重態の先生
やっぱり川北先生だった。 赤松山の谿間に横たわっていた川北先生は、洗濯にきた農家の娘さんに発見され、大さわぎの一幕があったのち、附近の農業会の建物の二階へ収容せられた。 駐在所の警官から警視庁へ連絡があってそこで捜査第一課の出動となったわけであるが、今日は田山課長が一行をひきいて、これまでにない力の入れ方だった。 一行は農業会の建物へ入った。 「ああ課長。お待ちしていました。平井村の駐在所の成宗巡査です」 駐在所の警官が出迎えて、そういった。 「やあ成宗君か。早く手配をしてくれてありがとう。で、当人の様子はどうだね」 お角力さんのように肥った田山課長は靴をぬいで上りながら聞いた。 「はい。それがどうも……生きているというだけのことで、重態ですな」 「負傷しているのかね」 「いや、大した負傷ではありませんが、なにぶんにも意識が回復しません。こんこんとねむっているかと思うと、ときどき大きいこえでうわごとをいうのです。よほどここの所をやられているようですな」 と、成宗は自分の頭を指した。 「そうか。そのようなこともあろうかと思って、警察医の黒川君をつれてきたから、さっそく診察して手当をさせよう。おい黒川君。頼むぞ」 課長はそういうと、成宗巡査をうながして川北先生のねている二階へと階段をのぼっていった。 「さっきからハチヤさんという方が見えていますが……」 と、先へ階段をのぼる成宗巡査があとに続く田山課長へいった。 「なに、ハチヤ!」 「ええハチヤさん。課長とご懇意だということでしたが」 「わしは――」 わしは知らんといいかけたときには、課長は既に階段をのぼり切っていた。 「やあ、お先へ」 課長はいきなり声をかけられた。こげ茶の服を着た長身面長の三十五六歳の人だった。ウルトラジンの色眼鏡が彼の目をかくしている。 「なあんだ蜂矢探偵どのか。例によって早いところ、だし抜いて天晴だな」 課長の言葉には、すこしく皮肉のひびきがこもっていた。だが蜂矢探偵と呼ばれた長身の男はそれを気にとめない風で課長と肩を並べ、 「あの川北君は、僕と同郷の者で古くから親しくしていたのです。この間中から、しきりに僕に会いたがっていましたが、まさかこうなるとは思わず、もっと早く連絡をしてやればよかったですよ」 「本人はここで、君に何かしゃべったかね」 課長は話題を転じて叩きつけるようにきいた。 「いいえ、何にも……」と蜂矢は首を左右に振り「非常に体力を消耗していますよ。それに精神がすっかりさく乱している。正気にもどすにはちょっと手数がかかりそうですね」 「ふうん、厄介だな」 課長は警察医の黒川を手招きして、隅に寝ている川北先生の方を指した。医師は心得て川北先生の枕頭に腰をおろした。村の青年二人がていねいに礼をした。 「おい君」と課長は成宗巡査を呼び「一切誰にも会わしちゃいかん。厳命だ」 「は、はい」 成宗は身体を縮めて、ちらりと蜂矢の方を見た。蜂矢は知らん顔をして、彼の助手のためにライターの火を貸してやっている。 「かべだ。かべだ。かべの中へぬりこまれちまった。あああッ……」 とつぜん川北先生がうわごとをいった。目をつぶっている。青い顔には玉のような汗がうき、長い頭髪がべっとりぬれて眉の方までのびている。黒川医師は目を大きくむくと川北先生の眼をみた。 「かべか。かべがどうしたというんだ」 課長と課員が、川北先生の枕頭をぐるっと囲んだ。川北先生の唇がぴくぴくとふるえるだけでもう声はでなかった。 「この病人はうわごとをさかんにいうのかね。ねえ君たち」 と課長は、村の青年にきいた。 「は。ときどきいいます」 「蜂矢さんが手帳に書きとめて居られましたです。蜂矢さんをお呼びしましょうか」 「いや、よろしい」 課長は首をかたくしていった。 「……流れる、流れる、流れる」 又もや川北先生がうわごとを始めた。 「うっ、苦しいとめてくれ、誰かとめてくれ。黄いろいスープのような……」 声はしゃがれて、あとは紫にそまった唇だけがわななく。 「黄いろいスープがどうしたんだ。これ川北君」 課長が先生の方へかがみこんで、先生の左手をとって振った。その手は生きている人とは思われないほど冷たかった。 「……道夫君、道夫君、……あははは、君は心配せんでよろしい。先生が、先生が……」 川北先生はうわごとをつづけた。 「これは駄目じゃね。ねえ黒川君」 「重態ですな。注射と滋養浣腸をやってみましょう。明日の朝までに勝負がつくでしょうな」 「どっちだい、君の見込みは……」 課長の問に対して黒川医師は口でこたえず、首を左右へふってみせた。 「どうです。課長さん。その道夫君というのをすぐここへ呼んでやったらどうでしょうかね」 「なに、道夫を呼ぶ」 課長は気色のわるそうな顔をしたが、眼を転じて部下の一人へ眼配せした。
