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自叙伝(じじょでん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-26 7:01:42 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


   五

 その夏初めて一人で旅行に出た。
 最初は東京までのつもりで、十円もらって出かけたのだったが、それが名古屋までとなり、大阪までとなって、大旅行になってしまった。
 越後はまだ直江津までしか鉄道がなかったので、新潟から船でそこまで行った。汽船や汽車に乗ったのは勿論、そんなものを見たのも、それが覚えてから初めてのことだった。
 山田の伯父が四谷にいた。威海衛で戦死した大寺少将の邸を買って、そのあとを普請したばかりのところだった。伯父は大佐で近衛の何連隊かの連隊長をしていた。
「よく一人で来た。」
 伯父は僕の頭を撫でて、父でもめったにしてくれないほどの可愛がりかたをしてくれた。伯母も「栄、栄」と言って自分のそばを離さなかった。
 従兄が二人いた。弟の哲つぁんは病気で学習院の高等科を中途でよして、信州の方へ養蚕の実習に行っていた。女中どもはこの哲つぁんのことを若様と呼んでいた。兄の良さんは中尉になったばかりで、綺麗な花嫁のお繁さんと一緒に奥の方の離れにいた。士官学校の教官をして、陸軍大学校の入学準備をしていたのだ。
 女中どもは僕を越後の若様と言った。そして僕が何かするたびに何か言うたびに袂で口を蔽うては笑いこけていた。お繁さんは(僕はお姉さまと呼んでいたが)そのたびに美しい目で女中どもをにらみつけるようにしていたが、やはりその可笑しさを隠しきることはできなかった。
 洋食の御馳走が出た。越後の若様はどうしてそれをたべていいか分らなかった。新発田にはまだ洋食屋もなく、家ででも洋食なぞをたべることがなかった。で、みんなのする通りにビフテキか何かをようやくのことでナイフで切って、それを口に入れたが、切りかたが大きすぎたので口の中で一ぱいになって、どうともすることができなかった。みんなは笑った。そしてお繁さんだけは、いつまでもいつまでも、僕の顔を見ては思い出すように笑っていた。
 僕はお繁さんを日本で一番の美人だと思った。お繁さんの姉さんも綺麗だった。そしてこの姉さんは、田中という騎兵大尉の、陸軍大学校の学生のところに嫁いていた。
 僕は来年は必ず幼年学校の試験に及第してうんと勉強して陸軍大学にはいるんだときめた。

 お繁さんの里の、飯倉の末川という家へも行った。山田の家の心地よさに酔うていた僕は、末川家のさらに幾倍もの贅沢に少々驚かされた。
 家は上と下とに二軒あった。下は妾宅で上は本宅だった。長男が一人本妻の子でしかもそれは馬鹿で、あとはみな男も女も綺麗な、もと烏森とかにいたという妾の子だった。お繁さんもその姉さんも勿論この妾の子だった。お繁さんの下にもまだ女の子が二人いた。そして下の家には妾とそれらの女の子とだけがいた。みんなはその妾を自分のほんとうのお母さんを、栄ちゃんと呼んでいた。
 食事時には、ふだんは男ばかりいる上の家へみんなが集まった。僕も行けばきっとこの上の家の、西洋室の応接間にはいってソファの上に横になっていた。
 僕はこの家で初めて電話というものを知った。また、お繁さんの姉さんの手で初めてピアノというものの音を聞いた。僕はこの家のみんなが、その綺麗でそしてお上品な中に、どこかしら冷たいものを持っていることに気がついた。が、それでもやはり、その贅沢な生活を味いに、時々遊びに行かない訳には行かなかった。
 末川家は鹿児島の家老の家柄で、その主人はもと海軍の主計監とかをしていたと聞いた。そして、その頃は実業に関係していたようだった。山田家では最初この家との縁談があった時、妾の子ではと一時躊躇したのだそうだが、川村大将とか高島中将とかが中にはいって、無理にもらわしてしまったのだのとかと聞いた。その後、今の皇太子や皇子達が川村大将の家にいた頃、良さんの子供等はよくそこへ遊びに行って、熊だの象だののおもちゃをもらって来た。
 良さんは今少将でどこかの旅団長を勤めている。そしてお繁さんの姉さんの方の田中は、中将になって今ワシントンの太平洋会議に陸軍代表の主席として出ている。ついでに言うが、山田の伯父は、とうに中将で予備になって、今は和歌山に隠居している。

