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家なき子(いえなきこ)01

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-1 11:43:28 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



     

 旅の日数ひかずのたつのは早かった。親方が刑務所けいむしょから出て来る日がずんずん近づいていた。船がだんだんツールーズから遠くなるにしたがって、わたしはこの考えに心を苦しめられていた。
 船の旅はこのうえなくおもしろかった。なんの苦労くろうもなければ、心配もなかった。これがせっかく水の上を気楽に通って来た道を、今度は足でとぼとぼ歩いて帰らなけれはならないときがじき来るのだ。
 これはたまらなくおもしろくないことであった。そうなればもう寝台ねだいもなければ、クリームもない。お菓子かしもなけれは、テーブルを取りいた楽しい夜会もなくなるのだ。
 でもそれよりもこれよりもいちばんつらいのは、ミリガン夫人ふじんとアーサとにわかれることであった。わたしはこの人たちの友情ゆうじょうからはなれなければならないであろう。そのつらさはバルブレンのおっかあに別れたときと同じことであろう。
 わたしはある人びとをしたったり、その人びとからかわいがられると、もう一生その人たちといっしょにくらしたいと思う。それがあいにくいつもじきその人たちとわかれなければならないようになる。いわばちょうどその人たちと別れるために、あいし愛されたりするようなものであった。
 このごろの楽しい生活のあいだに、ただ一つこの心痛しんつうがわたしの心をくもらせた。
 ある日とうとうわたしは思い切って、ミリガン夫人ふじんに、ツールーズへ帰るにはどのくらいかかるだろうと聞いた。親方が刑務所けいむしょから出る日に、わたしは刑務所の戸口で待っていようと思ったのである。
 アーサはわたしが帰って行くという話を聞くと、急にさけびだした。
「帰っちゃいやだ、ルミ。行ってしまってはいやだ」
 かれはすすりきをしていた。
 わたしはかれに、自分がヴィタリス親方のものになっていること、かれが金を出して両親からわたしをりていること、用のあるときいつでも帰って行かなければならないことを話した。
 わたしは両親のことを話した。けれどもそれがほんとうの父親でも母親でもないことは話さなかった。わたしは自分がであることをはじに思った――往来おうらいで拾われた子どもだということを白状はくじょうすることをはじに思った。わたしは孤児院こじいんの子どもというものがどんなにあなどられるものであるか知っていた。世の中でであるということほどいやなことがあろうとは、わたしには思えなかった。それをミリガン夫人ふじんやアーサに知られることをこのまなかった。それを知られたら、あの人たちはわたしをきらうようになるだろう。
「お母さま、ルミはどうしても止めておかなければだめですよ」とアーサは言いつづけた。
「わたしもルミをここへ止めておくことはたいへんけっこうだと思うけれど」とミリガン夫人ふじんは答えた。「わたしたちはずいぶんあの子がきなのだからね。でもこれには二つやっかいなことがある。第一にはルミがいたがっているかどうか……」
「ああ、それはいますとも、いますとも」とアーサがさけんだ。「ねえルミ、行きたかないねえ、ツールーズへなんか」
「第二には」と、ミリガン夫人ふじんがかまわずつづけた。「この子の親方が手放すだろうか、どうかということですよ」
「ルミが先です。ルミが先です」とアーサは言いった。
 ヴィタリスはいい親方であった。かれがわたしにものを教えてくれたことに対しては、わたしはひじょうに感謝かんしゃしていた。けれどもかれとくらすのと、アーサとこうしてくらすのとではとても比較ひかくにはならなかった。同時に親方に持つ尊敬そんけいと、ミリガン夫人ふじんとその病身の子どもに対して持つ愛着あいちゃくとは比較にはならなかった。わたしはこういう外国人を、世話になった親方よりありがたいものに思うのはまちがっていると感じていた。けれどもそれはそのとおりにちがいなかった。わたしはミリガン夫人とアーサを心からあいしていた。
「ルミがわたしたちの所にいても、いいことばかりはないでしょう」とミリガン夫人ふじんつづけた。
「この船にだって遊び半分ではいられません。ルミもやはりあなたと同じようにたくさん勉強をしなければなりません。とても青空の下で旅をして回るような自由な境涯きょうがいではないでしょう」
「ああ、ぼくの思っていることがおわかりでしたら……」とわたしは言いかけた。
「ほらほらね、お母さま」とアーサが口を出した。
「ではわたしたちがこれからしなければならないことは」とミリガン夫人ふじんが言った。「この子の親方の承諾しょうだくを受けることです。わたしはまあ手紙をやってここへ来てもいようにたのんでみましょう。こちらからツールーズへは行かれないからね。わたしは汽車賃きしゃちんを送ってあげて、なぜこちらから汽車に乗って行かれないか、そのわけをよく書いてあげましょう。つまりこちらへぶことになるのだが、たぶん承知しょうちしてくださることだろうと思うから、それで相談そうだんしたうえで、親方がこちらの申し出を承知してくだされば、今度はあなたのご両親と相談することにしましょう。むろんだまっていることはできないからね」
 この最後さいごのことばで、わたしの美しいゆめはやぶれた。
 両親に相談そうだんする。そうしたらかれらはわたしが内証ないしょうにしようとしていることをすぐ言いたてるだろう。わたしがだということを言いたてるだろう。
 ああ。そうなればアーサもミリガン夫人ふじんもわたしをきらうようになるだろう。
 まあ自分の父親も母親も知らない子どもが、アーサの友だちであったか。
 わたしはミリガン夫人の顔をまともにながめた。なんと言っていいか、わたしはわからなかった。かの女はびっくりしてわたしの顔を見た。わたしがどうしたのか、かの女はたずねようとしたが、わたしはそれに答えもできずにいた。たぶん親方が帰って来るという考えに気が転倒てんとうしていると考えたらしく、かの女はそのうえしいては問わなかった。
 幸いにじきねむる時間が来たので、アーサからいつまでもふしぎそうな目で見られずにすんだ。やっと心配しながら自分の部屋へやに一人じこもることができた。これはわたしが白鳥号に乗り合わせて以来いらいはじめてのふゆかいなばんであった。それはおそろしくふゆかいな、長い熱病ねつびょうをわずらったような心持ちであった。わたしはどうしたらいいだろう。なんと言えばいいのだ。
 たぶん親方はわたしを手放さないであろう。それなればかれらはどうしたってほんとうのことは知らずにいよう。かれらは、わたしのだということを知らずにすむだろう。素性すじょうを知られることについてのわたしの羞恥しゅうち恐怖きょうふがあまりひどかったので、もうアーサ母子おやこわかれても、しかたがない。ヴィタリスがなんでも自分といっしょに来いと主張しゅちょうすることを希望きぼうし始めたくらいであった。そうなれば少なくともかれらはこののちわたしを思い出すたんびにいやな気がしないであろう。
