなかった。
 日がきらきらかがやきだした。その光線は白い雪の上に落ちて、まえのばんあれほどさびしくどんよりしていた森が、きょうは目がくらむほどのまばゆさをもってかがやき始めた。
 たびたび親方はかけ物の下に手をやって、ジョリクールにさわっていたが、このあわれな小ざるはいっこうに温まってこなかった。わたしがのぞきこんでみると、かれのがたがた身ぶるいをする音が聞こえた。
 かれの血管けっかんの中の血がこおっていたのである。
「とにかく村へ行かなければならない。さもないとジョリクールは死ぬだろう。すぐたつことにしよう」
 毛布もうふはよく温まっていた。それで小ざるはその中にくるまれて、親方のチョッキの下のすぐむねに当たる所へ入れられた。わたしたちの仕度ができた。
 小屋を出て行こうとして、親方はそこらを見回しながら言った。
「この小屋にはずいぶん高い宿代やどだいをはらった」
 こう言ったかれの声はふるえた。
 かれは先に立って行った。わたしはその足あとにつづいた。わたしたちが二、三げん(四~六メートル)行くと、カピをんでやらなければならなかった。かわいそうな犬。かれは小屋の外に立ったまま、いつまでも鼻を、仲間なかまがおおかみにとられて行った場所に向けていた。
 大通りへ出て十分間ほど行くと、とちゅうで馬車に会った。その御者ぎょしゃはもう一時間ぐらいで村に出られると言った。これで元気がついたが、歩くことは困難こんなんでもあり苦しかった。雪がわたしのこしまでついた。
 たびたびわたしは親方にジョリクールのことをたずねた。そのたんびにかれは、小ざるはまだふるえていると言った。
 やっとのことでわたしたちはきれいな村の白屋根を見た。わたしたちはいつも上等な宿屋やどやにとまったことはなかった。たいてい行っても追い出されそうもない、同勢どうぜいのこらずとめてくれそうな木賃宿きちんやどを選んだ。
 ところが今度は親方がきれいな看板かんばんのかかっている宿屋へはいった。ドアが開いていたので、わたしはきらきら光る赤銅あかのなべがかかって、そこから湯気のうまそうに上っている大きなかまどを見ることができた。ああ、そのスープが空腹くうふくな旅人にどんなにうまそうににおったことであろう。
 親方はれいのもっとも『紳士しんし』らしい態度たいどを用いて、ぼうしを頭にのせたまま、首を後ろにあお向けて、宿屋やどや亭主ていしゅにいいねどことあたたかい火をもとめた。はじめは宿屋の亭主もわたしたちに目をくれようともしなかった。けれども親方のもっともらしい様子がみごとにかれを圧迫あっぱくした。かれは女中に言いつけて、わたしたちを一間ひとまへ通すようにした。
「早くねどこにおはいり」と親方は女中が火をたいている最中さいちゅうわたし言った。わたしはびっくりしてかれの顔を見た。なぜねどこにはいるのだろう。わたしはねどこなんかにはいるよりも、すわってなにか食べたほうがよかった。
「さあ早く」
 でも親方がくり返した。
 服従ふくじゅうするよりほかにしかたがなかった。寝台ねだいの上には鳥の毛のふとんがあった。親方がそれをわたしのあごまで深くかけた。
「少しでも温まるようにするのだ」とかれは言った。「おまえが温まれば温まるほどいいのだ」
 わたしの考えでは、ジョリクールこそわたしなんぞよりは早く温まらなければならない。わたしのほうは、いまではもうそんなに寒くはなかった。
 わたしがまだ毛のふとんにくるまってあったまろうとほねっているとき、親方はジョリクールをまるくして、まるできにして食べるかと思うほど火の上でくるくる回したので、女中はすっかりびっくりした。
「あったまったか」と親方はしばらくしてわたしにたずねた。
「むれそうです」
「それでいい」かれは急いで寝台ねだいのそばに来て、ジョリクールをねどこにつっこんで、わたしのむねにくっつけて、しっかりだいているようにと言った。かわいそうな小ざるは、いつもなら自分のきらいなことをされると反抗はんこうするくせに、もういまはなにもかもあきらめていた。かれは見向きもしないで、しっかりだかれていた。けれどもかれはもうつめたくはなかった。かれのからだはけるようだった。
 台所へ出かけて行った親方は、まもなくあまくしたぶどう酒を一ぱい持って帰って来た。かれはジョリクールに二さじ三さじ飲ませようとこころみたけれど、小ざるはを食いしばっていた。かれはぴかぴかする目でわたしたちを見ながら、もうこのうえ自分をめてくれるなとたのむような顔をしていた。それからかれはかけ物の下からかたうでを出して、わたしたちのほうへさしべた。
