大総督と女大使
このイネ州の首都オハン市は、深い湾の奥にある人口五百万の都市だった。 その湾から、太青洋を通ずるには、天嶮ともいうべき狭い二本の水道を経るのであった。東に向った水道を、紅水道といい、南に向った水道を黄水道という。 今日、祝勝日にあてられたイネ州大総督のベル・ハウスからは、この二つの水道が、手にとるように見え、天気のいい日には、太青洋の青々とした海面さえ、はっきり望まれるのであった。 ベル・ハウスは、人工で出来た大きな丘のうえに立った古城のような高層建築であった。 その宏大な広間や、屋上や、廊下や、そしてバルコニーまでが、今日は生花とセルロイド紙とをもって、うつくしく飾られていた。そしてけばけばしく着飾ったアカグマ人がこれから始まるさまざまの余興の噂をしたり、間もなく開かれる大饗宴の献立について語りあったり、ここばかりはまるで天国のような豪華さであった。 祝典を、とどこおりなく終えたアカグマ最高行政官の大総督スターベア公爵は、幕僚委員と、招待しておいた各国使臣とに取り囲まれて、子供のように、はしゃいでいた。 大総督は、あか茶けた太い髭を、左右にひねりのばしながら、 「いやあ、愉快このうえなしじゃ。このイネ州の統治も三十周年をむかえてごらんのとおり、まず完成の域に達した。わがアカグマ国は、従来は、寒い山岳地帯に、吹雪と厚氷とを友として、小さくなっていたが、今や千二百キロに及ぶ暖かい海岸線を領し、それにつづく数百万平方キロの大洋を擁して歴史的な豪華な発展をとげた。われわれは、この新しき国の富に足をおき、更に国運の一大発展を期するものである。さあ、諸君、それを祝って、どうか祝杯をあげていただきたい!」 そういって、スターベア大総督は、大きな水晶の杯を高くあげた。 「アカグマ国、万歳!」 「スターベア大総督、万歳!」 喝采の声と音とは、大広間を、地震のようにゆすぶった。 大総督は、満悦のていであった。 彼は、常に似ず、誰彼の区別なく、しきりに愛嬌をふりまいて、にこにこしていた。 そのとき、大総督の前に、黒い金の網でつくった手袋をはめたしなやかな手が、つとのばされた。 「やあ、これはゴールド大使閣下」 と、大総督は、大きなパンのような顔を一段とゆるめて、その黒い手袋の手を握った。 ゴールド大使! それは、この太青洋を距てて、東岸に大本国を有するキンギン連邦政府の女大使、ゴールド女史であった。 ゴールド女史は、年齢わずかに二十九歳という若さでもって、キンギン国にとっては、最も深い意義を持つこのアカグマ国イネ州駐剳の特命全権大使として、首都オハン市にとどまっているのであった。 「ああ大総督閣下。今日の御招待を、心から、感謝します。そしてアカグマ国の大発展、とりわけこのイネ州の統治三十周年をお祝いいたします」 「いやあ、ありがとう。キンギン国の使臣から、そういっていただくのは、このうえもない喜びです。つつしんで、貴国の大統領閣下へよろしく仰有ってください」 大使ゴールド女史は、スターベア大総督の挨拶には、無関心である如く、 「さっきのお言葉のうちに、わがキンギン連邦の人民として、黙っていることができないものがございましたが、大総督閣下には、すでにお気付きでいらっしゃいましょうね」 と、意外にも強硬な語気でもって、スターベアを突いた。 「えっ、なんですって。このわしが、善隣キンギン連邦の神経を刺戟するようなことをいったと、仰有るのですか。その御推察はとんでもないことです」 「そうとばかりは、聞きのがせません。もし閣下が、妾の位置においでだったら、やはり、同じ抗議を発しないでいられますまいと存じます」 「ほう、そうですか。そんなに大使閣下を刺戟する暴言をはいたとは、思いませんが……はてどんなことでしたかな」 大総督は、本当にそれに気がつかないのか、それとも、わざと白ばくれているのか、どっちであろうか。 ゴールド大使は、そこで一段と声をはげまして、 「では、こっちから申上げましょう。アカグマ国は、イネ州を統治すること三十年、千二百キロの暖かい海岸線を得、そしてそれにつづく数百万平方キロの大洋を擁するに至ったと、仰有ったではありませんか。それとも、それを否定なさいますか」 女史は、語尾をヒステリー患者のそれの如く震わせて、大総督につめよった。 一座は、この予期しなかった抗議の一場面に、急に白け亘った。 「あっはっはっ」 大総督は、はじめさっと顔色をあおざめたが、すでに彼の面上には、赤い血がうかんで来た。そして腹を抱えて、哄笑したのだった。 「あっはっはっ。それはとんでもない誤解です。わが国と貴国とは太青洋を間に挟んだ世界の二大強国である。太青洋は、永遠に両国の緩衝地帯である。太青洋のあるお蔭で、これら二大強国は、永遠に衝突を回避できるであろう。されば、両国にとって、太青洋の存在こそ、このうえない幸運なる宝物だと、いわなければならない。どうです、大使閣下、おわかりですか。わしが(太青洋を擁し云々)といったのは、そういう意味だったのです。わしは喋るのが下手でしてな、どうか、お笑いください。あっはっはっはっ」
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