七 数種の例 二
それから、日本の国では、年の考へが、まち/\であつた。其は、暦が幾度も変つた為である。天皇は、日置暦といふものを持つてゐられたが、後に、それが度々、変化してゐる。 その昔の暦を考へて見ると、天皇が高処に登られて、祝詞を唱へられると、春になる。初春に、祝詞が下される、と言ふのと反対であつて、天皇が祝詞をお下しになると、春になる、と考へてゐた。
商返しろすと、みのりあらばこそ。わが下衣 かへしたばらめ(万葉集巻十六)
商返を、天皇がお認めになる、と言ふ祝詞が下つたら、私の下衣を返して貰ひませうが、お生憎さま。商返の祝詞がございませんから、返して頂く訣にはゆきません、と言ふのである。 商返は、日本の歴史の上では、長い間隠れてゐた。歴史の上に見えないと言ふ理由で、事実が無かつたと思ふのは、早計に過ぎる。室町時代以後になつて、徳政と言ふ不思議なことが、突然記録に現れて来たが、此は今まで、記録にも歴史にも現れずに、長い間、民間に行はれてゐたのが、時代の変化に伴うて、民衆の力が強くなつて来たので、歴史の表面に出たのである。 商返と言ふのは、社会経済状態を整へる為、或は一種の商業政策の上から、消極的な商行為であつて、売買した品物を、ある期間内ならば、各元の持ち主の方へとり戻し、又契約をとり消すことを得しめた、一種の徳政と見るべきもので、此がちようど、夫婦約束の変更、とりかはした記念品のとり戻しなどに似てゐるので、一種の皮肉な心持ちを寓して、用ゐたのである。 かうした習慣の元をなしたのは、天皇は一年限りの暦を持つて居られ、一年毎に総てのものが、元に戻り、復活すると言ふ信仰である。此信仰は続いてゐたが、事実を見ると、人間は生きてゐて変らない。其処に、信仰と現実との矛盾を感じて来た。其でも地方では、売買貸借で苦しめられて、やりきれないので、十年目とか、二十年目とかに一度、と言ふ風に、近年までやつてゐた。土地をきりかへて、班田法のやうな方法によつて、分けてやるのである。江戸時代の末まで行はれてゐたが、明治になつて、絶えて了うた。万葉時代に、事実行はれてゐたのか、それとも、伝説となつてゐたのか、不明ではあるが、商返と言へば、皆に意味が訣つたのである。男女契りを結ぶと、下の衣を取りかへて著た。著物は、魂の著き場所で、著物を換へて身に著ける、と言ふ事は、魂を半分づゝ交換して著けてゐる事である。魂を著物につけて、相手に預けてあるので、衣服を返すと、絶縁したことになる。此処に引いた歌は、軽い洒落で、半分嫉妬し、半分笑うてゐる、おどけた、つまらない歌である。併し此歌で見ても、徳政の起原の古いことが知れる。 明治初年まで、年が悪くて、稲虫がついたとか、悪疫が流行したとかすると、盆に、二度目の正月をしてゐる。暑いのに、門松を立てゝ、おめでたうを交してゐる。すると、気持ちがよくなると共に、総てが新しくなる、と考へてゐた。 正月について考へて見ても、正月の中に、正月を重ねてゐる。元日に続いて、七日正月を迎へ、更に十五日を、小正月と言うてゐる。古来の暦法と、其後に這入つて来た暦との矛盾が、其処に現れた為である。十五日は、支那の暦法でも上元の日で、重く見られてゐる。その印象が、人の頭を支配してゐた。古い時代の暦に較べて、新しい暦法では、正月を早くしてゐる。けれども、昔の正月として、上元の日を定めて、農村では守つてゐた。 地方によると、立春の日を正月と考へ、又七日も正月としてゐる。信州の南の方では、正月元日から、十五日までの間に、正月を四五回繰り返してゐる。従つて、歳暮・大晦日・節分等も、度々やつてゐる。此考へ方は、近世から起つたことではなく、大昔からあつた。暦が、幾度にも渡来したばかりでなく、日本人は、何度も繰り返さなければ、気が済まなかつたのである。 初春には、常世国から、神が渡つて来た。春の初めに行はれる春田うちは、信州にもあるが、此時は、爺婆の姿か、普通の男女の形かで出て来て、田を耕し、畔を塗り、苗を植ゑる形をして、雪中に松を刺して、稲が出来たなど言うて喜ぶ。