 わたしはかれの思っていることがわからなかった。それでふしぎそうに親方の顔を見ると、こう説明せつめいしてくれた。
 わたしがまだ来なかったじぶん、ジョリクールは肺炎はいえんにかかったことがあった。それでかれのうでにはりをさして出血させなければならなかった。今度病気になったのを知ってかれはまた刺絡しらく(血を出すこと)してもらって、せんのようによくなりたいと思うのであった。
 かわいそうな小ざる。親方はこれだけの所作しょさで深く感動した。そしてよけい心配になってきた。ジョリクールが病気だということはあきらかであった。しかもひじょうに悪くって、あれほどきな砂糖さとう入りのぶどう酒すらも受けつけようとはしないのであった。
「ルミ、ぶどう酒をお飲み。そしてとこにはいっておいで」と親方が言った。「わたしは医者をんで来る」
 わたしもやはり砂糖入りのぶどう酒が好きだということを白状はくじょうしなければならない。それにわたしはたいへんはらっていた。それで二度と言いつけられるまも待たず、一息にぶどう酒を飲んでしまうと、また毛ぶとんの中にもぐりこんだ。からだの温かみに、酒まではいって、それこそほとんど息がつまりそうであった。
 親方は遠くへは行かなかった。かれはまもなく帰って来た。金ぶちのめがねをかけた紳士しんし――お医者をれて来た。さるだと聞いては医者が来てくれないかと思って、ヴィタリスは病人がなんだということをはっきり言わなかった。それでわたしがとこの中にはいって、トマトのような赤い顔をしていると、医者はわたしの額が手を当てて、すぐ「充血じゅうけつだ」と言った。
 かれはよほどむずかしい病人にでも向かったようなふうで首をふった。
 うっかりしてまちがえられて、血でも取られてはたいへんだと思って、わたしはさけんだ。
「まあ、ぼくは病人ではありません」
「病人でない。どうして、この子はうわごとを言っている」
 わたしは少し毛布もうふを上げて、ジョリクールを見せた。かれはその小さな手をわたしの首にきつけていた。
「病人はこれです」とわたしは言った。
「さるか」とかれはさけんで、おこった顔をして親方に向かった。「きみはこんな日にさるをみせにわたしをれ出したか」
 親方はなかなか容易よういなことでまごつくような、まのぬけた男ではなかった。ていねいにしかもれいおおふうな様子で、医者を引き止めた。それからかれは事情じじょう説明せつめいして、ふぶきの中にじこめられたことや、おおかみにこわがってジョリクールがかしの木にとび上がったこと、そこで死ぬほどこごえたことを話した。
「病人はたかがさるにすぎないのですが、しかしなんという天才でありますか。われわれにとってどれほどだいじな友だちであり、仲間なかまでありますか。どうしてこれほどのふしぎな才能さいのうを持った動物をただの獣医じゅういやなどにまかされるものではない。村の獣医というものはばかであって、その代わりどんな小さな村でも、医師といえば学者だということはだれだって知っている。医師の標札ひょうさつの出ているドアのびりんをおせば、知識ちしきがあり慈愛じさい深い人にかならず会うことができる。さるは動物ではあるが、博物学者はくぶつがくしゃしたがえば、かれらはひじょうに人類じんるいに近いので、病気などは人もさるも同じようにあつかわれると聞いている。のみならず学問上の立場から見ても、人とさるがどうちがうか、研究してみるのも興味きょうみのあることではないでしょうか」
 こういうふうにかれて、医者は行きかけていた戸口からもどって来た。
 ジョリクールはたぶんこのめがねをかけた人が医者だということをさとったとみえて、またうでをつき出した。
「ほらね」と親方がさけんだ。「あのとおり刺絡しらくしていただくつもりでいます」
 これで医者の足が止まった。
「ひじょうにおもしろい。なかなかおもしろい実験じっけんだ」とかれはつぶやいた。
 一とおり診察しんさつして、医者はかわいそうなジョリクールが今度もやはり肺炎はいえんにかかっていることをげた。医者はさるの手を取って、その血管けっかんに少しも苦しませずにランセット(針)をさしこんだ。ジョリクールはこれできっとなおると思った。刺絡しらくをすませて、医者はいろいろと薬剤やくざいにそえて注意をあたえた。わたしはもちろんとこの中にはいってはいなかった。親方の言いつけにしたがって、看護婦かんごふつとめていた。
