二
それから二日経って、玉藻のもとへ左少弁兼輔の使いが来た。彼はこのあいだの約束を果たすために、あすは法性寺へ誘いあわせて詣ろうというのであった。玉藻は承知の返し文(ぶみ)をかいた。そのあくる日、彼女は主人の許しを受けて、兼輔と一緒に法性寺へ参詣した。 その日は薄く陰っていて、眠たいような空の下に大きい寺の甍(いらか)が高く聳えていた。門をくぐると、長い石だたみのところどころに白い花がこぼれて、二、三羽の鳩がその花びらをついばむようにあさっていた。 叔父と甥との打ち解けた間柄であるので、兼輔はすぐに奥の書院へ通されて、隆秀阿闍梨とむかい合って坐った。阿闍梨はもう六十に近い老僧で、関白家建立のお寺のあるじには不似合いの質素な姿であったが、高徳の聖(ひじり)と一代に尊崇されるだけの威厳がどこやらに備わって、打ち解けた仲でも兼輔の頭はおのずと下がった。 「左少弁どの、久しゅう逢わなんだが、変わることものうてまずは重畳(ちょうじょう)じゃ。きょうは一人かな」 「いや」と、言いかけて兼輔は少し口ごもった。 「連れがあるか」と、阿闍梨は俄に気がついたように甥の顔をきっと見た。「お身のつれは女子(おなご)でないか」 星をさされて、兼輔はいよいよ怯(ひる)んだが、叔父にいやな顔をされるのはもとより覚悟の上であるので、彼はかくさず答えた。 「余人でもござりませぬ。関白殿御内(みうち)に御奉公する、玉藻という女子でござりまする」 関白殿をかさに被(き)て、彼はかたくなな叔父をおさえつけようとしたが、それは手もなく刎ね返されてしまった。 「たとい御内の御仁(ごじん)であろうとも、わしは女子に逢わぬことに決めている。対面はならぬと伝えてくりゃれ。それは関白殿にもよう御存じの筈じゃ」 ふだんはともあれ、きょうの兼輔はそれでおめおめと引き退がるわけにはいかなかった。かれは玉藻に教えられた提婆品(だいばぼん)を説いた。八歳の龍女当下(とうげ)に成仏の例(ためし)をひいて、たとい罪業のふかい女人(にょにん)にもあれ、その厚い信仰にめでて、一度は対面して親しく教化をあたえて貰いたいと、しきりに繰り返して頼んだ。しかし叔父は石のように固かった。 「いかに口賢(くちさかし)う言うても、ならぬと思え。面会無用じゃとその女子に言え」 「叔父さまはその女子を御存じない故に、世間の女子と一つに見て蛇(じゃ)のようにも忌み嫌わるるが、かの玉藻と申すは……」 「いや、聞かいでも大方は知っている。世にも稀なる才女じゃそうな。才女でも賢女でも我らの眼から見たら所詮(しょせん)は唯の女子とかわりはない。逢うても益ない。逢わぬが優(ま)しじゃ」 なんと言っても強情に取り合わないので、兼輔も持て余した。今更となって自分の安受け合いを後悔した彼は、玉藻にあわせる顔がないと思った。といって、この頑固(かたくな)な叔父を説き伏せるのは、なかなか容易なことではないので、彼も途方にくれて窃(ひそ)かに溜息をついていると、遠い入口に待たせてあるはずの玉藻がいつの間にここまで入り込んで来たのか、板縁伝いにするりと長い裳(もすそ)をひいて出た。 兼輔はすこし驚いた。阿闍梨は眼を据えて、今ここへ立ち現われた艶女(たおやめ)の姿をじっと見つめていると、玉藻はうやうやしくそこに平伏した。 「はじめてお目見得つかまつりまする」 老僧は会釈もしなかった。彼はしずかに数珠を爪繰っていた。 「委細は左少弁殿からお願い申し上げた通りで、あまりに罪業(ざいごう)の深い女子の身、未来がおそろしゅうてなりませぬ。自他平等のみ仏の教えにいつわりなくば、何とぞお救いくださりませ」と、玉藻は哀れみを乞うように訴えた。 彼女は物詣でのためにきょうは殊更に清らかに粧(つく)っていた。紅や白粉(おしろい)もわざと淡(うす)くしていた。