大杉栄全集 第十二巻 |
現代思潮社 |
1964(昭和39)年12月25日 |
自叙伝(一)
一
赤旗事件でやられて、東京監獄から千葉監獄へ連れて行かれた、二日目か三日目かの朝だった。はじめての運動に、一緒に行った仲間の人々が、中庭へ引き出された。半星形に立ちならんだ建物と建物との間の、かなり広いあき地に石炭殻を一面にしきつめた、草一本生えていない殺風景な庭だ。 受持の看守部長が名簿をひろげて、一列にならんでいるみんなの顔とその名簿とを、しばらくの間見くらべていた。が、やがて急に眉をしかめて、幾度も幾度も僕の顔と名簿とを引きくらべながら、何か考えているようだった。 「お前は大杉東というのの何かかね。」 部長はちょっと顎をしゃくって、少し鼻にかかった東北弁で尋ねた。 名簿には僕の名の右肩に、「東長男」とあることは知れきっている。それをわざわざこう言って聞くのは、いずれ父を知っている男に違いない。その三十幾つかの年恰好や、監獄の役人としては珍らしい快活さや、ことにその僕に親しみのある言葉の調子で、僕はすぐにどこかの連隊で下士官でもやっていたのかなと思った。 「先生、親爺の名と僕の前科何犯とをくらべて見て、驚いてるんだな。」 僕はそう思いながら、返事のかわりにただにやにや笑っていた。それに、こんなところで父を知っている人間に会うのは、少々きまりも悪かったのだ。 「東という人を知らんのかね。あの軍人の大杉東だ。」 部長は不審そうに重ねてまた尋ねた。 「知らないどこの話じゃない。それや大杉君の親父さんですよ。」 それでもまだ僕がただにやにやして黙っているので、とうとう堺君が横あいから答えてくれた。 「ふうん、やっぱりそうか……あの人が大隊長で、僕はその部下にいたことがあるんだが……あの精神家の息子かね……」 部長はちょっとの間感慨無量といったような風で、ひとり言のように言っていたが、やがて自分に帰ったようになって、 「その東という人は第二師団で有名な精神家だったんだ。その人の息子がどうしてまたこんなところへはいるようになったんだか……」 と繰りかえすように附け加えた。 この精神家というのは、軍隊での一種の通り言葉で、忠君とか愛国とかのいわゆる軍人精神のおかたまりを指すのであった。十分尊敬の意味は含まれているんだが、しかしまた、戦術がへただとか融通がきかないとかいうそしりの意味もないことはなかった。
僕が陸軍の幼年学校から退学させられて家に帰った時にも、 「お父さんはあんなにおとなしい方だのに……」 と、よくいろんな人に不思議がられた。そしてそのたびに、僕の家のことをもっとよく知っているらしい誰かが、 「それやあなたはお母さんをよく知らないからですよ。」 と僕のために弁解してくれた。
実際僕は父に似ているのか、母に似ているのか、よく知らない。もっとも顔は母によく似ていたらしい。 「そんなによく似ているんですかね。でも私、こんないやな鼻じゃないわ」 母はよく僕の鼻をつねっては、人にこう言っていた。 母は綺麗だった。鼻も、僕のように曲った低いのではなく、まっすぐに筋の通った、高い、いい鼻だった。
父が近衛の少尉になった時、大隊長の山田というのが、自分の細君の妹のために婿選びをした。そして二人候補者ができたのだが、ついに父の手にそれが落ちたのだそうだ。 その当時母は山田の家にいた。なかなかのお転婆娘で、よく山田の出勤を待っている馬に乗っては、門内を走らして遊んでいたものだそうだ。 「この母方のお祖父さんというのが面白い人だったんだそうですね。大阪で米はんにいろいろ聞いたんだが、あんまり面白いんですっかり忘れちゃった。が、兄さんなんかはこのお祖父さんの血を受けているのかも知れないね。」 いつか次弟の伸といろいろ近親のものの話をした時、弟がこう言って、しきりに折があったら米はん(従兄)にその話を聞いて見るように勧めた。 それまで僕は、母方の親戚では、山田の伯母と、そのすぐ次の妹の米はんのお母さんと、それからお祖母さんとだけしか知らなかった。そしてこのお祖父さんについては、何にも聞いたこともなく、また考えて見たこともなかった。お祖母さんが妙に下品な人だったので、母の家というのも、ろくな家じゃなかったろうくらいにしか考えていなかった。 それにこの米はんが大阪のある同志と知っていて、その同志との間によく僕の話をするということも聞いていたので、多少なつかしくも思っていた折だった。