 かわいそうなジョリクール。かれは自分を看護してくれるのでわたしをいていた。かれはわたしの顔を見てさびしくわらった。かれの顔つきはひじょうにやさしかった。
 いつもあれほど、せっかちで、かんしゃく持ちで、だれにもいたずらばかりしていたかれが、それはもうおとなしく従順じゅうじゅんであった。
 その後毎日、かれはいかにわたしたちをなつかしがっているかをしめそうとつとめた。それはこれまでたびたびかれのいたずらの犠牲ぎせいであったカピに対してすらそうであった。
 肺炎はいえんのふつうの経過けいかとして、かれはまもなくせきをし始めた、この発作ほっさのたびごとに小さなからだがはげくふるえるので、かれはひどくこれを苦しがった。
 わたしの持っていたありったけの五スーで、わたしはかれに麦菓子むぎがしを買ってやった。けれどこれはよけいかれを悪くした。
 かれのするどい本能ほんのうで、かれはまもなくせきをするたんびにわたしが麦菓子をくれることに気がついた。かれはそれをいいことにして、自分のたいへんきな薬をもらうために、しじゅうせきをした。それでこの薬はかれをよけい悪くした。
 かれのこのくわだてをわたしが見破みやぶると、もちろん麦菓子むぎがしをやることをやめたが、かれは弱らなかった。まずかれは哀願あいがんするような目つきでそれをもとめた。それでくれないと見ると、かれはとこの上にすわって両手をむねの上に当てたまま、からだをゆがめて、ありったけの力でせきをした。かれのひたい青筋あおすじがにょきんととび出して、なみだが目から流れた。そしてのどのつまるまねをするのが、しまいには本物になって、もう自分でおさえることができないほどはげしくせきこんだ。
 わたしはいつも親方が一人で出て行ったあと、ジョリクールといっしょに宿屋やどやのこっていた。ある朝かれが帰って来ると、宿やど亭主ていしゅがとどこおっている宿料しゅくりょう要求ようきゅうしたことを話した。かれがわたしに金の話をしたのはこれがはじめてであった。かれがわたしの毛皮服を買うために時計を売ったということはほんのぐうぜんにわたしの聞き出したことであって、そのほかにはかれのふところ具合がどんなに苦しいか、ついぞ打ち明けてもらったことはなかったが、今度こそかれはもうわずか五十スーしかふところにのこっていないことを話した。
 こうなってただ一つのこった手だてとしては、今夜さっそく一興行こうぎょうやるほかにないとかれは考えていた。
 ゼルビノもドルスもジョリクールもいない興行。まあ、そんなことができることだろうか、とわたしは思った。
 それができてもできなくても、どう少なく見積みつもってもすぐ四十フランという金をこしらえなければならないとかれは言った。ジョリクールの病気はなおしてやらなければならないし、部屋へやには火がなければならないし、薬も買わなければならないし、宿やどにもはらわなければならない。いったんりている物を返せば、あとはまたしてもくれるだろう。
 この村で四十フラン。この寒空といい、こんなあわれない一座いちざでなにができよう。
 わたしが、ジョリクールといっしょに宿やどに待っているあいだに親方がさかり場で一けん見世物小屋を見つけた。なにしろ野天のてん興行こうぎょうするなんということはこの寒さにできない相談そうだんであった。かれは広告こうこくのびらを書いて、ほうぼうにはり出したり、二、三まいの板でかれは舞台ぶたいをこしらえたりした。そして思い切ってのこりの五十スーでろうそくを買うと、それを半分に切って、明かりを二ばいに使うくふうをした。
 わたしたちの部屋へやまどから見ていると、かれは雪の中を行ったり来たりしていた。わたしはどんな番組をかれが作るか、心配であった。
 わたしはすぐにこの問題をくことができた。というのは、そのとき村の広告屋こうこくやが赤いぼうしをかぶってやって来て、宿屋やどやの前に止まった。たいこをそうぞうしくたたいたあとで、かれはわれわれの番組を読み上げた。
 その口上こうじょうを聞いていると、よくもきまりが悪くないと思われるほど親方は思い切って大げさなふいちょうをした。なんでも世界でもっとも高名な芸人げいにんが出る――それはカピのことであった――それから『希世きせいの天才なる少年歌うたい』が出る。その天才はわたしであった。