 それから三日たってミリガン夫人ふじんはヴィタリスに送った手紙の返事を受け取った。かれは夫人の文意をよくくんで、向こうから来てかの女に会おうと言って来た。つぎの土曜日の二時の汽車で、セットへ着くはずにするからと言って来た。わたしは犬たちとジョリクールをれて、かれに会いに停車場ていしゃじょうまで行くことをゆるされた。
 その朝になると、犬たちはなにかわったことでも起こると思ったか、ひどくはしゃいでいた。ジョリクールだけは知らん顔をしていた。わたしはひじょうに興奮こうふんしていた。きょうこそわたしの運命が決められる日であった。わたしに勇気ゆうきがあったら、親方にたのんでだということをミリガン夫人ふじんに言ってもらわないようにたのむことができたであろう。けれどもわたしはかれに対してすら『』ということばを口に出して言うことができないような気がしていた。わたしは犬をひもでつないで、ジョリクールは上着の下に入れて、停車場ていしゃじょうかたすみに立って待っていた。わたしは身の回りに起こっていることはほとんど目にはいらなかった。汽車の着いたことを知らせてくれたのは犬であった。かれらは主人のにおいをかぎつけた。
 ふとわたしのおさえているひもを前に引くものがあった。わたしはうっかり見張みはりをゆるめていたので、かれらはぬけ出したのであった。ほえながらかれらは前へとび出した。わたしはかれらが親方にとびかかるのを見た。ほかの二ひきにくらべてははげしくしかもしたたかにカピが、いきなり主人のうでにとびかかった。ゼルビノとドルスがその足にとびかかった。
 親方はわたしを見つけると、手早くカピをどけて、両うでをわたしのからだに投げかけた。はじめてかれはわたしにキッスした。
「ああよく無事ぶじでいてくれた」とかれはたびたび言った。
 親方はこれまでわたしにつらくはなかったが、こんなふうにやさしくはなかった。わたしはそれにれていなかった。それでわたしは感動して、思わずなみだが目の中にあふれた。それにいまのわたしの心持ちはたやすく物に動かされるようになっていた。わたしはかれの顔をながめた。刑務所けいむしょにはいっているまにかれはひじょうに年を取った。背中せなかも曲がったし、顔は青いし、くちびるに血のはなかった。
「ルミ、わたしはわったろう。なあ」とかれは言った。「刑務所けいむしょはけっしてゆかいな所ではなかった。それに苦労くろうというものは、たちの悪い病気のようなものだ。けれどもう出て来ればだいじょうぶだ。これからはよくなるだろう」
 それから話の題をえてかれは言いつづけた。
「わたしの所へ手紙をこしたおくさんのことを話しておくれ。どうしてそのおくさんと知り合いになったのだ」
 わたしはここで、どうして白鳥号に乗って堀割ほりわりをこいでいたミリガン夫人ふじんとアーサに出会ったか、それからわたしたちの見たこと、したことについてくわしく話した。わたしは自分でもなにを言っているのかわからないほど、のべつまくなしに話をした。こうしてわたしは親方の顔を見ると、これからわかれてミリガン夫人ふじんの所にいたいと言いだす気にはなれなかった。
 わたしたちはまだ話のすっかりすまないうちに、ミリガン夫人のとまっているホテルに着いた。親方は夫人が手紙でなんと書いて来たか、それは言わなかったから、わたしはかの女の申し出がどんなものであるかなんにも知らなかった。
「そのおくさんはわたしを待っていられるのかな」と、わたしたちがホテルにはいったときにかれは言った。
「ええ、ぼくがいまおくさんの部屋へや案内あんないしましょう」とわたしは言った。
「それにはおよばないよ」とかれは答えた。「わたしは一人で上がって行く。おまえはここでジョリクールや、犬たちといっしょにわたしを待っておいで」
 わたしは、いつでもかれに従順じゅうじゅんであったけれども、この場合はかれといっしょにミリガン夫人ふじんの部屋に行くことが、わたしとしてむろん正当でもあり自然しぜんなことだと思っていた。けれども手まねでかれがわたしのくちびるに出かかっていることばをおさえると、わたしはいやいや犬やさるといっしょに下にのこっていなければならなかった。
 どうしてかれはミリガン夫人と話をするのにわたしのいることをこのまなかったか。わたしはこの質問しつもんを心の中でくり返しくり返したずねた。それでもまだ明快めいかいな答えがられずに考えこんでいたときにかれはもどって来た。
「行っておくさんに、さようならを言っておいで」とかれはことば短に言った。「わたしはここで待っていてやる。あと十分のうちにたつのだから」
 わたしはかみなりに打たれたような気がした。
「それ」とかれは言った。「おまえはわたしの言ったことがわからないか。なにを気のぬけた顔をして立っている。早くしないか」
 かれはまだこんなふうにあらっぽくものを言ったことがなかった。機械的きかいてきにわたしは服従ふくじゅうして、立ち上がった。なにがなんだかわからないような顔をしていた。
「あなたはおくさんになんとお言いに……」二足三足行きかけてわたしは問いかけた。
「わたしはおまえがなくてならないし、おまえにもわたしは必要ひつようなのだ。したがってわたしはおまえに対するわたしの権利けんりてることはできませんと言ったのさ。行って来い。いとまごいがすんだらすぐ帰れ……」
 わたしは自分がだったという考えばかりに気を取られていたから、わたしがこれですぐに立ち去らなければならないというのは、きっと親方がわたしの素性すじょうを話したからだとばかり思っていた。
 ミリガン夫人ふじん部屋へやにはいると、アーサがなみだを流している。そのそばに母の夫人がりそっているところを見た。
「ルミ、きみ行ってはいやだよ。ねえ、ルミ、行かないと言ってくれたまえ」とかれはすすりきをした。
 わたしはものが言えなかった。ミリガン夫人ふじんがわたしの代わりに答えた。つまりわたしがいま親方に言われたとおりにしなければならないことを、アーサに言って聞かせた。
「親方さんにお願いしましたが、あなたをこのままわたしたちにくださることを承知しょうちしてくださいませんでした」とミリガン夫人ふじんは、いかにも悲しそうな声で言った。
「あの人は悪い人だ」とアーサがさけんだ。
