四
そんなふうで、その頃はずいぶんよく勉めもしたようだが、しかしまたずいぶんよく遊びもしたようだ。 遊び場は、前の片田町にいた時とは違って、もうすぐ前の練兵場ではなくなっていた。前にも言った大宝寺の射的場のバッタ狩り。その後ろの丘の茸狩り。昔殿様の遊び場であった五十公野山の沢蟹狩り。また、昔々、何とかという大名が城を囲まれて、水路を断たれて、うんと貯えてあった米を馬の背中にざあざあ流して、敵に虚勢をはって見せたという城あとの加治山。そこではまだ、頂上の狭い平地の赤土をちょっと掘ると、黒く焦げた焼米が出て来た。綺麗な冷たい水の加治川。それらはみな、子供の足にはちょうどいい遠足の一里前後のところにあった。
あの夏の日、僕は虎公と一緒に加治山へ遊びに行った。山百合が真盛りだった。 虎公は百合の根を掘りはじめた。虎公はその家の裏に広い畑があって、よくその年とったお婆さんの手伝いをしていろんなものを作っていたところから、そんなことについての知識を持っていたのだ。僕も一緒になって掘りはじめた。収穫は大ぶ多かった。が、僕はそれをすっかり虎公にやってしまった。 「虎公のうちは貧乏なんだから……」 僕はそうきめていたのだ。虎公はまた釣が好きで、よく朝の三時頃から連れ出されたが、そんな時にもいつも僕は全収穫を虎公にやっていたのだ。 が、帰りがけに僕は、母が何かちょっとした病気で寝ていることを思い出した。そして百合の花をおみやげに持って帰ることに気がついた。僕はあちこち駈け廻って、なるべく大きそうなそして幾つもの花のついている、十幾本かを蒐めた。 二人とも大喜びで帰った。そして僕はすぐに離れの母が寝ている室へ行った。 「根の方を持ってくればいいのにね。ほんとにお前は馬鹿だよ。そしていつも虎公にそんな目に遭っているんだろう。」 母はもう大ぶしおれた花には目もくれずに、僕が虎公に百合の根をやってしまったことを批難した。 僕はこれほど悲しかったことはなかった。涙も出ずに、ただ胸がそくそくと迫って来るような悲しさだ。そして僕はそのわけを母に話すこともできずに、というよりはむしろ、そんな気は少しも起らずに、しおしおとして自分の室に帰った。 これが僕の、もっともそのわけさえ話せば母は自分の過言をあやまって僕をほめてくれたに違いないとは思うものの、母に対するただ一つのしかし大きな悲しみの思い出だ。
けれども僕はやはり母は好きだった。 その夏のある晩に、みんなで座敷で涼んでいた。ふと、次の妹が庭先を見つめながら、 「あれえ」と叫び出した。みんなはびっくりして庭の方を見た。暗い隅の方に何だかぴかぴかと光る大きな目玉のようなものが一つ見えた。子供等はみな「あら」と言ったままおびえてしまった。 母はすぐに立って庭下駄をはいて下りて行った。僕等は黙ってそれを見送っていた。 「さあ、みんなここへお出で。何にも恐いことはありません。お化の正体はこんなものです。」 母は一人ずつそこへ呼んで、そのいわゆるお化の正体を見せた。それは罐詰か何かのブリキの鑵が二つ転がっていたのだった。
けれどもまた、たぶん僕のいたずらが年とともにますますはげしくなったせいであろうが、母の折檻もますますひどくなった。僕は母と女中と二人に、荒縄でぐるぐるからだを巻きつけられて、さんざんに打たれたことを覚えている。母の留守に女中の言うことを聞かなかったというのがそのもとだったようだ。母は大勢の子供をほったらかして、半日も一日も、近所のやはり軍人仲間の島さんのところへ行ってよく遊んでいた。そして子供等の上には、女中に絶対の権力を持たしていた。