 それはいいとして、この山勘口上やまかんこうじょうで第一におもしろいことは、この興行こうぎょうに決まった入場料にゅうじょうりょうのなかったことであった。われわれは見物の義侠心ぎきょうしん信頼しんらいする。見物はのこらず見て聞いてかっさいをしたあとで、いくらでもおこころざししだいにはらえばいいというのである。
 これがわたしにはとっぴょうしもなくだいたんなやり方に思われた。だれがわたしたちをかっさいする者があろう。カピはたしかに高名になってもいいだけのことはあったけれど、わたしが……わたしが天才だなどとは、どこをおせばそんなが出るのだ。
 たいこの音を聞くと、カピはほえた。ジョリクールはちょうどひじょうに悪かった最中さいちゅうであったが、やはり起き上がろうとした。たいこの音とカピのほえ声を聞くと、芝居しばいの始まる知らせであるということをさとったようであった。
 わたしは無理むりにかれをねどこにおしもどさなければならなかった。するとかれはれいのイギリスの大将たいしょう軍服ぐんぷく――金筋きんすじのはいった赤い上着とズボン、それから羽根はねのついたぼうしをくれという合図をした。かれは両手を合わせてひざをついて、わたしにたのみ始めた。いくらたのんでも、なにもしてもらえないとみると、かれはおこって見せた。それからとうとうしまいにはなみだをこぼしていた。かれに向かって、今夜芝居しばいするなんという考えをてなければならないことを納得なっとくさせるには、たいへんな手数のかかることがわかっていた。それよりもかくれて出て行くほうがいいとわたしは思った。
 親方が帰って来ると、かれはわたしにハープをしょったり、いろいろ興行こうぎょうに入りようなものを用意するように言いつけた。それがなんの意味だということを知っているジョリクールは、今度は親方に向かって請求せいきゅうを始めた。かれは自分の希望きぼうを表すために苦しい声をしばり出したり、顔をしかめたり、からだを曲げたりするよりいいことはなかった。かれのほおにはほんとうになみだが流れていたし、親方の手におしつけたのは心からのキッスであった。
「おまえも芝居しばいがしたいのか」と親方はたずねた。
「そうですとも」とジョリクールのからだ全体がさけんでいるように思われた。かれは自分がもう病人でないことをしめすために、とび上がろうとした。でもわたしたちは外へかれをれ出せば、いよいよかれをころすほかはないことをよく知っていた。
 わたしたちはもう出て行く時刻じこくになった。出かけるまえにわたしは長く持つようにいい火をこしらえて、ジョリクールを毛布もうふの中にすっかりくるんだ。かれはまたさけんで、できるだけの力でわたしをだきしめた。やっとわたしたちは出発した。
 雪の中を歩いて行くと、親方はわたしに今夜はしっかりやってもらいたいということを話した。もちろん一座いちざおもな役者たちがいなくなっていては、いつものようにうまくいくはずはなかったが、カピとわたしとでおたがいにいっしょうけんめいにやれるだけはやらなければならなかった。なにしろ四十フラン集めなければならなかった。
 四十フラン。おそろしいことであった。できない相談そうだんであった。
 親方はいろいろなことを用意しておいたので、わたしたちがすべきいっさいのことはろうそくの火をつけることであった。けれどこれはむやみにつけてしまうこともできない。見物がいっぱいになるまではひかえなければならない。なにしろ芝居しばいのすむまでに明かりがおしまいになるかもしれないのであった。
 わたしたちがいよいよ芝居小屋にはいったとき、広告屋こうこくやはたいこをたたいて、最後さいごにもう一度村の往来おうらいを一めぐりめぐり歩いていた。
 カピとわたしの仕度ができてから、わたしは外へ出て、柱の後ろに立って見物の来るのを待っていた。
 たいこの音はだんだん高くなった。もうそれはさかり場に近くなって、ぶつぶつ言う人の声も聞こえた。たいこのあとからは子どもがおおぜい調子を合わせてついて来た。たいこを打ちやめることなしに、広告屋こうこくや芝居小屋しばいごやの入口にともっている二つの大きなかがり火のまん中に位置いちをしめた。こうなると見物はただ、中にはいって場席ばせきを取れば、芝居しばいは始められるのであった。
