打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口

古代人の思考の基礎(こだいじんのしこうのきそ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-29 15:59:55 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 折口信夫全集 3
出版社: 中央公論社
初版発行日: 1995年4月10日
入力に使用: 1995年4月10日初版
校正に使用: 1995年4月10日初版

 


     一 尊貴族と神道との関係

尊貴族には、おほきみと仮名を振りたい。実は、おほきみとすると、少し問題になるので、尊貴族の文字を用ゐた。こゝでは、日本で一番高い位置の方、及び、其御一族即、皇族全体を、おほきみと言うたのである。この話では、その尊貴族の生活が、神道の基礎になつてゐる、といふ事になると思ふ。私は、民間で神道と称してゐるものも、実は尊貴族の信仰の、一般に及んだものだと考へる。
平安朝頃までは、天皇の御一族のことを王氏と言ひ、其に対して、皇族以下の家を、他氏と言うてゐた。奈良朝から、王氏・他氏の対立が著しくなつた。正しい意味における后は、元、他氏の出であつて、其上に、一段尊い王氏の皇后があつたことの回顧が、必要である。
尊貴族と、同じ様な生活をしてゐた、国々或は村々に於ても、其と、大同小異の信仰が、行はれてゐた。又その間、かなり違つた信仰もあつたであらうが、其等は、事大主義から、おのづから、尊貴族の信仰に従うて来た。中には、意識して変へた事実もある。其は、近江・飛鳥・藤原の時代を通じて見られる。かの大化改新の根本精神は、実は宗教改革であつて、地方の信仰を、尊貴族の信仰に統一しよう、とした所にあつた。奈良朝から平安朝にかけては、王族中心の時代になりかゝつてゐたが、此頃になると、もう王氏を脇に見て、他氏が、勢力を得て来てゐる。それで尊貴族は、つひに表面に現れないで、他氏が力を振ふやうになつた。
話を単純にする為に、例をあげると、毎年正月十五日頃行はれる御歌会始めは、今では、神聖なといふより、尊い文学行事になつてゐるが、平安朝末頃の記録を見ると、固定して来てはゐるが、まだ神聖な宗教的儀式であつた。其習慣は、平安朝を溯つて、奈良朝より、更に以前から、あつたものと思はれる。
この神聖な宗教上の儀式である御歌会は、元は、男女が両側に分れて、献詠したものであらう。天皇が御製をお示しになる時は、女房が簾越しに出す事になつてゐた。この形式の一分化として、平安朝から鎌倉時代へかけて、しばしば行はれた歌合せの場合にも、其習慣から、天皇・上皇の御歌は、女房名を用ゐて、示されてゐる。宮廷の生活をうつした、貴族の家で行はれた歌合せには、其家の主人が、女房といふ名を用ゐた。大鏡を見ても訣る。後鳥羽院は、歴代の天皇の中で、最すぐれた歌の上手であらせられたが、皆、女房と言ふ名で、歌合せをなさつてゐた。
今でも、御歌会の時には、召人が召されるが、昔は、此召人と言ふものは、大抵武官出であつた。貴族の子弟のなつてゐる武官ではなくして、五位以下の、多くは地下のものであつた。即、位の低い武官が召された。平安朝末から鎌倉へかけて、武官出の名高い歌人の出てゐるのは、即、この習慣の熟したものである。譬へば、源三位頼政・佐藤義清(西行)及び、後鳥羽院の時の藤原能任等の人々が、其である。
召人として召された、武官の相手になるのは、宮中の女房である。其も、時代が下ると、位の低い女房に変つて行つたが、元は位の高い、采女の中から出た。采女と称せられる、女房の範囲は広かつたが、平安朝になつて、此中から、上流の女房といふ階級が出て、采女の地位は、低いものになつて了うた。御歌会に、女房と武官とが対立の位置に立ち、此が発達して、宮中の歌合せとなつた。
宮中の正式な歌合せは、此一つの原因ばかりから出来たのではないが、此形式を取り込んで、厳粛なものになつて来たのである。
采女と地下の武士とが、何故に歌合せに出るやうになつたか。其は、采女は平安朝になると、前述のやうに、低い位のものとなつたが、其前には、郡領――地方の郡の長官――の女であつた。其が召されて京に上り、任期を終へて、稀には京にゐつく者もあつたが、帰国するのが例になつてゐた。帰国した者は、宮廷の諸儀式を、自分の家に伝へ、或は、其家の勢力範囲へ伝播した。
