三 惟神の道
主上の行為を、神ながらといふ。神として・神のゆゑ・神のせいと言ふ意味で、神のまゝ、と言ふ事ではない。ながらは、のからで、神のせいで、さういふ事をする、といふのである。惟神の文字の初めて見えたのは、日本紀孝徳天皇の条で、又随神とも書いてゐる。主上が、神として何々をする、と言ふ時には惟神、神の意志のとほりに行ふ、と言ふ時には随神と書いたやうである。 万葉集などにある、惟神の用語例が、最古のものだ、と考へてゐる人もあるが、さうは思はない。万葉集に見える例も、浮動してゐるので、記・紀・万葉等の用語例を、日本最古のものとする考へ方は、よくないと思ふ。もつと前に、もつと古い意味があつたのが、幾度か変化して後、記・紀・万葉等に記録せられたのである。惟神にあつても、万葉集に出てゐるから、其が本義だ、と考へる人もあるが、其は日本の国語の発達の時代を、あまりに短く、新しく見過ぎてゐる。 惟神の意味を釈くにしても、記・紀・万葉等で訣らぬところは、新しい学問の力を借りて、民俗を比較研究した上に、古い用語例を集め、此と照合して、調べて行かなければならない。古い神道家の神道説はまだよいが、新しいのは哲学化し、合理化してゐる。其代表とも見るべきは、筧克彦博士の神道である。其は、氏一人の神道であり、常識であるに過ぎないので、残念ながら、いまだ神道とは、申すことが出来ないのである。 神ながらの道は、主上としての道であつて、我々の道ではない。類聚三代格に、出雲国造――政治上の権力と関係のない所は、国造と称することを、黙認してゐた。後には、公に認められた――筑前宗像国造が、采女と称して、国の女を召して自由にしてゐたのを、不都合だとして、禁止されたことが見えてゐる。当時にあつては、国造が、采女を自由にするのは、当然のことであつた。宮廷にあつても、現神として、天皇は、采女に会はれたのである。其生活を、前記国造等が、模倣してゐたのである。宮廷の神道が盛んになつて、出雲国造等の、言はゞ小さな神ながらの道と言ふべきものが、禁ぜられたのである。国造等の行うた、小さな神ながらの道も、神主たちにはあつても、民間にはなかつたのである。 主上が神祭りの時に、神として行為せられるのが、惟神の道であつた。処が主上は、殆一年中、祭りをしてゐられるので、神と人との区別がつかなくなつた。神道家は、現神を言語の上の譬喩だ、と思うてゐるが、古代人は、主上を、肉体をもつた神即現神と信じてゐたのだ。 惟神の道とは、今述べて来たやうに、主上の神としての道、即主上の宮廷に於ける生活其ものが、惟神の道であつた。今では、神道を道徳化してゐるが、何事でも、道徳的にのみ、物を見ると言ふ事は、いけない事である。道徳以上の情熱がなくては、神社は、記念碑以外の何物でもなくなつて了ふ。今日考へられてゐる神道は、もつと道徳以外に出て、生活其物に、這入つて来なければならない。宮廷の生活だと言うても、道徳的なことばかりでなく、いろ/\な生活があつたのである。 神道の長い歴史の上から見ると、既に澆季の世のものである万葉集に、人麻呂は大宮人・労働者の区別なしに、その行為してゐることを「神ながらならし」と歌うてゐる。主上の御行動は、すべて惟神と感じ、毫も、道徳的には見てゐないといふ事は、我々も、惟神について、もう一度、考へ直して見ねばならぬ事実である。日本の神道は、新しく研究する余地の十分あるもので、国学の先輩によつて、研究し尽されたものではない。又、哲学的・倫理学的に見ることが、今直に、正しい見方だ、とする事は出来ないのである。
四 古代詞章に於ける伝承の変化