 おやおや、いつまで見物の行列は手間を取ることであろう。それでも戸口のたいこはゆかいそうにどんどん鳴りつづけていた。村じゅうの子どもはのこらず集まっているにちがいなかった。けれど四十フランの金をくれるものは子どもではなかった、ふところの大きい、物おしみをしない紳士しんしが来てくれなければならなかった。
 とうとう親方は始めることに決心した。でも小屋はとてもいっぱいになるどころではなかった。それでもわたしたちはろうそくというやっかいな問題があるので、このうえ長くは待てなかった。
 わたしはまずまっ先にあらわれて、ハープにつれて二つ三つ歌を歌わなければならなかった。正直に言えばわたしが受けたかっさいはごく貧弱ひんじゃくだった。わたしは自分を芸人げいにんだとはちっとも思ってはいなかったけれど、見物のひどい冷淡れいたんさがわたしをがっかりさせた。わたしがかれらをゆかいにしえなかったとすると、かれらはきっとふところを開けてはくれないであろう。わたしはわたしが歌った名誉めいよのためではなかった。それはあわれなジョリクールのためであった。ああ、わたしはどんなにこの見物を興奮こうふんさせ、かれらを有頂天うちょうてんにさせようとねがっていたことだろう……けれども見物席けんぶつせきはがらがらだったし、その少ない見物すら、わたしを『希世きせいの天才』だと思っていないことは、わかりすぎるほどわかっていた。
 でもカピは評判ひょうばんがよかった。かれはいく度もアンコールを受けた。カピのおかげで興行こうぎょうれるようなかっさいで終わった。かれらは両手をたたいたばかりでなく、足拍子あしびょうしをふみ鳴らした。
 いよいよ勝負の決まるときが来た。カピはぼうしを口にくわえて、見物の中をどうどうめぐりし始めた。そのあいだわたしは親方の伴奏ばんそうでイスパニア舞踏ぶとうをおどった。カピは四十フラン集めるであろうか。見物に向かってはありったけのにこやかな態度たいどを示しながら、この問題がしじゅうわたしのむねを打った。
 わたしは息が切れていた。けれどカピが帰って来るまではやめないはずであったから、やはりおどりつづけた。かれはあわてなかった。一まい銀貨ぎんかももらえないとみると、前足を上げてその人のかくしをたたいた。
 いよいよかれが帰って来そうにするのを見て、もうやめてもいいかと思ったけれど、親方はやはりもっとやれという目くばせをした。
 わたしはおどりつづけた。そして二足三足カピのそばへ行きかけて、ぼうしがいっぱいになっていないことを見た。どうしていっぱいになるどころではなかった。
 親方はやはりみいりの少ないのを見ると、立ち上がって、見物に向かって頭を下げた。
紳士しんしならびに貴女きじょがた。じまんではございませんが、本夕ほんせきはおかげさまをもちまして、番組どおりとどこおりなくえんじ終わりましたとぞんじます。しかしまだろうそくの火もえつきませんことゆえ、みなさまのおこのみにまかせ、今度は一番てまえが歌を歌ってお聞きに入れようと思います。いずれ一座いちざのカピじょうはもう一度おうかがいにつかわしますから、まだご祝儀しゅうぎをいただきませんかたからも、今度はたっぷりいただけますよう、まえもってご用意をねがいたてまつります」
 親方はわたしの先生ではあったが、わたしはまだほんとうにかれの歌うのを開いたことはなかった。いや、少なくともそのばん歌ったように歌うのを開いたことがなかった。かれは二つの歌をえらんだ。一つはジョセフの物語で、一つはリシャール獅子王ししおうの歌であった。
 わたしはほんの子どもであったし、歌のじょうずへたを聞き分ける力がなかったが、親方の歌はみょうにわたしを動かした。かれの歌を聞いているうちに、目にはなみだがいっぱいあふれたので、舞台ぶたいのすみに引っこんでいた。
 そのなみだのきりの中から、わたしは、前列のこしかけにすわっていたわかいおくさんがいっしょうけんめい手をたたいているのを見た。わたしはまえから、この人が一人、今夜小屋に集まった百姓ひゃくしょうたちとちがっていることを見つけた。かの女はわかい美しい貴婦人きふじんで、そのりっぱな毛皮の上着だけでもこの村一番の金持ちにちがいないとわたしは思った。かの女はいっしょに子どもをれていた。その子もむちゅうでカピにかっさいしていた。ひじょうによくているところを見れば、それはかの女のむすこであった。
 はじめの歌がすむと、カピはまたどうどうめぐりをした。ところがそのおくさんはぼうしの中になにも入れなかったのを見て、わたしはびっくりした。