一週間
川北先生の生死が賭けられたその翌朝となった。 先生はやっぱり苦しそうな呼吸をつづけていた。だが先生の心臓はとまらなかった。 「黒川君。あの川北は危機をとおりぬけたのかね」 前夜から、川北先生と共に農業会で一夜を送った田山課長が黒川警察医にたずねた。 「これならすぐ死ぬようなことはありますまい」 と、警察医は川北先生の脈をとりつづけながらこたえた。 「正気に戻るのはいつのことかね」 「さあ、それは全く不明です。もっと経過をみませんことには何ともいえませんな」 「ふうん」課長は不満の色を見せた。「とにかくこの男を絶対に死なせないように手当をしてくれ。ここじゃ困るから、すぐ東京へ移せないものかね」 「二三日様子を見てからにしましょう。すぐ動かすのは危険です」 「二三日後だね。よろしい。適当に宿直員をふやして懸命に保護を加えてくれたまえ。そしてもし変ったことがあったら、すぐわしのところへ報告するように」 「は、わかりました。で、課長は今日はお引きあげですか」 「うん、こんなところにいつまでも居るわけにいかん。それに、昨日ここへ呼んだ少年の話も興味があるから、この事件は従来の方針を改めて徹底的にしらべることにする。幽霊事件なんてものが、今どきこの東京にひろがっては困るからね。あの川北が発見されたのがきっかけとなって、昨日の夕刊今朝の朝刊、新聞社は大々的文字でこの事件を書きたてているじゃないか。幽霊が今どきこの世の中を大手をふって歩きまわるなんてことを本気になって都民が信ずるようになっては困るからなあ」 「それはそうですな。そういえば幽霊の存在を信ぜざる者は、この怪事件を解く資格なしなどという社説をだしている新聞もありましたね」 「けしからん記事だ。あの社説内容のでどころは、わしにはちゃんと分っている。誰があんな社説を流布したか、わしは知っている」 「あははは。あの蜂矢探偵のことですか」 課長はそれにはこたえず不快な色を見せただけで黙っていた。 「実際蜂矢氏はすこしでしゃばりすぎますね。しかし仲々頭のいい人で、私立探偵にしておくのはもったいないほどだ。うちの課にもせめてあれくらいの人物が二三人……」 課長が吸いかけた煙草を灰皿の中にぎゅっと押しつけたので、黒川医は課長がかんしゃくを起したかとおどろいて言葉をとめた。 「幽霊を信ぜよなどという悪説を流布する者は、いくら頭がよくても、うちの課員にすることはできない」 課長はこの言葉を後に残して、部下たちをひきつれて本庁へ帰っていった。 幽霊説を蛇蝎のように嫌う一本気の田山課長が爆発させたかんしゃく玉はそれからこの事件の捜査を、以前とはうってかわった真剣なものにした。 木見邸にはいつも数人の警官が詰めることとなった。 その隣家の道夫の家まで、厳重に見張られることとなった。 道夫といえば、この少年は川北先生の発見以来ずっと川北先生のそばについている。それは同時にその筋から監視と保護とを加えられて居り、道夫の自由行動は許されない状態にあった。 道夫の両親、ことに、その母親はいつまでも道夫が戻されないので、非常な不安な気持になり、この頃ではよく寝こむ始末であった。 それからもう一つ書いておかねばならぬことは、多摩川べりが連日にわたって厳重に捜索せられたことである。これは道夫ののべた話により、奇怪なる老浮浪者の行方を探しもとめることと、その川べりにあるはずの大きなおとし穴や、その老浮浪者の住んでいる場所をつきとめることにあった。 だがこの方は成功しなかった。あれ以来老浮浪者の姿はこの界隈には全く見あたらなくなった。また、大きな落し穴も見つからなかった。怪老人の住んでいたと思われる地点は分ったが、しかしそこには茶碗のかけら一つ発見されず、ただ事がすこしすり切れて、赤い地はだがでている箇所や、竹か棒をたててあったらしい跡が見つかっただけであった。 雪子学士の幽霊も、その後さっぱり現われないという報告であった。 川北先生の容態も、あいかわらず意識不明のままで、今は帝都の中心にある官立の某病院の生ける屍同様のからだを横たえつづけている。 こうして一週間ばかりの日がたった。
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