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家なき子(いえなきこ)01

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-1 11:43:28 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



     ヴィタリス親方の一座いちざ

 そのばん一晩、きっと孤児院こじいんれて行かれたゆめばかりを見ていたにちがいない。朝早く目を開いても、自分がいつもの寝台ねだいにねているような気がしなかった。わたしは目がめるとさっそく寝台にさわったり、そこらを見回したり、いろいろためしてみた。ああ、そうだ、わたしはやはりバルブレンのおっかあのうちにいた。
 バルブレンはその朝じゅう、なにもわたしに言わなかった。わたしはかれがもう孤児院こじいんへやる考えをてたのだと思うようになった。きっとバルブレンのおっかあが、あくまでわたしをうちにくことに決めたのであろう。
 けれどもお昼ごろになると、バルブレンがわたしに、ぼうしをかぶってついて来いと言った。
 わたしは目つきで母さんにすくいをもとめてみた。かの女もご亭主ていしゅに気がつかないようにして、いっしょに行けと目くばせした。わたしはしたがった。かの女は行きがけにわたしのかたをたたいて、なにも心配することはないからと知らせた。
 なにも言わずにわたしはかれについて行った。
 うちから村まではちょっと一時間の道であった。そのとちゅう、バルブレンはひと言もわたしに口をきかなかった。かれはびっこ引き引き歩いて行った。おりふしふり返って、わたしがついて来るかどうか見ようとした。
 どこへいったいわたしをれて行くつもりであろう。
 わたしは心の中でたびたびこの疑問ぎもんをくり返してみた。バルブレンのおっかあがいくらだいじょうぶだと目くばせして見せてくれても、わたしにはなにか一大事が起こりそうな気がしてならないので、どうしてにげ出そうかと考えた。
 わたしはわざとのろのろ歩いて、バルブレンにつかまらないようにはなれていて、いざとなればほりの中にでもとびこもうと思った。
 はじめはかれも、あとからわたしがとことこついて来るのて、安心していたらしかった。けれどもまもなく、かれはわたしの心の中を見破みやぶったらしく、いきなりわたしのうで首をとらえた。
 わたしはいやでもいっしょにくっついて歩かなければならなかった。
 そんなふうにして、わたしたちは村にはいった。すれちがう人がみんなふり返って目をまるくした。それはまるで、山犬がつなで引かれて行くていさいであった。
 わたしたちが村の居酒屋いざかやの前を通ると、入口に立っていた男がバルブレンに声をかけて、中にはいれと言った。バルブレンはわたしの耳をって、先にわたしを中へつっこんでおいて、自分もあとからはいって、ドアをぴしゃりと立てた。
 わたしはほっとした。
 そこは危険きけんな場所とは思われなかった。それにせんからわたしは、この中がいったいどんな様子になっているのだろうと思っていた。
 旅館りょかん御料理おんりょうりカフェー・ノートルダーム。中はどんなにきれいだろう。よく赤い顔をした人がよろよろ中から出て来るのをわたしは見た。表のガラス戸は歌を歌う声や話し声で、いつもがたがたふるえていた。この赤いカーテンの後ろにはどんなものがあるのだろうと、いつもふしぎに思っていた。それをいま見ようというのである……
 バルブレンはいま声をかけた亭主ていしゅと、食卓しょくたくに向かい合ってこしをかけた。わたしはばたにこしをかけてそこらを見回した。
 わたしのいたすぐ向こうのすみには、白いひげを長く生やしたせいの高い老人ろうじんがいた。かれはきみょうな着物を着ていた。わたしはまだこんな様子の人を見たことがなかった。
 長いかみをふっさりとかたまでらして、緑と赤の羽根はねでかざったねずみ色の高いフェルトぼうをかぶっていた。ひつじの毛皮の毛のほうを中に返して、すっかりからだに着こんでいた。その毛皮服にはそではなかったが、かたの所に二つ大きなあなをあけて、そこから、もとは録色だったはずのビロードのそでをぬっと出していた。ひつじの毛のゲートルをひざまでつけて、それをおさえるために、赤いリボンをぐるぐる足に巻きつけていた。
 かれは長ながといすの上に横になって、下あごを左の手にささえて、そのひじを曲げたひざの上にのせていた。
 わたしは生きた人で、こんなしずかな落ち着いた様子の人を見たことがなかった。まるで村のお寺の聖徒せいとぞうのようであった。
