怪紳士
道夫は、ふっと悪夢から目ざめた。 いじ悪い数頭の犬にとりかこまれて、自分はあっちへ引張られ、こっちへおわれて、はてしない乱闘をつづけているうちに、ふとこの悪夢がさめたのだった。全身におぼえるけだるさ、そしてずきんずきんと頭のしんが痛む。 「おお、気がついたようだよ。道夫君、元気をだしたまえ。そしてまずこれをのむのだ。気持がよくなるよ」 しっかりした男の声だ。道夫は、まだ夢心地で声のする方へ、ものうい眼を向けた。 (川北先生かしらん) と思ったが、道夫の日にうつった声の主の姿は、川北先生ではなかった。先生よりはだいぶん年上の人で、こい緑色の背広を着た面長の背の高い紳士だった。その紳士は、左手を道夫の背中に入れて長椅子から抱きおこし、そして右手にコップをもって道夫の口へ近づけた。 道夫はひじょうにのどがかわいていたので、いわれるままにそのコップから、中の液体をのんだ。甘ずっぱい、そしてさわやかな、刺戟のあるすばらしい飲料だった。 「ああ、おいしい……」 道夫は、思わずそういった。 「あと五分間もすれば、すっかり元気になるよ。その間に、僕は君のため、何か食べるものを作ってこよう」 そういって紳士は、道夫を長椅子へそっとねかすと、部屋をでていった。 道夫が元気をとりもどすまでには五分間もかからなかった。彼は間もなく起上った。身体のだるさが消え、頭痛もかるくなった。なんというすばらしい飲料だったことか。もう一ぱい呑ませてくれるといいんだがと、道夫は舌をだして唇のまわりをなめた。 そのとき、ぽっぽっと、鳩時計が時をうちはじめた。八時であった。八時! すると午前八時か、今は。……いつの間にか一夜は明け放れてしまったと見える。家では心配しているだろう。いったいどうしてこんなところへきたのか。そうだ多摩川の堤の下に、例の老人の浮浪者を見つけて追いかけていくうちに、あっと思う間もなくおとし穴へ落ちて……それから先の記憶がない。 はて、いったいこの家はどこの家だろうか。そしてさっきでてきて、おいしい飲料を呑ませてくれた紳士は、いったい何者であろうか。道夫は、そこであらためて部屋の中をものめずらしげにぐるぐる見まわした。 りっぱな洋間だ。電気ストーブをはめこんだ壁、しぶい蔦の模様の壁紙、牧場の朝を画いてあるうつくしい油絵の大きな額縁、暖炉の上の大理石の棚の上には、黄金の台の上に、奈良朝時代のものらしい木彫の観世音菩薩が立っている。 そういう調和のとれた隙のないこの洋間に、ただ一つ不調和に見えるものがあった。それは、部屋の奥にふかく垂れ下っている、紫色の重いカーテンだった。そのカーテンは、どうやらその奥にある別の部屋の入口をかくしているものらしい。 と、部屋に人の気配がした。紫のカーテンに目を釘づけにしていた道夫は、はっとして、後をふりむいた。例の紳士が、銀色の盆の上に、焼いたパンと、卵の目玉焼きと、それから大きなコップに入った牛乳とをならべたものを持って道夫の方へ近づき、小卓子の上においた。 「さあおあがり、お腹がすいたろう」 「あなたは、いったいどなたですか。そしてここはどこです。僕はどうしてこんなところへきたのでしょうか」 道夫は、食欲をひどく感じたけれど、その前にたしかめておくべきことをたしかめないでは、盆の方へ手をだすつもりはなかった。すると紳士はにっこり笑って、 「穴の中で、君がうなっていたから、引っぱりあげて、家へつれてきたのさ。くわしいことはゆっくり話そう。まず食事をしたまえ」 といって、自分はポケットから煙草をだしてライターでかちりと火をつけた。 道夫は、もっとがんばろうかとも思ったが、なにしろお腹はぺこぺこで、そして目の前の卓上にはおいしそうな卵の目玉焼きが、道夫の大好きなハムの上にゆうゆうと湯気をあげているので、もうがまんができなくて、思い切っていただいてしまうことにした。