二
「阿闍梨も気が狂うたそうな」 丁度それと同じ頃に、おなじ詞(ことば)が関白の屋形にある玉藻の口からも洩れた。彼女は兼輔の文(ふみ)によってそれを知ったらしく、その文を繰り返して見入っていた。文は阿闍梨の病気のことを報らせて、自分は今夜その見舞いに法性寺へ参ろうと思うが、お身も一緒にまいらぬかという誘いの文句であった。 阿闍梨と兼輔とは叔父甥の親しい仲である。それが唯ならぬ病いに悩んでいると聞いたらば、何を差しおいても直ぐに見舞うべき筈であるのに、わざわざ女子(おなご)を誘ってゆく。しかも夜を択んでゆく。兼輔の本心が叔父の病気見舞いでないことは見え透いていたが、玉藻は躊躇せずに承知の返事をかいた。しかし若い男がたびたび誘いに来られては、主人の手前、余人の思惑、自分もまことに心苦しいから、四条の河原で待ち合わせてくれと言ってやった。 日の暮れるのを待って、玉藻は屋形を忍んで出た。暦はもう卯月(うづき)に入って、昼間から雨気(あまけ)を含んだ暗い宵であった。その昔、一条戻り橋にあらわれたという鬼女(きじょ)のように、彼女は薄絹の被衣(かつぎ)を眉深(まぶか)にかぶって、屋形の四足門からまだ半町とは踏み出さないうちに、暗い木の蔭から一人の大きい男が衝(つ)と出て来て、渡辺の綱のように彼女の腕をしっかりと掴んだ。 「あれ」 振り放そうともがいても、男はなかなかその手をゆるめなかった。彼は小声に力をこめて言った。 「騒がれな、玉藻の前。暗うても声に覚えがござろう。われらは実雅じゃ」 「おお。少将どのか」と、玉藻はほっとしたらしかった。「わたくしは又、鬼か盗人かと思うて……」 「その鬼よりも怖ろしいかもしれぬぞ」と、実雅は暗いなかであざ笑った。「お身はこの宵にどこへ参らるる」 玉藻は立ちすくんで黙っていた。 「法性寺詣でか、兼輔と連れ舞うて……。はは、何をおどろく。お身たちのすること為(な)すこと、この実雅の耳へはみな筒抜けじゃ。われらが今宵、大納言師道(もろみち)卿の屋形へ歌物語を聴きにまいろうと存じて、四条のほとりへ来かかると、兼輔めが人待ち顔にたたずんでいる。何してじゃと問えば、これから法性寺へ叔父御の見舞いにゆくという。その慌てた口ぶりがどうやら胡乱(うろん)に思われたので、五、六間も行き過ぎて又見返ると、彼はまだ行きもやらじに立ち明かしている。さてはここに連れの人を待ち合わせているのかと思うと、すぐに覚ったは玉藻の御(ご)、お身のことじゃ。それから足を早めてここの門前へ来て、さっきから出入りを窺うていたとは知らぬか。さあ真っ直ぐに言え、白状せられい」と、実雅ははずむらしい息を努めて押し鎮めて、女の細い腕を揺すぶりながら訊いた。 「そう知られては隠しても詮(せん)ないこと。まこと今宵は左少弁殿と言いあわせて、法性寺詣でに忍び出たに相違ござりませぬ」 「むむ。相違ないか」と、大きいからだをふるわせて実雅は唸った。「お身は先月も兼輔めと連れ立って法性寺へまいったというが、確かにそうか」 それも嘘ではないと玉藻は答えた。しかしそれは隆秀阿闍梨の教化をうけたいために兼輔の案内を頼んだので、ほかには別に子細はないと言ったが、実雅は素直にそれは肯(き)き入れなかった。現にこのあいだの花の宴(うたげ)にも、自分は彼と玉藻との密会を遠目に見ている。今更そんなあさはかな拵え事で、自分を欺くことはできまいと又あざ笑った。 「就(つ)いては、少将実雅があらためてお身に訊きたいことがある。お身が実雅の恋をきかぬ以上、あだし男に心をかよわすことはならぬ。