自叙伝(三)
一
高等小学校の二年を終る少し前のことだった。ある日先生から、大沢と大久保と僕と三人に、その晩先生の下宿を訪ねるようにと言われた。 「何の用だろう。」 三人は心配しだした。先生に自分の家へ来いなぞと言われたのは初めてだった。が、いくら三人が首をあつめて見ても、それが何の用だかは、どうしても見当がつかなかった。それだけ三人はなお心配した。 三人はどこかで待合せて、びくびくしながら、地蔵堂町の先生の下宿へ一緒に行った。 先生はにこにこしていた。そして自分でお茶を出してくれて、かしこまっている僕等に無理無理にあぐらをかかした。 「こんどこの土地に中学校ができるんだがね、どうだ、みんなはいって見ないか。」 先生は真黒な顔の中に白い歯を見せながら切りだした。中学校ができるといううわさは僕等もうすうす聞いていた。しかし、それがまだはっきりした話でなかったようなのと、高等二年を終えればすぐはいれるなぞとは知らなかったのとで、僕等は大してそれを問題にしていなかった。三人はどう返事をしていいのか分らんので、しばらくの間黙ってただ顔を見あわしていた。 「高等二年を終えればすぐはいれるんだがね、ほかのものはとにかく、君等三人だけは僕が保証するから是非はいって見ないか。家へ帰って先生がこう言ったからと言って、お父さんやお母さんと相談してごらん。」 僕等は急にうれしくなった。そして、もう中学校へはいったような気になって、「しかしこのことはほかのものには話ししないようにね」という先生の注意もうわの空で、大喜びで家へ帰った。
先生は、僕等には初めての師範出の若い先生だった。それまでの先生は、尋常四年の時の島先生を除けば、みないいかげん年とった先生ばかりだった。そして先生は、僕等とほんとうに友達になって遊んでくれた、初めての先生だった。「僕」なぞと言ったのも先生だけだった。 先生は来るとすぐ高等一年の僕等の組を受持った。先生の真黒な顔は最初僕等にあまり受けがよくなかった。ちょっとこわそうに見えたのだ。が、この先入見は、唱歌の時間にすぐ毀されてしまった。今までは女の先生ばかりがやっていた唱歌までも先生が受持ったのだ。それだけですらすでに先生の上に、ある人望と好奇心とが加わった。そしてその最初の時間は実に奇観なものだった。 兵隊のようにからだのいい、腕を前につき出して、真黒な顔の先生が、オルガンの前に腰かけた。僕等はそのオルガンからどんな音が出るだろうと待ち構えていた。オルガンの音は優しい顔の女の先生のと別に変りはなかった。が、そのやはり真黒な、毛もしゃくしゃの、大きな指が、少しもぎこちなくはなく器用にそして活発にキイの上を走るのが、まずみんなを愉快がらした。 やがて先生が歌い出した。真黒な顔一ぱいに広がった大きな口から、教室じゅうに響き渡る、太いバスが出て来た。おちょぼ口をして聞えるか聞えないような声を出している、女の先生の声ばかり聞いていた僕等は、それですっかり先生に参ってしまった。そしてみんなは非常に愉快になって、できるだけ大きな口を開けて、できるだけ大きな声で歌った。 そして、これは特筆大書しなければならんことだが、僕はこの先生にだけはただの一度も叱られたことがなかった。 それだのに、どうだろう、僕はこうして二年間もずいぶん可愛がってもらったこの先生の名さえも忘れてしまっているのだ。
