五 信仰推移
日本の神道並びに、日本の国民道徳は、大昔なりに、一つも変つてゐないやうに、予め考へてゐるが、実は段々、変化してゐるのである。其は、此迄の考へ方からすれば、不愉快な事であらうが、変ればこそ、良くもなつて来てゐるのである。我々の祖先は、いづれ今程、いゝ生活はしてゐなかつたらうと思ふ。 もう一つの考へは、昔は理想的の国であつたが、今はおとつよ、仏教の所謂、澆季の世であるとする事である。其は、空想にすぎない。昔の道徳・信仰が、今までの間に、次第に変化してゐることは訣る。それだからと言うて、今の道徳・信仰が、直に宜しくないとは言へない。動揺してゐるのが統一され、整理せられるだけの時代を経て、後に、価値の多寡を言ふことが出来る。其原理を導き出すのには、今の方法では駄目で、今一度、昔に還つて、省みなければならない。 日本の神典を見て、一番困ることは、神と神でないものとの区別が、明瞭でない事である。古事記その他の書物に現れた、霊的な人々の記録は、同じ時代の事であると考へては、何時まで経つても、ほんとうの事は訣らない。古事記にしても書きとめられた時より、五百年以上も前の事があると見て、はじめて訣つて来る。古事記の中には、神になり切らない、霊的なものと、神になつたものとがある。 日本の信仰には、どうしても、一種不思議な霊的な作用を具へた、魂の信仰があつた。其が最初の信仰であつて、其魂が、人間の身に著くと、物を発生・生産する力をもつと考へた。其魂を産霊と言ふ(記・紀)。産霊は、神ではない。神道学者に尋ねても、産霊神と、神とを一処にする人は、まづあるまい。此神は無形で、霊魂よりは一歩進んだもので、次第に、ほんとうの神となつて来るものである。 日本の神典を見ると、神とたまとを書き分けてゐるが、此には理由がある。不思議な霊的な魂の外に、人間に力を与へてゐた魂で、其人の死後も、個人のもつてゐた魂だ、と考へられるものがある。此魂の一部分は、聖なる資格ある人に著くものである。其の他の部分は、其人だけのものである。国・邑の魂の数は、定つてゐる。此には、証拠がある。其魂が、出たり這入つたりしてゐる。一人の人が死ぬと、其魂は、外のむくろに著いて、生きて来る、と考へた。其処から魂が個人持ちのものだ、と言ふ考へが、導き出されて来た。其で考へて来たのが、魂の集る処といふことである。此が、神典で一番大切な、神づまるである。 結局、玉留産霊ノ神の語原は、神づまるとおなじであると思ふ。つまるは、集中する意味だとおもふ。日本神道の純化して来た時代には、高天原が神づまる場所として、斥されてゐるが、もとは、日本の国土の外、遠く海の彼方の国が考へられてゐた。其処に集つた魂が、時を定めてやつて来て、人に著くと、人が一人殖えると考へた。 此海の彼方の国が常世国で、浄土・ぱらだいす或は、神の国と考へられてゐる。次第に純化せられて来て、宮廷の神道では、高天原と考へた事は、既に前に述べた。 昔は、海境――水平線――で、海はどかつと落ち込んでゐて、其処を越すと、常世国があると思うてゐた。海境は、行けば行くほど遠のくので、とても行きゝれない。たゞ不思議なものゝみが行く、と見てゐた。又この海境で、天と海と一つになつてゐるので、空と海とは同じだ、と思うてゐた。水と天との境が訣らなくなつて、海の彼方と言ふ考へを、空に移して来た。 此は宮廷の考へであるが、ずつと後の奈良朝の頃まで、海の彼方又は海の底と考へてゐた。其が次第に、高天原と一つになり、純化せられて、其処に、総括的な地位にある神がゐる、と信じた。常世国には、国・邑の魂が集中してゐるから、国・邑の関係が、密接である。自然、血族的に考へて、親の魂・祖先の魂の集つてゐる所と考へて来て、人間との気持ちに、親しさが出て来る。同時に、尊敬の心が生じて来る。此が魂から、神の考への出て来る基となつてゐる。
六 数種の例 一
記・紀に、おほくにぬしの命が、海岸に立つて、葦原の中つ国の経営法を考へてゐると、海原を照して寄つて来る神がある。名前を尋ねると、俺はお前の和魂・荒魂だと答へたと言ふ話が出てゐる。 神道学者は、この事をいろ/\議論してゐるが、結局、理窟に合せた、説明ばかりをしてゐる。其は、外から来る帝王となるべき人、或は、其土地を治める人が、持たねばならない、威力のある魂が、数種類ある。和魂・荒魂もそれである。此魂が、前述のおほくにぬしの命に著いて、此世を治める資格を得た。後に其魂を、大和の三輪山に祀つた、と説明してゐる。 一方、此話は、神の話になつてゐる。おほくにぬしの命が、出雲の御大の岬に立つて居られた時、帰り来た神に、侏儒のやうなすくなひこなの神がゐた。そこで協力して、天孫降臨以前の葦原の中つ国を作つたといふ。書物によると、すくなひこなの神は、粟にはね飛ばされて、常世国に帰つた。おほくにぬしの命が、其を悲しんでゐると、海原を照して来る光りがあつたとも云ふ。即、三種の伝へがある訣である。 此は、伝へが区々になつたゞけで、常世から出て来る威霊が、おほくにぬしに著いて、葦原の国を経営する力を、与へたのである。