「いいえ、あの人は悪い人ではありません」とミリガン夫人は言った。「あの人にはあなたがだいじで手放せないわけがあるのです。それにあの人はあなたをかわいがっていられる……あの人はああいう身分の人のようではない、どうしてりっぱな口のきき方をなさいました。おことわりになる理由としてあの人の言われたのは――そう、こうです、――わたしはあの子をあいしている、あの子もわたしを愛している。わたしがあれにさずけている世間の修業しゅぎょうは、あれにとって、あなたがたといるよりもずっといい、はるかにいいのだ。あなたはあれに教育を授けてくださるでしょう。それはほんとうだ。なるほどあなたはあれのちえをやしなってはくださるだろう、だがあれの人格じんかくは作れません。それを作ることのできるのは人生の艱難かんなんばかりです。あれはあなたの子にはなれません。やはりわたしの子どもです。それはどれほどあれにとって居心地いごこちがよかろうとも、あなたの病身のお子さんのおもちゃになっているよりは、はるかにましです。わたしもできるだけあの子どもを教えるつもりですから――とこうお言いになるのですよ」
「でもあの人、ルミの父さんでもないくせに」とアーサはさけんだ。
「それはそうです。でもあの人はルミの主人です。ルミはあの人のものです。さし当たりルミはあの人にしたがうほかはありません。この子の両親が親方さんにお金でしたのですから。でもわたしはご両親にも手紙を書いて、やれるだけはやってみましょう」
「ああ、いけません。そんなことをしてはいけません」とわたしはさけんだ。
「それはどういうわけです」
「いいえ、どうかよしてください」
「でもそのほかにしかたがないんですもの」
「ああ、どうぞよしてください」
 ミリガン夫人ふじんが両親のことを言いださなかったなら、わたしは親方がくれた十分の時間以上いじょうをさようならを言うためについやしたであろう。
「ご両親たちはシャヴァノンにいるんでしょう」とミリガン夫人はたずねた。
 それには答えないで、わたしはアーサのほうへ行って、両うでをかれのからだに回して、しばらくはしっかりだきしめていた。それからかれの弱いうでからのがれて、わたしはふり向いてミリガン夫人ふじんに手をさしべた。
「かわいそうに」と、かの女はわたしのひたいにキッスしながらつぶやいた。
 わたしは戸口へかけて行った。
「アーサ、わたしはいつまでもあなたをあいします」とわたしは言って、こみ上げて来るなみだを飲みこんだ。「おくさん、わたしはけっしてけっしてあなたをわすれません」
「ルミ、ルミ……」とアーサがさけんだ。その後のことばはもう聞こえなかった。
 わたしは手早くドアをじて外に出た。一分間ののち、わたしはヴィタリスといっしょになっていた。
「さあ出かけよう」とかれは言った。
 こうしてわたしは最初さいしょの友だちからわかれた。


     ふぶきとおおかみ

 またわたしは親方のあとについていたかたにハープをむすびつけたまま、雨がっても、日がりつけても、ちりやどろにまみれて、旅から旅へ毎日流浪るろうして歩かなければならなかった。広場であほうの役をえんじて、わらったりいたりして見せて、「ご臨席りんせき貴賓諸君きひんしょくん」のごきげんをとりむすばなければならなかった。
 長い旅のあいだ再三さいさんわたしは、アーサやその母親や白鳥号のことを考えて足が進まないことがあった。きたならしい村にはいると、わたしはあのきれいな小舟こぶねの船室をどんなに思い出したろう。それに木賃宿きちんやどのねどこのどんなにかたいことであろう。(もう二度とアーサとも遊べないし、その母親のやさしい声も聞くことはできない)それを考えるだけでもおそろしかった。
 これほど深い、しつっこい悲しみの中で、うれしいことには、一つのなぐさめがあった。それは親方がまえよりはずっと優しく、温和になったことであった。
 かれのわたしに対する様子はすっかりわっていた。かれはわたしの主人というより以上いじょうのものであるように感じた。もうたびたび思い切って、かれにだきつきたいと思うほどのことがあった。それほどにわたしは愛情あいじょうもとめていた。けれどもわたしにはそれをする勇気ゆうきがなかった。親方はそういうふうになれなれしくすることをゆるさない人であった。
 はじめは恐怖きょうふがわたしをかれから遠ざけたけれど、このごろはなんとは知れないが、ぼんやりと、いわば尊敬そんけい感情かんじょうがかれとわたしをへだてていた。
 わたしがいよいよ村の家を出るじぶんには、ふつうのびんぼうな階級かいきゅうの人たちと同じように親方を見ていた。わたしは世間なみの人からかれを区別くべつすることができずにいたが、ミリガン夫人ふじんと二か月くらしたあいだに、わたしの目は開いたし、ちえも進んだ。よく気をつけて親方を見ると、態度たいどでも様子でも、かれにはひじょうに高貴こうきなところがあるように見えた。かれの様子にはミリガン夫人のそれを思い出させるところがあった。
 そんなときわたしは、ばかな、親方はたかが犬やさるの見世物師みせものしというだけだし、ミリガン夫人ふじん貴婦人きふじんである、それがかよったところがあるはずがないと思った。
 だがそう思いながら、よくよく見ると、わたしの目がまちがわないことがたしかになった。親方はそうなろうと思えば、ミリガン夫人が貴婦人であると同様に紳士しんしになることができた。ただちがうことは、ミリガン夫人がいつでも貴婦人であるのに反して、親方がある場合だけ紳士であるということであった。でも一度そうなれば、それはりっぱな紳士になりきって、どんな向こう見ずな、どんな乱暴らんぼうな人間でも、その威勢いせいにおされてしまうのであった。
 だからもともと向こう見ずでも、乱暴でもなかったわたしは、よけい威勢に打たれて、言いたいことも言いずにしまった。それは向こうからやさしいことばでさそい出してくれるときでもそうであった。
 セットをたってからのち、しばらくわたしたちはミリガン夫人ふじんのことや、白鳥号に乗っていたあいだのことを口に出すことをしなかった。けれどもだんだんとそれが話のたねになるようになって、まず親方がいつも話の口を切った。そうしてそれからは一日も、ミリガン夫人の名前の口にのぼらない日はないようになった。
「おまえはいていたのだね、あのおくさんを」と親方が言った。「そうだろう、それはわたしもわかっている。あの人は親切であった。まったくおまえには親切であった。そのおんわすれてはならないぞ」
 そのあとでかれはいつも言い足した。
「だがしかたがなかったのだ」
 こう言う親方のことばを、はじめはわたしもなんのことだかわからなかった。するうちだんだんそれは、ミリガン夫人ふじんがそばへきたいという申し出をこばんだことをさして言うのだとわかった。
 親方がしかたがなかったと言ったとき、こういう考えになっていたのはたしかであった。そのうえこのことばの中には後悔こうかいた心持ちがふくまれていたように思われた。かれはアーサのそばにわたしをのこしておきたいと思ったのであろう。けれどそれはできないことだったというのである。
 でもなぜかれがミリガン夫人ふじんの申し出を承知しょうちすることができなかったか、よくはわからなかったし、あのとき夫人がくり返し言って聞かしてくれた説明も、あまりよくはわからずにしまったが、親方が後悔こうかいしているということがわかって、わたしは心のそこ満足まんぞくした。
 もうこれでは親方も承知しょうちしてくれるだろう。そうしてこれはわたしにとって大きな希望きぼう目標もくひょうになった。
