十五年の行程
「おい、三郎。いつまで、ねているんだい。もういいかげんに、目をさましたらどうだい」 その声は、ひびの入った竹ぼらをふくと出てくる音に似ていた。そこで三郎は、ようやく釣床の中で、眼をさましたのだった。すこぶるやかまし屋の艇夫長松下梅造の声だと分ったから目をさまさないわけにいかなかった。ぐずぐずしていれば、足をもって、逆さまに釣り下げられ、裸にされてしまうおそれがあった。そんな眼にあっては、また大ぜいのものわらいである。 「はい。今おきますよ」 「おきますよ? そのよがいけない。はい、おきます――だけでいいんだ。よけいなよをつけるない」 (これはいけない!) 三郎は、あわてて釣床から下に落ちるようにして、おきたのだった。 はたして、前には、艇夫長松下梅造が、西郷さんの銅像のような胸をはって、釣床ごしに彼の顔をにらみつけていた。 「艇夫長、お早う。もう朝になったのですかい」 「知れたことだ。あと三十分で、お前の交替時間だぞ。時計は、七時半をさしていらあ」 艇夫長は、そういって、拳固のせなかで、赤い団子鼻をごしごしとこすった。 ぷう、ぷう、ぷう。 知らない人がきいたら、このとき豚の仔がないたのかと思うだろう。しかしそのぷうぷうは豚の仔がないたのではなくて、艇夫長の鼻が鳴ったのであった。鼻をこすると、この奇妙な音がするのであった。 (これは、たいへん。艇夫長のごきげんが、きょうはたいへん悪いぞ!) 三郎は、あわてて、パンツの中へ足をつきこんだ。あまりあわてたので、パンツの片方へ、足を二本ともつきこんだので、彼は身体の中心をうしなって、どすんと床にたおれた。たおれる拍子に、そこにあった気密塗料の缶をけとばしてしまった。缶は、横とびにとんで、艇夫長の向こう脛に、ごつんといやな音をたてて、ぶつかった。 「こらっ、なにをする」 艇夫長は、顔をたちまち仁王さまのように、真ッ赤にして、缶をけりかえそうとした。が、とたんに足をとどめて、床から缶をひろいあげた。 「ああ、もったいないことをやるところだった。この一缶が、おれたちの生命をすくうこともあるかもしれないのだからなあ。やい、三郎、気をつけろい。ここは、地球の上じゃない。まるで何もない大宇宙の砂漠なんだから……」 艇夫長は、缶をそっと床の上において、しずかに、元の隅へおしやった。大宇宙の長旅にある噴行艇の中では、一滴の塗料、一条の糸も、人命にかかわりのある貴重な物質であった。 「おい、三郎。早く飯を食って、交替時間におくれるな。いいかい、小僧」 「へーい」 艇夫長は、ようやく腹の虫を自分でおさえて、艇夫寝室を出ていった。 三郎は、ほっとため息をつきながら、すばやく身じたくをし、それから釣床の中を片づけて交替の艇夫がすぐ様ねられるように用意をした。そして急ぎ足で、小食堂の方へ階段をのぼっていったのだった。 小食堂には、先におきた艇夫たちと、それから非番の艇夫たちが、卓をかこんで、さかんにぱくついたり、茶をがぶがぶのんだり、それから煙草をぷかぷかふかしたり、まるで場末の小食堂とかわらない風景だった。 三郎が入っていくと、艇夫たちは、にんまりと眼で笑って、そのまま話をつづけるのだった。三郎は、並べられた朝食に手を出しながら、彼らのいうことを、聞くとはなしに耳をかたむけた。 「……というわけなんだが、なんかいい名前を考えてくれよ」 「そうさなあ。そんなことはわけなしだい。チュウイチてえのはどうだ」 「チュウイチ? どんな字を書くのかね」 「宇宙の宙と、一二三の一よ。つまり宙一というわけだ。お前は、はじめて噴行艇にのって宇宙へのりだしたんだろう。だから、その留守に生れた子供に宙一とつけるのは、いいじゃないか」 「なるほど、宙一か。よい、いい名前だ。昨夜からおちつかなかったが、これでやっと、気がおちついたぞ」 と、その艇夫は立ち上る。 「お前、どこへいくんだい」 「知れたことよ。これから無電室へいって、今すぐ家内のやつを、無電で呼びだしてもらって宙一という名をおしえてやるのさ。説明してやらなくちゃ、うちの家内は、あたまが悪いと来ているから、通じないよ」 「まあ、なんとでもするがいい。ついでに、うちの家内にことづけをして、お前の家内のところへ、子供の誕生の祝物をとどけるようにいってくれ」 「ばかなことをいうな。こっちから、さいそくをする――それではおかしいよ」 「遠慮するようながらでもあるまいに、あははは」 「あははは。とにかくいって来よう」 艇夫の一人は出ていった。 あとで仲間の艇夫たちは、顔を見合わせ、 「ああはいったが、すこしは里心がついているのじゃないかな。つまり、この噴行艇がこんど地球に戻るのは十五年後だから、昨夜生れたあの男の子供が、十五六歳にならなきゃ、わが児の手が握れないんだからなあ」 「うむ、まあ、そうだ。だが、そんな話はよそうや。こっちまでが、里心がつくからな」 十五年後だと、艇夫たちが話をしているところをみると、この噴行艇は、これからずいぶん長い行程をとびつづけるものらしい。
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