喧嘩もよくした。 「自分のことではまだ人にあやまったようなことはないんだが、この子のためにだけはしょっちゅうあやまり通しですからね。」 母はよくこう言って、喧嘩の尻を持って来られる愚痴をこぼしていた。そして僕は父や母がただあやまるだけでは済まないようなことまでも幾度も仕出かした。 高等二年の時だ。同じ級の、しかしたぶん違う組の、西川というのと何かの衝突をした。僕が甲組第一のあばれもので、彼は乙組第一のあばれものであったのだ。僕はその日の帰り路があぶないと思った。そしてひそかに、習字の紙の圧えにする鉄の細長い「けさん」というのを懐ろに入れて、何食わん顔をして学校を出た。はたして西川は僕のあとについて来た。彼の家は僕の家とあべこべの方向にあったのだ。そして彼のあとにはその仲間の七、八名がついていた。 僕はいつものように、衛戍病院の横から練兵場にはいった。そしてそこへはいるとすぐ右の手を懐ろに入れて用心していた。今まで大ぶ離れていたみんなが、がやがや言いながらだんだん接近して来た。悪口の挑戦がはじまった。なぐっちゃえ、なぐっちゃえ、などという声も、すぐ後ろに聞えた。僕は誰かが駈け寄って来るのを感じた。僕はけさんを握って、止まって、後ろをふり返った。西川が拳をあげて今にもなぐりかかろうとしていたのだ。僕はいきなりけさんを振りあげた。西川はちょっと後ろを向いた。その拍子に彼の頭から血がほとばしり出るように出た。みんなはびっくりして西川を取りまいた。僕は多少の心配はしながら、それでも意気揚々と引きあげて帰った。 西川の頭にはその後二寸ばかりの大きな禿ができていた。
それからよほど経ってからのことであるが、ある日、父が連隊から帰るとすぐその室に呼ばれた。父と母とが心配そうな顔つきをして向い合っていた。 「この頃お前学校で誰かの肩をなぐるか蹴るかしやしないか。」 父が厳かに、しかし不安そうに、尋ね出した。父の顔には太い筋が見えていた。 父がこんな裁判をするのは初めてのことだった。で、僕も何か非常な大事件のような気がしたが、そんな覚えは少しもなかった。僕は黙って考えていた。 「それでは何とかいう子を知らないか。」 と、こんどは母が尋ねた。 僕はその子は知っていた。同じ級のたしか同じ組だった。親しい友達でも何でもないが、とにかく学校で知っていた。けれどもそれがこの妙な事件と何の関係があるのか、僕にはますます分らなくなった。しかし知っているということだけは答えた。 「その子の肩をなぐるか蹴るかしやしないかい。」 母は僕の返事を待ってさらにこう尋ねた。 「いいえ。」 僕にはそれはますます覚えのない変なことだった。 母はそれでようやく安心したようになって、事の顛末を詳しく話して聞かした。 八軒町に岡田という少佐がいた。父が前に副官をしていた連隊長だ。そこの馬丁か従卒かが門前を掃除していると、学校の子供が一人通りかかって、それがフラフラ右左によろめきながら幾度も門の溝の中に落ちかけた。妙だな、と思って肩をつかまえて聞くと、 「それが君んとこの子供の仕業だと言うんだそうだ。それでとにかくその家まで送り届けさして置いたそうだがね。医者は頸の根のところは急所で、ちょっと針でさしても死ぬくらいだが、これは治ってもたぶん馬鹿になってしまうだろう、と言っていたそうだ。」 という岡田少佐の話だったんだそうだ。 そう言われると僕は思い出した。その頃学校では毎日「隅取り」という遊びをしていた。それは雨天体操場の二つの隅に各々一隊ずつ陣取って、その陣屋を守っているものを押しのけくぐり抜けて、それを占領する遊びだった。が、普通尋常に押しのけくぐり抜けているんでは、いつ勝負がつくか知れない。それでまず第一攻撃隊にそれをやらして置いて、敵の陣容の大ぶくずれかかった時に、一人か二人の勇者をそこへ飛びこませるのだった。この勇者等は、組打ちをしている敵味方の肩の上から陣屋のなるべく奥へ飛びこんで、一挙にしてその一番奥の隅を占領するのだ。僕はいつもこの勇者の役目がお得意でいた。その飛びこむ時に、何とかいう子の肩の急所を蹴ったのじゃあるまいかと。
僕は父と母とにその話をした。そして三人できっとその時のことだろうときめてしまった。 父と母とはすぐ見舞いに行った。が、向うでは、それをひどく恐縮して、何でもよいことにしてしまった。 その後その子がどうなったかよく覚えていないが、目つきがちょっと藪にらみのようになって、いつも何にも言わずに黙っているのを見たようにも思う。 [#改頁]
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