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自叙伝(じじょでん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-26 7:01:42 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


   四

 僕はこんな喧嘩に夢中になっている間に、ますます殺伐なそして残忍な気性を養って行ったらしい。何にもしない犬や猫を、見つけ次第になぐり殺した。そしてある日、例の障害物のところで、その時にはことさらに残忍な殺しかたをしたように思うが、とにかく一疋の猫をなぶり殺しのようにして家に帰った。自分でも何だか気持が悪くって、夕飯もろくに食わずに寝てしまった。
 母は何のこととも知らずに、心配して僕の枕もとにいた。大ぶ熱もあったんだそうだ。夜なかに、ふいと僕が起きあがった。母はびっくりして見守っていた。すると僕が妙な手つきをして、「にゃあ」と一と声鳴いたんだそうだ。母はすぐにすべてのことが分った。
「ほんとうに気味が悪いの何のって、私あんなことは生れて初めてでしたわ。でも私、猫の精なんかに負けちゃ大変だと思って、一生懸命になって力んで、『馬鹿ッ』と怒鳴ると一緒に平っ手でうんと頬ぺたを殴ってやったんです。すると、それでもまだ妙な手つきをしたまま、目をまんまるく光らしているんでしょう。私もう堪らなくなって、もう一度、『意気地なし、そんな弱いことで猫などを殺す奴があるか、馬鹿ッ』と怒鳴って、また頬ぺたを一つ、ほんとうに力一杯殴ってやったんです。それで、そのまま横になって、ぐうぐう寝てしまいましたがね。ほんとうに私、あんなに心配したことはありませんでしたよ。」
 母はよくこう言って、その時のことを人に話した。そして僕は、その時以来、犬や猫を殺さないようになった。

 やはり片田町のその家にいた時のことだ。
 正月に下士官が大勢遊びに来た。父はしばらくそのお相手をしていたが、やがて奥の自分の室にはいって寝てしまった。父は酒が飲めないんで、ほんの少しでも飲むとすぐに寝てしまうんだった。
 下士官等はまだ長い間座敷で飲んでいた。が、そのうちに、誰か一人が「副官がいないぞ」と怒鳴り出した。
「怪しからん、どこへ逃げた。」
「引きずって来い。」
「来なけれやこれで打ち殺してやる。」
 へべれけに酔った四、五人の曹長どもが、長い剣を抜いて立ちあがった。僕はその次の室で、母や女中と一緒に、どうなることかと思ってはらはらして聞いていた。
「奥さん、副官をどこへ隠した?」
 曹長どもはその間の襖を開けて母に迫って来た。僕は母にぴったりと寄り添っていた。女中は青くなって慄えていた。
「どこへも隠しやしません。宿もまたどこへも逃げかくれはしません。さあ、私がご案内しますからこちらへいらっしゃい。宿は自分の室でちゃんと寝ているんです。」
 母はこう言いながら突っ立って、
「栄、お前も一緒においで。」
 と僕の手をとって、さっさと父の室の方へ行った。そしてそこの襖を開けて、
「さあ、みなさん、この通りここに寝ているんです。突くなり斬るなり、どうなりともお勝手になさい。」
 と、きめつけた。僕も母のこの元気に勢いを得て、どいつでも真っさきにこの室へはいって来る奴に飛びついてやろうと、小さな握拳をかためて身構えていた。
 が、曹長どもは母のけん幕に飲まれて、うしろの方から一人逃げ二人逃げだして、とうとうみんな逃げ出してしまった。そして※々にして帰ってしまった。
 翌日、その下士官どもが一人ずつあやまりに来た。僕は母と一緒に玄関に出て、そのしょげかえった様子を見て、痛快でもあり、また可笑しくて堪らなかった。

 父が日清戦争で出征するとすぐ、竹町とは反対の方の片田町の隣りの、西ヶ輪[#底本では「西ケ輪」]という町に引越した。斎藤という洋服屋の裏の小さな家だった。そして父がまだ宇品で御用船の出帆を待っている間に、母に男の子が生れた。父から「イサムトナヲツケヨ」と電報が来た。三の丸では次弟が生れた。片田町では三番目の妹が生れた。そして、これで僕は三人の妹と二人の弟との五人の兄きとなった。母はこの六人の子と一人の女中と都合八人で、二階一間下三間の、庭も何にもない小さな家にひっこんだのだ。片田町の家は七間か八間あった。そしてできるだけの倹約をして貯金を始めた。

