ヴィタリス親方の
その
バルブレンはその朝じゅう、なにもわたしに言わなかった。わたしはかれがもう
けれどもお昼ごろになると、バルブレンがわたしに、ぼうしをかぶってついて来いと言った。
わたしは目つきで母さんに
なにも言わずにわたしはかれについて行った。
うちから村まではちょっと一時間の道であった。そのとちゅう、バルブレンはひと言もわたしに口をきかなかった。かれはびっこ引き引き歩いて行った。おりふしふり返って、わたしがついて来るかどうか見ようとした。
どこへいったいわたしを
わたしは心の中でたびたびこの
わたしはわざとのろのろ歩いて、バルブレンにつかまらないようにはなれていて、いざとなればほりの中にでもとびこもうと思った。
はじめはかれも、あとからわたしがとことこついて来るのて、安心していたらしかった。けれどもまもなく、かれはわたしの心の中を
わたしはいやでもいっしょにくっついて歩かなければならなかった。
そんなふうにして、わたしたちは村にはいった。すれちがう人がみんなふり返って目を
わたしたちが村の
わたしはほっとした。
そこは
バルブレンはいま声をかけた
わたしのいたすぐ向こうのすみには、白いひげを長く生やした
長い
かれは長ながといすの上に横になって、下あごを左の手に
わたしは生きた人で、こんな
わたしがふしぎそうな顔をしてこの
バルブレンはわたしをこれから村長のうちへ
これだけを、やっとあの気のどくなバルブレンのおっかあが
その
「その子どもがおまえさんのやっかい者なのかね」
「そうだよ」
「それでおまえさんは
「そうとも。この子は両親がなくって、そのためにおれはずいぶん金を使わされた。お
「それはそうでないとは言わない。だが、物は正しいからといってきっとそれが通るものとはかぎらない」
「それはそうさ」
「それそのとおり。だからおまえさんが
「じゃあ
「でもおまえさんははじめにあの子を養いますといって引き受けたのだから、そのやくそくは守らなければならない」
「ふん、おれはこの子を
「さあ、そこで話だが、やっかいばらいをするにも、手近なしかたがあると思う」
「そのしかたを教えてくれれば、おれは一ぱい買うよ」
「じゃあさっそく一ぱい買うさ。もう
「だいじょうぶかえ」
「だいじょうぶよ」
この人たちは、いったいわたしをどうしようというのだろう。わたしの
「おまえさんはこの子のためにだれか金を出さない
「それはそのとおりだ……そのわけは……」
「いや、わけはどうでもよろしい。それはわたしにかかわったことではない。それでもうこの子が
「おや、おまえさんはこの子を引き受けると言うのかね」
「だっておまえさんはこの子をほうり出したいんだろう」
「おまえさんにこんなきれいな子をやるのかえ。この子は村でもいちばんかわいい子だ。よく見てくれ」
「よく見ているよ」
「ルミ、ここへ来い」
わたしは
「これこれぼうや、こわがることはないよ」と
「さあ、よく見てくれ」とバルブレンは言った。
「わたしはこの子をいやな子だとは言いやしない。またそれならば
「いやはや、こいつがいっそ二つ頭の化け物か、または
「だいじにして
「仕事はできるよ」
「いや、あまりじょうぶではないからなあ」
「じょうぶでないと、とんでもない話だ。……だれにだって負けはしないのだ。あの足を見なさい。あのとおりしっかりしている。あれよりすらりとした足を見たことがあるかい……」
バルブレンはわたしのズボンをまくり上げた。
「やせすぎている」と
「それからうでを見ろ」とバルブレンは
「うでも同様だ。――まあこれでもいいが、苦しいことや、つらいことにはたえられそうもない」
「なに、たえられない。ふん、手でさわって調べてみるがいい」
このまえ、ばくろうが来たときも、こんなふうであったことを、わたしは見て知っていた。その男もやはり牛のからだを手でさわったりつねったりしてみて、頭をふった。この牛はろくでもない牛だ、とても売り物にはならない、などと言ったが、でも牛を買って
この
不幸にもここにはおっかあはいなかった。だれもわたしの味方になってくれる者がなかった。
わたしが思い切った子なら、なあにきのうはバルブレンも、わたしを弱い子で、手足がか細くて役に立たぬと