 それにしても、なぜ白鳥号には出会わないのであろう。
 それはローヌ川を上って行くはずであった。そうしてわたしたちはその川の岸に沿って歩いていた。
 それで歩きながらわたしの目は両側りょうがわかぎっているおかや、豊饒ほうじょうな田畑よりも、よけい水の上に注がれていた。
 わたしたちがアルルとか、タラスコンとか、アヴィニオン、モンテリマール、ヴァランス、ツールノン、ヴィエンヌなど、という町に着いたときに、いちばん先にわたしの行ってみるのは、波止場はとばか橋の上で、そこから川の上流を見たり、下流を見たり、わたしの目は白鳥号をさがした。遠方に半分、深いきりにかくれてぼんやりした船のかげでも見つけると、それが白鳥号であるかないか、見分けられるほど大きくなるのを待つのであった。
 でもそれはいつも白鳥号ではなかった。
 ときどきわたしは思い切って船頭に聞いてみた。わたしのさがす美しい船の模様もようを話して、そういう船を見なかったかとたずねた。でもかれらはけっしてそういう船の通るのを見たことがなかった。
 このごろでは親方も、わたしをミリガン夫人ふじんにわたそうと決心していた。少なくともわたしにはそう想像そうぞうされたから、もはやわたしの素性すじょうげたり、バルブレンのおっかあに手紙をやったりされるおそれがなくなった。そのほうの事件じけんは親方とミリガン夫人との間の相談そうだんでうまくまとめてくれるだろう。そう思って、わたしの子どもらしいゆめでいろいろに事件を処理しょりしてみた。ミリガン夫人はわたしをそばにきたいと言うだろう。親方はわたしに対する権利けんりてることを承知しょうちしてくれるだろう。それでいっさい事ずみだ。
 わたしたちは何週間もリヨンに滞在たいざいしていた。そのあいだひまさえあればいく度もわたしはローヌ川と、ソーヌ川の波止場はとばに行ってみた。おかげでエーネー、チルジット、ラ・ギョッチエール、ロテル・デューなどという橋のことは、生えぬきのリヨン人同様によく知っていた。
 しかしやはりわからなかった。とうとう白鳥号を見つけることはできなかった。
 わたしたちはとうとうリヨンを去らなければならなかった。そしてディジョンに向かった。それでわたしはもうミリガン夫人ふじんに二度と会う希望きぼうてなければならなかった。それはリヨンでフランス全国の地図を調べてみたが、どうしても白鳥号がロアール川に出るには、これより先へ川を上って行くことのできないことを知ったからであった。船はシャロンのほうへわかれて行ったのであろう。そう思ってわたしたちはシャロンに着いたが、やはり船を見ることなしにまた進まなければならなかった。これがわたしの夢想むこう結末けつまつであった。
 いよいよいけなくなったことは、冬がいまや目近まぢかにせまってきたことであった。わたしたちは目も見えないような雨とみぞれの中をみじめに歩き回らなければならなかった。夜になってわたしたちがきたない宿屋やどやかまたは物置ものお小屋ごやにつかれきってたどり着くと、もうはだまで水がしみ通って、わたしたちはとても笑顔えがおをうかべてねむる元気はなかった。
 ディジョンをたってから、コートドールの山道をこえたときなどは、雨にぬれてほねまでもこおる思いをした。ジョリクールなどは、わたしと同様いつもなさけない悲しそうな顔をしていた。よけい意地悪くなっていた。
 親方の目的もくてきは少しでも早くパリへ行き着くことであった。それは冬のあいだ芝居しばいをして回れるのはパリだけであった。わたしたちはもうごくわずかの金しか得られなかったので、汽車に乗ることもできなかった。
 道みちの町や村でも、日和ひよりのつごうさえよければ、ちょっとした興行こうぎょうをやって、いくらかでも収入しゅうにゅうをかき集めて、出発するようにした。寒さと雨とで苦しめられながら、でもシャチヨンまではどうにかしてやって来た。
 シャチヨンをたってから、つめたい雨のったあとで、風は北にわった。
 もういく日かしめっぽい日がつづいたあとでは、わたしたちも顔にかみつくようにぶつかる北風を、いっそ気持ちよく思っていたが、まもなく空は大きな黒い雲でおおわれて、冬の日はすっかりかくれてしまった。大雪の近づいていることがわかっていた。
 わたしたちがちょっとした大きな村に着くまではまだ雪にもならなかった。でも親方は、なんでもトルアの町へ早く行こうとあせっていた。そこは大きい町だから、ひじょうに悪い天気で五、六にち逗留とうりゅうしても、少しは興行こうぎょうつづけて回る見こみがあった。「早くとこにおはいり」とそのばん宿屋やどやに着くと親方は言った。「あしたはなんでも早くからたつのだ……だが雪にりこめられてはたまらないなあ」
 でもかれはすぐにはとこにはいらなかった。台所ののすみにこしをかけて、さむさでひどく弱っているジョリクールをあたためていた。さるは毛布もうふにくるまっていても、やはり苦しがって、うめき声をやめなかった。
 あくる日の朝、わたしは言いつけられたとおり早く起きた。まだ夜が明けてはいなかった。空はまっ暗な雲がひくれて、星のかげ一つ見えなかった。ドアを開けると、はげしい風がえんとつにふき入って、あぶなくゆうべはいの中にうずめたほだ火をまい上げそうにした。
 宿屋やどや亭主ていしゅは親方の顔を見て、
「わたしがあなただったら、きょうは出るどころではありません。いまにひどいふぶきになりますぜ」
「わたしは急いでいるのだ」と親方は答えた。「その大ふぶきの来るまえにトルアまで行きたいと思っている」
「六、七里(約二十四~二十八キロ)もありますよ。一時間やそこらで行けるものですか」
 でもかまわずわたしたちは出発した。
 親方はジョリクールをしっかりからだにだきしめて、自分の温かみを少しでも分けてやろうとした。犬はかたいこちこちな道を歩くのをうれしがって、先に立ってかけた。親方はデイジョンでわたしにひつじの毛皮服を買ってくれたので、わたしは毛を裏にしてしっかり着こんだ。これがこがらしでべったりからだにふきつけられていた。
 わたしたちは口を開くのがひどくふゆかいだったので、だまりこんで歩きながら、少しでもあたたまろうとして急いだ。
 もう夜明けの時間をよほどぎていたが、空はまだまっ暗であった。東のほうに白っぽいおびのようなものが雪の間に流れてはいたが、太陽は出て来そうもなかった。
 野景色のげしきを見わたすと、いくらか物がはっきりしてきた。葉をふるった木も見えるし、灌木かんぼくや小やぶの中でかれっ葉ががさがさ風に鳴っていた。
 往来おうらいにも畑にも出ている人はなかった。車の音も聞こえないし、むちの鳴る音も聞こえなかった。
 ふと北の空に青白いすじが見えたが、だんだん大きくなってこちらのほうへ向かって来た。そのときわたしたちはきみょうながあがあいうささやき声のような音を聞いた。それはがんか野の白鳥のさけび声であったろう。この気ちがいじみた鳥のれは、わたしたちの頭の上をんだと思うと、もう北から南のほうへおもしろそうにかけって行った。かれらが遠い空の中に見えなくなると、やわらかな雪片せっぺんしずかに落ちて来た。それは空中を遊び歩いているように見えた。