 老人ろうじんの回りには三びきの犬が、かたまってねていた。白いちぢれ毛のむく犬と、黒い毛深いむく犬、それにおとなしそうなくりくりした様子のはい色の雌犬めすいぬが一ぴき。白いむく犬は巡査じゅんさのかぶる古いかぶとぼうをかぶって、皮のひもをあごの下にゆわえつけていた。
 わたしがふしぎそうな顔をしてこの老人ろうじんを見つめているあいだに、バルブレンと居酒屋いざかや亭主ていしゅひくい声でこそこそ話をしていた。わたしのことを話しているのだということがわかった。
 バルブレンはわたしをこれから村長のうちへれて行って、村長から孤児院こじいんに向かって、わたしをうちへく代わりに養育料よういくりょう請求せいきゅうしてもらうつもりだと言った。
 これだけを、やっとあの気のどくなバルブレンのおっかあがおっといて承諾しょうだくさせたのであった。けれどわたしは、そうしてバルブレンがいくらかでも金がもらえれば、もうなにも心配することはないと思っていた。
 その老人ろうじんはいつかすっかりわきで聞いていたとみえて、いきなりわたしのほうに指さしして、耳立つほどの外国なまりでバルブレンに話しかけた。
「その子どもがおまえさんのやっかい者なのかね」
「そうだよ」
「それでおまえさんは孤児院こじいん養育料よういくりょうをしはらうと思っているのかね」
「そうとも。この子は両親がなくって、そのためにおれはずいぶん金を使わされた。おかみからいくらでもはらってもらうのは当たり前だ」
「それはそうでないとは言わない。だが、物は正しいからといってきっとそれが通るものとはかぎらない」
「それはそうさ」
「それそのとおり。だからおまえさんがのぞんでおいでのものも、すらすらと手にはいろうとはわたしには思えないのだ」
「じゃあ孤児院こじいんへやってしまうだけだ。こちらでやしないたくないものを、なんでも養えという法律ほうりつはないのだ」
「でもおまえさんははじめにあの子を養いますといって引き受けたのだから、そのやくそくは守らなければならない」
「ふん、おれはこの子をやしないたくないのだ。だからどのみちどこへでもやっかいばらいをするつもりでいる」
「さあ、そこで話だが、やっかいばらいをするにも、手近なしかたがあると思う」老人ろうじんはしばらく考えて、「おまけに少しは金にもなるしかたがある」と言った。
「そのしかたを教えてくれれば、おれは一ぱい買うよ」
「じゃあさっそく一ぱい買うさ。もう相談そうだんは決まったから」
「だいじょうぶかえ」
「だいじょうぶよ」
 老人ろうじんは立ち上がって、バルブレンの向こうにせきをしめた。ふしぎなことには、老人が立ち上がると、ひつじの毛皮服がむずむず動いて、むっくり高くなった。たぶん、もう一ぴき犬をうでの下にかかえているのだとわたしは思った。
 この人たちは、いったいわたしをどうしようというのだろう。わたしの心臓しんぞうがまたはげしく打ち始めた。わたしはちっとも老人ろうじんから目をはなすことができなかった。
「おまえさんはこの子のためにだれか金を出さない以上いじょう、自分のうちにいてやしなっていることはいやだという、それにちがいないのだろう」
「それはそのとおりだ……そのわけは……」
「いや、わけはどうでもよろしい。それはわたしにかかわったことではない。それでもうこの子がらないというのなら、すぐわたしにください。わたしが引き受けようじゃないか」
「おや、おまえさんはこの子を引き受けると言うのかね」
「だっておまえさんはこの子をほうり出したいんだろう」
「おまえさんにこんなきれいな子をやるのかえ。この子は村でもいちばんかわいい子だ。よく見てくれ」
「よく見ているよ」
「ルミ、ここへ来い」
 わたしは食卓しょくたくに進みった。ひざはふるえていた。
「これこれぼうや、こわがることはないよ」と老人ろうじんは言った。
「さあ、よく見てくれ」とバルブレンは言った。
「わたしはこの子をいやな子だとは言いやしない。またそれならばしいとも言わない。こっちは化け物は欲しくはないのだ」
「いやはや、こいつがいっそ二つ頭の化け物か、または一寸法師いっすんぼうしででもあったなら……」
「だいじにして孤児院こじいんにやりはしないだろう。香具師やしに売っても見世物に出しても、その化け物のおかげでお金もうけができようさ。だが子どもは一寸法師でもなければ、化け物でもない。だから見世物にすることはできない。この子はほかの子どもと同じようにできている。なんの役にも立たない」
「仕事はできるよ」
「いや、あまりじょうぶではないからなあ」