 名古屋と大阪とでは、名古屋では父方の親戚を、大阪では母方の親戚を歩き廻った。
 が、そのどちらでも、商家や農家ばかりなので、そしてつましい家ばかりなので、一向面白くなかった。そしてすぐまた東京に帰って、一カ月あまり遊んでいた。

   六

 この旅行は僕に金を使うことを覚えさした。それまで僕は、小遣銭というものは一文ももらったことがなく、いるものは何でも通いで持って来たのであった。しかしもうそれでは済まなくなった。
 中学校は新発田から五十公野へ行く途中の、長い杉並木の間に新しい校舎ができた。そしてその並木路の入口にある小料理屋風の蛇塚屋というのが、僕等不良連の間にスネエクと呼ばれて、みんなの遊び場でもありまたいろんな悪事の本拠地でもあった。みんなはよく学校をエスケエプしてはそこへ行った。
 僕は母の財布から金を盗むことを覚えた。母はいつも財布をどこかへ置きっぱなしにしていた。そしていり用のたびにあちこちとそれを探していた。そんなふうで、自分の財布にいくらはいっているのかもよくは知らなかったようだった。僕はそれをいいことにして、二、三十銭から五十銭くらいまでをちょいちょいと盗んだ。
 が、だんだん、そんなことではとても追っつかなくなった。そしてとうとう僕は父からもらった時計を売ってしまった。それは銀側の大きな時計で、鍵を真ん中の穴に入れてギイギイと廻す、ごく古い型のものだった。
 それがどうしてか母に知れた。
「時計を持ってお父さんのお室へおいで。」
 僕は持って行く時計はないのだから、仕方なしにただうんと叱られる決心だけを持って、父の室へ行った。
 父の裁判がはじまった。僕は売ったと答えた。が、その金の行方については、どうしてもはっきり言うことができなかった。それは、もしスネエクのことを言えば、そこでいろんな悪事、ことに例の義兄弟のことなどが知れる恐れがあったからだ。
 僕は父と母とにうんと責められた。うんと叱られた。しかし、言えないことはやはりどうしても言えなかった。

 その冬、この不良連の親分の、その頃の最上級の四年と三年とのものから一大事を聞いた。それは三好校長が組合会議から排斥されて、不信任案の決議をされるということだった。
 僕等の中学校は、新発田町外四十何カ村の組合立で、その組合の会議というのがあったのだった。この組合会議が、往々その職分の経営のことを超えて、教育方針にまで差出口をするということは聞いていた。そしてそのたびに校長がそれを峻拒したということも聞いていた。
 僕等は組合会議がどんな差出口をしたのかも少しも知らなかった。また、その不信任案というものの内容も少しも知らなかった。そしてまた、その間にわだかまるいろんな事情というようなことも少しも知らなかった。が、とにかく組合が不埓だときめてしまった。そして校長擁護の一大運動を起すことにきめた。
 翌日すぐ、長徳寺というのに学生大会が開かれて、二年三年四年の全生徒は校長と運命をともにするという満場一致の決議をした。

