省線電車の射撃手(しょうせんでんしゃのしゃげきしゅ)
2 もう九月も暮れて十月が来ようというのに、其の年はどうしたものか、厳しい炎暑(えんしょ)がいつまでも弛(ゆる)まなかった。「十一年目の気象の大変調ぶり」と中央気象台は、新聞紙へ弁解の記事を寄せたほどだった。復興新市街をもった帝都の昼間は、アスファルト路面が熱気を一ぱいに吸いこんでは、所々にブクブクと真黒な粘液(ねんえき)を噴(ふ)きだし、コンクリートの厚い壁体(へきたい)は燃えあがるかのように白熱し、隣りの通(とおり)にも向いの横丁(よこちょう)にも、暑さに脳髄を変にさせた犠牲者が発生したという騒ぎだった。夜に入ると流石(さすが)に猛威をふるった炎暑(えんしょ)も次第にうすらぎ、帝都の人々は、ただもうグッタリとして涼(りょう)を求め、睡眠をむさぼった。帝都の外郭(がいかく)にそっと環状(かんじょう)を描いて走る省線電車は、窓という窓をすっかり開き時速五十キロメートルの涼風(りょうふう)を縦貫(じゅうかん)させた人工冷却(フォースド・クーリング)で、乗客の居眠りを誘った。どの電車もどの電車も、前後不覚に寝そべった乗客がゴロゴロしていて、まるで病院電車が馳(はし)っているような有様だった。そんな折柄、この射撃事件が発生した。その第一の事件というのが。 時間をいうと、九月二十一日の午後十時半近くのこと、品川方面ゆきの省線電車が新宿(しんじゅく)、代々木(よよぎ)、原宿(はらじゅく)、渋谷(しぶや)を経(へ)て、エビス駅を発車し次の目黒駅へ向けて、凡(およ)そその中間と思われる地点を、全速力(フル・スピード)で疾走していた。この辺を通ったことのある読者諸君はよく御存知であろうが、渋谷とエビスとの賑(にぎ)やかな街の灯も、一歩エビス駅を出ると急に淋しくなり、線路の両側にはガランとして人気(ひとけ)のないエビスビール会社の工場だの、灯火(ともしび)も洩(も)れないような静かな少数の小住宅だの、欝蒼(うっそう)たる林に囲まれた二つ三つの広い邸宅だのがあるきりで、その間間(あいだあいだ)には起伏のある草茫々(くさぼうぼう)の堤防や、赤土がむき出しになっている大小の崖(がけ)や、池とも水溜(みずたまり)ともつかぬ濠(ほり)などがあって、電車の窓から首をさしのべてみるまでもなく、真暗で陰気くさい場所だった。この辺を電車が馳(はし)っているときは、車内の電燈までが、電圧が急に下りでもしたかのように、スーッと薄暗くなる。そのうえに、線路が悪いせいか又は分岐点(ぶんきてん)だの陸橋(りっきょう)などが多いせいか、窓外から噛みつくようなガタンゴーゴーと喧(やかま)しい騒音が入って来て気味がよろしくない。という地点へ、その省線電車が、さしかかったのだった。 その電車は六輌連結だったが、前から数えて第四輌目の車内に、みなさんお馴染(なじみ)の探偵小説家戸浪三四郎が乗り合わせていた。もし読者諸君がその車輌に同車していたならきっとおかしく思われたに相違(そうい)ない。というのは、戸浪三四郎は『新青年』へ随筆を寄稿してこんなことを云った。「僕は電車に乗ると、なるべく若い婦人の身近くを選んで座を占める。彼女の生(なま)ぐさい体臭や、胸を衝(つ)くような官能的色彩に富んだ衣裳や、その下にムックリ盛りあがった肢態(したい)などは、日常吾人(ごじん)の味(あじわ)うべき最も至廉(しれん)にして合理的なる若返(わかがえ)り法である」と。そして、成程(なるほど)戸浪三四郎の向いには、桃色のワンピースに、はちきれるようにふくらんだ真白な二の腕も露(あらわ)な十七八歳の美少女が居て、窓枠に白いベレ帽の頭を凭(もた)せかけ、弾力のある紅い口唇(くちびる)を軽くひらいて眠っていた。