 わたしたちが通って行く道は喪中もちゅうのようにしずんでさびしかった。あれきって陰気いんきな野原の上にただ北風のはげしいうなり声が聞こえた。雪片が小さなちょうちょうのように目の前にちらちらした。えずくるくる回って、地べたに着くことがなかった。
 わたしたちはまた少ししか歩いてはいなかった。雪のるまえにトルアに着くということは、むずかしいことに思われた。けれどわたしは心配しなかった。雪が降りだせば風がやんで、かえって寒さもゆるむだろうと思った。
 わたしはまだ雪風というものがどんなものだかよく知らなかった。
 しかしまもなくそれがほんとうにわかった。しかもわたしにはけっしてわすれることのできないものであった。
 雲が東北からむくむく集まって来た。そこの空にかすかな明るみが見えたと思うと、やがて雲のふところが開いて、どんどん大きな雪のかたまりが落ちて来た。もう空中をちょうちょうのようにはまわなかった。ふんぷんとすばらしいいきおいでって来て、わたしたちの目鼻を開けられないようにした。
「とてもトルアまではだめだ。なんでもうちを見つけしだい休むことにしよう」と親方が言った。
 わたしは親方がそう言うのを聞いてうれしかったけれども、いったいうまく休むうちが見つかるであろうか。まだそこらが白くならないまえにわたしが見ておいたかぎりでは、一けんもうちは見えなかった。そればかりではない。おいおい村に近づいているという気配も見えなかった。
 わたしたちの前には底知そこしれぬ黒い森が横たわっていた。わたしたちをつつんでいる両側りょうがわ丘陵きゅうりょうもやはり深い森であった。
 雪はいよいよはげしくってきた。わたしたちはだまって歩いた。親方はおまけにひつじの毛皮服を持ち上げて、ジョリクールが楽に息のできるようにしてやった。ただときどき首を左右に動かさなければ息ができなかった。
 犬たちももう先に立ってかけることができなかった。かれらはわたしたちのかかとについて歩いて、早く休むうちをもとめたがっているような顔をしていたが、それをあたえてやることができなかった。
 道はいっこうにはかどらなかった。わたしたちはとぼとぼほねって歩いた。目を開けてはいられなかった。じくじくぬれた着物がこおりついたまま歩いて行った。もう深い森の中にはいっていたが、まっすぐな道で、わたしたちはさえぎるもののないあらしにふきさらされていた。そのうち風はいくらかしずまったが、雪のかたまりはますます大きくなって、みるみるもった
 わたしは親方がなにかさがものをするように、おりおり左のほうへ目を注ぐのを見たが、かれはなにも言わなかった。なにをかれは見つけようとするのであろう。
 わたしは長い道の向こうばかりまっすぐに見ていた。この森がもうほどなくおしまいになって、人家があらわれてきはしないかというのぞみをかけていた。
 だが目のとどかぎ両側りょうがわは雪にうずまった林であった。前はもう二、三間(四~五メートル)先が雪でぼんやりくもっていた。
 わたしはこれまであたたかい台所のまどガラスに雪のるところを見ていた。その暖かい台所がどんなにかはるか遠いゆめの世界のように思われることであろう。
 でもやはり行くだけは行かなければならなかった。わたしたちの足はだんだん深く雪の中にもぐりこんだ。そのときふと、なにも言わずに親方が左手を指さした。なるほど、わたしはぼんやりと、空き地の中に堀立小屋ほったてごやのようなものを見た。
 わたしたちはその小屋に通う道をさがさなければならなかった。でも雪がもう深くなって、道という道をうずめてしまったので、これは困難こんなんな仕事であった。わたしたちはやぶの中をかけ回って、みぞをこえて、やっとのことで小屋へ行く道を見つけて中へはいることができた。
 その小屋は丸太まるたやしばをつかねてつくったもので、屋根も木のえだのたばをみ重ねて、雪が間から流れこまないようにかたくなわでしめてあった。
 犬たちはうれしがって、元気よく先に立ってかけこんだ、ほえながらたびたびかわいた土の上をほこりを立ててころまわっていた。
 わたしたちの満足まんぞくもかれらにおとらず大きかった。
「こういう森の中の木を切ったあとには、きこりの小屋があるはずだと思っていた」と親方が言った。「もういくら雪がってもかまわないぞ」
「そうですとも。雪なんかいくらでも降れだ」とわたしは大いばりで言った。
 わたしは戸口――というよりも小屋に出入しゅつにゅうするあなというほうが適当てきとうで、そこにはドアもまどもなかったが――そこまで行って、わたしは上着とぼうしの雪をはらった。せっかくのかわいた部屋へやをぬらすまいと思ったからである。
 わたしたちの宿やど構造こうぞうはしごく簡単かんたんであった。そなえつけの家具も同様で、土の山と、二つ三つ大きな石がいすの代わりにいてあるだけであった。それよりもありがたかったのは、部屋のすみに赤れんがが五、六まい、かまどの形にんであったことである。なによりもまず火をやさなければならぬ。
 なによりも火がいちばんのごちそうだ。
 さてまきだが、このうちでそれを見つけることは困難こんなんではなかった。
 わたしたちはただかべや屋根からまきを引きぬいて来ればよかった。それはわけなくできた。
 まもなくたき火の赤いほのおがえんえんと立った。むろん小屋はけむりでいっぱいになったが、そんなことはいまの場合かまうことではなかった。わたしたちのほっしているのは火とねつであった。
 わたしは両手をついて、はらばいになって火をふいた。犬は火のぐるりをゆうゆうと取りいて、首をのばして、ぬれた背中せなかを火にかざしていた。
 ジョリクールはやっと親方の上着の下からのぞくだけの元気が出て、用心深く鼻の頭を外に向けてそこらをながめ回した。安全な場所であることをたしかめて満足まんぞくしたらしく、急いで地べたにとび下りて、たき火の前のいちばん上等な場所を占領せんりょうして、二本の小さなふるえる手を火にかざした。
 親方は用心深い、経験けいけんんだ人であるから、その朝わたしが起き出すまえに道中の食料しょくりょうつつんでおいた。パンが一本とチーズのかけであった。わたしたちはみんな食物を見て満足まんぞくした。
 なさけないことにわたしたちはごくわずかしか分けてもらえなかった。それはいつまでここにいなければならないかわからないので、親方がいくらか晩飯ばんめしのこしておくほうが確実かくじつだと考えたからであった。
 わたしはわかったが、しかし犬にはわからなかった。それでかれらはろくろく食べもしないうちにパンが背嚢はいのうおさめられるのを見ると、前足を主人のほうに向けて、そのひざがしらを引っかいた。目をじっと背嚢につけて、中の物をぜひ開けさせようといろいろの身ぶりをやった。けれども親方はまるでかまいつけなかった。
 背嚢はとうとう開かれなかった。犬はあきらめてねむる決心をした。カピははいの中に鼻をつっこんでいた。わたしもかれらのれいにならおうと考えた。けさは早かった。いつやむか、見当のつかない雪を見てくよくよしているよりも、白鳥号に乗って、ゆめの国にでも遊んだほうが気がいている。
