省線電車の射撃手(しょうせんでんしゃのしゃげきしゅ)
6 大江山警部は電話をガチャリと切ると、しばし其の場に立ちすくんだ。考えてみるまでもなく、彼の立場はたいへん不運だった。彼は今度の事件で、どうしたものか、犯人の目星を一向につけることができなかった。昨日今日の事件ではあるが、林三平、倉内銀次郎、戸浪三四郎、赤星龍子、笹木光吉と疑いたい者ばかり多いくせに、犯人らしい人物を指すことができないのだった。唯今の総監の言葉から思いついたことは、電気の先生だった戸浪が相当(そうとう)頼母(たのも)しい探索をしていてくれるから、彼と同盟すれば、大いに便宜(べんぎ)が得られるであろうという見込みだが、但し戸浪自身が犯人の場合は全く失敗になるわけだった。戸浪に会って気をひいた上で決定しようと考えた。赤星龍子が笹木の愛人であるのは驚いたが、前後二回も、殺人のあった電車にのっていたのは、一寸(ちょっと)偶然とは考えられない。実は先刻部下に命じて置いた龍子の動静(どうせい)報告がきた上で、もすこし詳(くわ)しく考えてみたい。…… 大江山警部は電話のある室を出て、階段をプラットホームに下りながら、懐中時計を出してみた。もう夜も大分(だいぶ)更(ふ)けて、ちょうど十時半になっていた。昨日の今頃突如として起った射殺事件のことを思いだして、いやな気持になった。すると、どこやら遠くで、非常警笛(けいてき)の鳴るのをきいた、と思った。 彼は階段の途中に立ちどまった。「ポ、ポ、ポ、ポッ」 ああ、警笛(けいてき)だ。紛(まぎ)れもなく、上(のぼ)り電車の警笛だ。次第次第に、叫音(きょうおん)は膨(は)れるように大きくなってくるではないか。彼は墜落(ついらく)するように階段を駆けくだった。そのとき丁度(ちょうど)、叫喚怒号(きょうかんどごう)する人間を積んだ上り電車が、驀地(まっしぐら)にホームへ滑りこんできたのだった。「やられたかッ」警部は呶鳴(どな)った。「また若い婦人です」と車掌が窓から叫んだ。「窓があいているじゃないか、あれほど言ったのに」警部は真赤になって憤慨した。「エビス駅を出るときには閉っていたんです」「よォし、では乗客を禁足(きんそく)しとくんだぞ」「わかりましたッ」 大江山警部は、若い婦人の屍体(したい)が転(ころが)っているという二輌目の車輌の前へ、かけつけた。窓がパタリと開いて、多田刑事の泣いているような顔が出た。「課長どの、殺されたのは赤星龍子です」「えッ、赤星龍子が――」 総監から注意のあったばかりの女が殺された。警部自身が大きい疑問符を五分ほど前にふったその女が殺されたのだった。警部は車中へ入ってみた。「課長どの」と多田刑事は警部をオズオズと呼んで、この車輌の一番先端部にあたる左側客席の隅(すみ)を指(さ)した。「ここの隅ッ子に龍子が腰を下ろしていました。向い側の窓はたしかに閉っていたんですが、ビール会社の前あたりまで来たときに、そこにいた地方出身の爺(じい)さんが、窓をあけちまったんです。私が止めようとしたときにはもう遅うございました」「君は一体どこに居たんだ」「向うの入口(と彼は指を後部扉(ドア)へさしのべた)から龍子を監視していたのです」「龍子は死んだか」そう云って警部はうしろを向いた。彼女は軽便担架(けいべんたんか)の上で、裸にむかれていた。「課長さん、重傷ですが、まだ生きています。創管(そうかん)は心臓を掠(かす)って背中へむけています。カンフルで二三時間はもっているかも知れません」と医師が言った。「意識は恢復(かいふく)しないかネ」「むずかしいと思いますが、兎(と)に角(かく)さっきから手当をしています」「輸血でもなんでもやって、この女にもう一度意識を与えてやってくれ」警部は、紙のように真白な赤星龍子の顔を祈るようにみてそう云った。「多田君、田舎者の爺(じい)さんというのは、どこに居るか」「はァ、そこに居ますが……」そう云って多田刑事は車内の連中の顔をみまわしたが居なかった。刑事は狼狽(ろうばい)して、一人一人を訊問(じんもん)した。その結果、仕切の小扉(こドア)をひらいて後の車へ行ったのを見たと云った者がいた。驚いて後の車を尋(たず)ねてみたが、田舎者の爺さんなんか、誰も見たものがないというのだった。「なに、どこにも見当らないって」その報告をきいた大江山警部は、鈍間(とんま)な刑事を殴(なぐ)りたおしたい衝動(しょうどう)に駆(か)られたのを、やっとのことで我慢した。「課長どの、こういう方がお目にかかりたいと仰有(おっしゃ)いますが」と部下の一人が、一葉(いちよう)の名刺を持って来た。とりあげてみると、「私立探偵。帆村荘六」 大江山警部は、帆村の力を借りたい心と、まだ燃えのこる敵愾心(てきがいしん)とに挿(はさま)って、例の「ううむ」を呻(うな)った。そのとき側(かたわ)らに声があった。「大江山さん。総監閣下を通じてお願いしましたところ、お使い下さるお許しを得たそうでして大変有難うございました」「やあ、帆村君」警部は、青年探偵帆村荘六の和(なご)やかな眼をみた。事件の真只中(まっただなか)に入ってきたとは思われぬ温容(おんよう)だった。彼は帆村を使うことを許した覚えはなかったが、それは多分帆村探偵の心づかいだろうと悟って、悪い気持はしなかった。 帆村探偵と大江山捜査課長とは、顔を近づけて、それから約二十分というものを、低声(ていせい)で協議をした。それが終ると、大江山警部の顔色は、急に生々と元気を恢復してきたように見えた。「さあ、赤星龍子さんを、伝染病研究所の手術室へ送るんだ。ここから一番近くていい。それから私も、そっちの方へ行くから、用事があったら電話をかけて貰いたい」 部下一同は呆気(あっけ)にとられたのだった。大江山課長は、今宵(こよい)三人の犠牲者を出したこの駅に、徹夜して頑張るのだろうと、誰もが思っていた。なんの面目(めんぼく)があってオメオメ此の現場を去ることができるのか。それに、電車はまだひっきりなしに通る筈だ。終電車までにまだ二時間もあるではないか。それを気に留めないで引き払おうという課長の意が、那辺(なへん)にあるかを計りかねた一同だった。 頭の働く部下の一人は、こう考えた。(課長が重症の赤星龍子について引上げるというは、最早(もはや)今夜は犯罪が行われないことがわかったのだ。なぜそれが確かになったのであるか。――うん、もしかすると、赤星龍子が射たれたというのは間違いで、彼女は、われとわが身体を傷(きずつ)けたんじゃなかったか。彼女の自殺! あの怖ろしい省線電車の射撃手は、実に赤星龍子だったんだ。) そう思って眺めると、彼女を伝研(でんけん)の病室に送る一行の物々しさは、右の推定(すいてい)を裏書(うらが)きするに充分だった。「赤星龍子はカンフルで持ち直して、うまくゆくと一命はとりとめるかもしれないということだ」 そんな噂が、伝研ゆきの自動車が出て行ったあとで、駅員たちの間に拡って行ったほどだった。果して龍子は助かるだろうか。のこる四人の容疑者の謎は、もうとけたのだろうか。
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