しかもそれが却って彼女の艶色を増して、玉のような面(おもて)はいよいよその光りを添えて見られた。堪えられぬ人間の悲しみを優しいまなじりにあつめたように、彼女はその眼をうるませて阿闍梨の顔色を忍びやかに窺ったときに、老僧の魂(たま)の緒(お)も思わずゆらいだ。彼は生ける天女のようなこの女人を、無下(むげ)に叱って追い返すに忍びなくなった。 「お身、それほどにも教化を受けたいと望まるるのか」と、阿闍梨は声をやわらげて言った。 玉藻は無言で手をあわせた。彼女の白い手首にも水晶の数珠が光っていた。 「して、これまでに経文(きょうもん)など読誦(どくじゅ)せられたこともござるかな」と、阿闍梨はまた訊いた。 もとより何のわきまえのない身ではあるが、これまで経文の片端ぐらいは覗いたこともあると、玉藻は臆せずに答えた。阿闍梨は試みに二つ三つの問いを出してみると、彼女は一いち淀みなしに答えた。さらに奥深く問い進んでゆくと、彼女の答えはいよいよ鮮かになった。いかに執心といっても所詮(しょせん)は女子である。殊に見るところが年も若い。自分たちが五十六十になるまでの苦しい修業を積んで、ようようにこのごろ会得(えとく)した教理をいつの間にどうして易(やす)やすと覚ったのか。阿闍梨は彼女を菩薩の再来ではないかとまでに驚き怪しんだ。世にはこうした女子もある。今までいちずに女人を卑しみ、憎み、嫌っていたのは、自分の狭い眼(まなこ)であったことを、阿闍梨はきょうという今日つくづく覚って、おもわず長い溜息をついた。 「さるにてもお身、何人(なんぴと)に就いてこれほどの修業を積まれしぞ」 玉藻は幼いころから父に教えられて経文を読み習った。それから清水寺の或る僧に就いて少しばかりは学んだ。そのほかには、別にこうという修業を積んだこともなくてお恥ずかしいと言った。 「わたくしのような修業のあさい者にも、ひじりの教えをうけたまわることがなりましょうか」 「なる、なる」と、阿闍梨は幾たびかうなずいた。「たとい女人ともあれ、お身ほどの御仁なら我ら求めても法を説き聞かせたい。御奉公の暇々(ひまひま)にはたずねて参られい」 思いのほかに叔父の機嫌が直ったので、そばに聴いている兼輔もほっとした。彼はこれほどの才女を叔父に紹介したということに就いて一種の誇りを覚えた。それと同時に、日ごろ頑固(かたくな)な叔父の鼻を捻(ね)じ折ったような一種の愉快をも感じた。彼は口の上の薄い髭を撫でながらほくそえんだ。 「叔父上、今からはこのみ寺にも女人禁制の掟(おきて)が解かれましょうな」 「それは人による」と、阿闍梨もほほえんだ。「これほどの女人がほかにあろうか」 言いかけて、彼は玉藻と眼をみあわせると、血の枯れた老僧の指先はおのずとふるえて、数珠はさらさらと音するばかりに揺れた。玉藻の顔色にばかり眼をつけていた兼輔はそれに気がつかないらしかった。 「では、かさねて参ります。かならずお逢いくだりませ」 又の日を約束して、玉藻は阿闍梨の前を退がった。兼輔も一緒に立った。阿闍梨は縁まで出ていつまでも見送っていたが、枯木のような彼は急に若やいだ心持になって、総身の血汐が沸くように感じられた。彼は燃えるような眼をあげて夢ごころに陰った空を仰いでいると、なま暖かい春風が法衣(ころも)をそよそよと吹いた。何とは知らず、彼は幾たびか溜息をついて、酔ったような足どりで本堂の方へゆくと、昼でも薄暗い須弥壇(しゅみだん)の奥には蝋燭の火が微かにゆらめいて、香の煙りがそこともなしに立ち迷っていた。その神秘的の空気のうちに、阿闍梨はだまって坐った。 彼はいつものように観音経を誦(ず)し出そうとしたが、不思議に喉(のど)が押し詰まったようで、唱え馴れた経文がどうしても口に出なかった。胸は怪しくとどろいてきた。