省線電車の射撃手(しょうせんでんしゃのしゃげきしゅ)
4 大江山捜査課長は、警視庁の一室で唯(ただ)ひとり、「省線電車射撃事件」について、想念を纏(まと)めようと努力していた。 戸浪三四郎が「一宮かおるの屍体に異常はないか」と聞いたのは炯眼(けいがん)だった。屍体の纏(まと)っていた衣服の左ポケットに、おかしな小布(こぬの)が入っていた。それは丁度(ちょうど)シャツの襟下(えりした)に縫いつけてある製造者の商標(しょうひょう)に似て、大きさは三センチ四方の青い小布で、中央に白い十字架を浮かし、その十字架の上に重ねて赤い糸で、横向きの髑髏(どくろ)の縫いがあった。 この髑髏の小布(こぬの)はなにを示すものなのだろう。 お守りなのであろうか、と考えた。あまりに平凡である。 不図(ふと)思いついたことは、これはある不良少女団の団員章(だんいんしょう)ではないか、と。殺された一宮かおるは、××女学校の校長の愛娘(まなむすめ)だったのであるが、教育家の家庭から不良児の出るのは、珍らしいことではない。かおるは不良少女であったが、仲間の掟(おきて)を破ったために殺された、と見てはどうであろう。 大江山警部は給仕を呼んで、不良少女調簿(しらべぼ)をもってこさせると丹念にブラック・リストの隅から隅まで探しまわったが、かおるの名前も、その怪しげな徽章(きしょう)も見つからなかった。そうすると、未検挙の不良団なのであろうか。 このように考えてくると、銃丸(たま)は車内でぶっぱなされたと考えるのが、本道(ほんどう)である。だが車内でズドンという音を聞いたものがないではないか。それなら消音(しょうおん)ピストルを用いたものと考えてはどうか。 だが乗客の多くは逃げてしまった。商人と称する林三平と、小説家の戸浪三四郎とを疑うのは最後のことである。車掌の倉内は、たった一人で車掌室(しゃしょうしつ)に居ただけに、すこし弁明がはっきりしない。答弁にすこしインチキ臭いところが無いでもない。彼はピストルの音をきかなかったという。騒音(そうおん)に慣れた彼が、ピストルの音をきかなかったというのであるからそれは本当であろう。 ところが刑事が出かけて、現場附近の住民に聞き正したところによると、当日夜の十時と十一時との間に爆音をきいたという人間が三人ばかり現れた。そのうちの一人は、現場(げんじょう)に割合い近い踏切の番人だったが、丘陵にひびくほど相当大きい音だったという。但し発砲の音というよりも、自動車がパンクしたような音に近かったという。これは帝都全市のタクシーや自家用自動車につき調査中であるから、二三日のうちに判明するであろう。 もしそれが発砲の音だったら、車掌の耳はどうかしていたことになりはしまいか。電車の騒音は、車内よりもむしろ車外の方が大きいのだから。専務車掌室の扉(ドア)を細目にひらいて、消音ピストルを打ったと考えてはどうであるか。それでは銃丸(たま)は、かおるの左胸(さきょう)を側面(そくめん)から射つことになる。然(しか)るに彼女の弾丸による創管(そうかん)は、ほんの少し左へ傾いているが、ほとんど正面から真直(まっすぐ)に入っている。これは違う。それでは、電車の進行中、彼は窓から屋根によじ昇り、屋上の欄干(らんかん)に足を入れて真逆(まっさかさま)にぶら下ると丁度(ちょうど)、顔が窓の上枠(うわわく)のところにとどくから、そのまま蝙蝠式(こうもりしき)にぶら下って消音ピストルをうち放つ。それがすむと、何喰(なにくわ)ぬ顔をして車掌室にかえり、室内の騒ぎを始めて知ったような風を装(よそお)って馳けつける。うん、こいつは出来ないことじゃない。車掌倉内銀次郎の身辺(しんぺん)をすこし洗ってみよう。「コツ、コツ!」と扉(ドア)を叩く者がある。「よろしい」大江山警部は、扉の方を向いた。扉がスウと開いた。入って来たのは、給仕だった。「速達でございます」そう云って給仕は、課長の机上(きじょう)に、茶色の大きい包紙のかかっている四角い包を置いて、出て行った。 警部は、注意して包をひらいてみた。中には、「ラジオの日本」という雑誌の昭和五年十二月号が一冊入っているきりだった。