「まあつまり当たり前の子どもさね。それはそうだが、やはり町の子だよ。
「十年は続くよ」
「なあにひと月も
「まあ、このとおりだ。よく見てくれ」
わたしは
「さあ、まずこれだけの子どもとして」と
「たった二十フラン」
「どうして高すぎると思うよ。それも前ばらいにするからね。ほんとうの
「だがこの子をうちに
「まあくれてもせいぜい七フランか十フランだね。それはよくわかっているよ。だがその代わり食べさせなければならないからね」
「その代わり
「おまえさんがほんとにこの子が働けると思うなら、なにも追い出したがることはないだろう。ぜんたい
「とにかく、毎月十フランはもらえるのだから」
「だが
「だが待てよ」とバルブレンが言った。「いつかこの子のふた親が出てくるかもしれない」
「それはかまわないじゃないか」
「いや、育てた者の身になればなにもかまわなくはないさ。またそれを思わなければ、
「それを思わなければ
「なるほど、だがこの子のふた親がもう出て来ないだろうとあきらめたからこそ、おまえさんもこの子をほうり出そうと言うのだろう。ところで、どうかしたひょうしでこののちそのふた親が出て来たとして、それはおまえさんの所へこそまっすぐに行こうが、わたしの所へは来ないだろう。だれもわたしを知らないのだから」と
「でもおまえさんがそのふた親を見つけ出したらどうする」
「なるほどそういう場合には、わたしたちで
「四十フランにしてもらおう」
「いいや、この子の使い道はそこいらが
「おまえさん、この子をなんに使おうというのだ。足といえばこのとおりしっかりしたいい足をしているし、うでといえばこのとおりりっぱないいうでをしている。いま言ったことをどこまでもくり返して言うが、この子をいったいどうしようというのだ」
そのとき
「つまりわたしの
「なるほど、それにはこの子の足はじゅうぶんたっしゃだから」
「おお、それだけではだめだ。この子はまたおどりをおどって、はね回って、遠い道を歩かなければならない。つまりこの子はヴィタリス親方の
「その一座はどこにある」
「もうご
こう言ってかれはひつじの毛皮服のふところを開けて、左のうでにおさえていたきみょうな動物を引き出した。それが、さっきからたびたび毛皮を下から持ち上げた動物であったのだ。だがそれは
わたしはこのきみょうな動物を生まれて
わたしはびっくりしてながめていた。
それは
「いやあ、みっともないさるだな」とバルブレンがさけんだ。
ああ、さるか。わたしはいよいよ大きな目を開いた。それではこれがさるであったのか。わたしはまださるを見たことはなかったが、話には聞いていた。じゃあこの子どものようなちっぽけな動物が、さるだったのか。
「さあ、これが
さるは指をくちびるに当てて、わたしたちに一人一人キッスをあたえるまねをした。
「さて」とヴィタリスはことばを
このまぎわまでぴくりとも動かなかった白のむく犬が、さっそくとび上がって、後足で立ちながら、前足を
白犬のすることをじっと見つめていた二ひきの犬は、すぐに立ち上がって、おたがいに前足を取り合って、交際社会(社交界)の人たちがするように
そのときヴィタリス親方が言った。
「この犬の名をカピと言うのは、イタリア語のカピターノをつめたので、犬の中の
カピと
「カピ、あなた、ここへ来て、ぎょうぎのいいところをお目にかけてください。わたしはこの
カピは前足をほどいて、主人のそばへ行って、ひつじの毛皮服のふところを開け、そのかくしを
「はいはい、よくできました」とヴィタリスは言った。「ありがとうございます、カピさん。それで今度は、ドルス
カピはまた主人のかくしを
つなの運動が
「このとおりずいぶんりこうです」と
「へえ、この子がばかを
わたしも、そのくらいのことがわかるだけにはかしこかった。それにこの親方のお
でもそれをいやだと言ってみたところで、バルブレンのおっかあとこの先いることはできない。やはり
わたしはほんとに
「ははあおこぞうさん、大さわぎをやらないのはわけがわかっているのだな。小さい
「ああ、おじさん、どうぞぼくをおっかあの所へ
