四
――きみ、きみ―― 白鷺に向って声を掛けた。 「人に聞かれたのでは極りが悪いね……」 西明寺を志して来る途中、一処、道端の低い畝に、一叢の緋牡丹が、薄曇る日に燃ゆるがごとく、二輪咲いて、枝の莟の、撓なのを見た。――奥路に名高い、例の須賀川の牡丹園の花の香が風に伝わるせいかも知れない、汽車から視める、目の下に近い、門、背戸、垣根。遠くは山裾にかくれてた茅屋にも、咲昇る葵を凌いで牡丹を高く見たのであった。が、こんなに心易い処に咲いたのには逢わなかった。またどこにもあるまい。細竹一節の囲もない、酔える艶婦の裸身である。 旅の袖を、直ちに蝶の翼に開いて――狐が憑いたと人さえ見なければ――もっとも四辺に人影もなかったが――ふわりと飛んで、花を吸おうとも、莟を抱こうとも、心のままに思われた。 それだのに、十歩……いや、もっと十間ばかり隔たった処に、銑吉が立停まったのは、花の莟を、蓑毛に被いだ、舞の烏帽子のように翳して、葉の裏すく水の影に、白鷺が一羽、婀娜に、すっきりと羽を休めていたからである。 ここに一筋の小川が流れる。三尺ばかり、細いが水は清く澄み、瀬は立ちながら、悠揚として、さらさらと聞くほどの音もしない。山入の水源は深く沈んだ池沼であろう。湖と言い、滝と聞けば、末の流のかくまで静なことはあるまいと思う。たとい地理にしていかなりとも。 ――松島の道では、鼓草をつむ道草をも、溝を跨いで越えたと思う。ここの水は、牡丹の叢のうしろを流れて、山の根に添って荒れた麦畑の前を行き、一方は、角ぐむ蘆、茅の芽の漂う水田であった。 道を挟んで、牡丹と相向う処に、亜鉛と柿の継はぎなのが、ともに腐れ、屋根が落ち、柱の倒れた、以前掛茶屋か、中食であったらしい伏屋の残骸が、蓬の裡にのめっていた。あるいは、足休めの客の愛想に、道の対う側を花畑にしていたものかも知れない。流転のあとと、栄花の夢、軒は枯骨のごとく朽ちて、牡丹の膚は鮮紅である。 古蓑が案山子になれば、茶店の骸骨も花守をしていよう。煙は立たぬが、根太を埋めた夏草の露は乾かぬ。その草の中を、あたかも、ひらひら、と、ものの現のように、いま生れたらしい蜻蛉が、群青の絹糸に、薄浅葱の結び玉を目にして、綾の白銀の羅を翼に縫い、ひらひら、と流の方へ、葉うつりを低くして、牡丹に誘われたように、道を伝った。 またあまりに儚い。土に映る影もない。が、その影でさえ、触ったら、毒気でたちまち落ちたろう。――畷道の真中に、別に、凄じい虫が居た。 しかも、こっちを、銑吉の方を向いて、髯をぴちぴちと動かす。一疋七八分にして、躯は寸に足りない。けれども、羽に碧緑の艶濃く、赤と黄の斑を飾って、腹に光のある虫だから、留った土が砥になって、磨いたように燦然とする。葛上亭長、芫青、地胆、三種合わせた、猛毒、膚に粟すべき斑 の中の、最も普通な、みちおしえ、魔の憑いた宝石のように、 燿と招いていた。 「――こっちを襲って来るのではない。そこは自然の配剤だね。人が進めば、ひょいと五六尺退って、そこで、また、おいでおいでをしているんだ。碧緑赤黄の色で誘うのか知らん。」 蜻蛉では勿論ない。それを狙っているらしい。白鷺が、翼を開くまでもなかった。牡丹の花の影を、きれいな水から、すっと出て、斑 の前へ行くと思うと、約束通り、前途へ退った。人間に対すると、その挙動は同一らしい。……白鷺が再び、すっと進む。 あの歩の運びは、小股がきれて、意気に見える。斑 は、また飛びしさった。白鷺が道の中を。…… ――きみ、――きみ―― 「うっかり声を出して呼んだんだよ、つい。……毒虫だ、大毒だ。きみ、哺えてはいけないと。あの毒は大変です、その卵のくッついた野菜を食べると、血を吐いて即死だそうだ。 現に、私がね、ただ、触られてかぶれたばかりだが。 北国の秋の祭――十月です。半ば頃、その祭に呼ばれて親類へ行った。 白山宮の境内、大きな手水鉢のわきで、人ごみの中だったが、山の方から、颯と虫が来て頬へとまった。指のさきで払い落したあとが、むずむずと痒いんだね。 御手洗は清くて冷い、すぐ洗えばだったけれども、神様の助けです。手も清め、口もそそぐ。……あの手をいきなり突込んだらどのくらい人を損ったろう。――たとい殺さないまでもと思うと、今でも身の毛が立つほどだ。ほてって、顔が二つになったほど幅ったく重い。やあ、獅子のような面だ、鬼の面だ、と小児たちに囃されて、泣いたり怒ったり。