ふと見上げると、正面の阿弥陀如来の尊いお顔がいつの間にか玉藻のあでやかなる笑顔と変わっていた。阿闍梨は物に憑(つ)かれたようにわなわなと顫(ふる)え出した。彼はもう堪まらなくなって、物狂おしいほどの大きい声で弟子の僧たちを呼びあつめた。 「すこし子細がある。お身たち一度に声をそろえて高らかに観音経を唱えてくりゃれ」 大勢の僧は行儀よく居並んだ。読経(どきょう)の高い声は一斉に起こった。数珠の音もさらさらと響いた。それに誘い出されて、阿闍梨も共に声を張り上げようとしたが、彼の舌はやはりもつれて自由に動かなかった。彼の胸は不思議に高い浪を打った。 「蝋燭を増せ。香を焚け」 彼は苦しい声を振り絞ってまた叫んだ。蝋燭の数は増されて、須弥壇(しゅみだん)はかがやくばかりに明るくなった。阿弥陀如来の尊像はくすぶるばかりの香りの煙りにつつまれた。その渦まく煙りのなかに浮き出している円満具足(ぐそく)のおん顔容(かんばせ)は、やはり玉藻の笑顔であった。阿闍梨は数珠を投げすてて跳り上がりたいほどに苛(いら)いらしてきた。彼のひたいからは膏汗(あぶらあせ)がたらたら流れた。 「銅鑼(どら)を打て。鐃鉢(にょうばち)を鳴らせ」 いろいろの手段によって漲(みなぎ)り起こる妄想を打ち消そうとあせったが、それもこれも無駄であった。あせればあせるほど、彼の道心(どうしん)をとろかすような強い強い業火(ごうか)は胸いっぱいに燃え拡がって、玉藻のすがたは阿闍梨の眼先きを離れなかった。日ごろ嘲り笑っていた志賀寺(しがでら)の上人(しょうにん)の執着も、今や我が身の上となったかと思うと、阿闍梨はあまりの浅ましさと情けなさに涙がこぼれた。庭の上にも阿闍梨の涙とおなじような雨がほろほろと降ってきた。 彼は法衣(ころも)の袖に涙を払って、もう一度恐る恐るみあげると、如来のお顔はやはり美しい玉藻であった。一代の名僧の尊い魂はこうして無残にとろけていった。
三
「きょうはきついお世話でござりました」 法性寺の門を出ると、玉藻は兼輔に言った。兼輔もきょうの首尾を嬉しく思った。 「頑固(かたくな)な叔父御もお身に逢うてはかなわぬ。まして初めから魂のやわらかい我らじゃ。察しておくりゃれ」 彼は玉藻に肩をすり寄せて、女の髪の匂いを嗅(か)ぐように顔を差しのぞいてささやくと、玉藻は顔をすこし赤らめてほほえんだ。 「又そのようなことを言うてはお弄(なぶ)りなさるか。その日の風にまかせて、きょうは東へ、あすは西へ、大路(おおじ)の柳のように靡(なび)いてゆく、そのやわらかい魂が心もとない。なにがしの局(つぼね)、なにがしの姫君と、そこにも此処にも仇(あだ)し名を流してあるく浮かれ男(お)のお身さまと、末おぼつかない恋をして、わが身の果ては何となろうやら」 「なんの、なんの」と、男は小声に力をこめて言った。「むかしは昔、今は今じゃ。兼輔の恋人はもうお身ひとりと決めた。鴨川の水がさかさに流るる法もあれ、お身とわれらとは尽未来(じんみらい)じゃ」 「それが定(じょう)ならばどのように嬉しかろう。その嬉しさにつけても又一つの心がかりは、数ならぬわたくしゆえにお身さまに由(よし)ない禍いを着(き)しょうかと……」 「由ない禍い……。とはなんじゃ」 玉藻は黙ってうつむいていると、兼輔はやや得意らしく又訊いた。 「お身と恋すれば他(ひと)の妬(ねた)みを受くる……それは我らも覚悟の前じゃ。諸人に妬まるるほどで無うては恋の仕甲斐がないともいうものじゃ。妬まるるは兼輔の誉(ほま)れであろうよ。それがために禍いを受くるも本望……と我らはそれほどまでに思うている。恋には命も捨てぬものかは」 「そりゃお身の言わるる通りじゃ」と、玉藻は低い溜息をついた。「じゃというて、お身さまに禍いの影が蛇のように付きまとうているのを、どうしてそのままに見ていらりょう」 「じゃによって訊いている。