一年中の事を、とり越してやつて見せると、土地の魂が、其様にしなければならないと感じて、春田うちにやつたとほりに、農作の上に実現して呉れると考へた。初春に、一度すればよい訣であるのに、気がすまないので、田植ゑにやり、更に二百十日・二百二十日前後にやつてゐる。其頃になると、神嘗祭りに近づいて来る。 天皇が、初春の祝詞を下される時には、必復活の形をとつて、高御座にのぼり給うた。実際は、お生れになつた形を、とらなければならなかつたのである。 昔の考へ方は、堂々めぐりをしてゐて、一つ事をするのには、其に関聯した、いろんな事をせねばならなかつた。天皇初春の復活に際しても、皇子御降誕の時の形式をとつて、大湯坐・若湯坐・飯嚼・乳母がお附きする。この大湯坐は、主として、皇子に産湯をつかはせる役目をするもの、若湯坐も同様である。飯嚼は、食物を嚼んで、口うつしに呉れる者、乳母は、乳をのませる者である。この形を繰り返してせなければ、完全な式ではない。それを後世からは、この形式を、或天皇がお生れになつた時の事を伝へてゐるのだ、と考へてゐるが、これは或天皇に限つた事ではなく、常に行はれてゐる事であつた。初春ばかりでなく、祭りの時は、何時でもこの形式を執つた。 更に不思議なことがある。天皇が高所に登つて、祝詞を下すと、何時でも初春になり、その登られた台が、高天原になつて了ふ。此信仰が、日本神道の根本をなしてゐる。此を解かないから、神道の説明は、何時でも粗略なものになつてゐる。台に登つて、ものを言はれると、地上が高天原となる。この時、天皇は天つ神となる。大和及び、伊予の天香具山、同じく大和の天高市、近江のやす川などの名は、皆天にある名を移したのである。後になると、忘れられて、天から落ちて来たものだ、と考へるやうになつた。 奈良朝のものゝ断篇だ、と言はれてゐる、伊予風土記の逸文に、天香具山は、伊予にもあると記して、天上のものが二分して、大和と伊予とに落ちて来た、と考へてゐるが、此は、後代の説明である。 宮廷の祭りの時に、天上と地上とを同じものと感じ、天上の香具山と見做された処が、大和・伊予にある香具山である。天の何々と呼ばれてゐるところは、天上と地上とを同じものと見た時に、移し呼ばれた、天上の名前である。 天子は常に、祭りをなさつてゐる為に、神か人か、訣らなくなつてゐる位、天上の分子の多いお方である。後世――と言うても、奈良朝頃――は常識的に、現神と言うてゐるが、古代にあつては、神であり、神の続きと見てゐる。 此処で、天子の意味を考へて見たい。 天皇は、天つ神の御言を、此土地にもつて来られたお方である。昔は、言葉によつて、物事が変化する、と言ふ言霊の信仰をもつてゐた。言霊は単語、又は一音にあるやうに、古く神道家は解いてゐたが、文章或は、その固定した句に於て、はじめてある事実である。文章に、霊妙不可思議な力がある、と言ふ意味からして、其が作用すると考へ、更に、神の言葉に力があるとし、今度は語の中に威力が内在してゐる、と考へた。其を言霊と言ひ、其威力の発揚することを、言霊のさきはふ(又は、さちはふ)と言うた。 天皇は、天上の神の御言詔を伝達して、其土地の人、及び、魂に命令せられる。其間は、天神と同じになられるのである。 上使が「上意なれば座に直る」などゝ言ふのも、此と同じことである。天皇には、神聖な瞬間が続いてゐるのだから、神であるが、元は、御言詔持ちであらせられた。天神の御言詔どほり、其土地に実現なさるのである。 其が後には、天皇の為に、更に御言詔伝達を考へて来た。かうして、実権は次第に、低い位の者の手に下つて行き、武家時代には所謂、下剋上――易経の語を借りて――と言ふ事が、現れて来る。此は、上位の人と、下の者とが、同格になる時があつたのである。 天皇は、天つ神とは、別なお方であるが、同格になられる事があるので、我々の信仰では、天皇と、天つ神とを分つことが、出来なくなつてゐる。ところが、天皇と神との間に、仲だちといふものを考へて来た。信仰上の儀礼で、介添への女がゐる。天皇は、瞬間々々に神となられるが、其より更に、神の近くに生活し、直接に、神の意志を聴くものである。