カピが大きな声でほえたので、じゃまされてわたしはそれから先が言えなかった。そのとたん犬はジョリクールのすわっていた
「ジョリクールさん」とヴィタリスが
さるは息づまったような鳴き声を出して、すごすごすみのほうへ行った。幸せな犬は
「さて」と
「いや、四十フランだ」
そこでおし問答が始まった。だが
「よし、じゃあ
バルブレンがこう言うと、わたしはそのとおりにするほかはなかった。それで裏庭へ出るには出たが、遊ぶ気にはなれない。大きな石にこしをかけて考えこんでいた。
あの人たちはわたしのことを
心配なのと寒いのとでわたしはふるえていた。二人は長いあいだ話していた。わたしはすわって待っていたが、かれこれ一時間もたってバルブレンが
かれは一人であった。あのじいさんにわたしを手わたすつもりで
「さあ帰るのだ」とかれは言った。
なに、うちへ帰る。――そうするとバルブレンのおっかあに
わたしはそう言ってたずねたかったけれども、かれがひどくきげんが悪そうなのでえんりょした。
それで……だまってうちのほうへ歩いた。
けれどもうちまで行き着くまえに、先に立って歩いていたバルブレンはふいに立ち止まった。そうして
「いいかきさま、ひと言でもきょう聞いたことをしゃべったらひどい目に会わせるから。わかったか」
おっかあの家
「おや」とバルブレンのおっかあはわたしたちを見て言った。「村長さんはなんと言いましたえ」
「会わなかったよ」
「どうして会わなかったのさ」
「うん、おれはノートルダームで友だちに会った。外へ出るともうおそくなった。だからあしたまた行くことにした」
それではバルブレンは犬を
うちへ帰える道みちもわたしはこれがこの男の手ではないかと
バルブレンにはいくらおどかされても、わたしは一人にさえなったら、おっかあにきょうの話をしようと思っていたが、とうとうバルブレンはその
すごすごねどこにもぐりながら、あしたは話してみようと思っていた。
けれどそのあくる日起き上がると、おっかあの
「おっかあ」
「ああ、それなら村へ行った。
おっかあはまえの
なぜというしっかりしたわけはないのだが、わたしはたいへんおどおどしだした。
バルブレンの顔を見るとよけいに心配が
畑といってもたいしたものではなかった。それへなんでもうちで食べる
わたしがいろいろな草花を集めては、植えつけたのは去年の夏のことであった。それが
もう黄ずいせんもつぼみを黄色くふくらましていたし、リラの花も芽を出していた。さくらそうもしわだらけな葉の中からかわいいつぼみをのぞかせている。
どんな花がさくだろう。
それを楽しみにして、わたしは毎日出てみた。
それからまたわたしのだいじにしていた畑の一部には、だれかにもらっためずらしい
こんなことを思い思いこのときも、まだ
すぐとわたしはバルブレンがわたしをどうするつもりだということがわかった。老人がやはりわたしを
もうバルブレンになにを言ってみてもむだだということがわかっているから、わたしはすぐと
「ああ、ぼくを
すると
「おっかあが……」
「どうせきさまはここには
「このだんなについて行くか、
「いやだいやだ、おっかあ、おっかあ」
「やい、それだとおれはどうするか見ろ」とバルブレンがさけんだ。「思うさまひっぱたいて、このうちから追い出してくれるぞ」
「この子は母親に
「おまえさんがいたわると、よけいほえやがる」
「まあ、話を決めよう」
そう言いながら、
「この子の荷物は」と老人が言った。
「ここにあるさ」とバルブレンが言って、青いもめんのハンケチで四すみをしばった
中にはシャツが二
「それではやくそくがちがうじゃないか。着物があるという話だったが、これはぼろばかりだね」
「こいつはほかにはなにもないのだ」
「この子に聞けば、きっとそうではないと言うにちがいないが、そんなことを
「ルミ」
「そうか、よしよし、ルミ。
わたしは
わたしは行かなければならない。
ああ、このうちにもお
なみだをいっぱい目にうかべて[#「うかべて」は底本では「うがべて」]わたしは見回したが、手近にはだれもわたしに
わたしは
「おっかあ、おっかあ」
けれどだれもそれに答える者はなかった。わたしの声はすすり
わたしは