「じょうぶでないと、とんでもない話だ。……だれにだって負けはしないのだ。あの足を見なさい。あのとおりしっかりしている。あれよりすらりとした足を見たことがあるかい……」
 バルブレンはわたしのズボンをまくり上げた。
「やせすぎている」と老人ろうじんは言った。
「それからうでを見ろ」とバルブレンはつづけた。
「うでも同様だ。――まあこれでもいいが、苦しいことや、つらいことにはたえられそうもない」
「なに、たえられない。ふん、手でさわって調べてみるがいい」
 老人ろうじんはやせこけた手で、わたしの足にさわってみながら、頭をふったり、顔をしかめたりした。
 このまえ、ばくろうが来たときも、こんなふうであったことを、わたしは見て知っていた。その男もやはり牛のからだを手でさわったりつねったりしてみて、頭をふった。この牛はろくでもない牛だ、とても売り物にはならない、などと言ったが、でも牛を買ってれて行った。
 この老人ろうじんもたぶんわたしを買って連れて行くだろう。ああバルブレンのおっかあ。バルブレンのおっかあ。
 不幸にもここにはおっかあはいなかった。だれもわたしの味方になってくれる者がなかった。
 わたしが思い切った子なら、なあにきのうはバルブレンも、わたしを弱い子で、手足がか細くて役に立たぬと非難ひなんしたのではないかと言ってやるところであった。でもそんなことを言ったら、どなりつけられて、げんこをいただくに決まっているから、わたしはなにも言わなかった。
「まあつまり当たり前の子どもさね。それはそうだが、やはり町の子だよ。百姓ひゃくしょう仕事にはたしかに向いてはいないようだ。ためしに畑をやらしてごらん、どれほどつづくかさ」
「十年は続くよ」
「なあにひと月もつづくものか」
「まあ、このとおりだ。よく見てくれ」
 わたしは食卓しょくたくのはしの、ちょうどバルブレンと老人ろうじんの間にすわっていたものだから、あっちへつかれ、こっちへおされて、いいようにこづき回された。
「さあ、まずこれだけの子どもとして」と老人ろうじん最後さいごに言った。「つまりわたしが引き受けることにしよう。もちろん買い切るのではない、ただりるのだ。そのちんに年に二十フラン出すことにしよう」
「たった二十フラン」
「どうして高すぎると思うよ。それも前ばらいにするからね。ほんとうの金貨きんかを四まいにぎったうえに、やっかいばらいができるのだからね」と老人ろうじんは言った。
「だがこの子をうちにけば、孤児院こじいんから毎月十フランずつくれるからな」
「まあくれてもせいぜい七フランか十フランだね。それはよくわかっているよ。だがその代わり食べさせなければならないからね」
「その代わりはたらきもするさ」
「おまえさんがほんとにこの子が働けると思うなら、なにも追い出したがることはないだろう。ぜんたいを引き取るというのは、その養育料よういくりょうをはらってもらうためではない、はたらかせるためなのだ。それから金を取り上げこそすれ、給金きゅうきんなしの下男げなん下女げじょに使うのだ。だからそれだけの役に立つものなら、おまえさんはこの子をうちにくところなのだ」
「とにかく、毎月十フランはもらえるのだから」
「だが孤児院こじいんで、いや、そんならこの子はおまえさんにはあずけない、ほかへ預けると言ったらどうします。つまりなんにもおまえさんは取れないではないか。わたしのほうにすればそこはたしかだ。おまえさんの苦労くろうはただ金を受け取るために、手を出しさえすればいいのだ」
 老人ろうじんはかくしをさぐって、なめし皮の財布さいふを引き出した。その中から四まい金貨きんかをつかみ出して、食卓しょくたくの上にならべ、わざとらしくチャラチャラ音をさせた。
「だが待てよ」とバルブレンが言った。「いつかこの子のふた親が出てくるかもしれない」
「それはかまわないじゃないか」
「いや、育てた者の身になればなにもかまわなくはないさ。またそれを思わなければ、はじめっからだれが世話をするものか」
「それを思わなければはじめっからだれが世話をするものか」――このことばで、わたしはいよいよバルブレンがきらいになった。なんという悪い人間だろう。
「なるほど、だがこの子のふた親がもう出て来ないだろうとあきらめたからこそ、おまえさんもこの子をほうり出そうと言うのだろう。ところで、どうかしたひょうしでこののちそのふた親が出て来たとして、それはおまえさんの所へこそまっすぐに行こうが、わたしの所へは来ないだろう。だれもわたしを知らないのだから」と老人ろうじんは言った。
「でもおまえさんがそのふた親を見つけ出したらどうする」
「なるほどそういう場合には、わたしたちで利益りえきを分けるのだね。ところで、ひとつ、きばってさしあたり三十フラン分けてあげようよ」