 この騒ぎは学年試験を前に控えて一カ月ばかり続いた。そして最初の同盟休校というのが同盟退校の決議にまで進んだ。
 もうこんな学校に用はないというので、ガラス戸は滅茶苦茶にこわされた。そして生徒控室にあった机や椅子は、ほとんど全部火鉢の中のたき木になってしまった。
 ある先生は、組合と内通しているというので、夜車で練兵場を通るところを袋だたきにされた。
 ある日父と母とは茶の間の火鉢のそばへ僕を呼んだ。
「この頃お前はちっとも学校へ行かんで騒いでいるそうだが……」
 父の話は、組合から生徒の父兄に送って来たものによって、多少校長を批難して、明日からでも学校へ出ろというようなことであった。
「いやです。」
 僕はただ一言そう言ったきりで、席を蹴って起ちあがった。
「あの子はいったん何か言いだしたら、何があっても聞かんのですから、どうぞそのままにほおって置いて下さい。」
 母はしきりに父をなだめて、懇願しているようだった。

 しかしこの騒ぎは、組合で不信任案を取消すということと、校長が辞職するということとで治まって、生徒は校長の懇請でようやく学年試験を受けることになった。
 三好校長は深田教頭と一緒に、長野の中学校へ行くこととなった。その送別会が仲町の何とかという料理屋の広間で開かれた。校長は大酒家だった。みんなに一合ばかりの酒がついた。校長は初めから終りまでその四角な顔をにこにこさせていた。教頭はお得意のいい声で、その郷里の白虎隊の詩を吟じた。
 そして校長がいよいよ出発する時には、全校三百余の生徒が、校長の橇を真ん中にして降り積る雪の中を七里の間、新潟まで送って行った。

 そのあとへ、広田一乗という、名前から坊主臭いしかしハイカラな新しい文学士が来た。が、この新校長は、来る早々校友会の席上で記憶術の実験か何かをやって、すっかり生徒の評判を悪くしてしまった。そして、生徒がみな素足ではいる習慣になっていた、御真影を安置してある講堂へ、校長が靴ばきのままはいったとかいうので、危く排斥運動が起りかけさえした。

 その春、僕は二度目の幼年学校の入学試験を受けた。
 そしてその最初の日に、もう少しで身体検査ではねられるところだった。去年はよく見えた検査の符号のようなものが、下の二、三段のほかはみなぼんやりして、上があいているのか下があいているのかよく分らなかった。
 若い軍医は首をかしげて奥の方の室へはいって行った。そして、僕が子供の時から何かの病気の際にはいつも世話になっていた、平賀という一等軍医を呼んで来た。
「これはことしはどんなことがあっても入れなけやならないんだ。」
 平賀軍医はそう言いながら、僕の目の検査をし直した。そして暗室へ連れて行ったり、いろんな眼鏡をかけさして見たりして、要するに合格にしてしまった。
 学科の方は、別に何の勉強もしなかったのだが、高等小学校卒業程度の試験なんだから、やすやすとできた。
 そして官報で及落が発表される少し前に、山田の伯父から、「サカエゴウカクシユクス」という電報を受取った。
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自叙伝(四)

   一

 幼年学校は、東京に中央幼年学校というのがあって、そして当時の六個師団の各師団司令部所在地に地方幼年学校というのがあった。中央は本科で地方は予科だ。ある師団、たとえば第一師団の管轄に本籍を持っているものは、その師団司令部所在地の、すなわち東京の地方にはいった。そしてそこで三年間いわゆる軍人精神を吹っこまれて、各地方のものがみんな東京の中央に集まるのだった。
 僕は僕の本籍地の名古屋の幼年学校にはいった。