┌a' a┤↑ └b
aは天つ神。a'は其御言詔持ちなる地上の神。bは介添への女性。a'に仕へねばならない尊貴族、最高位にいらつしやる方に当るbと言ふものは、信仰的にはaの妻であるが、現実的には、a'の妻の形をとる。祭りの時も、此形式をとるものである。 宮廷で、神を祭るのは天皇で、神来臨は、信仰の上のことであつて、神主が即、神であつた。今の神主は、昔の斎主に当るものである。神其ものが神主で、神職は斎主の地位に下つたのである。神祭りの時には、主上は神主であると同時に、まれびとであつて、非常に神秘なことである。だから結局、自問自答の形式も、お在りになることゝ察せられる。今日の我々の、窺ふことの出来ない、不思議なことであるが、此が当然の事と考へられてゐた。只今から考へると、矛盾が沢山あるが、古代生活の感情の上の論理では、差し支へがなかつたのである。比論法の誤りに陥つてゐるが、此が日本の、根本の論理である。 天竺の因明が、日本に渡り、又支那から、新しい衣を著た因明が、輸入せられて、支那風と、仏教其まゝの論理学とが、日本古来の論理を訂正して来たが、其処に、矛盾を生じて来た。暦法の上でも、新・旧・一月おくれの三通りの暦を、平気で用ゐて、矛盾したことをしてゐる。最後に這入つて来たのが、西洋の論理学――此とても、天竺の因明が、希臘に這入つて、変化したものに違ひないが――であつた。 この因明的の考へ方で言ふと、日本古代の論理は、感情の論理である。外国の論理学が這入つて来なかつたら、別の論理学が、成立してゐたかも知れない。前述のことも、現代の環境・論理で考へるから、不思議なのである。此は、大切な問題だとおもふ。 日本の信仰には、女神の信仰があるが、私の考へでは、女神は皆、もとは巫女であつた。此処に、永久に論断を下すことの出来ない仮説を申してみると、天照大神も最高至尊の地位にあらせられた、女神である。この仮説への道筋を述べて見よう。 記・紀を見ると、天照大神の蔭にかくれてゐる神がある。たかみむすびの神(たかぎの神とも)と言ふ神である。何の為に、此神が必要なのであらうか。日本の古い神道で、此事を考へなければならない理由がある。此神が何時も、天照大神の相談相手になつてゐられる。天照大神は、日の神ではなく、おほひるめむちの神であつた。 此神には、おほひるめの神・わかひるめの神と二種あつて、前者は御一方、後者は沢山あつた。すさのをの命が、斑馬の皮を斎服殿に投げ込まれた時に、気絶したのは、わかひるめの神であつた(日本紀一書)。 ひるめと言ふのは、日の妻即、日の神の妻・后と言ふことである。ひるめのるは、のである。水の神の后を、みぬめ又は、みるめと言ふのと同じである。 出雲国造神賀詞に、
此方能古川岸爾生立若水沼間能……
と見えてゐる。神賀詞自身「若水沼間」を植物と解してゐる。日本紀の神功皇后の巻には、みづはとあつて、みづ/″\しい草葉のことになつてゐるが、よく討ねて見ると、水の神に仕へる、女の神の名前であつて、同時に、禊ぎの時に、何時も出て来る神であつた。みぬめ又はみるめで、水の妻即、水の神の后である。即ひるめは、疑ひもなく、日の神の后の意であらう。 其が次第に、信仰が変つて来ると、日の神に仕へてゐる最尊貴な、神聖な神の后を、神と考へる様になつた。私の考へでは、天照大神も、かうした意味の神である。此点で、社々にある姫神と、同じに考へることが出来ようと思ふ。神典を見ても、大神は始終、たかみむすびの神に御相談なさつていらせられる。此たかぎの神が、日の神かどうかは、此処では触れないでおく。
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