秦の毛人
湖広に
房山という高い山がある。山は甚だ嶮峻で、四面にたくさんの洞窟があって、それがあたかも
房のような形をなしているので、房山と呼ばれることになったのである。
その山には
毛人という者が棲んでいる。身のたけ一丈余で、全身が毛につつまれているので、人呼んで毛人というのである。この毛人らは洞窟のうちに棲んでいるらしいが、時どきに里へ降りて来て、人家の
や犬などを捕り
啖うことがある。迂闊にそれをさえぎろうとすると、かれらはなかなかの大力で、大抵の人間は投げ出されたり、
撲り付けられたりするので、手の着けようがない。弓や鉄砲で撃っても、矢玉はみな跳ねかえされて地に落ちてしまうのである。
しかも昔からの言い伝えで、毛人を追い
攘うには一つの方法がある。それは手を
拍って、大きな声で
囃し立てるのである。
「長城を築く、長城を築く」
その声を聞くと、かれらは狼狽して山奥へ逃げ込むという。
新しく来た役人などは、最初はそれを信じないが、その実際を見るに及んで、初めて成程と
合点するそうである。
長城を築く――毛人らが
何故それを恐れるかというと、かれらはその昔、
秦の
始皇帝が万里の長城を築いたときに駆り出された
役夫である。かれらはその工事の
苦役に堪えかねて、同盟脱走してこの山中に逃げ籠ったが、歳久しゅうして死なず、遂にかかる怪物となったのであって、かれらは今に至るも築城工事に駆り出されることを深く恐れているらしく、人に逢えば長城はもう出来あがってしまったかと
訊く。その弱味に付け込んで、さあ長城を築くぞと囃し立てると、かれらはびっくり敗亡して、たちまちに姿を隠すのであると伝えられている。
秦代の法令がいかに厳酷であったかは、これで想いやられる。
帰安の魚怪
明代のことである。
帰安県の
知県なにがしが赴任してから半年ほどの後、ある夜その妻と同寝していると、夜ふけてその門を叩く者があった。知県はみずから起きて出たが、暫くして帰って来た。
「いや、人が来たのではない。風が門を揺すったのであった」
そう言って彼は再び寝床に就いた。妻も別に疑わなかった。その後、帰安の一県は大いに治まって、獄を断じ、
訴えを
捌くこと、あたかも
神のごとくであるといって、県民はしきりに知県の功績を賞讃した。
それからまた数年の後である。有名の道士
張天師が帰安県を通過したが、知県はあえて出迎えをしなかった。
「この県には妖気がある」と、張天師は眉をひそめた。そうして、知県の妻を呼んで聞きただした。
「お前は今から数年前の何月何日の夜に、門を叩かれたことを覚えているか」
「おぼえて居ります」
「現在の
夫はまことの夫ではない。年を経たる
黒魚(
鱧の種類)の精である。おまえの夫はかの夜すでに黒魚のために食われてしまったのであるぞ」
妻は大いにおどろいて、なにとぞ夫のために仇を報いてくだされと、天師にすがって嘆いた。張天師は壇に登って法をおこなうと、果たして長さ数丈ともいうべき大きい黒魚が、正体をあらわして壇の前にひれ伏した。
「なんじの罪は
斬に当る」と、天師はおごそかに言い渡した。「しかし知県に化けているあいだにすこぶる善政をおこなっているから、特になんじの死をゆるしてやるぞ」
天師は大きい
甕のなかにかの魚を押し籠めて、神符をもってその口を封じ、
県衙の土中に埋めてしまった。
そのときに、魚は甕のなかからしきりに哀れみを乞うと、天師はまた言い渡した。
「今は
赦されぬ。おれが再びここを通るときに放してやる」
張天師はその後ふたたび帰安県を通らなかった。
狗熊
清の
乾隆二十六年のことである。
虎に乞食があって一頭の
狗熊を養っていた。熊の大きさは
川馬のごとくで、
箭のような毛が森立している。
この熊の不思議は、物をいうことこそ出来ないが、筆を執って能く字をかき、よく詩を作るのである。往来の人が一銭をあたえれば、飼いぬしの乞食がその熊を見せてくれる。さらに百銭をあたえて白紙をわたせば、飼い主は彼に命じて唐詩一首を書かせてくれる。まことに不思議の芸であった。
ある日、飼い主が外出して、
獣だけ独り残っているところへ、ある人が行って例のごとくに一枚の紙をあたえると、熊は詩を書かないで、思いも寄らないことを書いた。
自分は
長沙の人で、姓は
金、名は
汝利というものである。若いときにこの乞食に
拐引されて、まず唖になる薬を飲まされたので、物をいうことが出来なくなった。その家には一頭の狗熊が飼ってあって、自分を赤裸にしてそれと一緒に生活させ、それから細い針を用いて自分の全身を隙間なく突き刺して、熱血淋漓たる時、一方の狗熊を殺してその
生皮を剥ぎ、すぐに自分の肌の上を包んだので、人の生き血と熊の生き血とが一つに