それを取上げてペラペラと頁(ページ)をめくってみると、半頃(なかごろ)に頁(ページ)を折ってあるところがあった。そこを開けると、白い小布(こぬの)が栞(しおり)のように挿(はさ)まっていて、矢印が書いてある。矢印の示すところには赤鉛筆で、傍線(ぼうせん)のついている記事があった。表題は、「無線と雑音の研究」とあり、「大磯(おおいそ)HS生(せい)」という人が書いているのだった。大江山警部にとって、無線の記事は一向ありがたくなかった。彼は雑誌を抛(ほう)りだそうと思ったが、「雑音」という文字が、電車の騒音と関係がありはしまいかと思って、兎(と)に角(かく)、ぽつりぽつりと読みはじめた。直ぐに彼は、見当ちがいだったことに気がついたけれども、その記事は、思ったよりも平易(へいい)である上に、その内容は大江山警部の注意を喚起(かんき)するのに充分だった。「無線と雑音の研究」を思いたったHS生は、東海道線大磯駅から程とおからぬ山手に住んでいる人だった。彼の家にはラジオ受信機があったが、ラジオを聴いていると、それが聴きとれないほどのガリガリッという大きな雑音が、一日にうちに数十回入ってくるのだった。彼はラジオに雑音の起る時刻を測ってみたところ、それは毎日きまった時刻にガリガリッと鳴ることを発見した。それから、探求(たんきゅう)を進めてゆくと、雑音の原因は、家の前を通る列車の電気機関車が、架空線(かくうせん)に接触するところで、小さい火花を生ずるためで、殊(こと)に大きい雑音は、架空線の継(つ)ぎ目(め)のところで起ることが判った。その結果、受信機で雑音を数えながら、時計をみていると、列車が毎時幾キロメートルの速度(スピード)で走っているか、又列車はどの地点を走っているかが、家の中に居ながらして、手にとるように判るというのである。HS生は、大磯附近の地図や雑音の大きさを示す曲線図を沢山挿入(そうにゅう)して、これを説明してあった。「こりゃ面白い発見だ」と大江山警部は、思わず独言(ひとりごと)を言った。「だが、この記事が、なにになるというんだ」 なにか省線電車射撃事件に関係があるようでいて、さァそれはどういう関係だと聞かれると、説明ができなかった。ただ漠然(ばくぜん)たる一致が感じられるばかりだった。警部は、それを、自分の科学知識不足に帰(き)して、ちょっと忌々(いまいま)しく感じたのだった。それにしても、一体誰がこの雑誌を送ってよこしたのだ。 また扉(ドア)を叩くものがあった。部下の多田刑事であることは開けてみるまでもないことだった。応(おう)と答えると、果して多田刑事が入ってきた。彼の喜びに輝いている顔色はなにごとかを発見してきたのに違いない。「課長! とうとう面白いものを見付けてきました。これです」多田は、そう云って、小さい紙包を、大江山警部の前に置いた。 警部は、それを手にとって開いてみると、二個の薬莢(やっきょう)だった。「ほほう、これはどこにあった」「現場附近の笹木邸(ささきてい)の塀(へい)の下です」「待て待て、これが弾丸(だんがん)に合うかどうか」と警部はやおら立って傍(かたわ)らの硝子函(ガラスばこ)から弾丸をつまみ出すと薬莢に合わせてみた。果然(かぜん)、二つはピタリと合って、一つのものになった。警部が硝子函からとり出したのは、殺された一宮かおるの体内から抜きとった弾丸だったので、多田刑事の拾ってきたのは、紛(まぎ)れもなく、その弾丸を打ち出した薬莢にちがいないと思われる。薬莢が二個で、弾丸は一個――そこに謎がないでもなかったが。「お手柄だ。そして笹木邸をあたってみたかい、多田君」「早手廻(はやてまわ)しに、若主人の笹木光吉(こうきち)というのを同道(どうどう)して参りました。ここに大体の聞書(ききがき)を作って置きました」 そう云って、多田刑事は、小さい紙片(しへん)を手渡した。警部は獣(けもの)のように低く呻(うな)りつつ、多田の聞書というのを読んだ。「よし、会おう」 案内されて、室へ静かに姿をあらわした笹木光吉は、三十に近い青年紳士だった。