 父は、後に僕が社会主義者になったのを、僕のフランス語のせいにしていた。フランスは革命の国だというごくぼんやりした理由からだ。僕もそれは、もっと細かなそしてもっと込みいった理由から、部分的に承認する。が、僕のそのフランス語というのは、この幼年学校で、しかも命令的にはじまったのだった。
 東京の地方にはフランス語とドイツ語とロシア語とがあった。が、その他の地方には、フランス語とドイツ語としかなかった。そして入学志願者は、その願書の中に、その中のどれか一つを希望語学として書き入れて置くのだった。
 僕は、フランスはもう旧い、これからは何でもドイツだというので、ドイツ語を選んだ。そして父を覚束ない先生にして、一カ月ばかりかかって、たしかヘステルの第一読本をあげていた。
 名古屋へ行く途中、東京で、一、二年前から上京していた大久保を訪ねた。彼も去年は落第して今年は東京の地方に及第したのだった。彼もやはりドイツ語を希望していた。そこへ、熊本の地方の先輩である石川が、休暇で東京に遊びに来ていて、一緒に落ち合った。彼はやはりドイツ語で、しかもそれが非常にお得意らしかった。彼はフランス語をさんざんにけなした。大久保と僕とは、何が書いてあるんだかちっとも分らない亀の子文字の彼の本をいじくり廻しながら、大いに彼をうらやんだ。
 が、学校にはいったその日の、第一番目の出来事は五十名の新入生が撃剣場でせいの順に並ばされたことで、そしてその次がそれに続いてすぐみんなの語学を決定されたことであった。希望者はフランス語よりもドイツ語の方が遙かに多かった。そして学校の方針はそれを公平に二分することであった。すなわち五十名の新入生を二十五名ずつそれぞれドイツ語とフランス語とに分けることであった。
「もっとも、今までドイツ語をやっていたものは、希望通りドイツ語をやらせる。しかしそれは、単にアベチェを知っているとか、エス・イスト何とかを知っているとかいうんでは駄目だ。試験をする。」
 せいの高い、胸とお尻のうんと張り出た、ドイツ士官のような大尉が、左の手をそのお尻の上に乗せ、右の手でねじ上った髯をさらにねじ上げながら、そのエス・イスト何とかというのを非常に流暢にやった。このエス・イスト組は僕の外にも五、六人あったようだった。が、みんな「試験をする」というのにおどかされて黙ってしまった。そしてその大尉は、恐らくは気まぐれに、すぐその場でドイツ語とフランス語の二組をつくってしまった。
 僕の名はそのフランス語の方にあった。僕はがっかりした。しかし、命令でそうきめられてしまった以上は、もうどうともすることができなかった。それに、元来語学の好きな僕はフランス語もすぐに好きになった。そして、その他の科目はすべて中学校でやったことの復習のようなものなので、僕はこのフランス語に全力を注いだ。
 本はアメリカでできたフレンチ・ブックとかいうので、英語でフウト・ノートがついていた。僕はまだ碌に発音もできないうちから、そのノートと大きな仏和辞書と首っ引きで、一人で進んで行った。そして二学期か三学期かの初めに、原書の辞書を渡されてからは、先生の言う通りに分っても分らんでもその原書の辞書ばかりを引いていた。先生はまた、この辞書と同時に、向うの子供雑誌の古いのを折々分けてくれた。「分っても分らんでもいい、とにかく読んで行け」というのが先生のモットーだった。僕は忠実に貰った雑誌の初めから終りまでを読み通した。ちっとも分らんのを二度も三度も読み通した。そして、そうこうしている間に、原書の辞書の方もいい加減分るようになり、子供雑誌も当てずっぽうに判読するようになった。