毒が入っていはしまいかとも心配になったがまあそんなことは多分ないであろうとおもって、フォークとナイフとを手にとった。 実においしい。しばらく道夫は半ば夢中でたべていたがそのうちふと気がついて、ひそかに自分の左に座って煙草をふかしているかの紳士の方へ注意を向けた。 その紳士は、ねむったようにしずかに椅子に身体をうずめていた。が、もちろん彼はねむっているのではなかった。煙草の煙は、さかんにたちのぼっていたし、それにかの紳士は膝の上に本をひろげて読みふけっているのであった。どんな本? 道夫は好奇心をつのらせて、その本の頁の上を見た。すると、それは文字を印刷した本ではなく、ペンでもってこまかい外国の文字が、ぎっちり書きこんであった。それと同時に道夫は、はっと気がついた。 (ああ、あれは雪子姉さんの研究ノートじゃないんだろうか?) もしそうだとしたら、問題の研究ノートを所有しているこの怪紳士は一体何物であろうか。フォークもナイフも、いつの間にか道夫の手にしっかり握られたまま動かなくなっていた。
奇妙な実験
「ははは、びっくりしているね、道夫君。僕が木見さんのお嬢さんの研究ノートをひろげて見ているものだから……」 怪紳士は、そういってにやりと笑った。道夫は声もでなかった。背中がぞっと寒くなった。 「元気になったところで、われわれの仕事を急ごうね」 「……」 「道夫君。この際つまらんことは一切考えたり、迷ったりしないことだ。われわれは一直線に木見学士を救いだすことに進まねばならない。君は僕のさしずするとおりにやってくれるね」 「はあ、でも……」 「でもそれがよくない。疑ったり迷ったりしていると、もう間に合わないかもしれない」 と怪紳士は鳩時計の方をちらりと見て「さあすぐ始めるのだ。こっちの部屋へきてくれたまえ」 怪紳士は道夫に文句をいう隙をあたえずに、先へ立って、さっさと紫のカーテンの奥に消えた。 「道夫君。早くきたまえ」 紫のカーテンの奥に何があるのだろうか、と、うす気味わるく足をはこびかねている道夫の耳に、怪紳士の強い声が聞えた。もう仕方がないと、道夫は覚悟をきめてカーテンをかき分けた。 それは意外なる光景であった。その奥部屋は四坪ほどの狭いものだったが、部屋はがらんとして中央に机が一つ、それに向き合った椅子が二個、たったそれだけであった。そして右の方に窓が一つそこから眩しいほどの光線が入っている。 「君は、こっちの椅子へかけたまえ」 怪紳士は、手前の椅子を道夫に指した。道夫はいわれるとおり腰を下ろした。椅子は板敷きのもので、道夫の足の先はぶらんと宙に浮いた。怪紳士はさっきから読んでいた雪子学士の研究ノートをひろげたまま机の上においた。それは道夫に対して文字があべこべになるように反対におかれた。 「それではカーテンをしめるよ」 「待って下さい。どうするのですか、僕は……」 道夫は不安にたえきれなくなって、遂に爆発するように叫んだ。 「君は何にも考えないのがいいのだ。カーテンを引けばこの部屋は暗黒になる。君はそのままじっと椅子に腰をかけていればいいのだ。なにごとも予期してはいけない。しかしなにごとかが起ったら君はおどろかずさわがず、つとめて心を平静に保って、向き合っていればよい。君から決して自分から働きかけては駄目だ。相手が何かいったら、それにこたえればいいのだ」 「相手というと誰ですか。あなたですか」 「いや、なにごとも予期してはいけないのだ……そしてもういい頃になったら、僕がもういいというからね、それまでは君は椅子から立上ってはいけないよ。分ったね」 「分りました。でも、いや、やりましょう」 道夫ははらをきめて、この怪紳士のいうことをきくことにした。