 わたしはどのくらいねむったか知らなかった。目がめると雪がやんでいた。わたしは外をながめた。雪はひじょうに深かった。無理むりに出て行けばひざの上までうずまりそうであった。
 何時だろう。
 わたしはそれを親方にたずねることができなかった。なぜなられいのカピが時間をしめした大きな銀時計は売られてしまった。かれは罰金ばっきん裁判さいばん費用ひようをはらうためにありったけの金を使ってしまった。そしてディジョンでわたしの毛皮服を買うときに、その大きな時計も売ってしまったのであった。
 時計を見ることができないとすれば、日の加減かげんで知るほかはないが、なにぶんどんよりしているので、何時だか時間を推量すいりょうするのが困難こんなんであった。
 なんの物音も聞こえなかった。雪はあらゆる生物の活動をそれなりこおらせてしまったように思われた。
 わたしは小屋の入口に立っていると、親方のぶ声が聞こえた。
「これから出て行けると思うかな」とかれはたずねた。
「わかりません。あなたのいいようにしたいと思います」
「そうか、わたしはここにいるほうがいいと思う。まあまあ屋根はあるし、たき火もあるのだから」
 それはほんとうであったが、同時にわたしは食物のないことを思い出した。けれどもわたしはなにも言わなかった。
「どうせまた雪はってくるよ。とちゅうで雪に会ってはたまらない。夜はよけい寒くなる。今夜はここでくらすほうが無事ぶじだ。足のぬれないだけでもいいじゃないか」
 そうだ。わたしたちはこの小屋に逗留とうりゅうするほかはない。ぶくろのひもをかたくしめておく、それだけのことだ。
 夕飯ゆうはんに親方がのこりのパンを分けた。おやおや、もうわずかしかなかった。すぐに食べられてしまった。わたしたちはくずものこさず、がつがつして食べた。このつましい晩食ばんしょくがすんだとき、犬はまたさっきのようにあとねだりをするだろうと思っていたが、かれらはまるでそんなことはしなかった。今度もわたしは、どのくらいかれらがりこうであるか知った。
 親方がナイフをズボンのかくしにしまうと、これは食事のすんだ知らせであったから、カピは立ち上がって、食物を入れたふくろのにおいをかいだ。それから前足をふくろにのせてこれにさわってみた。この二重の吟味ぎんみで、もうなにも食物ののこっていないことがわかった。それでかれはたき火の前の自分のせきに帰って、ゼルビノとドルスの顔をながめた。その顔つきはあきらかにどうもしんぼうするほかはないよという意味をしめしていた。そこでかれはあきらめたというように、ため息をついて全身を長ながとのばした。
「もうなにもない。ねだってもだめだよ」かれはこれを大きな声で言ったと同様、はっきりと仲間なかまの犬たちに会得えとくさしていた。
 かれの仲間なかまはこのことばを理解りかいしたらしく、これもやはりため息をつきながらたき火の前にすわった。けれどゼルビノのため息はけっしてほんとうにあきらめたため息ではなかった。おなかのっているうえに、ゼルビノはひじょうに大食らいであった。だからこれはかれにとっては大きな犠牲ぎせいであった。
 雪がまたずんずんりだしていた。ずいぶんしつっこく降っていた。わたしたちは白い地べたのしき物が高く高くふくれ上がって、しまいに、小さな若木わかぎ灌木かんぼくがすっかりうずまってしまうのを見た。夜になっても、大きな雪片せっぺんがなお暗い空からほの明るい地の上にしきりなしに落ちていた。
 わたしたちはいよいよここへねむるとすれば、なによりいちばんいいことは、できるだけ早くねつくことであった。わたしは昼間火でかわかしておいた毛皮服にくるまってまくらの代わりにした。平ったい石に頭をのせて、たき火の前に横になった。
「おまえはねむるがいい」親方が言った。「わたしのねむる番になればおまえを起こすから。この小屋ではけものもなにも心配なことはないが、二人のうち一人は起きていて、火の消えないように番をしなければならない。用心してかぜをひかないように気をつけなければいけない。雪がやむとひどい寒さになるからな」
 わたしはさっそくねむった。親方がまたわたしを起こしたときには、夜はだいぶふけていた。たき火はまだえていた。雪はもうってはいなかった。
「今度はわたしのねむる番だ」と親方が言った。「火が消えたら、ここへこのとおりたくさんっておいたまきをくべればいい」
 なるほどかれはたき火のわきに小えだをたくさんみ上げておいた。わたしよりずっと少ししかねむれない親方は、わたしがいちいちかべからまきをぬくたんびに音を立てて目をまさせられることをいやがった。それでわたしはかれのこしらえておいてくれたまきの山から取っては、そっと音を立てずに火にくべれはよかった。
 たしかにこれはかしこいやり方ではあったけれど、なさけないことに親方は、これがどんな意外な結果けっかを生むかさとらなかった。
 かれはいまジョリクールを自分の外とうですっかりくるんだまま、たき火の前にからだをのばした。まもなくしだいに高く、しだいに規則きそく正しいいびきで、よくねいったことが知れた。
 そのときわたしはそっと立ち上がって、つま先で歩いて、外の様子がどんなだか、入口まで出て見た。
 草もやぶも木もみんな雪にうまっていた。日のとどくかぎりどこも目がくらむような白色であった。空にはぽつりぽつり星の光がきらきらしていた。それはずいぶん明るい光ではあったが、木の上に青白い光を投げているのは雪の明かりであった。もうずっと寒くなっていた。ひどくこおっていた。すきまからはいる空気は氷のようであった。喪中もちゅうにいるようなしずけさの中に、雪の表面のこおりつく音がいく度となく聞こえた。
「ああ、この森のおくで雪の中にうめられてわたしたちはどうすればいいのだ。この雪と寒さの中で、この小屋でもなかったらどうなったであろう」
 わたしはそっと音のしないように出たのであったが、やはり犬たちを起こしてしまった。中でもゼルビノは起き上がってわたしについて来た。夜の荘厳そうごんはかれにとってなんでもなかった。かれはしばらく景色けしきをながめたが、やがてたいくつして外へ出て行こうとした。
 わたしはかれに中にはいるように命令めいれいした。ばかな犬よ。このおそろしい寒さの中でうろつき回るよりは、あたたかいたき火のそばにおとなしくしていたほうがどのくらいいいか知れない。かれは不承不承ふしょうぶしょうにわたしの言うことを聞いたが、しかしひどくふくれっつらをして、目をじっと入口に向けていた。よほどしつっこい、いったん思い立ったことをわすれない犬であった。
 わたしは、まっ白な夜をながめながらまだ二、三分そこに立っていた。それは美しい景色けしきではあったし、おもしろいと思ったが、なんとも言えないさびしさを感じた。むろん見まいと思えば目をふさいで中にはいって、そのさびしい景色を見ずにいることはできるのだが、白いふしぎな景色がわたしの心をとらえたのであった。