その禍いの影とはなんじゃ。禍いの源はいずこの誰じゃ」 「少将どのじゃ」 「実雅(さねまさ)か」と、兼輔は眼をみはった。 少将実雅はかねて自分に恋していたと玉藻は語った。恋歌(こいか)も艶書(えんしょ)も千束(ちつか)にあまるほどであったが、玉藻はどうしてもその返しをしないので、実雅はしまいにこういう恐ろしいことを言って彼女をおびやかした。自分の恋を叶えぬのはよい。その代りにもしお身が他の男と恋したのを見つけたが最後、かならずその男を生けては置かぬ。実雅は彼と刺し違えても死んで見するぞと言った。殿上人とはいえ、彼は代々武人である。殊にいちずの気性であるから、それほどのこともしかねまい。自分が兼輔のために恐れているのはその禍いであると、玉藻は声をひそめて話した。 そう言われると思い当たることがないでもない。現に関白殿の花の宴(うたげ)のゆうべに、彼は自分と玉藻との語らいをぬすみ聴いていたらしく、それを白状せよと迫って土器(かわらけ)をしい付けた。そのとき彼はなにげなく笑っていたが、その笑みの底には刃(やいば)を含んでいたかもしれない。こっちの返事次第で或いは刺し違える料簡であったかもしれない。こう思うと、兼輔は俄にぞっとした。気の弱い彼は、もう実雅に胸倉をとられて、氷のような刃を突き付けられたようにも感じられた。 二人はしばらく黙って、九条の河原を北にむかって辿ってゆくと、うす暗い空をいよいよ暗く見せるような糺(ただす)の森が、眼のさきに遠く横たわっていた。聖護院(しょうごいん)の森ももう夏らしい若葉の黒い影に掩われていた。ほととぎすでも啼(な)きそうなという心で、二人は空へ眼をやると、その眉の上に細かい雨のしずくが音もなしに落ちてきた。 「ほう、降ってきたか」 兼輔は牛車(ぎっしゃ)に乗って来なかったのを悔んだ。恋しい女と連れ立ってゆく物詣(ものもう)でには、かえって供のない方が打ち寛(くつろ)いでよいとも思ったので、きょうはわざと徒歩(かち)で来たのであるが、この俄雨に逢って彼はすこし当惑した。自分はともあれ、玉藻を濡らしたくないと思ったので、彼は扇をかざしながらあたりを見まわした。 「しばらく此処(ここ)に待たれい。強く降らぬ間に笠を求めてまいる」 河原の柳の下蔭に玉藻をたたずませて置いて、彼は人家のある方へ小走りに急いで行った。雨の糸はだんだんに繁くなって、彼の踏んでゆく白い石の色も変わってきた。玉藻は薄い被衣(かつぎ)を深くかぶって、濡れた柳の葉にその細い肩のあたりを弄(なぶ)らせながら立っていると、これも俄雨に追われたのであろう。立烏帽子のひたいに直衣(のうし)の袖をかざしながら急ぎ足にここを通り過ぎる人があった。彼は柳のかげに佇(たたず)んでいる女の顔を横眼に見ると、ひき戻されたように俄に立ち停まった。 玉藻もその人と顔をみあわせた。彼は千枝松であった。しばらく見ないうちに彼はもう立派な男になって、その男らしい顔がいよいよ男らしくなっていた。彼が昔の烏帽子折りでないことは、その清げな扮装(いでたち)を見てもすぐに覚られた。 しかし千枝松は黙って立っていた。玉藻も黙って眼を見合っていた。 「藻でないか」と、しばらくして男は声をかけながら近寄った。 藻と千枝松は四年振りでめぐり逢ったのである。勿論、男の方では女の消息をみな知っていた。関白どのに召されて寵愛を一身にあつめて、玉藻の前と世の人びとに持て囃(はや)されていることは、彼の耳にも眼にも触れていた。しかもこうして顔を突きあわせて、親しく物を言いかけるのは実に四年目であった。怨めしいと懐かしいとが一つにもつれ合って、かれは容易にことばも出なかったのである。 むかしの我が名を呼びかけられても、玉藻は返事もしなかった。