 学校にはいった幾日目かの最初の土曜日に、それまでいろんな世話をしてくれた三年のある生徒から、あしたは「国」の下宿に集まるようにと言われた。
 元来僕にはこの「国」という観念が少しもなかった。讃岐の丸亀に生れてそこを少しも知らず、尾張に本籍があってそこも碌に知らず、そして「国」というような言葉もあまり聞いたことがなかった。今までいた新発田では、ほとんどみんなが新発田かあるいはその附近の人であった。僕はそれらの人と一緒に自分を北越男子などと言っていた。しかしその越後に対しても「国」というような感じはまるでなかったのだ。
 で、この「国」の下宿というのも、よくはその意味が分らなかった。しかし、上官の言うこと、古参生の言うことはよく聞かなければならないとは、何よりも先きに教えられたことであった。そしてこの古参生には、敬礼は勿論のこと、ちょっともの言うのでも不動の姿勢をとらなければならなかったのだ。僕は気をつけの姿勢のまま「ハア」と答えた。
「国の殿様がつくってくれたんで、みんなが日曜日にはそこへ行って遊ぶんだ。」
 その古参生は僕が堅くなっているのを慰め顔に言った。が、僕にはまた、この「殿様」というのが妙に響いた。これも感情の字引の中にはない言葉だった。なるほど新発田には殿様があった。殿様という言葉もよく聞いた。が、その言葉の中に盛られている感謝や崇拝の感じは、少しも僕に移って来なかった。そして一、二年前に、何とか三十年祭とかいうんで、その殿様夫婦が東京からやって来た時、僕は彼等の通ったあとの麝香か何かの馬鹿に強い香に鼻をつまんだ、そのいやな感じがあるだけだった。しかしその殿様のお蔭で、日曜日の遊び場があるというのは、うれしかった。
 その下宿というのは学校から近いあるお寺だった。その本堂の広間に古参生と新入生と四、五十名集まった。
「君等はまず国の者同士の堅い団結を形づくらなければならない。そしてその団結の下に将校生徒としての本分を発揮して行かなければならない。断じて他国のものの辱かしめを受けてはならない。」
 山田という、小作りのしかし巌丈なからだの、左肩を右肩よりも一尺も上にあげた男が「訓戒」し出した。僕はそれを聞きながら、新発田で僕が一番えらいと思っていた不良連の首領の、井上というのを思い出した。そして「ここにも仲間がいるな」と僕はすぐ感じた。
 山田の「訓戒」も、それに続いたまだ四、五人の「訓戒」も、要するにみなこの「断じて他国のものの辱かしめを受けてはならない」ということに帰着した。第一期生すなわち当時の三年生は、愛知県人と石川県人とがいずれも十名ばかりずつで互いに覇を争って来た。第二期生では愛知県人の方が少し数が増えた。そして僕等の第三期生では、愛知県人すなわち国のものが二十六名という絶対多数を占めたのであった。が、頭数が増えたからといって、油断はできない。また、こんなに多い頭数をかかえていて、それで負けてはなおさら見っともない。そこで団結を堅くしなければならない、と言うんだ。
 僕は何で石川県人と愛知県人とがそうして争わなければならないのかは分らなかった。しかし、誰一人知っているもののない中にはいって、こうして「国のもの」という特別な友人がすぐできたのは、何よりもうれしかった。そしてこの友人等の敵になる石川県人が訳もなく憎らしくなった。
「訓戒」が済むと菓子が出た。菓子屋の箱に山のように盛った餅菓子が出た。それを食ってしまうと、こんどはちょっとした肴に酒が出た。本当の牛飲馬食だ。もともとあまり酒は飲めない僕も、みんなの勢いに駆られて、多少の盃を重ねた。そして山田等の詩吟につれて、みんなの驚きのうちに「宗次妙齢僅成童」などと吟じ出した。それで僕はすっかり山田等の「仲間」になってしまった。

   二

 第一期生は、最初の後輩である第二期生に対しては、ずいぶんひどく威張った。またずいぶんひどくいじめた。が、第三期生の僕等に対しては、ずいぶんあまくしてくれた。そして僕は、たぶんそんなのは僕一人だったろうと思うが、すぐにこの先輩から「仲間」として可愛がられるようになった。
 最古参生たる第一期生の「仲間」には、学校の中では、どんな悪いことでも無事にやれた。たとえば煙草は、もし見つかれば営倉ものだった。しかしそれも、彼等だけには、安全な場所があった。国の先輩は僕をそこへ連れて行くことは最初遠慮していた。が、他国の先輩、ことに東京から来た先輩がすぐに僕をそこへ連れて行った。
 また、これは見つかれば軽くて営倉、重くて退校の処分に遇うのだが、夜みんなが寝静まってから左翼の方の寝台へ遊びに行くこともやはり東京から来た先輩に教わった。「仲間」の仕事というのは、これが一番主なことであったのだ。
 この東京から来た先輩の中には、もっとも「仲間」ではなかったが乃木将軍の息子もいた。からだは第一期生じゅうで一番大きかったが、学科は一番できなかった。そしていつも大きな口をにやにやと微笑ましていた。