今いやだといってみたところで、この怪紳士は道夫をゆるしてはなしてはくれないだろう。一見やさしそうに見えて、その実この怪紳士は一から十まで道夫の行動をしばっているのだ。この怪紳士の手からぬけだすのは容易なことでないと分った。 カーテンは、明るい窓に引かれ、室内はまったくの暗闇と化した。聞えるのは怪紳士の靴がかすかに床をする音ばかりであった。 道夫は、机の向うの空席の椅子に、かの怪紳士が腰をかけるのだろうと予期していた。ところが彼の靴音はその椅子の方へはいかず、道夫の背後を忍び足で通りすぎた。やがて紫のカーテンの金具が小さく鳴った。足音はそれっきり聞えなくなった。怪紳士はこの暗室からでていってしまったのだった。ぞっとする寒気が再び道夫の背筋をおそった。 (僕ひとりをこの部屋において、どうしようというのだろう) 不安が入道雲のように膨張していった。動悸がはげしくうちだした。のどがしめつけられ、息がつまりそうである。道夫は一声わめいた上でこの部屋から逃げだしたい衝動にかられたが、なぜか足も腰もすくんでしまって自由がきかなかった。彼は催眠術をかけられた人のように、そのままじっとしているより外なかった。 五分、十分。……何事も起らない。部屋は完全なる暗黒である。五感に感ずるものは、ほのかなる香料の匂いと、そして大きくひびく道夫自身の心臓の音だけだった。 十五分……そして多分二十分も経た。道夫が椅子の上で身体をちょっと動かすと、ぎいっと椅子が鳴った。それはびっくりするほどの高い音をたてた。 三十分……もうたえられない。我慢ができない! と、そのときだった。隣室の鳩時計がぽうっぽうっと、九時をうった。まだ九時かといぶかる折しも続いてどこかの部屋で、じりじりと電話の呼びだしのベルが鳴りだした。道夫はそれを聞くとすくわれたように思った。 受話器を取上げたらしく、返事をする声が聞えた。 その声はまぎれもなく例の怪紳士の声である。 「えっ、本当? もっとはっきりいって……うむ、それは重大だ。場所はどこ?……えっ、そうか。そうか。……よろしい、すぐでかけます……」 何事か重大なことがらの知らせが怪紳士のところへ届いた様子である。何事であろうか?
暗室の怪
ちょっと間を置いて、道夫の背後のカーテンが開かれ、部屋がすこし明るくなった。と道夫は怪紳士から、こっちの部屋へくるようにと呼ばれた。 放免だ。暗室の怪業から放免されたのだ。道夫は大よろこびで椅子から下りて、元の明るい洋間へ移った。 怪紳士の顔を道夫がそっと盗見すると、たしかに心がいらいらしているらしく見えた。しかし彼はそこを一所けんめいにこらえている様子だ。 「どうしたんですか。僕の仕事はもうすんだのですか」 道夫は、すこし皮肉がいいたくなってそういった。 「うむ、失敗だッ」 怪紳士は、かんではきだすようにいったが、そのときしまった、そんなことをいうんじゃなかったという顔つきになり、道夫の方に鋭い目を走らせ、 「いや、一度や二度じゃうまくいかないだろう。それはそうと……」 と怪紳士はいいかけて、更に自分の感情を殺しながら、 「僕はこれからちょっとでかけなければならんが、詳しい話は帰ってきてからにするとして……、道夫君も疲れたことだろう。ちょうどコーヒーが沸いたから、甘くしてごちそうしようね」 そういって怪紳士は、卓子の上に置いてある湯気の立っているコーヒー沸しを持上げ、銀の盆の上に並んでいた空のコーヒー茶碗の一つを道夫の前に置き、その中にこげ茶色の香の高い液体をついだ。 「砂糖とミルクはそこにあるから、好きなほど入れておあがり」 そういって怪紳士は、もう一つのコーヒー茶碗にコーヒーをついで、自分の椅子の方に引寄せた。そして角砂糖を一つ入れると、がらがらと匙でかきまわして、うまそうにのんだ。 