此采女に対立して、やはり郡領の息子が、京に上つてゐる。此は、近代まで続いてゐた、大番役のやうなものであつた。これ等、郡領の一族から出たものを、総括的に舎人と言ふ。此舎人も、後には、任期を勤めあげて、京にゐつくものもあつたが、奈良朝以前には、大抵帰国して、宮廷の信仰を宣伝してゐる。
宮中には、神代以来の歴史を誇る、武官の家々があつたので、舎人等が、地方から沢山上つて来ると、人数があり余る。すると、王氏は勿論、位置の高い者にお下げになる。随身ズヰジンがそれである。随身は又、仕へてゐる王族・貴族によつて、資人又は、帳内とも言うた。要するに、本体は、宮廷の舎人として考へられる。貴族の家々にゐる女房も、同様に宮廷から下されたものだ、といふ仮定も成り立つ訣で、このやうに、宮廷の生活が、次第に下へ移され、貴族の家々でも、宮廷と同様な方式があつたから、舎人・采女によつて移された、宮廷の生活様式を、直ぐに受け入れる事が、出来たのである。
平安朝末になると、武官はほんの召人として、軽く扱はれてゐるが、清輔の「奥義抄」の巻頭に、此事をまじめに書いてゐる。平安朝も末期の記録では、軽く見られてゐるが、元は、意味深く考へられてゐた。
初春朝賀の式が行はれる時に、天皇が祝詞を下されると、群臣が其に御答へとして、寿詞ヨゴトを奉る。此は、天皇のを祝福すると同時に、服従の誓ひを新しくすることである。延喜式祝詞では、祝詞・寿詞の意義が、混同して用ゐられてゐる。
日本の儀式は、同じ事を幾度も繰り返す。其は、たゞ繰り返すのではなく、平易化して複演するのである。宮廷の元旦朝賀の儀式に、寿詞を奏上すると、寿詞なる口頭の散文に対して、今一段くだけた歌なるものを、複演奏上する。歌は、寿詞から分化したもので、寿詞の詞の部分ではなく、独白の文章、自分の衷情を訴へ、理会を求める部分の集つて、分離して来たのが歌である。即、寿詞奏上の後、直会の意味に於て歌会をする。
今の神道では、それが大分くだけて、正式の祭りの後に、神社で直会ナホラヒといふものをする。其が、今は殆、宴会とくつついてゐるが、昔は神まつり(正式儀式)・直会・肆宴トヨノアカリと三通りの式が、三段に分れてゐた。この三通りの式を、次第にくだいて行ひ、直会では歌、肆宴では舞ひや身ぶりが、主になつてゐる。
朝賀の式が終つた後に、直会をする。この直会に当るものが、御歌会であつた。宮廷では、早く其を大直日オホナホビの祭りと言うてゐた。大直日・神直日カムナホビは、祝詞の神である。神授と信じてゐる伝来の祝詞にも、読んでゐる中に、誤りが出て来るかも知れない。誤りがあると、神から、禍ひが下される。
禍ひを下す神を、大禍津日神オホマガツヒノカミ八十禍津日神ヤソマガツヒノカミといひ、神官は嫌うてゐるが、実は大切な神なのである。神道では、此神に対する理解が、変つて来てゐるが、神伝来の祝詞、其に答へる寿詞の誤りを、指摘する神である。今ではどうかすると、祝詞は儀式の上で、なければならないものだから、単に読むものだと考へられさうであるが、昔は、神の言葉と信じ、寿詞では、自分等の思ふ所を述べたのである。
人間に伝はつてゐるのだから、間違ひがある。神に間違うたことを言ふと、罪せられる。誤りがあつた場合に、その誤りを指摘するのが、大禍津日神である。其を、対句式に表現した結果、その性格に分裂を起して、八十禍津日神と言うた。其を後には、悪魔のやうに考へた。誤りの無いやうに、直して貰はねばならない其神が、大直日神・神直日神であつて、神道では、別々の神のやうに考へてゐるが、此は調子をとる為の、対句から発生したものである事は、禍津日神におけると同様である。
その後、大直日・神直日二神をまつると、唱へごとに誤りがあつた場合に、其を訂正してくれた。
平安朝の宮廷では、朝賀の式が済むと、大直日の祭りに相当する事が行はれた。此を分けて、大直日の祭りと、御歌会との二とする。大直日の祭りは、朝賀の式に接して行はれたが、神を祭るだけではなく、其時奉る言葉に、誤りがあつてはならないので、訂正の意味で、これを行ふのである。この大直日の祭りの時に、歌を歌ふ。
古今集巻二十の巻頭に、大直日の歌がある。此が、正月にあるのはをかしいと言ふが、大直日だから、正月にもあるのである。