 親方が第二の曲をすませたとき、かの女は手招てまねきをしてわたしをんだ。
「わたし、あなたの親方さんとお話ししたいんですがね」とかの女は言った。
 わたしはびっくりした。(そんなことよりもなにかぼうしの中へ入れてくれればいい)とわたしは思った。カピはもどって来た。かれは二度目のどうどうめぐりでまえよりももっとわずか集めて来た。
「あの婦人ふじんがなにか用があると言うのか」と親方がたずねた。
「あなたにお話がしたいそうです」
「わたしはなにも話すことなんかない」
「あの人はなにもカピにくれませんでした。きっといまそれをくれようというんでしょう」
「じゃあ、カピをやってもらわせればいい。わたしのすることではない」
 そうは言いながら、かれは行くことにして、犬をれて行った。わたしもかれらのあとにつづいた。そのとき一人のぼく(下男)が出て来て、ちょうちんと毛布もうふを持って来た。かれは婦人ふじんと子どものわきに立っていた。
 親方は冷淡れいたん婦人ふじんにあいさつをした。
「おじゃまをしてすみませんでした。けれどわたくし、おいわいを申し上げたいと思いました」
 でも親方は一ごんも言わずに、ただ頭を下げた。
「わたくしも音楽の道の者でございますので、あなたの技術ぎじゅつの天才にはまったく感動いたしました」
 技術の天才。うちの親方が。大道の歌うたい、犬使いの見世物師みせものしが。わたしはあっけにとられた。
「わたしのようないぼれになんの技術ぎじゅつがありますものか」とかれは冷淡れいたんに答えた。
「うるさいやつとおぼしめすでしょうが」と婦人ふじんはまた始めた。
「なるほどあなたのようなまじめなかたの好奇心こうきしん満足まんぞくさせてあげましたことはなによりです」とかれは言った。「犬使いにしては少し歌が歌えるというので、あなたはびっくりしておいでだけれど、わたしはむかしからこのとおりの人間ではありませんでした。これでもわかいじぶんにはわたしは……いや、ある大音楽家の下男げなんでした。まあおうむのように、わたしは主人の口まねをしておぼえたのですね。それだけのことです」
 婦人ふじんは答えなかった。かの女は親方の顔をまじまじと見た。かれもつぎほのないような顔をしていた。
「さようなら、あなた」とかの女は外国なまりで言って、「あなた」ということばに力を入れた。
「さようなら。それからもう一度今夜味わわせていただいた、このうえないゆかいに対してお礼を申し上げます」こう言ってカピのほうをのぞいて、ぼうしに金貨きんかを一まい落とした。
 わたしは親方がかの女を戸口まで送って行くだろうと思ったけれど、かれはまるでそんなことはしなかった。そしてかの女がもう答えない所まで遠ざかると、わたしはかれがそっとイタリア語で、ぶつぶこごとを言っているのを聞いた。
「あの人はカピに一ルイくれましたよ」とわたしは言った。そのときかれはあぶなくわたしにげんこを一つくれそうにしたけれど、上げた手をわきへらした。
「一ルイ」とかれはゆめからさめたように言った。「ああ、そうだ、かわいそうに、ジョリクールはどうしたろう。わたしはわすれていた。すぐ行ってやろう」
 わたしはそうそうに切り上げて、宿やどへ帰った。
 わたしはまっ先に宿屋やどやのはしごを上がって部屋へやへはいった。火は消えてはいなかったが、もうほのおは立たなかった。
 わたしは手早くろうそくをつけた。ジョリクールの声がちっともしないので、わたしはびっくりした。
 やがてかれが陸軍大将りくぐんたいしょう軍服ぐんぷくを着て、手足をいっぱいにつっぱったまま、毛布もうふの上に横になっているのを見た。かれはねむっているように見えた。
 わたしはからだをかがめて、やさしくかれの手を取って引き起こそうとした。
 その手はもうつめたかった。
 親方がそのとき部屋にはいって来た。
 わたしはかれのほうを見た。
「ジョリクールがつめたいんですよ」とわたしは言った。
 親方はそばへ来て、やはりとこの上にのぞきこんだ。
「死んだのだ」とかれは言った。「こうなるはずであった。ルミや、おまえをミリガン夫人ふじんの所から無理むりれて来たのは悪かった。わたしはばっせられたのだ。ゼルビノ、ドルス、それから今度はジョリクール……だがこれだけではすむまいよ」



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