ふしぎな味噌汁
「どうだ、三郎。噴行艇に乗って、一ヶ月たったが、すこしは、気がおちついたか」 一人の艇夫が、煙草をくわえて、三郎の横に、腰をおろした。それは、三郎と同郷の、神戸生れの艇夫で、鳥原彦吉という男であった。彼は、やさしい男で、そして艇夫には似あわぬものしりだった。三郎は、彼を、ほんとうの兄のように思っていた。 「ええ、だいぶん、なれましたよ」 三郎は、缶詰の中から、青豆を箸ではさみながら、にっこり笑った。 「おれはこれで三度日の宇宙旅行なんだが、お前は始めてだから、勝手がわからないで困るだろう」 「困ることも、ありますねえ。第一、朝になった、昼になったといわれても、外はこのとおりまっくらですからねえ。勝手がちがいますよ」 「そうだろう。永年、太陽の光の下でくらしていた身になれば、まっくらな夜ばかりの連続では、くさくさするのも、むりじゃない」 「太陽の光線は、今となっては、とてもなつかしいものですね」 三郎は、しみじみといった。地上に照る太陽の眩しい光を思い出す。地上から、まいあがっても、成層圏ちかくのところまでは、それでもまだうっすらと夕方のような太陽のかすかな光があったが、成層圏の中をつきすすんでいくうちに、いつしかあたりは、暗黒と化してしまった。しかも、はるかに天の一角を見ると、ダイヤモンドをふりまいたように、きらきらと輝くうつくしい無数の星に変って、われらの太陽が、青白く光っているのであった。太陽は光っているが、空はまっくらであった。まるで夜中に満月を仰いでいるのと、あまり感じがちがわなかった。今から思いかえしてみると、どうもあのころから、地球の上にいたときとは、いろいろちがった出来ごとがふえてきたようであった。 あれから間もなく、身体がなんだか軽くなったように感じた。机のうえから、物がおちるのを見ていると、なんだか、高速撮影でとった映画のように、ゆっくりとおちるような気がした。そのことを、この鳥原彦吉に話をすると、 (ああ、それは重力が、ぐんと減ったからだよ。つまり地球からずいぶんとおくへ離れたものだから、地球の引力がよわくなったんだ。物もゆっくりおちるだろうし、身体も軽く感ずるだろう。これからもっと先へいくと、重力が減りすぎて、妙ちきりんなことが起るだろうよ。気をつけていたまえ) と、この鳥原がおしえてくれたことがあった。 三郎は、それを思い出したものだから、 「ねえ、鳥原さん。あれからのち、あまり重力が減ったような気がしないが、どうしたんでしょう」 ときいた。 すると、鳥原は、吸口まで火になった煙草を、灰皿の中でもみけしながら、 「ああ、重力のことか。重力は大いに減ってしまったさ。しかし、重力が減りすぎると、われわれの仕事や何かに、すっかり勝手がちがってくるので困るのさ。だから、今は、機械をうごかして、この艇内には、人口重力が加えてあるのさ」 「人口重力て、なんですか」 「人口重力というのは、人間の手でこしらえたにせの重力のことさ。そうでもしないと、たとえばこの食卓のうえに味噌汁のはいった椀がおいてあったとして、お椀をこういう工合に、手にとって口のところへ持ってくるんだ。すると、お椀ばかりが口のところへ来て、味噌汁の方は、食卓のうえに、そのまま残っているようなことがおこるんだ」 「えっ、なんですって」 三郎には、鳥原のいうことが、すぐにはのみこめなかった。なにしろ、あまり意外なことだったので、 「あまりへんな話だから、分らないのも無理はないよ。その話は、この前、僕が宇宙旅行をしたときに、実際あったことなのさ。そのとき僕はずいぶん面くらったよ。なにしろ、口のそばへもってきたお椀は空なのさ。そして味噌汁が、食卓のうえに、まるで雲のようにかかっているのさ」 「雲のようにかかっているとは、どんなことかなあ」 「雲のようにというのが、分らないのかね。つまり、よく富士山に雲がかかっているだろう。あれと同じことで、味噌汁が、下へこぼれ落ちもせず、まるでやわらかい餅が宙にかかっているような恰好で、卓上の上をふわふわうごいているんだ。僕はおどろいたよ。そして、仕方がないから、両手をだして、宙に浮いている味噌汁をつかんでは、椀の中におしこみ、つかんではおしこんだものさ。あははは」 鳥原は、そのときのことを思いだしてか、おかしそうに肩をゆすぶった。 「ずいぶん、おもしろい話ですね」 「おもしろいのは、話として聞くからだ。ほんとうに、こんな目にあってごらん。それこそ、あまりふしぎで、気もちがわるくて仕方がないよ」 そういっているとき、小食堂の天井にとりつけてあるブザー(じいじいと蜂のなくような音――を出す一種の呼鈴)が鳴りだした。 「あっ、いけない。もう交替時間だ」 風間三郎は、ひょこんと椅子からとびあがった。
