何者?
誰も彼も、息をのみ、全神経を耳と目に集めて、もし怪奇があらば、真先に自分がそれを見つけて声をあげるつもりだった。全身の毛穴がぞくぞくしてくる。足がだんだんと重くなって、先へ進みかねる。 と、研究室の中と思われるところから、ざらざらと硬い物のすれ合うような音がしそれに続いて、何だか溜息のようなものが聞えた。 「おッ……」 研究室を目指す一同の足は、もう一歩も前には進まなくなった。 (あれは何物だろう? あれは何の音か?) そのとき、研究室の中で、第二の物音が聞えた。それは前回よりもずっと大きいはっきりした物音で、何か物がぶっつかったようで、それにぴいんと硝子の響くような音もまじっていた。 「早くいってみましょう。研究室へ……」 道夫が叫んだ。 「よし、いこう」 互いに相手を前へ押しやるようにして、一同はどやどやと研究室へなだれこんだ。 電灯がついた。道夫がそうしたのだ。 室内は明るくなった。一同は拳を固く握って、きょろきょろと各自のまわりを見廻した。 だが、何にも異状を発見することができなかった。 「いないぞ、どうしたんだろう」 「たしかに誰かこの部屋にいたんだが……」 いないとなると、一同は少しく元気を取り戻した。いない、誰もいない。研究室に隣合った寝室にも図書室にも、机の下にも戸棚の蔭にも、猫一匹ひそんでいなかった。 「いないぞ、変だなあ」 「でも、この部屋でたしかに人のいる気配と物音がした」 「あれはすぐ消えて見えなくなるのじゃないですか」 幽霊は――というのをさけて、あれはといった。 「あれが、あんな大きな物音をたてるというのはふしぎだ。あれは元来静かなもので、ただ自分がかぼそい声をだして、『恨めしや』とかなんとか……」 「よしたまえ、そんな変な声をだすのは」 といっているとき、道夫が大声をあげた。 「わかった。これだ」 道夫は硝子窓を指している。 「えっ。わかったとは何が……」 「この硝子窓があいているのです」 「硝子窓は閉っているじゃないか」 「いや、この窓は一旦あけられた上で閉められたんです」 「どういうのですって」 「つまり、何物かがこの部屋にいて、この窓を明けたんです。ああ、そうだ。それから彼は外へ飛び下りた、庭へですよ。そして外からこの硝子戸を元のように閉めた。だからこの硝子戸には、内側にかけ金がありながら、ほらこのようにかけ金が外れているのです。ねえ、木見さんの小父さん。この窓のかけ金は、いつもちゃんとかけてあるんですね」 「そうだ。いつもかけてある。厳重に戸締りしてありました」 「すると、その窓を明けて、誰か外へ逃げだしたんだな」 「幽霊が外へ逃げだしたんですか」 「幽霊じゃないですよ。これはかけ金を外すくらいだから、生きている人間ですよ。まだその辺に隠れているかもしれない。皆さん、早く外へでて、見つけて下さい」 道夫がいった。 「そうだ。皆さん。半数は廊下を通って、庭へでてください。その頃、残りの半分はこの窓から庭へ飛び下りますから」 隣組の人たちは、まだ事情がはっきり呑みこめないが、とにかく二組にわかれ、一組は廊下から表座敷を通りぬけて庭へ廻った。研究室に残った一組は硝子窓の下に飛びだす機会を待っていた。と、庭の方から叫び声が聞えた。 「いたぞ」 「こら、待てッ」 「逃がすな。皆、こい」 この声に、研究室にいた一組も、窓を開いて、薄暗い庭へ飛び下りた。そのとき、庭から廻った一組は、松の木の下をもぐって往来へ向かっている気配であった。 道夫は、一番後から窓を越して庭へ下りた。道夫の手には、携帯電灯が光っていた。それは研究室の雪子の机の上にあったもので、これ幸いと持ってでたのであった。 往来へでてみると、人々はがやがやいいながら、だんだん戻ってきた。 「暗いものだからね、とうとう見失ってしまった」 「相手が幽霊じゃ、もともとぼんやりしか見えないものですからねえ」 「やっぱり幽霊ですかね。私は、足音を聞いたように思いますよ。幽霊に足音はおかしいですからねえ。かねて幽霊には足がないと聞いていますからねえ」 「いや、私は足音を聞かなかった。そして幽霊を今田さんの塀のところまで追いつめたんだが、とたんに私は足を滑らせて、はっとしたんですがね、それでおしまいでした。もう幽霊の姿はどこにも見えなかった」 「この眼鏡は、どなたの眼鏡でしょうか」 そういって、黒っぽい硝子の入った枠の重い眼鏡を一同の上に出してみせたのは道夫だった。彼はそれを松の木の下で拾ったのである。 誰もその眼鏡を、自分のものだとこたえる者はなかった。道夫は、その眼鏡の落し主のことを心の中に問題にしていたが、一同はそんな事を問題にとりあげてはいなかった。そして幽霊か生きている人間かの議論が、いつまでも賑かに続いた。 道夫はもう一度研究室へ引返したが、そのとき彼は一つの重大なる発見をした。それは部屋の中央の丸卓子の上に立てて並べてあった雪子学士の研究ノート八冊が紛失していることだった。道夫はあれやこれやを考え合わせ、ある一つの推定を心の中に思いついたのだった。 彼はもう一度庭にでて、携帯電灯を照らしながら、やわらかい土の上を熱心に探しまわった。そして例の松の木の下へきたとき、 「うわあ、大事な足跡がめちゃめちゃになった」 と、歎きの声をあげた。 が、彼はしばらくして何か新発見をしたらしく、ポケットから紐をだして、地上にあてた。そこには一つの大きな新しい足跡がついていた。彼はその寸法を綿密にはかった上で、周囲に木の枝を刺して目印にした。おそらく明日あかるくなったら、その足形を紙の上にうつしとるつもりなのであろう。