それでも遊びにほうけていると、清らかな、上品な、お神巫かと思う、色の白い、紅の袴のお嬢さんが、祭の露店に売っている……山葡萄の、黒いほどな紫の実を下すって――お帰んなさい、水で冷すのですよ。 ――で、駆戻ると、さきの親類では吃驚して、頭を冷して寝かしたんだがね。客が揃って、おやじ……私の父が来たので、御馳走の膳の並んだ隣へ出て坐った処、そこらを視て、しばらくして、内の小僧は?……と聞くんだね。袖の中の子が分らないほど、面が鬼になっていたんです。おやじの顔色が変ると、私も泣出した。あとをよくは覚えていないんだが、その山葡萄を雫にして、塗ったり吸ったりして無事に治った……虫は斑 だった事はいうまでもないのです。」 「何と、はあ、おっかねえもんだ、なす。知らねえ虫じゃねえでがすが、……もっとも、あの、みちおしえは、誰も触らねえ事にしてあるにはあるだよ。」 「だから、つい、声も掛けようではないか。」 「鷺の鳥はどうしただね。」 「お爺さん、それは見ていなかったかい。」 「なまけもんだ、陽気のよさに、あとはすぐとろとろだ。あの潰屋の陰に寝ころばっておったもんだでの。」 白鷺はやがて羽を開いた。飛ぶと、宙を翔る威力には、とび退る虫が嘴に消えた。雪の蓑毛を爽に、もとの流の上に帰ったのは、あと口に水を含んだのであろうも知れない。諸羽を搏つと、ひらりと舞上る時、緋牡丹の花の影が、雪の頸に、ぼっと沁みて薄紅がさした。そのまま山の端を、高く森の梢にかくれたのであった。 「あの様子では確に呑んだよ、どうも殺られたろうと思うがね。」 爺は股引の膝を居直って、自信がありそうに云った。 「うんや、鳥は悧巧だで。」 「悧巧な鳥でも、殺生石には斃るじゃないか。」 「うんや、大丈夫でがすべよ。」 「が、見る見るあの白い咽喉の赤くなったのが可恐いよ。」 「とろりと旨いと酔うがなす。」 にたにたと笑いながら、 「麦こがしでは駄目だがなす。」 「しかし……」 「お前様、それにの、鷺はの、明神様のおつかわしめだよ、白鷺明神というだでね。」 「ああ、そうか、あの向うの山のお堂だね。」 「余り人の行く処でねえでね。道も大儀だ。」 と、なぜか中を隔てるように、さし覗く小県の目の前で、頭を振った。 明神の森というと――あの白鷺はその梢へ飛んだ――なぜか爺が、まだ誰も詣でようとも言わぬものを、悪く遮りだてするらしいのに、反感を持つとまでもなかったけれども、すぐにも出掛けたい気が起った。黒塚の婆の納戸で、止むを得ない。 「――時に、和尚さんは、まだなかなか帰りそうに見えないね。とすると、位牌も過去帳も分らない。……」 「何しろ、この荒寺だ、和尚は出がちだよって、大切な物だけは、はい、町の在家の確かな蔵に預けてあるで。」 「また帰途に寄るとしよう。」 不意に立掛けた。が、見掛けた目にも、若い綺麗な人の持ものらしい提紙入に心を曳かれた。またそれだけ、露骨に聞くのが擽ったかったのを、ここで銑吉が棄鞭を打った。 「お爺さん、お寺には、おかみさん、いや、奥さんか。」 小さな声で、 「おだいこくがおいでかね。」 「は、とんでもねえ、それどころか、檀那がねえで、亡者も居ねえ。だがな、またこの和尚が世棄人過ぎた、あんまり悟りすぎた。参詣の女衆が、忘れたればとって、預けたればとって、あんだ、あれは。」 と、せきこんで、 「……外廻りをするにして、要心に事を欠いた。木魚を圧に置くとは何たるこんだ。」 と、やけに突立つ膝がしらに、麦こがしの椀を炉の中へ突込んで、ぱっと立つ白い粉に、クシンと咽せたは可笑いが、手向の水の涸れたようで、見る目には、ものあわれ。 もくりと、掻落すように大木魚を膝に取って、 「ぼっかり押孕んだ、しかも大い、木魚講を見せつけられて、どんなにか、はい、女衆は恥かしかんべい。」 その時、提紙入の色が、紫陽花の浅葱淡く、壁の暗さに、黒髪も乱れつつ、産婦の顔の萎れたように見えたのである。 谷間の卵塔に、田沢氏の墓のただ一基苔の払われた、それを思え。 「お爺さん、では、あの女の持ものは、お産で死んだ記念の納ものででもあるのかい。」 べそかくばかりに眉を寄せて、 「牡丹に立った白鷺になるよりも、人間は娑婆が恋しかんべいに、産で死んで、姑獲鳥になるわ。びしょびしょ降の闇暗に、若い女が青ざめて、腰の下さ血だらけで、あのこわれ屋の軒の上へ。……わあ、情ない。