千枝松はまたひと足進み寄って言った。 「玉藻の前と今ではお言やるそうな。幼な馴染みの千枝松をよもや忘れはせられまいが……」 「久しゅう逢いませぬ」と、玉藻もよんどころなしに答えた。 「お身の出世は蔭ながら聞いている。果報(かほう)めでたいことじゃ」 めでたいという詞(ことば)の裏には一種の怨みを含んでいるらしいのを、相手は覚らないように軽くほほえんだ。 「ほほ、羨まるるほどの果報でもござらぬ。お前がむかしの意見も思い当たった。上(うえ)つかたの御奉公もなかなか辛い苦しいもの、察してくだされ。して、こなたはやはり叔父御と一つに暮らしていやるのか」 「いや、わしは烏帽子折りの職人をやめて、日本じゅうに隠れのないお人のお弟子になった」と、千枝松は誇るように答えた。 「そのお師匠さまはなんというお人じゃ」 「陰陽師(おんみょうじ)の播磨守泰親どのじゃ」 「おお、安倍泰親(あべのやすちか)どのか」 玉藻の顔色はさっと変わったが、忽ちもとにました柔らかい笑顔にかえった。 「それは仕合わせなこと。おまえは堅い生まれ付きじゃで、よいお師匠をもたれたら、行く末の出世は見るようじゃ。して、お前も男になって、今もむかしの名を呼ばれてござるのか」 「千枝松という名はあまりに稚(おさな)げじゃと仰せられて、お師匠さまが千枝太郎と呼びかえて下された。しかも泰親の一字を分けて、元服の朝から泰清(やすきよ)と呼ばるるのじゃ」 「千枝太郎泰清……ほんに立派な名乗じゃ。名もかわれば人柄も変わって、むかしの千枝ま[#「ま」に傍点]とは思われぬ」と、玉藻もさすがに懐かしそうに、むかしの友達の大人びた姿を眺めていた。 藻に捨てられた悲しみと、病いにさいなまるる苦しみとに堪えかねて、千枝松は若い命を水の底に沈めようとしたのであったが、運の強い彼は通りかかった泰親に救われた。泰親は彼を憫れんだ。ことに彼の慧(さか)しげなのを見て、泰親は叔父夫婦にも子細をうちあけて、彼を自分の弟子として取り立ててみたいと言った。都はおろか、日本(にっぽん)じゅうに隠れのない、名家の弟子のかずに入ることは身のほまれであると、千枝松は涙をながして喜んだ。叔父たちにも異存はなかった。 禍いが却って福となった烏帽子折りの少年は、それから泰親の門に入って、天文を習った。卜占(うらない)を学んだ。さすがは泰親の眼識(めがね)ほどあって、年にも優(ま)して彼の上達は実に目ざましいもので、明けてようよう十九の彼は、ほかの故参の弟子どもを乗り越えて、やがては安倍晴明以来の秘法という悪魔調伏(ちょうぶく)の祈りをも伝えらるるほどになった。彼は泰親が秘蔵弟子の一人であった。 それほどの事情を詳しく知らないまでも、むかしの千枝ま[#「ま」に傍点]が今は千枝太郎泰清と名乗っていることが、玉藻に取っては意外の新発見であるらしかった。彼女はこの昔の友に対して、過去の罪を悔むような打ちしおれた気色(けしき)をみせた。 「のう、千枝太郎どの。お前はさぞ昔の藻を憎い奴と思うでござろうのう。わたしもまだその頃は幼な心の失(う)せいで、お宮仕えの、御奉公のと唯ひと筋にあこがれて、お前を振り捨てて都へ上(のぼ)ったが、くどくも言う通り御奉公は辛い切(せつ)ないもの、山科の田舎で気ままに暮らした昔が思い出されて、今更しみじみ懐かしい。お前とてもそうであろう。泰親殿は気むずかしい、弟子たちの躾(しつ)けかたもきびしいお人じゃと聞いている。朝夕の奉公に定めて辛いことも数(かず)かずあろう。出世の、果報のと羨まれても、それがなんの身の楽になることか。おたがいに辛いうき世じゃ」 昔を忍ぶようにしみじみと託(かこ)たれて、千枝太郎もなんだか寂しい心持になった。女に対する年ごろの積もる怨みは次第に消えて、彼はいつかその人を憫れむようになって来た。