で、その翌年であったか、もう二、三年前になるが、大阪へ行ったついでにしばらく目で米はんを訪ねて見た。米はんはお祖母さんの家を継いで、淀屋橋の近くで靴屋をしていた。僕はちょうど二十年目で米はんと会った。 「僕誰だか分る?」 僕は店にいた米はんにいきなり声をかけた。尾行をまいて行ったので、店のものに僕が誰だかが分っても面白くないと思ったからでもあった。 「分らんでどうするものか。そんな目はうちの一族のほかにはどこにもないよ。」 米はんは僕よりももっと大きな目を見はりながら、大げさにこう言って、奥へ導いて行った。 お祖父さんは楠井力松と言った。和歌山の湊七曲りというところにあった、かなり大きな造り酒屋だったそうだ。子供の時から腕力人にすぐれて、悪戯がはげしく、十二の時に藩の指南番伊達何とかいう人に見出されて、その弟子となって、十八で免許皆伝を貰った。剣道、柔道、槍術、馬術、行くとして可ならざるはなく、ことに柔道はそのもっとも得意とするところであったそうだ。後、その指南番の後見のもとに、町道場を開いて、門弟五百人、内弟子百人あまりも養っていた。身の丈六尺四寸、目方四十貫という大男で、三十三で死んだのだが、その時でも三十五貫あまりあったそうだ。 「ある時、たぶんお祭の時だったろうと思うが、何でもないことにまで侍と町人との待遇があんまり違うというので怒り出して、とうとう大勢の侍を相手に大喧嘩をやって、それ以来いつも侍を敵にしては町人のために気を吐いていたんだそうだ。そしてそんなことで、とうとう家をつぶしてしまったんだね。」 お祖父さんについての米はんの話は、ずいぶん長くもあり、また雄弁でもあった。が、僕もやはり弟と同じように、それがあんまり面白いんで大がいは忘れてしまった。
父の家は、名古屋を距る西に四里、津島という町の近くの、越治村大字宇治というのにあった。今では、その越治村が隣り村と合併して、神守村となっている、父の家は代々その宇治の庄屋を勤めていたらしい。 大杉という姓も、邸内に大きな杉の木があって、何とかいう殿様が鷹狩りか何かの折に立ちよられて、「大きな杉じゃなあ」と御感遊ばされたとかいうところから、それを苗字にしたのだそうだ。あんまり当てにはならない話だが。そして今でもまだ、街道から目印になるような、大きな杉の木がそこに立っている。 父が日清戦争で留守の間に、宇治のお祖父さんが死んだというので、一日無理に学校を休ませられたことがあった。が、このお祖父さんについては、権九郎とか権七郎とかいう名のほかには、何にも聞いた覚えがない。 清洲の近くにいた丹羽何とかいう老人が、このお祖父さんの弟で、少しは名のある国学者だったように聞いている。その形見の硯や水入れが家にあった。そして僕が十五の時、幼年学校にはいるんで名古屋へ行った時、第一にこの老人に会うようにと父から言いつけられて行った。 父には二人兄があった。長兄は猪といって、宇治の家を継いで、村長などをやっていた。次のは一昌といって、名古屋にいたが、そして僕が幼年学校にいた間はずいぶん世話にもなったが、何をしていたのか僕には分らなかった。折々裁判所へ出かけて行くらしいので、僕は高利貸かなとも思っていた。 お祖父さんにはどのくらい財産があったのか知らないが、その死ぬ時に、この二人の伯父と父との間にそれが分配されたらしい。そして父の分は猪伯父が管理していたのだが、伯父がいろんな事業に手を出して失敗して、自分のは勿論父の分までも無くしてしまった。 「あれがあれば、お前達二人や三人の学費くらいは楽に出るんだったがね。」 母はよくこう言っては愚痴っていた。 たぶんそんなことからだろうと思うが、父は猪伯父のことをあまり面白く思っていなかったらしい。一昌伯父についてもやはり同じようだった。 そして父や母がほんとうに親戚らしくつきあっていたのは、山田の伯母一家だけらしかった。そしてまた、僕が多少の影響を受けているのも、この山田一家からだけらしい。僕の名の栄というのも、この伯母の名のよみを取ったものだ。 しかし肉親というものはさすがに争われない。猪伯父も一昌伯父も吃った。丹羽の老人も吃ったようだ。父も少し吃った。そして僕がまた吃りだ。
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