其を、魂と感じた時に、和魂・荒魂の話となり、神と感じた時に、すくなひこなの話となつた。 常世の国から来るのは、大抵小さな神である。譬へば、信州南安曇郡の穂高の社は、物ぐさ太郎の社だといふ(お伽草紙)。つるまの郡あたらしの郷に流された、公家に出来た子が京に上つて、一度にえらくなるのは、魂が著いたからである。其肝要なところが、此話には脱けてゐる。物ぐさ太郎の話は、穂高の話ばかりでなく、山城の愛宕の本地と、関係が深い。その様な、神の話を持つて歩いた神人が、諸国にゐて、越後から川づたひに、信州に這入つて、根を下したのである。 小さな神が、人間の助けを得て、立派な神になる話は、日本の昔物語・神話に沢山ある。すくなひこなの話も、此である。物ぐさ太郎は、人間が育てゝゐる間に、立派なものになつたのである。ともかく、常世国から渡つて来る、小さな不思議な神は、もとは霊魂の信仰であつた。荒魂・和魂が、時代を経てから、すくなひこなの神に考へられて来た。魂から、神になつて来たのである。かう見なくては、日本の神典の、神と魂との関係は訣らない。この一例によつても、信仰の推移のあつたことは訣ると思ふ。即、宮廷の信仰が最進んでゐたので、其が地方の信仰を、次第に整理して行つたのである。 今述べた例は、純化せられて行つた話であるが、時代を経ると共に、不純になつた例もある。河童は、妖怪の一種のやうに考へられてゐるが、もとは、田に水を与へる、水の神様であつた。其が後に、水を祀るのに、物を賭けるやうになり、かけ物が重く見られて来ると、水欲しさに、命まで賭けて了ふやうになつた。其が何時か、神が命を要求する、といふやうに考へられて、妖怪のやうな河童が、農村に考へられた。逆推すると、河童は、純粋の水の神であつた。即、これは、堕落した神の例である。淫祠・邪神とせられてゐるものゝ中にも、元は純粋であつたものも、多く含まれてゐるのである。 更に考へると、出雲大社にあつても、記・紀では、おほくにぬしの神と教へてゐるのに、中世の事実では、立派に、すさのをを祭る事になつてゐる。此は、神が代つてゐるのである。 又、信州の諏訪明神は、たけみなかたの神を祭つてゐるのに、中世では、甲賀三郎に変つてゐる。伊吹山の洞穴に、妻覓ぎに行つて、蛇体となつた三郎は、法華経の功徳で、人界に戻つた。さうして死後、諏訪明神となつたといふ。諏訪明神が、蛇体と考へられたのは、新しい信仰ではなく、平安朝末からの事である。浄土宗の説経を集めた、安居院神道集には、諏訪明神の本地として、右の甲賀三郎の話が出てゐる。此不思議な話の出来た理由は、他の機会に譲るが、何故、かうした信仰が、平安朝の末から、鎌倉時代にかけて、盛んになつたのであらうか。現に法華宗には、諏訪霊王といふものがあるが、甲賀三郎のことである。此は、神が零落した例である。 反対に、神の資格の昇つて来た例も多い。神の資格が昇るにつれて、神社が、国中に一ぱいになつて来た。其は、国家組織の完成に伴うてゐる。古代では、神は、杜や山に祀られた。此に対しては、反対論もあるが、三輪の神も社がなく、人によつては諏訪明神も、社がなかつたと言ふ。諏訪・三輪の社の有無は、問題外としても、社が無かつたと言ふことは、或神は社が無かつたのだ、と言ふ記憶から出た話である、とだけは言へる筈である。 古くから、天つ社・国つ社と称せられてゐる社のほかに、社の数が、次第に殖えて来た。奈良朝から平安朝にかけて、続日本紀以後の国史を見ると、天皇が、神に位をお与へになつてゐる。此に就いて、仏教では、王は十善、神は九善と称して、王の方が、一善だけ上である。だから王が、神に位を与へるのは、不思議でも何でもないことだ、と後世説明してゐるが、其を待つ迄もなく、天皇は、天つ神として、此世に出現なさつた故に、此土地で、最、尊い神である。だから天皇が、神に贈位せられ、天つ社・国つ社をお認めになるのである。 大昔から、現在のやうに、神社の数が多かつた、と考へるのは誤りである。古代に溯つて行けば、建て物のある神社はなかつたと思ふ。家の中に祭つたものが、神社になつたのであらう。殿に祭られる神は偉い、と考へられる様になると、神が殿に祭られたがりなさると思うて、次第に、殿に祭る様になつて来た。つまり国民が、自分等の周囲の、霊的な力を感ずる能力を増し、その上に、宮廷の神道の考へ方が、地方に張つて来たからであると思ふ。 信仰は、神代のまゝでなく、次第に進んで来た。明治以来、昭和の今日に至るまでの間に、神社の組織が、幾度か変つてゐる。単に為政者ばかりの為でなく、自然の要求から、神の位置を高めてゐることは、事実である。何事でも、昔からのまゝと言ふことはない。 少し話が、複雑になつて来たが、やしろは、家代と言ふことに違ひない。しろは、材料といふことであるから、家そのものではなく、家に当るもの、家と見做すべきものといふことである。
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