「どうぞ、遠慮しないで……」 道夫はすすめられるままに、自分の前のコーヒー茶碗に角砂糖を三つ入れ、それにミルクをたっぷり入れた上で、それをのんだ。たいへん甘い。道夫はつづけて、がぶがぶとのんだ。 道夫は、自分がそれからコーヒー茶碗を下に置いたことを記憶していない。急に頭がぼうっとしてきたと思ったら、非常に睡くなった。これはいけないと思って叫ぼうとしたが、果して声がでたかどうか疑問である。 道夫の気がつかないことが、それから後のその洋間においておこなわれた。怪紳士が呼鈴を押すと、二人の男が戸口から入ってきた。そして眠りこけている道夫の頭の方と足の方を持って、室外へ搬びだしてしまった。 後には怪紳士ひとりが残ったが、腕時計をちょっと見て何か考えていた。が、すぐ決心がついたと見え、紫色のカーテンとは反対の側の小さい扉をあけて、その奥に消えた。 紳士はすぐ洋間へ引返してきた。そのとき彼は、薄い鼠色のコートを着、頭には同じ色の形のよい中折帽子をのせていた。部屋のまん中で立停ると、上着の内ポケットへ手を入れ、何物かを引きだしたと思ったらそれは一挺のピストルで二つに折って、中の弾丸の様子を調べた。調べ終ると、ピストルを元のように直して内ポケットにしまった。それから彼は部屋をでていった。扉の鍵のまわる音がした。やがて彼の足音が、廊下を遠ざかっていった。そしてあたりは静かになった。 玄関の方へ下りていったこの怪紳士の知らない或る出来事が、このかぎのかかった静かな部屋の中でおこなわれた。それは空虚になった暗の中であった。部屋のまん中の、机の面よりやや高い空間に、ぼんやりした光があらわれた。 それは一秒一秒と弱いながら明るさを増していった。そして光の面積が次第にひろがっていった。四十五秒たつと、その光りものは、一つの物の形となった。正面を向いて、身体をかたくして、じっと立っている洋装の若い女性の姿になっていたのだ。 木見雪子の幽霊だ! まぎれもなく彼女の幻影である。ふしぎだ、ふしぎだ。生きているように見えながら、しかもはっきりしないその姿。これを誰しも幽霊といわないで何を幽霊と呼ぶべきであろうか。何故に雪子学士の幽霊がこの部屋にあらわれたのか、そのわけは分らないが、もしもこの部屋に誰かがいて、雪子学士の幽霊を落ちついて見たとしたら、その人はきっと一つの興味あることを彼女の姿の上に発見したであろう。それは雪子学士の着ているワンピースの服が、あっちもこっちも引裂け、甚だしい箇所ではその裂目から雪子の青白い皮膚があらわに見えることだった。 雪子学士の幽霊は、約二分の後に、つと両手を机の上にのばした。二本の白い手は、しばらく机の上をさぐっているように見えたが、やがてその手は、机上にひろげられた研究ノートをつかみ、そのまま持上げて自分の胸に抱きしめた。 それから幽霊はそろそろと後じさりを始めた。やがて幽霊の身体は壁につきあたった。と思ったらその輪廓が急に崩れだした。身体が輪廓の方から内部へ向って溶けだしたように見えたが、最後に顔面だけが残った。が、やがてそれも崩れ溶けてしまい、雪子学士の幽霊は完全にこの部屋から消え失せた、彼女の研究ノート第八冊と共に……。 怪紳士の留守宅に、おいて、このような奇怪な出来事が誰人にも知られずおこなわれている折も折、警視庁の捜査第一課はその主力をあげて三台の自動車に詰められ甲州街道をまっしぐらに西へ西へと飛ばしていた。いかなる事件が突発したのであろうか。それは外でもない。不可解の失踪をとげた道夫の先生の川北順に違いない人物が、平井村の赤松山の下の谿間で発見されたというのであった。 果してそれが川北先生ならば、先生はいかに奇怪を極めたその体験について物語るであろうか。
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