もしその約束を破ったら、その男を生けては置かぬと……」 「それもよう覚えております」 実雅の手にすがって、玉藻はさめざめと泣き出した。もうこうなれば何もかも白状するが、実は兼輔に迫られて、自分は彼の恋をいれたのである。勿論、そのときに実雅との約束を楯にして、彼女は必死に断わったのであるが、兼輔はどうしても承知しないで、実雅のような愚か者がなんと言おうとも恐るるには及ばぬ。彼が執念深くぐずぐず言ったら、自分がきっと引き受けて二度とは口を明かせぬようにして見せる。なんの、食(く)らい肥りの貧乏公家が何事をなし得ようぞと、彼はさんざんに実雅を罵って、無理無体に彼女を自分の物にしてしまった。思えば女子は弱いもの、その当座は身も世もあられぬほどに悔み悲しんだが、今となってはもうどうすることも出来ないので、彼が誘うままに今夜もうろうろと屋形をぬけ出して来たのである。さぞ憎かろうが、どうぞ堪忍してくれと玉藻は泣いて訴えた。 「それは定(じょう)か、いつわりないか」と、実雅は苛(いら)いらしながら念を押した。 「なんのいつわりを言いましょう。神かけて……」 「よし。思案がある」 玉藻を突き放して実雅は暗い大路を暴れ馬のように駈けて行った。大きい身体をゆすりながら大股に駈けるのであるから、四条の河原まで行き着いた頃には、ほとんど口も利かれないくらいに息が疲れていたが、それでも柳の下にたたずんでいる人の影を透かし視たときに、彼は喉が裂けるほどの大きい声を振り立てた。 「兼輔、まだそこにか」 また引っ返して来たのかと、兼輔は肚(はら)のなかで舌打ちした。そうして、暗いのを幸いに、黙ってそこをすり抜けて行こうとすると、水明かりで早くもそれと認めた実雅は、これも無言で駈けつけて、彼が直衣の袖を力任せにぐい[#「ぐい」に傍点]と曳いた。たとい平安時代の殿上人にもせよ、実雅はともかくも武人の少将である、しかも力自慢の大男である。その大男に強くひかれて、孱細(かぼそ)い左少弁は意気地もなくへなへなとそこに引き据えられた。 「やい、兼輔。関白殿の花の宴(うたげ)の夜に、おのれひねり潰してくれようと思うていたが、あいにくの嵐に邪魔されて、そのままに助けて置いたをありがたいとも思わずに、女にむかって人もなげなる広言を吐き散らしたそうな。やい、食らい肥りの貧乏公家とは誰がことじゃ。おれの前で、もう一度確かに言え」 「そりゃ無体の詮議じゃ。われら夢にもさようなことを……」と、兼輔はあわてて打ち消そうとするのを、哮(たけ)り立った実雅は耳にもかけないで、嵩(かさ)にかかって又呶鳴った。 「ええ、なにが無体……。おのれは舌がやわらかなるままに、口から出るに任せてさまざまの雑言(ぞうごん)をならべ、この実雅を塵(ちり)あくたのように言いおとしめたことを、おれはみな知っている。ええ、今さら卑怯に言い抜けようとして、おれには確かな証人があるぞ」 「そのような喚讒(かんざん)を誰が言うた」 「おお、玉藻が言うた。おのれは今宵も無理無体に玉藻をここへ誘い出して、法性寺へ行こうでな。憎い奴め」 実雅の拳(こぶし)は兼輔の頬を二つ三つ続けて打った。大力に打たれた兼輔は悲しい声をあげて、子供につかまれた子猫のように、相手の膝の下をくぐって逃げようと這いまわるのを、実雅は足をあげて鞠(まり)のように蹴倒した。こうした散ざんの手籠めに逢って、兼輔もさすがに無念であった。もう一つには、このまま彼の手に囚(とら)われていたら、果てはむごたらしいなぶり殺しに逢おうも知れまいという怖れもまじって、彼は足もとに転げている河原の小石をさぐり取って、相手の顔と思うあたりへ三つ四つ投げ付けた。