「四十フランにしてもらおう」
「いいや、この子の使い道はそこいらが相応そうおう値段ねだんだ」
「おまえさん、この子をなんに使おうというのだ。足といえばこのとおりしっかりしたいい足をしているし、うでといえばこのとおりりっぱないいうでをしている。いま言ったことをどこまでもくり返して言うが、この子をいったいどうしようというのだ」
 そのとき老人ろうじんはあざけるようにバルブレンの顔を見て、それからちびちびコップをした。
「つまりわたしの相手あいてになってもらうのだ。わたしは年を取ってきたし、夜なんぞはまことにさびしくなった。くたびれたときなんぞ、子どもがそばにいてくれるといいおとぎになるのだ」
「なるほど、それにはこの子の足はじゅうぶんたっしゃだから」
「おお、それだけではだめだ。この子はまたおどりをおどって、はね回って、遠い道を歩かなければならない。つまりこの子はヴィタリス親方の一座いちざの役者になるのだ」
「その一座はどこにある」
「もうご推察すいさつあろうが、そのヴィタリス親方はわたしだ。さっそくここで一座をお目にかけよう」
 こう言ってかれはひつじの毛皮服のふところを開けて、左のうでにおさえていたきみょうな動物を引き出した。それが、さっきからたびたび毛皮を下から持ち上げた動物であったのだ。だがそれは想像そうぞうしたように、犬ではなかった。
 わたしはこのきみょうな動物を生まれてはじめて見たとき、なんと名のつけようもなかった。
 わたしはびっくりしてながめていた。
 それは金筋きんすじをぬいつけた赤い服を着ていたが、うでと足はむき出しのままであった。実際じっさいそれは人間と同じうでと足で、前足ではなかった。黒い毛むくじゃらの皮をかぶっていて、白くももも色でもなかった。にぎりこぶしぐらいの大きさの黒い頭をして、たてにつまった顔をしていた。横へ向いた鼻のあなが開いていて、くちびるが黄色かった。けれどもとりわけわたしをおどろかしたのは、くちゃくちゃとくっついている二つの目で、それはかがみのようにぴかぴかと光った。
「いやあ、みっともないさるだな」とバルブレンがさけんだ。
 ああ、さるか。わたしはいよいよ大きな目を開いた。それではこれがさるであったのか。わたしはまださるを見たことはなかったが、話には聞いていた。じゃあこの子どものようなちっぽけな動物が、さるだったのか。
「さあ、これが一座いちざ花形はながたで」とヴィタリス親方が言った。「すなわちジョリクール君であります。さあさあジョリクール君」と動物のほうを向いて、「お客さまにおじぎをしないか」
 さるは指をくちびるに当てて、わたしたちに一人一人キッスをあたえるまねをした。
「さて」とヴィタリスはことばをつづけて、白のむく犬のほうに手をさしのべた。「つぎはカピ親方が、ご臨席りんせき貴賓諸君きひんしょくん一座いちざのものをご紹介しょうかい申しあげる光栄こうえいを有せられるでしょう」
 このまぎわまでぴくりとも動かなかった白のむく犬が、さっそくとび上がって、後足で立ちながら、前足をむねの上で十文字に組んで、まず主人に向かってていねいにおじきをすると、かぶっている巡査じゅんさのかぶとぼうが地べたについた。
 敬礼けいれいがすむとかれは仲間なかまのほうを向いて、かたっぽの前足でやはり胸をおさえながら、片足かたあしをさしのべて、みんなそばにるように合図をした。
 白犬のすることをじっと見つめていた二ひきの犬は、すぐに立ち上がって、おたがいに前足を取り合って、交際社会(社交界)の人たちがするようにおごそかに六歩前へ進み、また三足あとへもどつて、代わりばんこにご臨席りんせき貴賓諸君きひんしょくんに向かっておじぎをした。
 そのときヴィタリス親方が言った。
「この犬の名をカピと言うのは、イタリア語のカピターノをつめたので、犬の中のかしらということです。いちばんかしこくって、わたしの命令めいれいを代わってほかのものにつたえます。その黒いむく毛のわかいハイカラさんは、ゼルビノこうですが、これは優美ゆうびという意味で、よく様子をごらんなさい、いかにもその名前のとおりだ。さてあのおしとやかなふうをした歌い雌犬めすいぬはドルス夫人ふじんです。あの子はイギリスだねで、名前はあの子のやさしい気だてにちなんだものだ。こういうりっぱな芸人げいにんぞろいで、わたしは国じゅうを流して回ってくらしを立てている。いいこともあれば悪いこともある、まあ何事もそのときどきの回り合わせさ。おおカピ……」
 カピとばれた犬は前足を十文字に組んだ。
