二 威霊
天皇には、日本の国を治めるのに、根本的の力の泉がある。此考へが無ければ、皇室の尊厳は訣らない。其は威霊――我々は、外来魂と言うてゐるが、其を威霊と代へて見た。まなあの訳語――である。 天皇は、大和の国の君主であるから、大和の国の魂の著いた方が、天皇となつた(三種の神器には、別に、意味がある)。大和の魂は、物部氏のもので、魂を扱ふ方法を、物部の石上の鎮魂術といふ。此一部分が、神道の教派の中に伝つてゐる。此以外に、天皇になる魂即、天皇霊(敏達紀外一个処)がある。
若違ハヾレ盟ニ者天地ノ諸ノ神及ビ天皇霊ニカケ絶二滅セム臣ノ種ヲ一矣(敏達天皇十年閏二月)
此を平く言ふと、稜威である。神聖な修飾語のやうに考へてゐるが、実は天皇霊で、大嘗祭に、聖躬に著くのである。 悠紀殿・主基殿と分れて建つのは古い事で、天武紀にも見られることである。前述のやうに、此は、初めは一つの御殿だつたに違ひない。其中、一番問題になるのは、御殿の中に、御衾を設けてあることで、神道家の中には、天照大神の御死骸が其中にあるのだ、と言うてゐる人もあるが、何の根拠もない、不謹慎な話である。天孫降臨の時、真床襲衾を被つて来られたとあるが、大嘗宮の衾も、此形式を執る為のものであると思ふ。今でも、伊勢大神宮に残つてゐるかも知れないが、伊勢の太神楽に、天蓋のあるのは、此意味である。 尊い神聖な魂が、天皇に完全に著くまでは、日光にも、外気にも触れさせてはならない。外気に触れると、神聖味を失ふと考へてゐた。故に真床襲衾で、御身を御包みしたのである。その籠つてゐられる間に、復活せられた。 伊勢にあるのは、太神楽のもつと以前、恐らく三百年も前にあつたもので、近世まで、古い形のまゝ、諸国を廻つてゐる神楽の天蓋の中に、真床襲衾といふものがあつた。 五年目毎に、太神楽が廻つて来て、天蓋で、村の青年を包んで、外気に触れさせず、食物も喰べさせないで、願立てをして、踊りまはる。さうしてゐる間に、其青年は、村の若い衆となる。此は、村の中心勢力として、神事に与る資格を得るのである。実は祭りの時に、神になる資格を持つものが、若い衆である。今の太神楽以前に、諸国を歩いた神楽は、真床襲衾といふ、白い天蓋を持つて廻つた。伊勢の御師達にも、そんな神楽をもつて廻つた時代があつた。其図が現存してゐるが、非常に変つたものである。 真床襲衾に包まれて復活せられた事は、天皇の御系統にだけ、其記録がある。其中で物もお上りにならずに、物忌みをなされた。その習慣がなくなつて後、逆ににゝぎの命が、真床襲衾に包まつて、此国に降り、此地で復活なされたのだと考へて来た。我々は、宮廷で、真床襲衾を度々お使ひになるので、天上から持つて降られたものと思ふが、其は、逆に考へ直す方が、正しいのである。 古代には、死の明確な意識のない時代があつた。平安朝になつても、生きてゐるのか、死んでゐるのか、はつきり訣らなかつた。万葉集にある殯ノ宮又は、もがりのみやに、天皇・皇族を納められたことが知れる。殯宮奉安の期間を、一年と見たのは、支那の喪の制度と、合致して考へる様になつてからの事で、以前は、長い間、生死が訣らなかつたのである。死なぬものならば生きかへり、死んだのならば、他の身体に、魂が宿ると考へて、もと天皇霊の著いてゐた聖躬と、新しく魂が著く為の身体と、一つ衾で覆うておいて、盛んに鎮魂術をする。今でも、風俗歌をするのは、聖上が、悠紀殿・主基殿に、お出ましになつてゐられる間、と拝察する。 中休みをなさつた聖躬が、復活なさらなければ、御一処にお入れ申した、新しく著く御身体に、魂が移ると信じた。死と生と、瞭らかでなかつたから、御身体を二つ御一処に置けたのである。生と死との考へが、両方から、次第にはつきりして来ると、信仰的には、復活するが、事実は死んだと認識するやうになる。そして、生きてゐた者が出て来ても、一度死んだ者が、復活したのと、同じ形に考へた。出雲の国造家の信仰でも、国造の死んだ時には猪の形をした石に結びつけて、水葬したが、死んだものとは、少しも考へなかつた。