 とうとうわたしはまたたき火のそばへ帰って、二、三本まきをたがいちがいに火の上に組み合わせて、まくらの代わりにした石の上にこしをかけた。
 親方はおだやかにねむっていた。犬たちとジョリクールもまたねむっていた。ほのおが火の中から上って、ぴかぴか火花をらしながら屋根のほうまでき上がった。ぱちぱちいうたき火のほのおの音だけが夜の沈黙ちんもくやぶるただ一つの音であった。
 長いあいだわたしは火をながめていたけれど、だんだん我知われしらずうとうとし始めた。わたしが外へ出てまきをこしらえる仕事でもしていたら、日をましていられたかもしれなかったが、なにもすることもなくって火にあたっているので、たまらなくねむくなってきた。そのくせしょっちゅう自分ではいっしょうけんめい目をましているつもりになっていた。
 ふとはげしいほえ声にわたしは目が覚めて、とび上がった。まっ暗であった。わたしはかなり長いあいだねむったらしく、火はほとんどえかかっていた。もう小屋の中にほのおが光ってはいなかった。
 カピはけたたましくほえたてていた。けれどふしぎなことにゼルビノの声もドルスの声もしなかった。
「どうした。どうした」と親方が目をましてさけんだ。
「知りません」
「おまえはねむっていたのだな。火も消えている」
 カピは入口までかけ出して行ったが、外へとび出そうとはしなかった。出口でウウ、ウウ、ほえていた。
「どうした。どうしたというんだろう」わたしは今度は自分にたずねた。
 カピのほえ声に答えて、二声三声、すごい悲しそうなうなり声が聞こえた。それはドルスの声だとわかった。そのうなり声は小屋の後ろから、しかもごく近い距離きょりから聞こえて来た。
 わたしは外へ出ようとした。けれど親方はわたしのかたに手をのせて引き止めた。
「まあまきをくべなさい」かれは命令めいれいの調子で言った。
 言いつけられたとおりにわたしがしていると、かれは火の中から一本小えだを引き出して、火をふき消して、えている先をいた。
 かれはそのたいまつを手に持った。
「さあ、行って見て来よう」とかれは言った。「わたしのあとについておいで。カピ、先へ行け」
 外へ出ようとすると、はげしいほえ声が聞こえた。カピはこわがって、あとじさりをして、わたしたちの間に身をすくめた。
「おおかみだ。ゼルビノとドルスはどこへ行ったろう」
 なにをわたしが言えよう。二ひきの犬はわたしのねむっているあいだに出て行ったにちがいない。ゼルビノはわたしがねつくのを待って、ぬけ出して行った。そしてドルスが、そのあとについて行ったのだ。
 おおかみがかれらをくわえたのだ。親方が犬のことをたずねたとき、かれの声にはその恐怖きょうふがあった。
「たいまつをお持ち」とかれは言った。「あれらを助けに行かなければならない」
 村でわたしはよくおおかみのおそろしい話を開いていた。でもわたしはちゅうちょすることはできなかった。わたしはたいまつを取りにかけて帰って、また親方のあとにつづいた。
 けれども外には犬も見えなければおおかみも見えなかった。雪の上にただ二ひきの犬の足あとがぽつぽつのこっていた。わたしたちはその足あとについて小屋の回りを歩いた。するとややはなれて雪の中でなにかけものがころがり回ったようなあとがあった。
「カピ、行って見て来い」と親方は言った。同時にかれはゼルビノとドルスをせるをふいた。
 けれどこれに答えるほえ声は聞こえなかった。森の中の重苦しい沈黙ちんもくやぶる物音はさらになかった。カピは言いつけられたとおりにかけ出そうとはしないで、しっかりとわたしたちにくっついていた。いかにも恐怖きょうふにたえない様子であった。いつもはあれほど従順じゅうじゅんでゆうかんなカピが、もう足あとについてそれから先へ行くだけの勇気ゆうきがなかった。わたしたちの回りだけは雪がきらきら光っていたが、それから先はただどんよりと暗かった。
 もう一度親方はをふいて、まよいぬを呼びたてた。でもそれに答える声はなかった。わたしは気が気でなかった。
「ああ、かわいそうなドルス」親方はわたしの心配しきっていることをすっぱり言った。
「おおかみがつかまえて行ったのだ。どうしてあれらを放してやったのだ」
 そう、どうして――そう言われて、わたしは答えることばがなかった。
「行ってさがして来なければ」とわたしはしばらくして言った。
 わたしは先に立って行こうとしたけれど、かれはわたしを引き止めた。
「どこへ探しに行くつもりだ」とかれはたずねた。
「わかりません、ほうぼうを」
「この暗がりでは、どこに行ったかわかるものではない。この雪の深い中で……」
 それはほんとうであった。雪がわたしたちのひざの上までもっていた。わたしたちの二本のたいまつをいっしょにしても、暗がりをらすことはできなかった。
「ふえをふいても答えないとすると、遠方へ行ってしまっているのだ」とかれは言った。
「わたしたちは、むやみに進むことはならない。おおかみはわれわれにまでかかって来るかもしれない。今度は自分を守ることができなくなる」
 かわいそうな犬どもを、その運命うんめいのままにまかせるということは、どんなになさけないことであったろう。
 ――われわれの二人の友だち、それもとりわけわたしにとっての友だちであった。それになによりこまったことは、それがわたしの責任せきにんだということであった。わたしはねむりさえしなかったら、かれらも出て行きはしなかった。
 親方は小屋に帰って行った。わたしはそのあとにつづきながら、一足ごとにふり返っては、立ち止まって耳を立てた。
 雪のほかにはなにも見えなかった。なんの声も聞こえなかった。
 こうしてわたしたちが、小屋にはいると、もう一つびっくりすることがわたしたちを待っていた。火の中に投げこんでおいたえだはいきおいよくえ上がって、小屋のすみずみの暗い所までらしていた。けれどもジョリクールはどこへ行ったか見えなかった。かれの着ていた毛布もうふはたき火の前にぬぎててあった。けれどかれは小屋の中にはいなかった。親方もわたしもんだ。けれどかれは出て来なかった。
 親方の言うには、かれの目をましたときには、さるはわきにいた。だからいなくなったのは、わたしたちが出て行ったあとにちがいなかった。えているたいまつを雪のもった地の上にくっつけるようにして、その足あとを見つけ出そうとした。でもなんの手がかりもなかった。
 どこかたばねたまきのかげにでもかくれているのではないかと思って、わたしたちはまた小屋へ帰って、しばらくさがし回った。いく度もいく度も同じすみずみを探した。
 わたしは親方のかたに上って、屋根にいてあるえだたばの中を探してみた。二度も三度もんでみた。けれどもなんの返事もなかった。
 親方はぷりぷりかんしゃくを起こしているようであった。わたしはがっかりしていた。
 わたしは親方に、おおかみがかれまでも取って行ったのではないかとたずねた。