「カピ、あなた、ここへ来て、ぎょうぎのいいところをお目にかけてください。わたしはこの貴人きじんたちにいつもていねいなことばを使っています――さあ、この玉のようなまるい目をしてあなたを見てござる小さいお子さんに、いまは何時だか教えてあげてください」
 カピは前足をほどいて、主人のそばへ行って、ひつじの毛皮服のふところを開け、そのかくしをさぐって大きな銀時計を取り出した。かれはしばらく時計をながめて、それから二声しっかり高く、ワンワンとほえた。それから、今度は三つ小声でちょいとほえた。時間は二時四十五分であった。
「はいはい、よくできました」とヴィタリスは言った。「ありがとうございます、カピさん。それで今度は、ドルス夫人ふじんになわとびおどりをお願いしてもらいましょうか」
 カピはまた主人のかくしをさぐって一本のつなを出し、軽くゼルビノに合図をすると、ゼルビノはすぐにかれの真向まむかいにをしめた。カピがなわのはしをほうってやると、二ひきの犬はひどくまじめくさって、それを回し始めた。
 つなの運動が規則きそく正しくなったとき、ドルスはの中にとびこんで、やさしい目で主人を見ながら軽快けいかいにとんだ。
「このとおりずいぶんりこうです」と老人ろうじんは言った。「それもくらべるものができるとなおさらりこうが目立って見える。たとえばここにあれらと仲間なかまになって、ばかの役をつとめる者があれば、いっそうそれらの値打ねうちがわかるのだ。そこでわたしはおまえさんのこの子どもがしいというのだ。あの子にばかの役を務めてもらって、いよいよ犬たちのりこうを目立たせるようにするのだ」
「へえ、この子がばかつとめるのかね」とバルブレンが口を入れた。
 老人ろうじんは言った。「ばかの役を務めるには、それだけりこうな人間が入りようなのだ。この子なら少ししこめばやってのけよう。さっそくためしてみることにします。この子がじゅうぶんりこうな子なら、わたしといっしょにいればこの国ばかりか、ほかの国ぐにまで見て歩けることがわかるはずだ。だがこのままこの村にいたのでは、せいぜい朝からばんまで同じ牧場ぼくじょうで牛やひつじの番人をするだけだ。この子がわからない子だったら、いてじだんだをふむだろう。そうすればわたしはれては行かない。それで孤児院こじいんに送られて、ひどくはたらかされて、ろくろく食べる物も食べられないだろう」
 わたしも、そのくらいのことがわかるだけにはかしこかった。それにこの親方のお弟子でしたちはとぼけていてなかなかおもしろい。あれらといっしょに旅をするのは、ゆかいだろう。だがバルブレンのおっかあは……おっかあにわかれるのはつらいなあ……
 でもそれをいやだと言ってみたところで、バルブレンのおっかあとこの先いることはできない。やはり孤児院こじいんに送られなければならない。
 わたしはほんとになさけなくなって、目にいっぱいなみだをうかべていた。するとヴィタリス老人ろうじんが軽くなみだの流れ出したほおをつついた。
「ははあおこぞうさん、大さわぎをやらないのはわけがわかっているのだな。小さいむね思案しあんをしているのだな。それであしたは……」
「ああ、おじさん、どうぞぼくをおっかあの所へいてください。どうぞ置いてください」とわたしはさけんだ。
 カピが大きな声でほえたので、じゃまされてわたしはそれから先が言えなかった。そのとたん犬はジョリクールのすわっていた食卓しょくたくのほうへとび上がった。れいのさるはみんながわたしのことで気を取られているすきをねらって、す早く酒をいっぱいついである主人のコップをつかんで、飲みそうとしたのだ。けれどもカピは目早くそれを見つけて止めたのであった。
「ジョリクールさん」とヴィタリスがきびしい声で言った。「あなたは食いしんぼうのうえにどろぼうです。あそこのすみに行ってかべのほうを向いていなさい。ゼルビノさん、あなたは番をしておいでなさい。動いたらぶっておやり。さてカピさん、あなたはいい犬です。前足をお出しなさい。握手あくしゅをしましょう」
 さるは息づまったような鳴き声を出して、すごすごすみのほうへ行った。幸せな犬は得意とくいな顔をして前足を主人に出した。
「さて」と老人ろうじんはことばをついで、「先刻せんこくの話にもどりましょう。ではこの子に三十フラン出すことにしよう」
「いや、四十フランだ」
 そこでおし問答が始まった。だが老人ろうじんはまもなくやめて、「子どもにはおもしろくない話です。外へ出て遊ばせてやるがよろしい」と言った。そうしてバルブレンに目くばせをした。
「よし、じゃあうらへ行っていろ。だがにげるな。にげるとひどい目に会わせるから」
 バルブレンがこう言うと、わたしはそのとおりにするほかはなかった。それで裏庭へ出るには出たが、遊ぶ気にはなれない。大きな石にこしをかけて考えこんでいた。