粘り着いて、皮は再び剥がれることなく、自分はそのままの狗熊になってしまった。それを鉄の鎖につないで、こうして芸を売らせているので、
今日までにすでに幾万貫の銭を儲けたであろう。何をいうにも口を利くことが出来ないので、おめおめと彼に引き廻されているのである。
これを書き終って、熊はわが口を指さして、血の涙を雨のごとくに流した。
観るひと大いにおどろいて、その書いたものを証拠に訴え出ると、飼い主の乞食はすぐに捕われて、すべてその通りであると白状したので、かれは立ちどころに杖殺され、狗熊の金汝利は長沙の故郷へ送り還された。
人魚
著者の甥の
致華という者が
淮南の分司となって、
四川の
※州[#「くさかんむり/(止+(自/儿)+氾のつくり)/夂」、312-2]城を過ぎると、往来の人びとが何か気ちがいのように騒ぎ立っている。その
子細をきくと、或る村民の妻
徐氏というのは平生から非常に夫婦仲がよかったが、昨夜も夫とおなじ床に眠って、けさ早く起きると、彼女のすがたは著るしく変っていた。
徐氏の顔や髪や肌の色はすべて元のごとくであるが、その下半身がいつか魚に変ってしまったのである。乳から下には
鱗が生えてなめらかになまぐさく、普通の魚と同様であるので、夫もただ驚くばかりで、どうする
術も知らなかった。妻は泣いて語った。
「ゆうべ寝る時分には別に何事もなく、ただ下半身がむず
痒いので、それを掻くとからだの皮が次第に逆立って来たようですから、おそらく
痺癬でも出来たのだろうかと思っていました。すると、
五更ののちから両脚が自然に食っ付いてしまって、もう伸ばすことも縮めることも出来なくなりました。撫でてみると、いつの間にか魚の尾になっているのです。まあ、どうしたらいいでしょう」
夫婦はただ抱き合って泣くばかりであるという。
致華はその話を聞いて、試みに供の者を走らせて
実否を見とどけさせると、果たしてそれは事実であると判った。但し致華は官用の旅程を急ぐ身の上で、そのまま出発してしまったために、人魚ともいうべき徐氏をどう処分したか、彼女を魚として河へ放すことにしたか、あるいは人として家に養って置くことにしたか、それらの結末を知ることが出来なかったそうである。
金鉱の妖霊
乾※子[#「鹿/几」、313-3]というのは、人ではない。人の死骸の
化したるもの、すなわち前に書いた
僵尸のたぐいである。雲南地方には金鉱が多い。その鉱穴に入った坑夫のうちには、土に圧されて生き埋めになって、あるいは数十年、あるいは百年、土気と金気に養われて、形骸はそのままになっている者がある。それを乾※
[#「鹿/几」、313-6]子と呼んで、普通にはそれを死なない者にしているが、実は死んでいるのである。
死んでいるのか、生きているのか、甚だあいまいな乾※
[#「鹿/几」、313-8]子なるものは、時どきに土のなかから出てあるくと言い伝えられている。鉱内は夜のごとくに暗いので、穴に入る坑夫は
額の上にともしびをつけて行くと、その光りを見てかの乾※
[#「鹿/几」、313-10]子の寄って来ることがある。かれらは人を見ると非常に喜んで、
烟草をくれという。烟草をあたえると、立ちどころに喫ってしまって、さらに人にむかって一緒に連れ出してくれと頼むのである。その時に坑夫はこう答える。
「われわれがここへ来たのは金銀を求めるためであるから、このまま手をむなしゅうして帰るわけにはゆかない。おまえは金の
蔓のある所を知っているか」
かれらは承知して坑夫を案内すると、果たしてそこには大いなる金銀を見いだすことが出来るのである。そこで帰るときには、こう言ってかれらを
瞞すのを例としている。
「われわれが先ず上がって、それからお前を
籃にのせて吊りあげてやる」
竹籃にかれらを入れて、縄をつけて中途まで吊りあげ、不意にその縄を切り放すと、かれらは土の底に墜ちて死ぬのである。ある情けぶかい男があって、
瞞すのも不憫だと思って、その七、八人を穴の上まで正直に吊りあげてやると、かれらは外の風にあたるや否や、そのからだも着物も見る見る
融けて水となった。その臭いは鼻を衝くばかりで、それを嗅いだ者はみな疫病にかかって死んだ。
それに懲りて、かれらを入れた籃は必ず途中で縄を切って落すことになっている。最初から連れて行かないといえば、いつまでも付きまとって離れないので、いつもこうして瞞すのである。但しこちらが大勢で、相手が少ないときには、押えつけ縛りあげて土壁に
倚りかからせ、四方から土をかけて塗り固めて、その上に燈台を置けば、ふたたび祟りをなさないと言い伝えられている。
それと反対に、こちらが小人数で、相手が多数のときは、死ぬまでも絡み付いていられるので、よんどころなく前にいったような方法を取るのである。