あたらしき年のはじめにかくしこそ ちとせをかねて たのしきをへめ(つめとあるのは、疑ひもなくへめの誤り)

此は、奈良朝の歌(続日本紀)の形を、少し変へて伝へてゐたのである。其で見ると、大直日の祭りが、朝賀の式に接して行はれてゐたことがわかる。実は御歌会と、大直日の祭りとは、同じものであつたのが、分裂して、別のものゝやうになつて来たのである。
御歌会の時には、男女が両方に分れる。其時の主体は、采女と舎人とであつた。此時の歌は、新作ではなくして、自分の地方々々の歌を出して、神に献じた。この歌を国風クニブリと言ふ。新しく、宮廷に服従を誓ふ意味のもので、毎年初春に、服従を新しくしたのである。
ところが、其前から、世間では、歌合せの元の形と見るべきものが、行はれてゐた。歌垣・歌論義など言ふものが、其である。其方式を、次第に取り込んで、御歌会に、歌を闘はせる事になつて、歌合せが出来て来た。
国々には、国々を自由にする魂があつた。国々の実権を握る不思議な魂即、威霊マナアがあり、其がつくと、其土地の実権を握る力を得る。
地方々々に伝承する歌には、其魂が這入つてゐて、其を歌ひかけられると、其人に新な威力が生ずる。采女・舎人が国風の歌を奉ると、天皇に威霊が著いたのである。そこで、歌を献じた地方は、天皇に服従する事になるのである。

さゞなみの国つ御神のうらさびて 荒れたるみやこ 見ればかなしも(万葉巻一)