彼はもう執念深く彼女を責める気にもなれなかった。 「父御(ててご)はあの明くる年に死なれたそうな」と、彼は声を沈ませて言った。 「おお、御奉公に出た明くる年の春の末じゃ。関白殿のお指図で典薬頭(てんやくのかみ)が方剤(ほうざい)を尽くして、いろいろにいたわって下されたが、人の命数は是非ないものでのう」と、玉藻も今更のように眼をうるませた。 「お師匠さまが山科の家の門(かど)に立って、これは凶宅じゃ、住む人の命は保(も)つまいと言われたが、その卜占(うらない)はたしかにあたった」 「お師匠さまはそのように申されたか」と、玉藻の瞳はまた動いたが、やがて感嘆の太息(といき)をついた。「卜占に嘘はない。お師匠さまは神のようなお人じゃ」 「それは世にも隠れのないことじゃ。四年このかた、わしもおそばに仕えて何もかも知っているが、お師匠さまが空を見て雨ふるといえばきっと降る。風ふくといえばきっと吹く。あつい襖を隔てて他人(ひと)のすること一から十まで言い当てらるる。お師匠さまが白紙(しらかみ)を切って、印をむすんで庭に投げられたら、大きい蟆(ひき)めがその紙に押しつぶされて死んでしもうた」 玉藻はおそろしそうに身をすくめた。 しだれた柳の葉は川風にさっとなびいて、雨のしずくをはらはらと振り落とすのを、千枝太郎は袖で払いながら又言った。 「現にきょうもじゃ。お師匠さまは雨具の用意してゆけと言われたを、近い路じゃと油断して、そのままに出て来ると直ぐにこれじゃ。ほんに思えばおそろしい」 「お前もその怖ろしい人にならるるのか」と、玉藻はあやぶむように男の顔をじっと見つめた。 「おそろしいのでない。まことに尊いのじゃ。わしもせいぜい修業して、せめてはお師匠さまの一の弟子になろうと念じている」 「それもよかろう。じゃが……」 玉藻はなにか言い出そうとして、ふと向こうを見やると、二つの笠を持った兼輔が河原づたいに横しぶきのなかを駈けて来た。 「おお、わたしの連れが笠を借りて戻った。千枝太郎殿、また逢いましょうぞ」 言う間(ひま)に兼輔はもう近づいた。柳の雨に濡れて立つ美女を前にして、若い公家と若い陰陽師とは妬ましそうに眼をみあわせた。
采女(うねめ)
一
千枝太郎泰清は柳の雨にぬれて帰った。播磨守泰親の屋敷は土御門(つちみかど)にあって、先祖の安倍晴明以来ここに年久しく住んでいた。 「唯今戻りました」 「ほう、いこう濡れて来た。笠を持たずにまいったな」と、泰親は自分の前に頭をさげた若い弟子の烏帽子をみおろしながらほほえんだ。 「おことばにそむいて笠を用意せずに出ました」と、千枝太郎は恐れ入ったように再び頭をさげた。 「いや、懲(こ)るるのも修業の一つじゃよ」 事もなげに又笑った泰親の優しげな眼の色は見るみる陰った。彼は扇を膝に突き立てて、弟子の顔を睨むように見つめた。 「お身は途中で誰に行き逢うた」 千枝太郎はぎょっとした。しかも何事にも見透しの眼を持っている、神のような師匠の前で、彼はいつわりを言うべきすべを知らなかった。彼は河原で玉藻の藻(みくず)に偶然出逢ったことを正直に白状すると、泰親は低い溜息をついた。 「わしもそう見た。お身は再び怪異(あやかし)に憑かれたぞ。心(こころ)せい」 言い知れない恐怖におそわれて、千枝太郎は息をつめて身を固くしていると、泰親はあわれむように、また諭(さと)すように言い聞かせた。 「お身はあやかしに一度憑(つ)かれて、危うく命を亡(うしな)おうとしたことを今も忘れはせまい。その後は一心に修業を積んで、年こそ若けれ、ゆくゆくは泰親の一の弟子とも頼もしゅう思うていたに、きょうは俄にお身の相好(そうごう)が変わって見ゆる。みだりに嚇(おど)かすと思うなよ。お身のおもてには死の相がありありと現われているとは知らぬか。