 が、そんな「武士道の迷行」へばかりでなく、僕はまた本当の武士道へもまじめに進んで行った。
 何とかいう文学士の教頭が、倫理の時間に、武士道の話をした。それは、死処を選ぶということが武士道の神髄だ、というのだった。
 僕はその話にすっかり感服した。そして僕の武士道を全うするためには、僕自身の死処をあらかじめ選んで置かなければならないと決心した。それ以来僕は古来の武士の死にかたをいろいろと研究し出した。何かの本を読んでは、これはと思う武士の死にざまを、原文のまま写し取った。そしてその写しは、たしかに一巻の書物くらいにはなっていた。
 そのいろんな死にざまの中で、僕の心を一番動かしたのは、戦国時代の鳥井強右衛門のはりつけだった。というよりもむしろ、そのはりつけの図に題した、誰だかの「慷慨赴死易、従容就死難」という文字だった。
「よし、俺も従容として死に就いて見せる。」
 僕は腕を扼して自分で自分にそう誓った。
 やはりこの教頭の話で、もう一つ覚えていることがある。それは、遼東半島還附の勅語の中の、「報復」という言葉の解釈についてであった。その言葉の前後は今は何にも覚えてない。たぶん「臥薪甞胆して報復を謀れ」というような文句だったろうと想像する。この「報復」というのは、表むきは何とかの意味だが実は復讐のことだ、と言うんだった。そして僕はその表むきの意味が何であったかは今でも思い出すことができないほど、そのいわゆる本当の意味をありがたがった。

 何月か忘れたが、たぶん初夏の頃だったろうと思う。平壌占領記念日[#底本では「紀念日」]というのがあった。
 僕はその日の朝飯に初めて粟飯というものを食わされた。ちょっと甘い味がしてうまいと思った。おかずは枝豆と罐詰の牛肉が少々とだった。名古屋の第三師団全部が、その朝はこの御馳走だったのだ。
 当直の、前にも言った北川という大尉が、食堂でこの御馳走のいわれを話した。平壌を占領した晩だか朝だかの、これが咄嗟のお祝いの御馳走だったのだそうだ。
 食事が済むとみんなは講堂に集まった。そこには、正面に大きなアジア地図が掛かっていて、支那の遼東半島が日本と同じ赤い色で色どられていた。学校じゅうの武官と文官とが左右にならんだ。そこで今言った教頭の「報復」の話が始まったのだった。
 教頭の講演が済むと、こんどは名古屋の東の町はずれにあたる、陸軍墓地へ連れて行かれた。北川大尉を始め学校の他の士官等は、その多くの戦友の墓をここに持っていた。そして彼等はその墓の一つ一つについて、その当時の思い出を話して聞かした。
「これらの忠勇な軍人の霊魂を慰めるためにも、われわれは是非とも報復のいくさを起さなければならない。」
 士官等の結論はみな、いわゆる三国干渉の張本であるロシアに対する、この弔い合戦の要求であった。僕等はたぎるように血を沸かした。