そのうろたえる隙(すき)をみて、彼は飛び起きて逃げようとするのを、実雅はすぐに追い掛けて再びその襟髪を掴んだ。 嫉妬と憤怒(ふんぬ)にのぼせているところへ、小石の痛い眼つぶしを食わされて、実雅はまったく眼がくらんでしまった。彼は再び恋のかたきを蹴倒して、腰に佩(は)いている衛府(えふ)の太刀に手をかけたかと思うと、闇にきらめいた切っ先は兼輔の烏帽子をはた[#「はた」に傍点]と打ち落として、その小鬢(こびん)を斜めにかすった。 「わッ、人殺しじゃ」 その声の消えないうちに、二度目の太刀さきは兼輔の頸のあたりを横に払ったので、彼は息もせずにそこにぐたりと倒れた。実雅は片足でそれを二、三度揺り動かしてみたが、兼輔は石のように転(まろ)ばったままで、再び身動きをしそうもなかった。 「はは、もろい奴じゃ。おのれその醜態(ざま)で、実雅の悪口いうたか」 彼は勝利の満足をおぼえると同時に、一種の不安と後悔とが急に湧き出して来た。死人に口なしでなんとでも言い訳は出来るようなものの、かりにも左少弁たる人を河原で暗撃(やみう)ちにしたとあっては、後日の詮議が面倒である。憎い奴ではあるが、さすがに殺すまでにも及ばなかったとも悔まれた。今夜の河原は闇である。この闇にまぎれて逸早(いちはや)くここを立ち退いてしまえば、相手は殺され損で、誰にも詮議はかかるまいと思うと、実雅は俄にあとさきが見られて、あわてて血刀を兼輔の袖でぬぐってそっと鞘(さや)に収めようとすると、うしろからその肩を軽く叩く者があった。ぎょっとして振り返ると、自分のそばには玉藻が立っていた。凄いほどに白い彼女の笑顔は、暗い中にもありありと浮き出して見えた。 「見事になされました」 相手があまりにも落ち着き払っているので、実雅はすこし気味が悪くなって、無言のままで突っ立っていると、玉藻は重ねて言った。 「かたきを仕留められたのは男の面目、見事にも立派にも見えまするが、これからのちを何とせられまする。相手を殺して卑怯にも逃げられますまい」 星をさされて、実雅は又ぎょっとした。彼は太刀を鞘に収めるすべも知らないように、唯ぼんやりと立っていた。 「お身さまも男じゃ、少将どのじゃ。仇の亡骸(なきがら)を枕にして見事に自害なされませ」と、玉藻は命令するように言った。 この怖ろしい宣告を受けて、実雅は我にかえった。しかし彼はその命令に服従する気にはなれなかった。どうで自分の物にならない女ならば、いっそここであわせて玉藻を殺して、後日(ごにち)の口をふさぐ方が利益であると、彼は咄嗟のあいだに思案を決めた。彼はなにか言おうとするように見せかけて、玉藻のそばへひと足摺(す)り寄ると同時に、手に持っている太刀を颯(さっ)とひらめかせると、刃(やいば)は空(くう)を切って玉藻の姿は忽ち消えた。おどろいて見廻すと、玉藻は彼の左に肩をならべて笑いながら立っていた。 実雅はまた横に払った。その刃もおなじく空を切って、玉藻は更に彼の右に立っていた。彼は焦(じ)れて右を切った。左を切った。うしろを払った。前を薙(な)いだ。彼は独楽(こま)のようにそこらをくるくると廻って、夢中で手あたり次第に切り払ったが、一度も手ごたえはなかった。焦れて狂って、跳り上がって、彼は暗い河原を東西に駈けまわって、果ては狂い疲れてそこにばったり倒れた。倒れるはずみに彼は自分の刃で自分の胸を深く貫いてしまった。 鴨川の水はむせぶように流れていた。暗い河原にひざまずいて、まだ温かい彼の生血(なまち)を吸う者があった。
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