語原解剖から、物の本質を定める事は、危険の伴ふものである。そして、或一方面から、明りがさして来たやうに思はれる。今までは、祝詞・古事記等の文章は、其自身完全なものであつて、解釈出来ないのは、我々の方が未熟なのだ。鈴木重胤・本居宣長に訣らなかつた所は、古く解釈する鍵が、既に失はれてゐて、如何とも出来ない。時代の故だと考へてゐた。 併し此は、速断から来る誤りに陥つてゐる。祝詞・古事記等を比較すれば、訣ることであるが、文中既に、矛盾が沢山ある。譬へば、天御蔭と言ふ語は、祝詞だけでも、四種の用例がある。大和の如き、訣りきつたやうな語も、記・紀・万葉・祝詞と辿ると、四五種以上、意義の変化がある。其を比較すると、意義の変化につれて、用ゐられた時代の、異つてゐることが訣る。 祝詞の如きは、神代乃至は、飛鳥・藤原時代以来、伝つてゐる古いものだ、と考へられてゐるが、此は奈良朝の末から、平安朝の初め百年頃までに、出来たものである。延喜式祝詞は、全部新作とは言へないまでも、平安朝に這入るまでに、幾度か改作せられてゐる。古い種をもつてゐながら、文章は、新しいのである。新古、入り混つてゐるのに、何を標準として、解釈したらよいか。神代の用法も、飛鳥・藤原・近江、下つては、奈良・平安の用法も混つてゐる。其も純粋に、時代々々の語を用ゐてゐるのならばよいが、まじなひのやうに、伝承してゐる中に、意味が訣らなくなる。すると、訣らせる為に、時代の解釈の加つた改作をする。語についての考へが、変化して了ふのである。 此種の改作は、一再ならず、度々行はれたものと思はれる。自然の間に起る、語意の変化の外に、忘れられて、訣らなくなつてから加へられた、其時代の合理観があるのである。故に、文章や単語に、誤りがある。若し其がないならば、禍津日神・直日神の出て来る訣がない。 允恭天皇の世、大和国味白檮岡の言八十禍津日前で、探湯をしたことがある。家々の系図――古くはつぎ、記録になつたのがつぎぶみ、後にはよつぎと言ふ。天皇では、ひつぎ又はあまつひつぎといふ――の、正邪を判断する為に、其を口に唱へさせながら、手を湯につけさせた。即、当時にあつても、伝承による言葉に、誤りあることを知つてゐたのである。 天孫降臨の章は、大切な所であるが、尚、古事記・日本紀・日本紀一書皆、おなじ言葉の伝へが、区々である。日本紀は、漢文で書いたものであるが、其天孫が、日向へ下られた道筋の大切なところは、日本語でうつしてゐる位である。語部の伝ふべき一番大切な言葉が、固定した為に訣らなくなり、神聖な言葉なので、改作もせなかつたが、伝へを異にするやうになつた。或家の伝として、三種又は、四種の伝へがあるが、皆訛つてゐる。此様に、変つて行くのであるから、単語の変るのは、当然のことであつた。 今日残つてゐる、祝詞の最古いのは、延喜よりもつと早く、書き留められたものであらうが、新しい息のかゝつてゐないものはない。平安朝の末になつて、不思議にもたゞ一つ、古い祝詞が、偶然と言うてよい事情によつて残つた。宇治の悪左府藤原頼長の書いた「台記」の中に、近衛天皇の大嘗祭の時に、中臣氏の唱へた寿詞――中臣天神寿詞――が、記してある。天神寿詞といふものが、此他にも、古い家に伝つてゐたであらうが、神秘を守つた為に、亡びて了うた。氏の長者としての勢力によつて、大中臣――藤原氏が分れてから、中臣は、大中臣と称した――に伝つてゐた神秘な寿詞をも、書き留めることが出来たのである。 頼長によつて亡びずに済んだ、この中臣天神寿詞も、古い形その儘ではなく、代々少しづゝ、変化させてゐることゝ思ふ。此寿詞も、最神秘なところは、書き漏してゐて、伝へてゐない。 延喜式祝詞は、公の席上で述べることの出来るものだけで、神の内陣で、小声で唱へる神秘な語、即、宮廷の采女等によつて、神秘が守られてゐたものは、亡んで了うた。亡びない迄も、固定して訣らなくなり、或は改作せられて、半分訣つたものとなつた。訣り過ぎると、神聖味が薄くなると思うたのであらう。 古事記・日本紀ともに、其文章は、同時代のものを記してゐる、とは言へないばかりでなく、此事を頭に入れて置かなくては、国語の研究は行きづまる。此点を突き破ると、国語・国文及び、日本神道の研究も、変つて来ると思ふ。此までの研究は、余りに常識的な、一時代前の研究を、基礎としてゐたのである。
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