 あの人たちはわたしのことを相談そうだんしている。どうするつもりだろう。
 心配なのと寒いのとでわたしはふるえていた。二人は長いあいだ話していた。わたしはすわって待っていたが、かれこれ一時間もたってバルブレンがうらへ出て来た。
 かれは一人であった。あのじいさんにわたしを手わたすつもりでれて来たのだな。
「さあ帰るのだ」とかれは言った。
 なに、うちへ帰る。――そうするとバルブレンのおっかあにわかれないでもすむのかな。
 わたしはそう言ってたずねたかったけれども、かれがひどくきげんが悪そうなのでえんりょした。
 それで……だまってうちのほうへ歩いた。
 けれどもうちまで行き着くまえに、先に立って歩いていたバルブレンはふいに立ち止まった。そうして乱暴らんぼうにわたしの耳をつかみながらこう言った。
「いいかきさま、ひと言でもきょう聞いたことをしゃべったらひどい目に会わせるから。わかったか」


     おっかあの家

「おや」とバルブレンのおっかあはわたしたちを見て言った。「村長さんはなんと言いましたえ」
「会わなかったよ」
「どうして会わなかったのさ」
「うん、おれはノートルダームで友だちに会った。外へ出るともうおそくなった。だからあしたまた行くことにした」
 それではバルブレンは犬をれたじいさんと取り引きをすることはやめたとみえる。
 うちへ帰える道みちもわたしはこれがこの男の手ではないかとうたがっていたが、いまのことばでそのうたがいは消えて、ひとまず心が落ち着いた。またあした村へ行って村長さんをたずねるというのでは、きっとじいさんとのやくそくはできなかったにちがいない。
 バルブレンにはいくらおどかされても、わたしは一人にさえなったら、おっかあにきょうの話をしようと思っていたが、とうとうバルブレンはそのばん一晩じゅううちをはなれないので話す機会きかいがなかった。
 すごすごねどこにもぐりながら、あしたは話してみようと思っていた。
 けれどそのあくる日起き上がると、おっかあの姿すがたが見えない。わたしがそのあとを追ってうちじゅうをくるくる回っているのを見て、なにをしているとバルブレンは聞いた。
「おっかあ」
「ああ、それなら村へ行った。昼過ひるすぎでなければ帰るものか」
 おっかあはまえのばん、村へ行く話はしなかった。それでなぜというわけはないが、わたしは心配になってきた。わたしたちが昼過ぎから出かけるというのに、どうして待っていないのだろう。わたしたちの出かけるまえにおっかあは帰って来るかしらん。
 なぜというしっかりしたわけはないのだが、わたしはたいへんおどおどしだした。
 バルブレンの顔を見るとよけいに心配がもるばかりであった。その目つきからにげるためにわたしはうら野菜畑やさいばたけへかけこんだ。
 畑といってもたいしたものではなかった。それへなんでもうちで食べる野菜物やさいもののこらずじゃがいもでもキャベツでも、にんじんでも、かぶでも作りこんであった。それはちょっとの空き地もなかったのであるが、それでもおっかあはわたしに少し地面をのこしておいてくれたので、わたしはそこへ雌牛めうしいながら野でつんで来た草や花を、ごたごた植えこんだ。わたしはそれを『わたしの畑』とんでだいじにしていた。
 わたしがいろいろな草花を集めては、植えつけたのは去年の夏のことであった。それがをふくのはこの春のことであろう。早ざきのものでも冬の終わるのを待たなければならなかった。これからつづいておいおい芽を出しかけている。
 もう黄ずいせんもつぼみを黄色くふくらましていたし、リラの花も芽を出していた。さくらそうもしわだらけな葉の中からかわいいつぼみをのぞかせている。
 どんな花がさくだろう。
 それを楽しみにして、わたしは毎日出てみた。
 それからまたわたしのだいじにしていた畑の一部には、だれかにもらっためずらしい野菜やさいを植えている。それは村でほとんど知っている者のない『きくいも』というものであった。なんでもいい味のもので、じゃがいもと、ちょうせんあざみと、それからいろいろの野菜やさいをいっしょにした味がするのであった。わたしはそっとこの野菜をじょうずに作って、おっかあをおどろかそうと思っていた。ただの花だと思わせておいて、そっと実のなったところを引きぬいて、ないしょで料理りょうりをして、いつも同じようなじゃがいもにあきあきしているおっかあに食べさせて、『まあルミ、おまえはなんて器用きような子だろう』と感心させてやろう。