先生から中学校行きを勧められたことは、堅く口どめされていたのにもかかわらず、すぐにみんなの間に拡がった。そしてそれと同時に、中学校ができるということも確実になり、高等二年を終えたものはすぐにはいれるということも知れ渡った。僕等と同じ級からの入学希望者も大ぶできた。そしてそれらのものから僕等三人は一種の憎しみの的となった。 四月のはじめに、僕は中学校の仮校舎になっていた何とか寺へ入学願書を持って行った。受付の事務員が、しばらくの間それを読んでいたが、やがて「あんたは年が足りないから駄目です」と言ってそれを突っ返した。僕は泣きそうになって家へ帰った。 学校の入学規則には満十二年以上とあった。そして僕の願書には満十一年十一月とあった。一カ月足りないのだ。僕はくやしくて堪らなかった。父も母も「そんなに急ぐには及ばんから来年のことにするさ」と言って慰めてくれるんだが、僕はどうしても思いきることができなかった。みんなが「ざまあ見ろ」と言ってあざ笑っているのが、すぐ目の前に見えたのだ。 僕は満十一年十一カ月というのを十二月となおして、もう一度中学校の事務所へ行って見た。 「よく勘定して見ると十一カ月じゃないんです。十二カ月です。十二カ月なら都合十二年になる訳なんだから、それでいいでしょう。」 僕は一生懸命になって、自分の生れた月の五月から始めて六七八九……一二三四月と十二まで指を折って見せてその確かに十二カ月になることを力説した。 事務員は笑っていたが、「とにかく相談して見ましょう」と言って願書を受けつけてくれた。僕はその翌日また行って見た。そして要するに、一学期間はみんな仮入学を許して、九月からほんとうの生徒になるんだからというので、僕は入学を許されることとなった。 中学校には僕等三人のほかに同じ級から二十名近くはいった。が、その半分は本入学の時に篩い落され、あとの半分も大部分は二年へ行く時に落されてしまった。そしてその残りの一人か二人も三年に登る時に落されてしまった。
二
この十三の春は、からだの上にも心の上にも大きな変化を僕にもたらした。 ある日、偶然僕は僕のからだのある一部分に、うぶ毛ではない黒い毛の密生して来ていることを発見した。僕はそれが非常に恥かしかった。これは僕と同じ年の友達には勿論、一つ二つ年上の友達にもまだ見ないことだったのだ。僕は幾度も、あるいは便所で、あるいは自分の室で、そっとそれを(十二字削除)した。が、いつの間にかまたそれが前よりも、もっと(五字削除)して来るのだった。 それとほとんど同時頃に、僕はほんとうの自慰を覚えた。前にお花さんとやったほんの遊びが、こんどは(十三字削除)なったのだ。 それ以来僕は机の前に長い間坐って本を読むことができなくなった。一時間も坐っていると、(五字削除)して来て、どうしてもじっとしていることができなかった。そして一日に二度も三度も自慰に走った。 勉強家だった僕はすっかり怠けものになってしまった。
僕は父や母が少しでも猥りがましいことをしたり、そんな話をしているのを見たことも聞いたこともなかった。 従卒や馬丁が女中とふざけているのはよく見た。馬丁はほかから通って来るのでそれほどでもなかったが、従卒は書生か下男同様に泊りこんでいるので、始終女中とふざけ合っていた。従卒の室へはいって行って、従卒と女中とが今相撲を取っているのだというところを見たこともあった。また、女中が真赤な顔をして、息をきらしながら着物の前を合せ合せ従卒の室から飛び出て来るのにぶつかったこともあった。やがてこの女中はその従卒の子を孕んで宿にさがった。 僕等がいた片田町の裏の小人町(おこひとまち)というのは淫売町だった。片田町の一方のはじの、西ヶ輪[#底本では「西ケ輪」]に近い部分も、やはりそうだった。日曜の夕方そこを通ると、きっと酒に酔っぱらった兵隊が、真白な女の頸にかじりついているのが見られた。 一度、馬丁に連れられて、西ヶ輪[#底本では「西ケ輪」]の何とか温泉といったお湯屋へ行った。真白な頸の女が大勢はいっていた。男も二、三人まじっていた。馬丁は僕に待っていろと言って、自分一人その中へはいって行った。男と女とが湯船の中に入りまじって、キャッキャッと言って騒いでいた。僕はいやになって、馬丁がとめるのも聞かずに、一人で家へ帰った。