其間に、新国造が出来たが、宮廷に於ける古い形と等しく、同じ衾から出て来るので、もとの人即、死者と同じ人と考へられてゐた。従つて、忌服即喪に籠る、といふ事はないのである。 もといふ語は、腰巻き又は、平安朝の女房たちの用ゐた裳と思はれてゐるが、ほんとうは紐のない、風呂敷の様な、大きな布で、真床襲衾と称した処のものである。もに籠るといふことは、衾に這入る事で、此間のものいみは、非常に広く、且厳重に行はれたもので、ものおもひと言うてゐる。後には、誤つた聯想から、服喪の意味に考へて来た。 元々一つの御殿を、悠紀殿・主基殿に分けたのは、生死を分けて考へる様になつたからであらう。二殿に、衾が別々に置いてあつても、其処で古い方の魂が、新しい方に移ると考へた。万葉の人麻呂の歌を見ても、天武天皇が、飛鳥の真神个原の御陵に移され、それから岩戸を開いて、天に昇られたとあるが、此は、信仰が変つてゐる。昇天するのではなく、其魂が、授受の形式で移るので、信仰的には、復活した事になるのである。 日本民族の、此国土に於ける生活は、長い歴史を持つてゐるのであつて、一部学者の言ふやうに、千年やそこらの事ではなく、かなり久しいものなのである。其長い歴史の間、天皇の魂の授受せられて行く中に、次第に天皇の死を考へて来た。もとは復活なさるとのみ考へ、天皇霊――稜威が著いたと信じてゐた。 天皇が、大和に移られてからは、大和を治める為には、大和の魂を持たねばならなかつた。其大和の魂を持つてゐたのは、物部氏だと考へられてゐた。最初は、にぎはやひの命であつた。神武天皇の大和入りより前に、既に降つてゐて、天孫は御一人である筈なのに、神武天皇の大和入りの時に、ひよつくり出て来て、弓矢を証拠に、天から降つたことを主張してゐる。 此話を正しく解釈出来ないで、政治的の意味があるやうに解いてゐるが、実はにぎはやひの命は、大和の魂で、神にまで昇つて来たのである。この命を擁立してゐたのがながすねひこであつた。にぎはやひの命が離れると、長髄彦は、直ぐに亡びて了うた。大和の国の君主のもつべき魂を、失うたからである。其魂を祀るのが、物部氏であつた。 此処で、日本神道の組織が変つて来て、神と神主との間に、血族関係を認める様になつた事を述べよう。 出雲の国造家では、もと、神と神主との間に、血族関係を認めなかつた。おほくにぬしの命の帰順後、天日隅宮に隠れて、あめのほひの命をして、祭りの事を代り司らしめた。後、おほくにぬしの命を祭ることになつて、神を祭る神主は、神の子であると言ふやうに、信仰が変化して、神と神主の家との血族関係が認められ、神主は神の子だ、といふ統一原理が出て来た。此点について、今までの研究は、非常に偏見に支配されてゐた。古代の神道を正しく見極め、新しい神道の道を進む為には、偏見があつてはならない。 以上のことから、にぎはやひの命と、其を祭る物部氏との間に、血族関係があるものと信ぜられて来た。由来物部氏は、魂を扱ふ団体で、主に戦争に当つて、魂を抑へる役をしてゐた。此点でも、物部氏をもつて、武器を扱ふ団体だ、としてゐた従来の考へ方は、改められねばならない。即、物部氏は、天皇霊の外に、大和国の魂、其他の国々の魂を扱ふ大きな家であつた。 天皇即位の時には、物部氏が魂を著け奉るだけでなく、新しく服従した種族の代表者も、出て来て其を行うた。奈良朝前までは、群臣中から、大臣・大連の人々が出て、天皇の前で、其詞を奏した。後、朝賀式が重視せられるに至つて、寿詞を奏するやうになつたのである。 今から考へると、寿詞の奏上は、新しく服従した国の外は、御一代に一度すればよい訣だが、不安に感じたのであらう、毎年其を繰り返した。新嘗を、毎年繰り返すのと同じ信仰で、魂は毎年、蘇生するものと考へたのである。此復活の信仰は、日本の古代には、強いものであつた。 近世神道で考へてゐる鎮魂の意味は、多少誤解からして、変化してゐるやうである。即游離した魂を、再、身につけるたましづめの意味になつてゐるが、古くは、外来魂(威霊)を身につける、たまふりの意味であつた。
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