近江国の御神の心が荒んで、近江宮廷が、こんなに荒れたのだらう、と説いてゐる――山田孝雄氏に、別解がある――が、此は、魂の考へ方からすると、人間の魂の游離する事が、うらさぶである。魂が游離すると、心が空虚になる故、寂しいといふ事になる。平安朝になると、さび/\し即、さう/″\しと使うてゐた。心が空虚で、物足らない、魂の游離した様子である。この歌は、天皇に著かねばならない近江の国の魂が、弘文天皇から游離して、天武天皇に移つて了うたから、弘文天皇は、国を天武天皇に、御委せにならねばならなくなつたことを、歌うたものである。
国々の郡領、又は其子どもが、自分の家に伝つてゐる歌を唱へると、唱へかけられた天皇に、其力が移る。天皇は、国中のあらゆる魂を持つてゐるから、日本の国を領してゐられるのであつて、此事が訣らなければ、神道の根本に触れる事は出来ない。日本の国は、武力で征服したとか、聖徳で治めたとか言ふが、宗教的に言ふと、国々の魂を献つたからである。
魂を聖躬に著けるのは、本来ならば、一度でよい筈である。其をいつしか、毎年繰り返してせねばならない、と考へて来た。其役を果す為に、郡領の息子・娘である舎人・采女は、宮廷に来てゐたのである。舎人・采女は、宮廷の現神――天皇は、神の御言詔伝達ミコトモチであり、又時には、神におなりになる――に仕へ、任終へて、地方に帰るに及んで、宮廷の信仰は、地方に拡つたのである。
此信仰の行はれた時代は、長く続いたが、武家が勢力を持つに至つて、武力で国を征服する、といふ考へ方がきざし、やがて其が、ずつと溯つた時代までもさうであつた、と考へさせるに至つた。采女達は、各国に帰れば、国神最高の巫女になり、舎人は、郡領又は其一族として、勢力があつた。此人たちが、都の信仰を、習慣的に身体に持つといふ事は、自ら日本宮廷の信仰を、地方に伝播することゝなつた。古代にあつては、信仰と政治上の権力とは、一つであつた。宗教の力のある所、必政治上の勢力も伴うてゐた。即、この舎人・采女達が、宮廷の信仰を、地方に持ち帰つたと言ふことは、日本宮廷の力が、地方に及ぶ、唯一つの道であつた。
大化改新は、今まで国々を治めてゐたクニミヤツコから、宗教上の力を奪つて、政治上の勢力をも、自ら失はせた。改新以後は、従来国造と呼んでゐたものを、郡領と称するやうになつた。郡領は、単なる官吏として、宮廷の代理者としての、政治上の力を有するに止つて、宗教上の力はなくなつた。国造から、宗教上の力を奪はなくては、尊貴族の発展は、期し難かつた。
郡領の女は、地方の神の女であり、子である。舎人は、第二の郡領であるから、其生活を変へて、宮廷式にすれば、宮廷の信仰が、地方に及ぶことになる。この方法は、自然に、無意識の間に行はれてゐたのであるが、後に、意識的に行はれるやうになつて、平安朝まで続いた。
宮廷で、春、御歌会を行ひ、郡領の子女が、其国々の歌を出したのは、国々の魂を奉る意味であつて、此が後に、歌合せに変化した。さう考へると、元旦の朝賀の式のくだけたのが、御歌会である。この歌会以外、いろんな場合に、舎人・采女が天皇即、神なる天皇に、常侍して居て、地方に帰つて後、宗教的の生活をするのであるから、宮廷の風が伝つて、宗教的の統一が行はれた。其はとりも直さず、政治上の統一でもあつた。日本の政教一致といふのは、世間で解してゐるのと異つて、今述べた意味に於いての、政教一致であつた。
舎人が地方に帰る時には、此者が中心となつて、其仕へてゐた天皇の輩下の、舎人部を拵へた。此が……天皇の大舎人部――詳しくは、日奉……大舎人部――といふものであつた。日奉――ほんとうは、日を祀るの義である――部といふものが、代々の天皇の仰せを蒙つて、諸国に散遣してゐた。其が奈良朝になつては、部曲の名のみが残つてゐるばかりであるが、我々の計り知れない昔から、日奉部が、舎人部から出て、天皇に仕へ、地方に帰つて、宮廷から伝つた神秘な力、天体の運行を計る信仰を以て、地方を治めて行つた。すると其国が、天皇の国になる。即、地方から出て、宮廷に仕へた男女が、宮廷の宗教を持つて帰る為に、信仰の非常に違うた地方も、宮廷の信仰と同様になり、宮廷の勢力が及んで、宮廷の領地と考へられるやうになつた。
また、宮廷に似た生活様式を持つたものは、次第に、都の近くに集つて来た。普通これを、大臣オホオミと言うてゐる。以前はおみを、大身と説いてゐた。即、大臣は国を持ち、天皇には、半服従してゐる、といふ位の国の主で、天皇の国に対して、対照の位置に立つ大忌である。宮廷の神道では、大忌オホミ小忌ヲミ(能楽に、小忌衣とて用ゐる)の二通りあつて、をみは直接神にあたつて、厳重な物忌みをする人であつた。後には、此人達の身分は、次第に低くなつたが、元は、その高い人ほど、厳重な物忌みをしたのであつた。今でも、大嘗祭に当つては、天皇が一番、お苦しみになるのである。三度も、風呂をお召しになる。其時小忌が、天皇の御介錯を申し上げる。小忌は、宮廷で一番、高い位置にある人で、今ならば、総理大臣とも言ふべき人である。
廻立殿クワイリフデンの湯は、絶対の神秘で訣らないが、ともかく、女が其役をする。此時に、神秘が行はれるのである。宮殿のは、平安朝まで行はれてゐて、此方は、或点訣るところがある。昔は、宮廷では、天皇が一番、苦しんでゐられた。一年を通じて、殆絶えることなしに続く祭りを、御親祭になるお苦しみは、非常なものであつた。天皇に次いでは、小忌――上達部カンダチメがさうであつた。
上達部とは通称であつて、官名ではない。極自由に用ゐられてゐた為に、平安朝になつて、女の文章が、通用語を記すやうになつてから、記録せられた語である。平安朝の記録に、はじめて現れたと言ふ理由で、此語が、奈良朝には行はれなかつたとするのは、早計であつて、奈良朝時代既に、行はれてゐた語である。当時は、記録の必要を見なかつたから、記されなかつたまでゞある。
上達部とは、上達の団体のことである。上達は神館カウダチで、物忌みをする人の籠る所である。伊勢皇太神宮にもあつた。祭りに、神の召し上るものを作るところ、即、カンダチ[#「广+寺」、378-17]で、其処にゐる人と言ふ意味である。平安朝では、五位以上の人を殿上人といふのに対して、三位以上の公卿を意味してゐる。こゝに到つて、宗教上神館に集つて、物忌みをする人といふ意味は、忘れられて了うた。そして汎称であつたのが、次第に狭くなつて、ある団体だけを言ふことになつた。
其で貴族達――所謂上達部――の生活を見ても、大和に近いところに、国をなしてゐた人達の跡で、宮廷の生活信仰に触れることが多かつた。従つて、宮廷の信仰・生活が、貴族を風化して行つた。それが次第に、地方に拡つて行き、更に民間に伝播した。我々が民間のものと思うてゐるものにも、宮廷の信仰・生活の変化したものが多い。

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]  下一页 尾页




打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口