 こんなことを思い思いこのときも、まだが出ないかと思って、たねのまいてある地べたに鼻をくっつけて調べていた。ふと気がつくとバルブレンがかんしゃく声でびたてているので、びっくりしてうちへはいった。まあどうだろう。おどろいたことには、の前にヴィタリス老人ろうじんと犬たちが立っているではないか。
 すぐとわたしはバルブレンがわたしをどうするつもりだということがわかった。老人がやはりわたしをれて行くのだ。それをおっかあがじゃましないように村へ出してやったのだ。
 もうバルブレンになにを言ってみてもむだだということがわかっているから、わたしはすぐと老人ろうじんのほうへかけった。
「ああ、ぼくをれて行かないでください。後生ごしょうですから、連れて行かないでください」とわたしはしくしくきだした。
 すると老人ろうじんやさしい声で言った。「なにさ、ぼうや、わたしといればつらいことはないよ。わたしは子どもをぶちはしない。仲間なかまには犬もいる。わたしと行くのがなぜ悲しい」
「おっかあが……」
「どうせきさまはここにはけないのだ」とバルブレンはあらあらしく言って、耳をった。
「このだんなについて行くか、孤児院こじいんへ行くか、どちらでもいいほうにしろ」
「いやだいやだ、おっかあ、おっかあ」
「やい、それだとおれはどうするか見ろ」とバルブレンがさけんだ。「思うさまひっぱたいて、このうちから追い出してくれるぞ」
「この子は母親にわかれるのを悲しがっているのだ。それをぶつものではない。やさしい心だ。いいことだ」
「おまえさんがいたわると、よけいほえやがる」
「まあ、話を決めよう」
 そう言いながら、老人ろうじんは五フランの金貨きんかを八まいテーブルの上にのせた。バルブレンはそれをさらいこむようにしてかくしに入れた。
「この子の荷物は」と老人が言った。
「ここにあるさ」とバルブレンが言って、青いもめんのハンケチで四すみをしばったつつみをわたした。
 中にはシャツが二まいと、あさのズボンが一着あるだけであった。
「それではやくそくがちがうじゃないか。着物があるという話だったが、これはぼろばかりだね」
「こいつはほかにはなにもないのだ」
「この子に聞けば、きっとそうではないと言うにちがいないが、そんなことをあらそっているひまがない。もう出かけなければならないからな。さあおいで、こぞうさん、おまえの名はなんと言うんだっけ」
「ルミ」
「そうか、よしよし、ルミ。つつみを持っておいで。先へおいで、カピ。さあ、行こう、進め」
 わたしは哀訴あいそするように両手を老人ろうじんに出した。それからバルブレンにも出した。けれども二人とも顔をそむけた。しかも、老人はわたしのうで首をつかまえようとした。
 わたしは行かなければならない。
 ああ、このうちにもおわかれだ。いよいよそのしきいをまたいだとき、からだを半分そこへのこして行くようにわたしは思った。
 なみだをいっぱい目にうかべて[#「うかべて」は底本では「うがべて」]わたしは見回したが、手近にはだれもわたしに加勢かせいしてくれる者がなかった。往来おうらいにもだれもいなかった。牧場ぼくじょうにもだれもいなかった。
 わたしはつづけた。
「おっかあ、おっかあ」
 けれどだれもそれに答える者はなかった。わたしの声はすすりきの中に消えてしまった。
 わたしは老人ろうじんについて行くほかはなかった。なにしろうで首をしっかりおさえられているのだから。
「さようなら、ごきげんよう」とバルブレンがさけんだ。
 かれはうちの中へはいった。
 ああ、これでおしまいである。
「さあ、行こう、ルミ、進め」と老人ろうじんが言って。わたしのひじをおさえた。
 わたしたちはならんで歩いた。幸せとかれはそう早く歩かなかった。たぶんわたしの足に合わせて歩いてくれたのであろう。
 わたしたちは坂を上がって行った。ふり返るとバルブレンのおっかあのうちがまだ見えたが、それはだんだんに小さく小さくなっていった。この道はたびたび歩いた道だから、もうしばらくはうちが見えて、それから最後さいごの四つ角を曲がるともう見えなくなることをわたしはよく知っていた。行く先は知らない国である。後ろをふり返ればきょうの日まで幸福な生活を送ったうちがあった。おそらく二度とそれを見ることはないであろう。
 幸い坂道は長かったが、それもいつか頂上ちょうじょうに来た。
 老人ろうじんはおさえた手をゆるめなかった。
「少し休ましてくださいな」とわたしは言った。
「うん、そうだなあ」とかれは答えた。
 かれはやっとわたしをはなしてくれた。
 けれどカピに目くばせをすると、犬もそれをさとった様子がわたしには見えた。
 それですぐと、ひつじいの犬のように、一座いちざの先頭からはなれてわたしのそばへって来た。