 間もなく、僕は初めての暑中休暇で新発田へ帰った。
 ある日ふと父の机のひき出しを開けて見たら、「極秘」という字の印を押した、状袋が出て来た。封が切ってあるので僕はすぐ披いて見た。それは、当時の参謀本部の総長か次長かの何とかの(四字削除)ら各師団長および各旅団長に宛てたもので、(十七字削除)、そのつもりで将校や兵の教育をしろ、という命令風のものであった。
 僕はすぐに指を折って数えて見た。三十七年と言えば、僕がちょうど少尉になった頃のことだ。僕は躍りあがって喜んだ。
 父の机の上には、ロシア語の本だの、黒竜会の何とかいう雑誌だのが幅をきかしていた。
(が、ここまで書いて来て、この記憶があるいは幼年学校入学以前のことでなかったかという疑いが出て来た。それは、これが片田町の家の、父の室での出来事であったように思われるからである。その頃から父は旅団副官をやっていた。幼年学校にはいるその年か前年かに、僕の家は尾上町に引越した。どうもこの尾上町でのことではなかったようだ。すると、ロシアに対する報復ということを教えられた時にそれを思い出して、そしてその思い出がかえって後の事実のように記憶されて来たのかも知れない。しかし、僕がその(四字削除)を見て、少尉になってからのことだと喜んだのは、確かに事実である。そして僕は、この「極秘」ということについてすでに何か知っていたものと見えて、その喜びを自分一人の胸の中にたたみ込んでかつて誰にも話したことがなかった。)

   三

 十幾番かではいった僕は、学年試験の結果七、八番かに席順があがった。
 が、この学科の上で席順を争うということは、中学校以来僕にはまるでないことだった。一番とか二番とかいう奴は、気のきかない、糞勉強の馬鹿だときめていた。「なあに、実力では遙かに俺の方が上だ」とひそかに威張っていた。そしてただいい加減上の方の席にいることで、十分満足していた。で、学科は、前にも言ったように好きな語学に耽るほかは、ことさらに勉強する必要もなくまた碌に勉強もしなかった。

 しかし腕力とか暴力とか、またはそれにもとづく勢力とかの上では最初から決して人後に落ちなかった。もっとも単なる腕力では、せいの順で右翼から十四、五人目の僕は、とても一番とは行かなかったろう。が、暴力とか勢力とかいうことになれば、それには大ぶ趣きが違って来る。それに僕には愛知県という絶対多数の背景があった。
 古参生等の「仲間」にはいった僕には、まず同級生等の間で傍若無人の振舞いをした。僕と同じ寝室のものや左翼の寝室のものは黙っていた。が、中の寝室のものの中に、中村という男がいた。東京のもので、口先きばかりでなく、真から元気のいい男だった。そいつが、僕がそいつの隣りの何とかいう男のところへ夜遊びに行くのを、愚図愚図言い出した。まだ外にも二、三人それに同ずるものがあったようだった。ある晩僕は、何かのことからその中村を、そいつの寝室のみんなの見ている前でなぐりつけた。奴は腕まくりしながら黙って、なぐられて笑っていた。それでそいつは友達になってしまった。この中村はその後肺を悪くして死んだ。そしてその弟の彝[#読みは「つね」]というのが第五期にはいって来た。西洋画のあの中村彝君がそれだ。
 また、同じ寝室で、僕よりも右翼に佐藤というのと河野というのとがいた。どちらも、武揚学校という名古屋での陸軍予備校から来たもので、その友達が多かった。国の名古屋のものは、大がいその友達だった。中にも、僕よりも右翼にいた浜村というのと坂田というのとがよほど親しかった。その佐藤と河野とがちょいちょい僕に敵意を見せだした。そして浜村や坂田は、そんな時には、僕の敵だか味方だか分らん変な態度を取った。その中のどの一人でも僕には強敵なのに、こう大勢で組んで来られてはとても堪らなかった。さっそく僕は浜村と坂田とを呼んで、「佐藤と河野との二人と決闘するが、君等の態度をはっきりきめろ」と言った。二人は中立を誓った。で、僕はすぐに、まず大きな方の佐藤を呼び出した。同期生じゅうで一番大きな男で、撃剣も一番うまかった。器械体操場の金棒の下へ連れて行って、そこでいきなり殴りつけた。げんこは眼にあたった。彼はほろほろ涙を流して、黙ってその眼を押えていた。そこへ浜村と坂田とが心配して見に来た。そして二人の中へはいった。河野はすぐに好意を見せて来た。そして五人は、五人組をつくって、何でもの悪いことの協同者となった。
 四、五年前に、ふとこの佐藤が訪れて来た。子供の時の友達だというので、誰かと思って玄関へ出て見たら、昔のままのせいの高い顔一ぱい濃い髯の彼だった。連隊長とかと喧嘩して予備になったんだそうだが、今になって止されるくらいなら、あの時分一緒に退校されるんだったなあなどと、職業の世話を頼みながら今の僕をうらやんでいた。その後南米行き移民の監督か何かにありついたとか言っていたが、どうしたか。そしてついうっかりして、昔僕が殴った眼の中の赤い疵[#「疵」は底本では「やまいだれ+比」]のあとが、まだ残っているかどうかも見落してしまった。