「さようなら、ごきげんよう」とバルブレンがさけんだ。
かれはうちの中へはいった。
ああ、これでおしまいである。
「さあ、行こう、ルミ、進め」と
わたしたちはならんで歩いた。幸せとかれはそう早く歩かなかった。たぶんわたしの足に合わせて歩いてくれたのであろう。
わたしたちは坂を上がって行った。ふり返るとバルブレンのおっかあのうちがまだ見えたが、それはだんだんに小さく小さくなっていった。この道はたびたび歩いた道だから、もうしばらくはうちが見えて、それから
幸い坂道は長かったが、それもいつか
「少し休ましてくださいな」とわたしは言った。
「うん、そうだなあ」とかれは答えた。
かれはやっとわたしをはなしてくれた。
けれどカピに目くばせをすると、犬もそれをさとった様子がわたしには見えた。
それですぐと、ひつじ
わたしがにげ出しでもすれば、すぐにかみついてくるにちがいない。
わたしは草深い小山の上に登ってこしをかけると、犬も後ろについていた。
わたしはなみだにくもった目で、バルブレンのおっかあのうちを
下には谷があって、所どころに森や
気の
それは遠方でもあり、下のほうになってはいたが、なにもかもはっきり見えた。ただなにかがたいへん小さく見えたのは言うまでもない。
ちりづかの植えにうちの太っためんどりがかけ回っていたが、いつものように大きくは見えなかった。うちのめんどりだということを知っていなかったら、小さなはとだと思ったかもしれない。うちの横には、わたしが馬にしていつも乗った曲がったなしの木が、小川のこちらには、わたしが水車をしかけようとして大さわぎをしてきずきかけたほりわりが見えた。まあ、その水車にはずいぶんひまをかけたが、とうとう回らなかった。わたしの畑も見えた。ああ、わたしのだいじな畑が。
わたしの花がさいてもだれが見るだろう。わたしの『きくいも』をだれが食べるだろう。きっとそれはバルブレンだ。あの
もう一
ふと村からわたしのうちのほうへ通う往来の上に、白いボンネットが見えて、木の間にちらちら見えたりかくれたりしていた。
それはずいぶん遠方であったから、ぽっちり白く、春のちょうちょうのように見えただけであった。
けれど目よりも心はするどくものを見るものだ。わたしは、それがバルブレンのおっかあであることを知った。
「さて出かけようか」と
「ああ、いいえ、
「じゃあ話とはちがって、おまえは、から(ぜんぜん)、足がだめだな。もうつかれてしまったのか」
わたしは答えなかった。ただながめていた。
やはりそれはバルブレンのおっかあであった。それはおっかあのボンネットであった。水色の前だれであった。足早に、気がせいているように、うちに向かって行くのであった。
白いボンネットはまもなくうちの前に着いた。戸をおし開けて、急いで庭にはいって行った。
わたしはすぐにとび上がって、土手の上に立ち上がった。そばにいたカピがおどろいてとびついて来た。
おっかあはいつまでもうちの中にはいなかった。まもなく出て来て、両うでを広げながら、あちこちと庭の中をかけ回っていた。
かの女はわたしを
わたしは首を前に
「おっかあ、おっかあ」
けれどもそのさけび声は空に消えてしまった、小川の水音に消されてしまった。
「どうしたのだ。おまえ、気がちがったのか」とヴィタリスは言った。
わたしは答えなかった。わたしの目はまたバルブレンのおっかあをじっと見ていた。けれども向こうではわたしが上にいるとは知らないから、あお向いては見なかった。そうして庭をぐるぐる回って、
もっと大きな声でわたしはさけんだ。けれども、
そのうち
「かわいそうに、この子は」とかれはそっと
「おお、わたしを帰してください」と、わたしはいまの
けれどもかれはわたしの手首をおさえて、土手を下りて
「さあ、だいぶ休んだから、もう出かけるのだ」と、かれは言った。
わたしはぬけ出そうともがいたけれども、かれはしっかりわたしをおさえていた。
「さあカピ、ゼルビノ」と、かれは犬のほうを見ながら言った。
二ひきの犬がぴったりわたしにくっついた。カピは後ろに、ゼルビノは前に。
わたしたちはもう坂の曲がり角を通りこした。もう谷も見えなければ家も見えなくなった。ただ遠いかなたに