色は黒い方だったが、ブルジョアの息子らしく、上品ですこし我(が)が強いらしいところがあった。「飛んだ御迷惑をかけまして」と大江山警部の口調は丁重(ていちょう)を極(きわ)めていた。「実は部下のものが、こんなものを(と、二個の薬莢と一個の弾丸を示しながら)拾って参りましたが、薬莢の方はお邸の塀下に落ちて居り、弾丸は、ここに地図がありますが、線路を越してお邸(やしき)の向い側にあたる草叢(くさむら)から拾い出したのです。お心あたりはございませんか」 そう云って刑事は、白い西洋紙の上に、三品をのせて差し出した。多田刑事は、課長の出鱈目(でたらめ)に呆(あき)れながら、青年の顔色を窺(うかが)った。「一向に存じません」と笹木はアッサリ答えた。「指紋が御入用(ごいりよう)なら、遠慮なく本式におとり下さい」 大江山警部は、笑いに、赭(あか)い顔を紛(まぎ)らせながら、白い西洋紙をソッと手許(てもと)へひっぱったのだった。「九月二十一日の午後十時半には、どこにおいででしたか、承(うけたまわ)りたい」「家に居ましたが、もう寝ていました。私はラジオがすむと、直(す)ぐ寝ることにして居りますから……」「おひとりでおやすみですか」「ええ、どうしてです。私のベッドに、独(ひと)り寝ます。妻は、まだありません」「誰か、当夜ベッドに寝ていられてのを証明する人がありますか」「ありますまい」「十時半頃、何か銃声みたいなものをお聞きになりませんでしたか」「いいえ。寝ていましたので」「御商売は?」「JOAKの技術部に勤めてます」「JOAK! アノ放送局の技師ですか」大江山警部の顔面筋肉(がんめんきんにく)がピクリと動いた。「そうです、どうかしましたか」「『ラジオの日本』という雑誌を御存知ですか」「無論知っています」「貴方のお名前は光吉(ひかりきち)ですか」「光吉(こうきち)です」「大磯に別荘をお持ちですかな」「いいえ」「だれかに恨(うら)みをうけていらっしゃいませんか」「いいえ、ちっとも」「邸内に悪漢が忍び入ったような形跡(けいせき)はなかったですか」「一向にききません」 大江山警部は、さっぱり当りのない愚問(ぐもん)に、自(みずか)ら嫌気(いやけ)がさして、鳥渡(ちょっと)押し黙った。「省線電車の殺人犯人は、まだ見当がつかないのですか」と反対に笹木光吉が口を切った。「まだつきません」と警部は、ウッカリ返事をしてしまった。「銃丸(たま)は車内で射ったものですか、それとも車外から射ちこんだものなんですか」「……」警部はむずかしい顔をしただけだった。「銃丸を身体の中へ打ちこんだ角度が判ると、どの方角から発射したかが識(し)れるんですが、御存知(ごぞんじ)ですか。殺されたお嬢さんは、心臓の真上を殆んど正面からうたれたそうですが、正確にいうとどの位の角度だけ傾(かたむ)いていましたかしら」「さあ、それは……」警部はギクリとした。彼は屍体に喰(く)い込んだ弾丸の入射角(にゅうしゃかく)を正確に測ろうなどとは毛頭(もうとう)考えたことがなかった。「それは面白い方法ですね」「面白いですよ、いいですか、これが電車です。電車の速度をベクトルで書くと、こうなります、弾丸の速度はこうです……」と笹木光吉は、三角定規(じょうぎ)を組合わしたような線を、紙の上に引いてみせて、「これが弾丸(だんがん)の入射角(にゅうしゃかく)です。分解するとどの方向からとんで来たか、直ぐ出ます、やってごらんなさい」「あとからやってみましょう」 と警部は礼を言った。「射たれたとき、お嬢さんの身体はすこし右に倒れかかっていたそうですね」「ほう、それをどうして御存知です」警部は驚愕(きょうがく)を強(し)いて隠そうと努力するのだった。「あの晩、邸へ遊びに来た親類の女が云っていました。殺されたお嬢さんの直ぐ前に居たのだそうです」「ああ、それでは若(も)しや日本髪(にほんがみ)の……」「その通りです」「その御婦人はどこに住んでいらっしゃいます」「渋谷(しぶや)の鶯谷(うぐいすだに)アパート」「お名前は?」「赤星龍子(あかぼしりゅうこ)」
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