 母は仮名のほかは書けないので、手紙の上封はみな僕が書かされた。中味も、父と山田の伯母へやるののほかは、大がい僕が書かされた。母が口で言うのを候文になおして書くんだが、まだ学校で教わらないような用事ばかりなので閉口した。母はずいぶんもどかしがりながらも、そのできあがるのを喜んで、自慢で人に見せていた。しかし僕は、それよりも、よそから来る手紙を母に読んで聞かせる方が、よほど得意だった。

 ある日僕は学校から帰って来た。そしていつもの通り「ただ今」と言って家にはいった。が、それと同時に僕はすぐハッと思った。母と馬丁のおかみさんと女中と、それにもう一人誰だったか男と、長い手紙を前にひろげて、みんなでおろおろ泣いていた。僕はきっと父に何かの異状があったのだと思った。僕は泣きそうになって母の膝のところへ飛んで行った。
「今お父さんからお手紙が来たの。大変な激戦でね、お父さんのお馬が四つも大砲の弾丸に当って死んだんですって。」
 母は僕をしっかりと抱きしめて、赤く脹れあがった大きな目からぽろぽろ涙を流して、その手紙の内容をざっと話してくれた。
 場所は威海衛だ。父の大隊は海上に二艘日本の軍艦が浮かんでいるので、安心して海岸の方へ廻って行った。するとその軍艦が急に日章旗をおろして砲撃を始めた。それが鎮遠、定遠だとかいうことだった。父の大隊は驚いて逃げだした。するとこんどはその逃げ出すさきの丘の方から、味方の軍隊が盛んに鉄砲を打ち出した。たぶん、日本の軍艦から砲撃されるんだから敵の軍隊だろうと思ったんだろう、ということだった。父の大隊は敵と味方とに挾みうちされて進退きわまった。
 大隊の副官であった父は、すぐに大隊長と相談して、その味方の軍隊まで伝令に行った。敵の砲弾はますます花火のように散る。味方からの弾丸もますます霰のように飛んで来る。父はその間を二人の騎兵を連れて駈けて行った。が、その一人はすぐに倒れてしまった。そして父の馬もまた続いて倒れてしまった。父は仕方なしにもう一人の騎兵をそこに残して、その馬を借りてまた駈け出して行った。
「それで首尾よく任務は果したんだそうだがね、可哀そうにお馬は、お腹と足と四つも弾丸を受けて、その場で死んでしまったんですとさ。お父さんのお身代りをしたんだわね。」
 母はこう言ってまた大きな涙をぽろぽろと流した。馬丁のかみさんも女中もまた一緒になって泣いた。しかし僕は、あの馬が父の身代りをしてくれたのかと思うと、何だかこう非常に勇ましいような気がして、どうしても泣けなかった。
 父が凱旋して来てから、ある日家で、その当時の同じ大隊の士官連が集まって酒を飲んだことがあった。
「奥さん、この男がその時に即死の電報のあった男ですがね。その筈ですよ。今でもまだこんな大きな創が残っているんですからね。」
 もう大ぶ酒がまわった頃に、一人の士官がもう一人の士官の肩を叩いて言った。そして、
「おい、貴様はだかになれ、何、構うもんか、名誉の負傷だ。ね、奥さん。」
 と言いながら、無理にその士官をはだかにさせてしまった。酒に酔って真赤になっている背中の、左の肩から右の腋の下にかけて、大きな創あとの溝がほれていた。
「この通り、腕が半分うまってしまうんですからな。」
 最初の士官が腕を延ばして、それをその溝の中へ当てがって見せた。実際その腕は半分創あとの中にうまっていた。
 さすがの母も「まあ」と言ったきり顔をそむけていた。僕も少し気味が悪かった。
 父の馬もこの士官と同じように、いったん即死を伝えられた後に生き返って、ちんばになって帰って来た。父は母と相談して、生涯飼い殺しにしたいと言っていたが、そうもできないものと見えてその後払下げになってしまった。
 父はこの功で金鵄勲章を貰った。