交替時刻
「第六直艇夫、作業やめ。第一直艇夫、持ち場につけ!」 高声器から、先任の当直操縦士の声が、ひびきわたる。 「そら、交替だ」 だっだっだっと、靴音が廊下に入りみだれる。 風間三郎少年は、ほのあかるい廊下を、元気に、弾丸のようにとんでいって、艇長室の前へいって、直立不動の姿勢をとった。 噴行艇の中は、ずいぶん規律がきびしかった。作業中は身がるいときは、どんなときでも、駈け足ときまっていた。ちょうど、帝国海軍の水兵さんと同じようであった。これはできるだけ敏捷に身体をうごかす訓練のためと、もう一つは運動不足にならないためであった。すこしぐらい気持のわるい日でも、号令をかけられて、艇内をあっちへこっちへ、二三度かけまわると、妙に元気をとりもどす。 艇長室の前には、一人の少年が立って、風間の来るのを待っていた。それは、木曾九万一という、またの名、クマちゃんでとおっている、身体の大きな腕ぷしのつよい少年であった。 風間三郎と、このクマちゃんこと、木曾九万一とは、大の仲よしであった。そこへかけてきた風間少年を見て、木曾は、にんまりと笑ったが、すぐまたもとのいかめしい顔になって、姿勢を正した。 その間に風間が、気をつけをして立った。 「艇長室附の艇夫交替」 と、クマちゃんが叫んだ。 「艇長室附の艇夫交替」 と、風間三郎が、反復していった。 「艇長室に於て、辻艇長は睡眠中、コーヒー沸しは、もうすぐにぶくぶくやるだろう。ゴム風船地球儀は、目下印度洋の附近を書いていられる。艇長九時になっても起きないときは、オルゴールを鳴らして起せ。その外、引きつぐべきこと、および異状なし。おわり」 やれやれ、妙な引きつぎ事項である。しかし艇長室の仕事は、まずこんなところである。風間三郎は、木曾九万一のいったとおりを、もう一度おさらえして喋ってみる。 「あっ、いい忘れた。オルゴールの曲は『愛馬進軍歌』をやってくれってさ」 木曾のクマちゃん、地金を丸だしにして、あわてて、後につけた。 「分りました。交替艇夫、休息についてよろしい」 「え、えらそうなことを!」 木曾は、赤い舌をぺろんと出して、風間をからかった。そして、うやうやしく挙手の礼をかえして、廊下を向こうへいった。 こうして、風間三郎が、本日の第一直をうけもつこととなった。次の交替時間は十二時であった。だから今から四時間を、艇長室にいて、艇長の身のまわりの用を足すのであった。 風間は、艇長室の扉の把手に手をかけたが、どうしたわけか、すぐ手を放した。そしてその手で、指を折りかぞえ出した。 「ええと、一つ、コーヒー沸しは、もうすこしで、ぶくぶく噴き出すぞ。それから二つ、ええと、ゴム風船の地球儀は、印度洋の附近を書いていられるところだと。それから三つ、オルゴールは『愛馬進軍歌』なり。それからもう一つ何かあったようだが……」 もう一つの引きつぎ事項を、三郎は、胴わすれしてしまった。 「まあ、いいや」 で、三郎は、扉を押して中に入った。 中には、太陽光線と同じ色の電灯がついている。その電球は、天井一面のすり硝子の中に入っているので、下からは見えない。その代り、天井の上に、本物の太陽の光が、さんさんと照りかがやいているような気がする。とにかく、ここは艇長室だから、とくにいろいろ気をつけてあるのだった。 部屋の正面に、ジュラルミンの扉がはまっていた。その扉には、薄彫りの彫刻がしてあって、神武天皇御東征の群像が彫りつけてあった。これは、今大宇宙を天がけりいく、われら日本民族の噴行艇群にうってつけの彫刻だった。 かたん、かたん、かたん。 コーヒー沸かしの蓋が鳴っている。三郎は、おどろいて、その傍へいった。すこし沸きかたが早かったようである。 扉の向こうで、ぐうぐうと、うわばみみたいないびきが聞える。それは、艇長辻中佐の寝息にちがいなかった。中佐のいびきと来たら、これはだれも知らない者はない。 三郎は、コーヒー沸しの前に、椅子をもっていって、腰を下ろした。そして、手をのばして、地球儀になるゴム風船が、ぺちゃんこのまま、いくつも押しこんである箱を手にとって、その中をさがしはじめた。 すこぶるのんびりした朝の風景だった。
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