お身をいとしいと思えばこそ、泰親かねて存ずる旨をひそかに言うて聞かすが、誓って他言無用じゃぞ」 くれぐれも念を押しておいて、泰親は日ごろ自分の胸にたくわえている一種の秘密を打ち明けた。それはかの玉藻の身の上であった。泰親はさきに山科の玉藻の住家を凶宅とうらなって、それからだんだん注意していると、玉藻という艶女(たおやめ)は形こそ美しい人間であれ、その魂には怖ろしいあやかしが宿っている。悪魔が彼女の体内に隠れ棲んでいる。それを知らずに、関白殿は彼女を身近う召し出されて、並なみならぬ寵愛を加えられている。その禍いが関白殿の一身一家にとどまれば未(ま)だしものことであるが、悪魔の望みは更にそれよりも大きい。それからそれへと禍いの種をまき散らして、やがてはこの日本を魔界の暗黒に堕(おと)そうと企てているのである。――こう話してきて、泰親は一段とその声をおごそかにした。 「お身に心せいというのはこのことじゃ。広い都にかの女性(にょしょう)を唯者(ただもの)でないと覚っているものは、この泰親のほかにまだ一人ある。それは少納言の信西入道殿じゃ。かの御仁(ごじん)も天文人相に詳しいので、とかくに彼女(かれ)を疑うて、さきの日わしに行き逢うた折りにもひそかに囁かれたことがある。関白殿はもうかれに魂を奪われていれば、とても一応や二応の御意見で肯(き)かりょうとも思われぬが、唯ひとつの頼みは弟御の左大臣殿じゃ。信西入道からかの殿に申し勧めて、玉藻をまず関白殿の屋形から遠ざけ、さてその上で悪魔調伏の秘法を行ない、とこしえに禍いの種を八万奈落の底に封じ籠めてしまわねばならぬ。その折柄(おりから)にお身がうかうかと再びその悪魔に近づいて、なにかの秘密を覚られたら我われの苦心も水の泡じゃ。悪魔は人間よりも賢い。それと覚ったら又どのような手だてをめぐらそうも知れぬ。きょうは自然のめぐりあいで、まことに余儀ない破目(はめ)であるが、これを機縁に再び彼女(かれ)と親しゅうするなど夢にもならぬことじゃと思え。この教えに背いたらお身の命はかならず亡ぶる。きっと忘れまいぞ」 「ありがたい御教訓、胆(きも)にこたえて決して忘れませぬ」と、千枝太郎は尊い師匠の前で立派に誓った。 「わかったかな」と、泰親はまだ危ぶむような眼をしていた。 「判りました」 半分は夢のような心持で、千枝太郎は師匠の前を退がった。自分の部屋へ戻って、彼は机の前に坐ったが、あまりに思いも付かない話をだしぬけに聴かされたので、彼の頭は恐怖と驚異とに混乱してしまった。あの可愛らしい藻、あの美しい玉藻、それに怖ろしい悪魔のたましいが宿っているなどとは、どう考えても信じられない不思議であった。いかに神のようなお師匠さまの眼にも何かの陰翳(くもり)が懸かっているのではあるまいかと、彼も一度は疑った。 しかし、だんだん考え詰めているうちに、いろいろの記憶が彼の胸によみがえってきた。藻はゆくえをくらまして、昔から祟りがあると伝えられている古塚の下に眠っていたこともある。陶器師の婆の話によれば、藻は白い髑髏(されこうべ)をひたいにかざして暗い川端に立っていたこともあるという。しかもそれを話した婆は、やはり古塚のほとりで怪しい死に方をしていた。またそればかりでない。近い頃にも関白殿の花の宴(うたげ)に、玉藻のからだから不思議の光りを放って暗い夜を照らしたという噂もある。それやこれやを取り集めて考えると、玉藻が普通の人間ではないらしいという判断も、決して拠りどころのない空想ではなかった。 「かりにもお師匠さまを疑うたのはわしの迷いであった。玉藻は悪魔じゃ。いつぞやの夢に見た天竺、唐土の魔女もやはり玉藻の化身(けしん)に相違あるまい」 そう気がつくと、千枝太郎は急に身の毛がよだつほどに怖ろしくなった。