が、僕自身は女の友達とはだんだんに遠ざかって行った。 学校が別になってめったに会う機会のなくなった光子さんは、折々その小さい弟を連れて、夕方近くに練兵場へ散歩に来た。彼女はたしかに僕に会いに来るのに違いなかった。その弟を連れて来たのもそとに出る口実に違いなかった。僕は彼女の姿を見るとすぐに練兵場へ走って行った。二人は一、二間そばまで近よってかすかな微笑を交せば、それでもう事は十分に足りるのだった。彼女はそれで満足して帰った。 光子さんと僕との間は要するにただこれだけのことに過ぎなかった。僕は光子さんと交したただの一と言も覚えていない。というよりもむしろ、お互いに言葉を交したというほどのこともかつてなかった。それでも二人は、少なくとも僕の心の中では、立派な恋人同士だったのだ。 その後僕は彼女がどうなったか知らない。彼女の姉さんは、やはり彼女と同じように美しかったが、貧乏人の子の秀才が勉強するにはそのほかに方法はなかった、新潟の師範学校にはいっていた。彼女もやはりその姉さんと同じ運命に従ったことと思う。
光子さんの姿が見えなくなったあとで、あるいはやはりその頃であったかも知れないが、その小さな妹を連れて、やはりたしかに僕との単なる微笑を交すために、練兵場へ散歩に来た女の子があった。警察署長の娘だった。 やはり僕はただの一度も言葉を交したことはなかった。そして彼女と向い合って立ったのはただ次の場合の一度だけだった。 僕は父の使いで署長の官舎へ手紙を持って行った。玄関で取次ぎを乞うと、ふいと彼女が出て来た。彼女も僕も真赤になって何にも言うことができなかった。僕は黙って手紙をさし出し、彼女も黙ってそれを受取って奥へ走って行った。 彼女は唇の厚くて赤い子だった。 僕は彼女といつ、どこでどうして知ったのか覚えていない。そしてただこれだけの間柄に過ぎなかったのに、不思議にもまだその名は覚えている。
お花さんもお礼さんもいつの間にか僕の頭の中から消えてしまった。 お花さんはどうしたのか覚えていないが、お礼さんは柏崎へ行ってしまった。そのお父さんが、金鵄勲章の叙勲にもれたのに不平を言って、柏崎の連隊区に左遷されたのだった。 このお礼さんについてだけはまだ後日談がある。
中学校にはいろんな種類の人間がはいった。僕等を一番の年少者として、もう三、四年も前に高等小学校を終えて自分の家の店で坐っていた二十近いものまでもいた。もうすっかり農村の若い衆になりきっているものもはいって来た。新潟や長岡の中学校の食いつめものもいた。 それらの年長者がいろんなことを僕等の間に輸入した。学校が始まってから間もなく、寄宿舎にいる二、三の年長者達が十三、四の七、八人の生徒を連れて、女郎屋へ遊びに行った。これはすぐ学校に知れてその年長者等は退校になった。それ以来、そうした方面のことはまったくなくなった。 そして生徒の間にすぐに一番の勢力を占めたのは、他の中学校を流れ歩いて来たごろつき連中だった。この連中はみな一人ずつごく年少のそして顔の綺麗なのをその親しい友人に持った。彼等はお互いに指を切って、その血をすすり合って、義兄弟の誓いをした。 一年の間は僕もまだそんなことは知らなかった。が、二年の末頃になって、やはりそれを覚えて、指を切ったり血をすすったりはしなかったが、一人の弟を持った。 この風習はその後二年も三年も僕につきまとった。
煙草を吸うこともやはりその頃に覚えた。 父がいつも吸っている中天狗というのをちょいちょい盗んでは吸い覚えた。そしてしまいには父が大事にしてしまっている葉巻までも盗みだして吸うようになった。
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