道夫の憤激
その翌日、木見邸は係官一行を迎えた。 研究室や廊下や庭や往来などの現場が隣組総出の説明と共に、一応念入りに調べられた。 その結果、係官は木見武平を始め一同に対し、さらに気をつけるように命令した上で、 「しかし幽霊説は問題にしませんよ。そういう荒唐無稽なことの捜査は、本庁ではやりませんよ。だから、お嬢さんの失踪先をなお一層探すことと、川北という教師の行方及びその素行調査をすること。この二つの現実なる事件について、できるだけのことをします。あなた方も、今後は気をしずめて、もっと冷静に物を見、そして具体的な証拠をおさえて、報告するようにして下さい」 と、さとした。 隣組の中には、この訓戒を納得した者もいたが、また反対に不満に感じた者が少くなかった。係官の口ぶりでは、この隣組の一同が、さも迷信家の集まりであって、この世にありもしない幽霊の幻影を見て、愚かにもさわぎたてているという風に聞えたからである。とにかく係官のこのような態度から推して考えると、係官はあまりこの事件について熱心ではないらしい。 雪子の両親の失望、隣組の人々の不満、そして道夫の憤激――道夫の憤激は、彼が拾った色眼鏡を係官に示す機会を遂に失ってしまった。もちろん、彼が胸に今抱いているある推定についても、口を開かせはしなかった。道夫が、現場から拾った物件について、係官へ報告しなかったことは、彼が義務をおこたったことには違いなかったけれども、道夫をして進んで義務を果させなかったほど悪い印象を与えた側には責任がないとはいえないであろう。 とにかく道夫の憤激は大きく、 (よし。こうなったら、僕はきっとこの真相をさがしてみせる。係官を成程といわせてみせるぞ) と、胸にかたくちかったのであった。 それから後の道夫は、まったく気の毒なほど淋しい立場にあった。 川北先生は、何日たっても、自分の住居にも帰らず、学校にも姿を見せなかった。先生の素行についてある疑いを持ったらしいその筋では、二三日先生の住居と学校とに刑事を張込ませたが、先生がいつまでたっても戻ってこないとわかると、その警戒をといた。 学校には、道夫の同情者が多かった。校長先生を始め諸先生は何回も道夫について同じことをたずねた。が、格別いい手段も考えつかなかったように見える。道夫の級友たちこそ、真剣に道夫に同情した。そして道夫のために共同の捜査を開始することになった。だがこれも、事実はあまり具体的に進行しなかった。というのは、生徒たちにはあまりに手ごわすぎる事件内容であったので、どうすることもできなかった。 こうして事件は、八方ふさがりの迷宮入りをしたかに思われるに至った。 それは川北先生の失踪からちょうど七日目の午後のことであるが、道夫は学校から帰ると、例の重い心と事件解決への惻心とを抱いて、ひとりで広い多摩川べりを歩いていた。彼の胸の中には、一つの具体的な懸案があった。それはいつだか川北先生と共に、家の裏でふんづかまえたことのある怪しい浮浪者の老人に出会いたいことだった。 あの怪老人は今となって考えると、雪子学士の失踪について何事かを知っている有力なる人物だった。気味のわるいそして危険な相手だが、何とか話しこめばこの事件について道夫の知らない手がかりがえられるかもしれないと思う。しかも道夫はその老人に対して新しい問題を持っているのだった。それはあのさわぎの日、松の木の下で拾った色眼鏡は、この老人の持ち物ではないかという疑いだ。万一それが当っていたら、あのどさくさまぎれに研究室にしのび入り、雪子学士の研究ノート八冊をうばい窓から逃げだした人物こそ、この怪老人に違いないという結論になるはずだった。 そんなことを考えながら、道夫は堤の上をぶらぶら歩いていた。そのとき彼が、ふと堤の下から一条の煙があがっているのに目をとめ、その煙をつたわって何気なく、その煙の源を見ると、一人の男が焚火をして、何か物を煮ているのだった。道夫は、いきなり堤下へ飛び下りた。 「おじいさん。しばらくだったね」 相手は、ぎょっとして道夫の顔を仰いだ。道夫はそのとき老人が髯面に色眼鏡をかけているのを見て取った。だがその色眼鏡は、かねて見覚えのあるものとは違い、枠の細いものであることに気がついた。さてはと道夫の胸はおどった。 老人はつと立って、例の不恰好な厚着をした身体をぶるんとふるわせると、物もいわずに逃げだした。 「話があるんだ。待ちなさい。おじいさん」 道夫は後から追いかけた。が老人の足は意外に速く、道夫の方は堤の雑草に足を取られそうで、気が気ではなかった。そのうちに道夫はあっと声をあげた。思いがけなく穴ぼこに落ちこんだのである。その穴は意外に深く、彼は落ち込む途中でいやというほど頭を打った。どこかで老人のあざけり笑うらしい声が聞えた。と、道夫は気が遠くなってしまった。
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