彼は屋敷に召し使われている女子(おなご)から鏡を借りて来て、自分の顔をつくづくと映してみた。彼は幾たびか眼を据えて透かして視たが、自分の若々しい顔の上から死相を見いだすことは出来なかった。かれは溜息と共に鏡を投げ出した。 「陰陽師、身の上知らずとはこれじゃ」 それにつけても師の泰親は万人にすぐれて偉い、尊い人であると、彼は今更のように感心した。信西入道も偉いと思った。彼は自分の学問未熟を恥ずると共に、師匠や信西を尊敬するの念がいよいよ深くなった。こうした尊い師匠に救われて、親しくその教えをうけているおのれは、いかに幸いであるかということも、しみじみと考えさせられた。 「なんでもお師匠さまのお指図通りにすればよいのじゃ」と、今の彼はこう素直に考えるよりほかはなかった。 実をいえば、さっき河原で玉藻に別れるときに、女はそこへ来あわせた若い公家(くげ)の手前を憚って、口ではなんにも言わなかったが、その美しい眼が明らかに語っていた。それは近いうちに又逢おうという心であることを千枝太郎は早くも覚った。彼もおなじ心を眼で答えて別れた。しかし今となっては、もうそんなことを考えるさえも怖ろしかった。自分はその一刹那から再び怪異(あやかし)に憑かれたのであった。彼はこれから一七日(いちしちにち)の間、斎戒(さいかい)して妖邪の気を払わなければならないと思った。 自分にはお師匠さまという者が付いている――こう思うと、彼は又俄に心強くもなった。未熟な自分の力ではとてもその妖魔に打ち勝つことは覚束ないが、お師匠さまの力を仮りればかならず打ち勝つことが出来る。お師匠さまもまたそれに苦心していられるのであるから、及ばずながらも自分はお師匠さまに力を添えて、ともどもに悪魔調伏に一心を凝らさなければならない。悪魔がほろぶれば自分ひとりの命が救われるなどという小さい事ではない、この日本の国を魔界の暗闇から救うことも出来るのである。彼は一生の勇気を一度に振るい起こして、悪魔と向かい合って闘わなければならないと、強い、強い、健気(けなげ)な雄々しい決心をかためた。彼はその夜の更けるまで机に正しく坐って、一心不乱に安倍晴明以来の伝書の巻を読んだ。 それから十日(とおか)ほど経って、泰親は外から帰ってくると、そっと千枝太郎を奥へ呼んだ。 「法性寺の阿闍梨も気が狂うたそうな」 阿闍梨もという言葉に深い意味が含まれているらしく聞こえたので、千枝太郎は又ぞっとして師匠の顔をみあげると、泰親はさらに説明した。 「思うても怖ろしいことじゃ。お身が河原で玉藻にめぐり逢うたのは、彼女(かれ)が法性寺詣での戻り路であった。左少弁兼輔の案内で、阿闍梨は玉藻に面会せられた。それから後は何とやらん様子が変わって、よそ目には物に憑かれたとも、物に狂うたとも見ゆるとやら。余人はその子細を覚らいで、ただただ不思議のことのように驚き怪しんでいるが、泰親の観るところでは、これもかの悪魔のなす業(わざ)じゃ。まず日本の仏法を亡ぼさんがために碩学高徳の聖僧(ひじり)の魂に食い入って、その道念を掻き乱そうと企てたのであろう。それを知らいで、うかうかとかれの手引きをした左少弁殿も、その行く末はどうあろうのう」 さきの日、河原で出逢った若い公家が左少弁兼輔であることを、千枝太郎は初めて知った。その当時、彼は一種の妬みの眼を以(も)ってその人を見ていたのであるが、今となっては、彼は憫(あわ)れみの眼を以ってその人を見なければならないようになった。 「しかし、恐るるには及ばぬ。泰親はよい時に生まれあわせた。わしの力で悪魔を取り鎮めて、世の暗闇を救うことが出来れば、末代までも家の誉(ほま)れじゃ」 泰親は、力強い声で言った。
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