それから戸浪三四郎の隣りには、これはなんと水々しく結(ゆ)いあげた桃割(ももわ)れに、紫紺(しこん)と水色のすがすがしい大柄の絽縮緬(ろちりめん)の着物に淡黄色(たんこうしょく)の夏帯をしめた二十歳(はたち)を二つ三つ踏みこえたかと思われる純日本趣味の美女がいた。車内にチラホラ目を覚(さま)している組の連中は、この二人の美しい対照に、さり気ない視線をこっそり送っては欠伸(あくび)を噛みころしていたのだった。 車輪が分岐点(ぶんきてん)と噛み合っているらしくガタンガタンと騒々(そうぞう)しい音をたてたのと、車輌近くに陸橋のマッシヴな橋桁(はしげた)がグオーッと擦(す)れちがったのとが同時だった。乗客は前後にブルブルッと揺(ゆ)られたのを感じた。その躁音(そうおん)と激動に乗せられたかのように、例のワンピースの美少女の身体が前方へ、ツツツーと滑(すべ)った。両膝をもろに床の上にドサリとつくと、ブラリと下った二本の裸腕で支えようともせず、上体をクルリと右へ捩(よじ)ると、そのままパッタリ、電車の床にうつ伏(ぶ)せになって倒れた。 車内の人々は、少女が居眠りから本眠りとなり、うっかり打転(うちころが)ったのだったと思った。乗客たちは、洋装のまくれあがったあたりから覗いている真白のズロースや、恐いほど真白な太股の一部に灼(や)けつくような視線を送りながら、今この少女が起きあがって、どのような魅力のある羞恥(しゅうち)をあらわすことだろうかと、期待をいだいた。だが、一同の期待を裏切って、少女はなかなか起き上ろうとしなかった。ピクリとも動かなかった。「様子がヘンじゃありませんか、皆さん!」 そう云って立ち上ったのは、商人体(しょうにんてい)の四十近くの男だった。一座は俄(にわ)かにザワめいて、ドヤドヤと少女の周囲に馳けよった。「早く起してやり給え」 こう云ったのは、探偵小説家戸浪三四郎のうわずった声音(こわね)だった。「モシモシ、娘さん」と甲斐甲斐(かいがい)しく進みでた商人体の男は、少女の肩を、つっついた。無論、少女はなんの応答(いらえ)もしなかった。さらばと云うので、彼氏は右手を少女の肩に、それから左手をしたから少女の胸に差入れて、グッと抱(かか)え起した。少女の頭はガクリと胸に垂れ下った。ヌルリと滑った少女の胸部(きょうぶ)だった。「呀(あ)ッ」抱きおこした少女を前から覗(のぞ)いた男が、顔色をかえて、背後の人の胸倉(むなぐら)に縋(すが)りついた。「血だ。血――血、血、血ッ」その隣りの男が、気が変になったように声を震(ふる)わせて叫んだ。「ヒエッ!」商人体の男は吃驚仰天(びっくりぎょうてん)して、前後の考えもなく、少女の身体をその場にドサリと抛(ほう)り出した。 戸浪三四郎がこれに代って進み出ると、少女の身体をソッと上向きに寝かせた。人々の前に、少女の美しい死顔(しにがお)が始めてハッキリと現れたのだった。左胸部を中心に、衣服はベットリ鮮血(せんけつ)に染っていた。その上、床の上に二尺四方ほどを、真紅(まっか)に彩(いろど)っているところをみると、出血は極めて瞬間的に多量だったものと見える。「車掌君はいないか。駄目らしいが、一応早く医者に見せなくちゃいけない」 そこへ車掌が来た。「皆さん、ずっと後(あと)へ寄って下さい。電車は只今、全速力で次の駅へ急がせていますから……」 言葉の終るか、終らないうちに、電車は悲鳴に似たような非常警笛をならして、目黒駅の構内に突入して行った。電車が停車しない前に、専務車掌の倉内銀次郎はヒラリとプラットホームに飛び降り、駅長室に馳けこむなり、医者と警視庁とに電話をかけた。その間に電車は停り、美少女の倒れた第四輌目の乗客は全部、外に追いだされた。
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