 僕は今まであちこちの父の家が焼けて無くなっていたと書いて来た。それは、やはりこの日清戦争で留守の間に、与茂七火事という大きな火事があったのだ。
 幾月頃か忘れたが、もう薄ら寒くなってからのことのように思う。ある夜、十一時頃に、火事が起きた。僕のいた西ヶ輪[#底本では「西ケ輪」]は新発田のほとんど西の端で、その火もとはほとんど東の端だった。で、一時間ばかりは、家でその火の手のあがるのを見ていた。が、火は容易に消えそうもなかった。ますます火の手が大きくなって近所へ燃え移って行くようだった。
 僕はすぐ走って見に行った。そして一時間か二時間あちこちで見物していた。ある時には火のすぐそばまで行って見た。というよりもむしろ、火にすぐそばまで追っかけられて来た。火事場から四町も五町も遠くで見ていたつもりなのに、うっかりしているうちにもう火がすぐそばまで来ていた。火焔の舌が屋根を舐[#底本では「舐」が「甜」]めるようにして走って来るのだ。そして、僕は、そうこうしているうちに、火事場へ走って行く人はほとんどなくなって、火事場の方から逃げて来る人ばかりなのに気がついた。
 長い間天気が続いて、薄い板の木っ葉屋根がそり返るほどに乾ききっていた。火はこの屋根の上を伝って、あちこちの道に分れて、しかもそれがみな飛ぶようにして走り廻るのだ。ついには消防夫すらも逃げて帰った。
 僕もあわてて家の方へ走った。そして二、三町行った頃に、今までそのそばで見ていた鬼子母神という寺に火のついたのを見た。茅ぶきの大きな屋根だ。それがその屋根一ぱいの大きな火の柱になって燃え出した。
 火はまだ僕の家からは七、八町のところにあった。しかし僕はもう当然それが僕の家まで燃えて来るものと思った。僕は家に帰ってすぐ母に荷物を出すようにと言った。近所でももうみな荷ごしらえにかかっていたのだ。
「見っともないからそんなにあわてるんじゃない。」
 母はこう言ってなかなか応じない。しかし火の手はだんだん近づいて来る。僕はもう一時間としないうちにきっと火がここまで来ると思った。そして母にせめては荷ごしらえでもするように迫った。
「荷物は近所でみな出してしまってからでも間に合います。あんまり急いで、あとで笑われるようなことがあってはいけません。まあ、もう少しそこで見ていらっしゃい。」
 母はこう言いながら、しかし女中には何か言いつけているようだった。そしてしばらくして僕を呼んだ。
「もういよいよあぶないから、お前は子供をみんなつれて立ちのいておくれ。練兵場の真ん中の、あの銀杏の木のところね。あそこにじっとしているんだよ。いいかい、決してほかへは行かないようにね。」
 母はふろしき包みを一つ僕に持たしてこう言った。そしてすぐの妹に一番下の弟をおんぶさした。
 西ヶ輪[#底本では「西ケ輪」]を真っすぐに行けば、三、四町でもう練兵場の入口なのだ。練兵場にはもうぼつぼつ荷物が持ちこまれてあった。僕等は母の言いつけ通り銀杏の木の下を占領した。
 この銀杏の木は前に言った射的場ともとの僕の家の間にあった。そしてその家にはやはり軍人の秋山というのが住んでいた。母はその「秋山さんの伯母さんにみんなが銀杏の木の下にいることを知らしてお置き」と注意してあった。
 秋山家ではのん気でいた。裏は広し、近所は離れているし、どんなことがあっても大丈夫だと安心していた。が、僕がその家を出て銀杏の木の下に帰るか帰らないうちに、僕は大きな火の玉のようなものがそこの屋根へ落ちたのを見た。そしてアッと思っているうちに、それがパッと燃えあがった。
 母と女中が少しばかりの荷物を持ってやって来た。僕は布団にくるまって寝てしまった。
 火は昼頃まで続いて、新発田のいわゆる町のほとんど全部と本村の一部分の、二千五百戸ばかりを焼いてしまった。
 与茂七火事というのは、その幾十年か前にも一度あったんだそうだ。与茂七というのが無実の罪でひどい拷問にあって殺されてしまった。そのたたりなんだそうだ。そして現に、今言った秋山家の家は、当時その拷問をした役人の一人の家だったそうだ。それで近所はみな焼け残ったのに、特にその家だけが焼けたのだそうだ。僕の見た火の玉というのもほかに見たと言う人が大勢あった。ほかにもまだ、大ぶあちこちにそういった家があった。そしてそれは、秋山家をはじめほとんどみな、大きな茅ぶきの古い家だった。僕のいたその家のあとは、いまだに、まだ家もできずに広いあき地になっている。
 大倉喜八郎の銅像が立っている諏訪神社の境内に、与茂七神社という小さな社がある。これはその後与茂七を祀ったものだ。
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