 わたしがにげ出しでもすれば、すぐにかみついてくるにちがいない。
 わたしは草深い小山の上に登ってこしをかけると、犬も後ろについていた。
 わたしはなみだにくもった目で、バルブレンのおっかあのうちをさがした。
 下には谷があって、所どころに森や牧場ぼくじょうがあった。それからはるか下にいままでいたうちが見えた。黄色いささやかなけむりが、そこのけむり出しからまっすぐに空へ立ちのぼって、やがてわたしたちのほうへなびいて来た。
 気のまよいか、そのけむりはうちのかまどのそばでかぎれたかしの葉のにおいがするようであった。
 それは遠方でもあり、下のほうになってはいたが、なにもかもはっきり見えた。ただなにかがたいへん小さく見えたのは言うまでもない。
 ちりづかの植えにうちの太っためんどりがかけ回っていたが、いつものように大きくは見えなかった。うちのめんどりだということを知っていなかったら、小さなはとだと思ったかもしれない。うちの横には、わたしが馬にしていつも乗った曲がったなしの木が、小川のこちらには、わたしが水車をしかけようとして大さわぎをしてきずきかけたほりわりが見えた。まあ、その水車にはずいぶんひまをかけたが、とうとう回らなかった。わたしの畑も見えた。ああ、わたしのだいじな畑が。
 わたしの花がさいてもだれが見るだろう。わたしの『きくいも』をだれが食べるだろう。きっとそれはバルブレンだ。あの悪党あくとうのバルブレンだ。
 もう一あし往来おうらいへ出れば、わたしの畑もなにもかもかくれてしまうのだ。
 ふと村からわたしのうちのほうへ通う往来の上に、白いボンネットが見えて、木の間にちらちら見えたりかくれたりしていた。
 それはずいぶん遠方であったから、ぽっちり白く、春のちょうちょうのように見えただけであった。
 けれど目よりも心はするどくものを見るものだ。わたしは、それがバルブレンのおっかあであることを知った。たしかにおっかあだ、とわたしは思いこんでいた。
「さて出かけようか」と老人ろうじんが言った。
「ああ、いいえ、後生ごしょうですからも少し」
「じゃあ話とはちがって、おまえは、から(ぜんぜん)、足がだめだな。もうつかれてしまったのか」
 わたしは答えなかった。ただながめていた。
 やはりそれはバルブレンのおっかあであった。それはおっかあのボンネットであった。水色の前だれであった。足早に、気がせいているように、うちに向かって行くのであった。
 白いボンネットはまもなくうちの前に着いた。戸をおし開けて、急いで庭にはいって行った。
 わたしはすぐにとび上がって、土手の上に立ち上がった。そばにいたカピがおどろいてとびついて来た。
 おっかあはいつまでもうちの中にはいなかった。まもなく出て来て、両うでを広げながら、あちこちと庭の中をかけ回っていた。
 かの女はわたしをさがしているのだ。
 わたしは首を前にばして、ありったけの声でさけんだ。
「おっかあ、おっかあ」
 けれどもそのさけび声は空に消えてしまった、小川の水音に消されてしまった。
「どうしたのだ。おまえ、気がちがったのか」とヴィタリスは言った。
 わたしは答えなかった。わたしの目はまたバルブレンのおっかあをじっと見ていた。けれども向こうではわたしが上にいるとは知らないから、あお向いては見なかった。そうして庭をぐるぐる回って、往来おうらいへ出て、きょろきょろしていた。
 もっと大きな声でわたしはさけんだ。けれども、はじめの声と同様にむだであった。
 そのうち老人ろうじんもやっとわかったとみえて、やはり土手に登って来た。かれもまもなく白いボンネットを見つけた。
「かわいそうに、この子は」とかれはそっとひとごとを言った。
「おお、わたしを帰してください」と、わたしはいまのやさしいことばにって、ごえを出した。
 けれどもかれはわたしの手首をおさえて、土手を下りて往来おうらいへ出た。
「さあ、だいぶ休んだから、もう出かけるのだ」と、かれは言った。
 わたしはぬけ出そうともがいたけれども、かれはしっかりわたしをおさえていた。
「さあカピ、ゼルビノ」と、かれは犬のほうを見ながら言った。
 二ひきの犬がぴったりわたしにくっついた。カピは後ろに、ゼルビノは前に。
 二足ふたあし三足みあし行くと、わたしはふり向いた。
 わたしたちはもう坂の曲がり角を通りこした。もう谷も見えなければ家も見えなくなった。ただ遠いかなたに遠山とおやまがうすく青くかすんでいた。てしもない空の中にわたしの目はあてどなくまようのであった。



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