第十四の男は語る。
「わたくしは随園戯編と題する『子不語』についてお話し申します。
この作者は
清の
袁枚で、
字を
子才といい、号を
簡斎といいまして、
銭塘の人、
乾隆年間の
進士で、各地方の知県をつとめて評判のよかった人でありますが、年四十にして官途を辞し、
江寧の小倉山下に山荘を作って
小倉山房といい、その庭園を随園と名づけましたので、世の人は随園先生と呼んで居りました。彼は詩文の大家で、種々の著作もあり、詩人としては乾隆四家の一人に数えられて居ります。
子不語の名は『
子は怪力乱神を語らず』から出ていること勿論でありますが、後にそれと同名の書のあることを発見したというので、さらに『
新斉諧』と改題しましたが、やはり普通には『子不語』の名をもって知られて居ります。なにしろ正編続編をあわせて三十四巻、一千十六種の説話を蒐集してあるという大作ですから、これから申し上げるのは、単にその片鱗に過ぎないものと御承知ください」
老嫗の妖
清の乾隆二十年、都で小児が生まれると、
驚風(脳膜炎)にかかってたちまち死亡するのが多かった。伝えるところによると、小児が病いにかかる時、一羽の
――一種の
怪鳥で、形は鷹のごとく、よく人語をなすということである。――のような黒い鳥影がともしびの下を飛びめぐる。その飛ぶこといよいよ
疾ければ、小児の苦しみあえぐ声がいよいよ急になる。小児の息が絶えれば、黒い鳥影も消えてしまうというのであった。
そのうちに或る家の小児もまた同じ驚風にかかって苦しみ始めたが、その父の知人に
鄂某というのがあった。かれは宮中の侍衛を勤める武人で、ふだんから勇気があるので、それを聞いて大いに怒った。
「怪しからぬ化け物め。おれが退治してくれる」
鄂は弓矢をとって待ちかまえていて、黒い鳥がともしびに近く舞って来るところを
礑と射ると、鳥は怪しい声を立てて飛び去ったが、そのあとには血のしずくが流れていた。それをどこまでも追ってゆくと、
大司馬の役を勤める
李氏の邸に入り、台所の
竈の下へ行って消えたように思われたので、鄂はふたたび矢をつがえようとするところへ、邸内の者もおどろいて駈け付けた。主人の李公は鄂と姻戚の関係があるので、これも驚いて奥から出て来た。鄂が怪鳥を射たという話を聞いて、李公も不思議に思った。
「では、すぐに竈の下をあらためてみろ」
人びとが打ち寄って竈のあたりを検査すると、そのそばの小屋に緑の眼をひからせた老女が
仆れていた。
老女は猿のような形で、その腰には矢が立っていた。しかし彼女は未見の人ではなく、李公が
曾て
雲南に在ったときに雇い入れた奉公人であった。雲南地方の山地には
苗または
※[#「けものへん+搖のつくり」、296-4]という一種の蛮族が棲んでいるが、老女もその一人で、老年でありながら能く働き、
且は正直
律義の人間であるので、李公が都へ帰るときに家族と共に伴い来たったものである。それが今やこの怪異をみせたので、李氏の一家は又おどろかされた。老女は矢傷に苦しみながらも、まだ生きていた。
だんだん考えてみると、彼女に怪しい点がないでもない。よほどの老年とみえながら、からだは甚だすこやかである。蛮地の生まれとはいいながら、自分の歳を知らないという。
殊に今夜のような事件が
出来したので、主人も今更のようにそれを怪しんだ。あるいは妖怪が姿を変じているのではないかと疑って、厳重にかの女を
拷問すると、老女は苦しい息のもとで答えた。
「わたくしは一種の
咒文を知っていまして、それを念じると能く異鳥に化けることが出来ますので、夜のふけるのを待って飛び出して、すでに数百人の子供の脳を食いました」
李公は大いに怒って、すぐにかの女をくくりあげ、薪を積んで生きながら
焚いてしまった。その以来、都に驚風を病む小児が絶えた。