「いいや」とかれは言った。「おおかみは小屋の中までははいっては来なかっただろう。ゼルビノとドルスは外へ出たところをくわえられたかと思うが、この中までははいって来られまい。たぶんジョリクールはこわくなって、わたしたちの外に出ているあいだにどこへかかくれたにちがいない。それをわたしは心配するのだ。このひどい寒さでは、きっとかぜをひくであろう。寒さがあれにはなによりくのだから」
「じゃあどんどんさがしてみましょうよ」
 わたしたちはまたそこらを歩き回った。けれどまるでむだであった。
「夜の明けるまで待たなければならない」と親方が言った。
「どのくらいで明けるでしょう」
「二時間か三時間だろう」
 親方は両手で頭をおさえてたき火の前にすわっていた。
 わたしはそれをじゃまする勇気ゆうきがなかった、わたしはかれのわきにつっ立って、ただときどき火の中にえだをくべるだけであった。一、二度かれは立ち上がって戸口へ行って、空をながめてはじっと耳をかたむけたが、また帰って来てすわった。
 わたしはかれがそんなふうにだまって悲しそうにしていられるよりも、かまわずわたしにおこりつけてくれればいいと思った。
 三時間はのろのろぎた。その長いといったら、とても夜がおしまいになる時がないのかと思われた。
 でも星の光がいつか空からうすれかけていた。空がだんだん明るく、夜が明けかかっていた。けれども明け方に近づくにしたがって、寒さはいよいよひどくなった。戸口からはいって来る風がほねまでこおるようであった。
 これでジョリクールを見つけたとしても、かれは生きているだろうか。
 見つけ出す希望きぼうがほんとにあるだろうか。
 きょうもまた雪がりださないともかぎらない。
 でも雪はもう来なかった。そして空にばら色の光がさして、きょうの好天気こうてんき予告よこくするようであった。
 すっかり明るくなって、樹木じゅもくの形がはっきり見えるようになった。親方もわたしもがっかりして、ぼうをかかえて小屋を出た。
 カピはもうゆうべのようにびくついてはいないようであった。目をしっかり親方にすえたまま、いつでも合図しだいでかけ出す仕度をしていた。
 わたしたちが下を向いてジョリクールの足あとをさがし回っていると、カピが首を上に上げてうれしそうにほえ始めた。かれはわたしたちに地べたではなく、上を見ろといって合図をしたのであった。
 小屋のわきの大きなかしの木のまたで、わたしたちはなにか黒い小さなもののうごめく姿すがたを見つけた。
 これがかわいそうなジョリクールであった。夜中に犬のほえる声におびえて、かれはわたしたちが出ているまに、小屋の屋根によじ上った。そしてそこから一本のかしの木のてっべんに登って、そこを安全な場所と思って、わたしたちのぶ声にも答えず、じっとからだをかがめてすわっていたのであった。
 かわいそうな弱い動物。かれはこごえてしまったにちがいない。
 親方がかれをやさしくんだ。かれは動かなかった。わたしたちはかれがもう死んでいると思った。
 数分間親方はかれをつづけさまに呼んだ。けれどさるはもう生きているもののようではなかった。
 わたしの心臓しんぞう後悔こうかいいたんだ。どれほどひどくばっせられたことだろう。
 わたしはつぐないをしなければならない。
「登ってつかまえて来ましょう」とわたしは言った。
あぶないよ」
「いいえ、だいじょうぶです。わけなくできますよ」
 それはほんとうではなかった。それは危険きけんでむずかしい仕事であった。大きなこの木は氷と雪をかぶっているので、それはずいぶん困難こんなんな仕事であった。
 わたしはごく小さかったじぶんから木登りをすることを習った。それでこのじゅつには熟練じゅくれんしていた。わたしはとび上がって、いちばん下のえだにとびついた。そして木のえだをすけて雪が落ちて日の中にはいって来たが、でもどうやら木のみきをよじて、いちばんしっかりしたえだに手がかかった。ここまで登れば、あとは足をふみはずさないように気をつければよかった。
 わたしは登りながら、やさしくジョリクールに話しかけた。かれは動かないで、目だけ光らせてわたしを見ていた。
 わたしはほとんど手のとどく所へ来て、手をのばしてつかまえようとした。するとひょいとかれはほかのえだにとびついてしまった。
 わたしはそのえだまでかれを追っかけたけれど、人間のなさけなさ、子どもであっても、木登りはさるにはかなわなかった。
 これでさるの足が雪でぬれていなかったら、とてもかれをつかまえることはできそうもなかった。かれは足のぬれることをこのまなかった。それでじきにわたしをからかうのがいやになって、えだからえだへととび下りて、まっすぐに主人のかたにとび下りた。そして上着のうらにかくれた。
 ジョリクールを見つけるのはたいへんなことであったがそれだけではすまなかった。今度は犬をさがさなければならなかった。
 もうすっかり昼になっていた。わけなくゆうべの出来事のあとをたどることができた。雪の中でわたしたちは犬の死んだことがわかった。
 わたしたちは十けん(約十八メートル)ばかりかれらの足あとをつけることができた。かれらはつづいて小屋からぬけ出した。ドルスが、ゼルビノのあとにぞくいた。
 それからほかのけものの足あとが見えた。一方にはおおかみどもは犬にとびかかって、はげしくたたかったしるしがのこっていた。こちらにはおおかみがえものをつかんでゆっくり食べて歩いて行った足あとが残っていた。もうそこには、そこここに赤い血が雪の上にこぼれているほかには、犬のあとはなにも残っていなかった。
 かわいそうな二ひきの犬は、わたしのねむっているあいだに死にに行ったのであった。
 でもわたしたちはできるだけ早く帰って、ジョリクールを温めてやらなければならなかった。わたしたちは小屋へ帰った。親方がさるの足と手を持って、赤んぼうをおさえるようにして、たき火にかざすと、わたしは毛布もうふを温めて、その中へころがす仕度をした。けれども毛布ぐらいでは足りなかった。かれは湯たんぽと温かい飲み物をもとめていた。
 親方とわたしはたき火のそばにすわって、だまってまきのえるのをながめた。
「かわいそうに、ゼルビノは。かわいそうに、ドルスは」
 わたしたちは代わりばんこにこんなことばをつぶやいた。はじめに親方が、つぎにはわたしが。
 あの犬たちは、楽しいにつけ苦しいにつけ、わたしたちの友だちであり、道連みちづれであった。そしてわたしにとっては、わたしのさびしい身の上にとっては、このうえないなぐさめであった。
 わたしがしっかり見張みはりをしなかったことは、どんなにくやしいことだったろう。おおかみはそうすれば小屋までせめては来なかったろうに。火の光におそれて遠方に小さくなっていたであろうに。
 どうにかしていっそ親方がひどくわたしをしかってくれればよかった。かれがわたしを打ってくれればよかった。
 けれどかれはなにも言わなかった。わたしの顔を見ることすらしなかった。かれは火の上に首をうなだれたまま、おそらく犬がなくなって、これからどうしようか考えているようであった。




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