……お救い下され、南無普門品、第二十五。」 と炉縁をずり直って、たとえば、小県に股引の尻を見せ、向うむきに円く踞ったが、古寺の狸などを論ずべき場合でない――およそ、その背中ほどの木魚にしがみついて、もく、もく、もく、もく、と立てつけに鳴らしながら、 「南無普門品第二十五。」 「普門品第二十五。」 小県も、ともに口の裡で。 「この寺に観世音。」 「ああ居らっしゃるとも、難有い、ありがたい……」 「その本堂に。」 「いや、あちらの棟だ。――ああ、参らっしゃるか。」 「参ろうとも。」 「おお、いい事だ、さあ、ござい、ござい。」 と抱込んだ木魚を、もく、もくと敲きながら、足腰の頑丈づくりがひょこひょこと前へ立った。この爺さん、どうかしている。 が、導かれて、御廚子の前へ進んでからは――そういう小県が、かえって、どうかしないではいられなくなったのである。 この庫裡と、わずかに二棟、隔ての戸もない本堂は、置棚の真中に、名号を掛けたばかりで、その外の横縁に、それでも形ばかり階段が残った。以前は橋廊下で渡ったらしいが、床板の折れ挫げたのを継合せに土に敷いてある。 明神の森が右の峰、左に、卵塔場を谷に見て、よく一人で、と思うばかり、前刻彳んだ、田沢氏の墓はその谷の草がくれ。 向うの階を、木魚が上る。あとへ続くと、須弥壇も仏具も何もない。白布を蔽うた台に、経机を据えて、その上に黒塗の御廚子があった。 庫裡の炉の周囲は筵である。ここだけ畳を三畳ほどに、賽銭の箱が小さく据って、花瓶に雪を装った一束の卯の花が露を含んで清々しい。根じめともない、三本ほどのチュリップも、蓮華の水を抽んでた風情があった。 勿体ないが、その卯の花の房々したのが、おのずから押になって、御廚子の片扉を支えたばかり、片扉は、鎧の袖の断れたように摺れ下っていたのだから。 「は、」 ただ伏拝むと、斜に差覗かせたまうお姿は、御丈八寸、雪なす卯の花に袖のひだが靡く。白木一彫、群青の御髪にして、一点の朱の唇、打微笑みつつ、爺を、銑吉を、見そなわす。 「南無普門品第二十五。」 「失礼だけれど、准胝観音でいらっしゃるね。」 「はあい、そうでがすべ。和尚どのが、覚えにくい名を称えさっしゃる。南無普門品第二十五。」 よし、ただ、南無とばかり称え申せ、ここにおわするは、除災、延命、求児の誓願、擁護愛愍の菩薩である。 「お爺さん、ああ、それに、生意気をいうようだけれど、これは素晴らしい名作です。私は知らないが、友達に大分出来る彫刻家があるので、門前の小僧だ。少し分る……それに、よっぽど時代が古い。」 「和尚に聞かして下っせえ、どないにか喜びますべい、もっとも前藩主が、石州からお守りしてござったとは聞いとりますがの。」 と及腰に覗いていた。 お蝋燭を、というと、爺が庫裡へ調達に急いだ――ここで濫に火あつかいをさせない注意はもっともな事である―― 「たしかに宝物。」 憚り多いが、霊容の、今度は、作を見ようとして、御廚子に寄せた目に、ふと卯の花の白い奥に、ものを忍ばすようにして、供物をした、二つ折の懐紙を視た。備えたのはビスケットである。これはいささか稚気を帯びた。が、にれぜん河のほとり、菩提樹の蔭に、釈尊にはじめて捧げたものは何であろう。菩薩の壇にビスケットも、あるいは臘八の粥に増ろうも知れない。しかしこれを供えた白い手首は、野暮なレエスから出たらしい。勿論だ。意気なばかりが女でない。同時に芬と、媚かしい白粉の薫がした。 爺が居て気がつかなかったか。木魚を置いたわきに、三宝が据って、上に、ここがもし閻魔堂だと、女人を解いた生血と膩肉に紛うであろう、生々と、滑かな、紅白の巻いた絹。 「ああ、誓願のその一、求児――子育、子安の観世音として、ここに婦人の参詣がある。」 世に、参り合わせた時の順に、白は男、紅は女の子を授けらるる……と信仰する、観世音のたまう腹帯である。 その三宝の端に、薄色の、折目の細い、女扇が、忘れたように載っていた。 正面の格子も閉され、人は誰も居ない……そっと取ると、骨が水晶のように手に冷りとした。卯の花の影が、ちらちらと砂子を散らして、絵も模様も目には留まらぬさきに――せい……せい、と書いた女文字。 今度は、覚えず瞼が染まった。 銑吉には、何を秘そう、おなじ名の恋人があったのである。
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