 撃剣は佐藤の次が僕だった。器械体操は佐藤と河野と僕とが相伯仲していた。が、駈足は僕が一人図抜けて早かった。僕等の班長をしていた河合という曹長が、これも駈足をお得意としていたが、いつも口惜しがりながら僕のあとについて来た。
 学科の済んだあとで、毎日そんな遊戯をやらされていたが、そのほかにもよくフットボールや綱引をやった。そしてこの二つの遊びでは、班長が組を分けるのに困ってしまった。最初前列と後列とに分けた。すると幾度やっても僕のいる前列が勝った。で、こんどは、僕一人だけを後列の方の組に廻して見た。後列が勝った。フランス語の組とドイツ語の組とに分けても見た。が、それでもやはり僕のいるフランス語の方が勝った。仕方なしに班長は「君はそばで見ていろ」と言って、僕を列の中から出してしまったこともあった。
 が、困ったのは遊泳だった。
 最初の夏は、伊勢のからすという海岸へ遊泳演習に行った。
 先生は観海流の何とかいう有名なお爺さんで、若い時には伊勢から向う岸の尾張の知多半島まで、よく泳いでは味噌を買いに行ったという話のある人だった。学校にはこの伊勢出身で、観海流の三里や五里という遠泳に及第したものもいた。ことに佐藤などは一番の名人だった。その他にも、名古屋出身のものは大ていみなこの観海流を泳いだ。
 子供の時からよく川遊びや海遊びはやったが、ぱちゃぱちゃ騒ぎ廻るほかにまるで泳げなかった僕は、実に閉口した。そして第一日目の試験に力一ぱいでようやく二、三間泳いで、一番下の丙組へ編入された。
 古参生や同期生の助手連が、僕等の足首を握って、その観海流というのを教えた。が、僕はそれを教えられるのが癪なのと、足首を握られるのがいやなのとで、いつも逃げ廻っては我流の犬泳ぎで泳いでいた。
 それでも一週間目の第二回の試験には、僕はその犬泳ぎで千メートル泳いで、甲組にはいった。そして二週間目の最後の試験には、やはりその犬泳ぎで最大限の四千メートル泳いで、来年は助手ということになった。
 その来年には知多半島の大野へ行った。僕は名は助手でも、観海流も何にも教えることはできなかった。そして自分の受持った丙組の幾人かをただ勝手に遊ばして置いた。が、二週間目の最後の試験の時には、その中から一人、やはり我流の犬泳ぎで四千メートル泳ぎ通したのが出た。それは僕が可愛がっていた第四期生のまだほんの子供で、途中で泣きそうになるのを絶えずそばから激励して、無理やり引っぱって行ったのだった。そしてその子は、本当のゼロから出立してそこに到達した、その年のたった一人として好成績を歌われた。
 最近、汽車の中でこの男に会ったが、参謀肩章なぞをさげて立派な士官になっていた。はじめ僕はすぐ前にいるのにそれと気がつかなかったが、向うで名刺を出して見せて、「御存じでしょうな」と言われたのでやっと分った。やはり昔のように、「ハア、ハア……何とかであります」と上官にもの言うように話していた。その時にはまだ大尉だったが、この頃ではもう少佐になったろう。

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