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神鷺之巻(しんろのまき)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-22 16:27:06 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



       四

「……小県さん、女が、女の不束ふつつかで、絶家を起す、家を立てたい――」
「絶家を起す、家をてたい……」
「ええ、その考えは、間違っていますでしょうか。」
「何が、間違いです。誰が間違いだと云いました。とんでもない、天晴あっぱれじゃありませんか。」
「私の父は、この土地のものなんです。」
「ああ、成程。」
「――この藩のちょっとした藩士だったそうなんですが、道楽ものだったと思います。御維新の騒ぎに刀さしをやめたのはいんですけれど、そういう人ですから、堅気かたぎの商売が出来ないで、まだ――街道がにぎやかだったそうですから、片原の町はずれへ、茶屋旅籠はたごの店を出したと申しますの。
 ……貴方、こちらへいらっしゃりがけに――その、あの、牡丹ぼたん、牡丹ですが。」
 なぜか、引くいきに、声がかすれて、
「あの咲いております処は、今は田畝たんぼのようになりましたけれど、もと、はなれの庭だったそうですの……そして――
 牡丹は、父の手しおにかけましたものですって。……あとでは、料理ばかりにして、牡丹亭といったそうです。父がなくなりますと……それが人手から人手へ渡って、あとでは立ちぐされも同様。でも、それも、不景気で、こぼし屋の引取手もなしに、暴風雨あらしつぶれたのが、家の骸骨がいこつのように路端みちばたに倒れていますわ。
 母はその牡丹亭ごろの、おかみさん。……そんな事は申しませんでもいいんですけど、父とは、大層若くて年が違いました。
 ――町あたりの芸者だそうです。ですが、武家の娘だったせいですか――まだ、私がお腹に。……」
 ふと耳許みみもとをほんのりと薄く染めた。
「お腹のうち、本所に居る東京の遠縁のものにたよって出まして、のちに、浅草で、また芸者をしたんですけれど、なくなります時、いまわの際まで、血統ちすじが絶える、田沢の家を、田沢の家をと、せめて後をたやさないように遺言をしたんです。
 私はその時分、新橋でお酌に出ておりました。十四や十五の考えで、この上一本になって、人の世話になるにした処で、一人で商売をした処で、家を立てるのぞみがありそうに思われません。だもんですから、都合をつけて道をかえまして、梅水へ奉公をしましたのです。自分の口からお恥かしい、余りあからさまのようですが、つむりのものより、なりかたちより、少しでもお金を貯めて、小さな店でも出せますように、その上で、堅気の養子になる人を、縁があったらと、思詰め、念じ切っておりました。
 こんなものでも、一つうちに、十年の余も辛抱をしますうちには、お一人やお二方、相談をして下さる方のないこともなかったんですけど、田沢の家の養子とでは、まるでかけ離れました縁ですもの。冷たい顔して、きっぱりと、お断り申しました。それが、心得違いだったんです、間違っていたんです。ねえ。」
「間違いではありません。お誓さん、しかし、ただ、道も一条ひとすじの上だとしたら、家を起す――血統を絶やさない、真に立派な覚悟だけれど、……本当は女一人だとすると、どうしていいか、それは、学者でも、教育家でも、たとえばお寺の坊さんでも、実地に当ると、八衢やちまた前途ゆくてわかれて、道しるべをする事はむずかしい……世の中になったんですね。」
「まったくですわ。でも、それも、まだ月日は長し……昨日きのうや今日の事とは思わなかったんですのに――昨年、店の都合で裾野の方へ一夏まいりまして、朝夕、あの、富士山の景色を見ますにつけ……ついのんびりと、一人で旅がしてみたくなったんです。一体出不精な処へ、お蔭様、店も忙しゅうございますし、本所の伯父伯母と云った処で、ほんの母がたよりました寄親よりおや同様。これといってきたい場所も知りませんものですから、旅をするなら、名ばかりでも、聞いただけ懐しい、片原を、と存じまして、十月小春のいい時候に、もみじもさかり、と聞きました。……
 はじめて、泊りました、その土地の町の旅宿やどが、まわり合せですか、因縁だか、その宿の隠居夫婦が、よく昔の事を知っていました。もの珍らしいからでしょう、宿帳の田沢だけで、もう、ちっとでも片原に縁があるだろう、といいましてね。
 そんなですから、隠居二人で、西明寺の父の墓も案内をしてくれますし。……まことに不思議な、久しく下草の中に消えていた、街道ばたの牡丹が、去年から芽を出して、どうしてでしょう、今年の夏は、花を持った。町でも人が沢山見にき、下の流れを飲んで酔うといえば、んで取って、香水だとめるのもある。……お嬢さん……私の事です。」
 と頬も冷たそうに、うら寂しく、
「故郷へ帰って来て、田沢家を起す、瑞祥ずいしょうはこれで分った、と下へも置かないで、それはほんとうに深切に世話をして、牡丹さん、牡丹さん、私の部屋が牡丹の間。餡子あんこではあんまりだ、黄色い白粉おしろいでもつけましょう、牡丹亭きな子です。お一ついかが……そういってどうかすると、お客にお酌をした事もあるんです。長逗留ながとうりゅうの退屈ばらし、それにはれた軽はずみ……」
 歎息ためいきも弱々と、
「もっともうるさいことでも言えば、その場から、つい立って、牡丹の間へ帰っていたんです。それというのが、ああも、こうもと、それから、それへ、商売のこと、家のこと。隠居夫婦と、主人夫婦、うちのものばかりも四人でしょう。番頭ですの、女中ですの、いりかわり相談をしてくれます。聞くだけでもたのしみで、つんだり、崩したり、切組みましたり、庭背戸まで見積って、子供の積木細工で居るうちに、日がちます。……鳥居数をくぐり、門松をないと、故郷とはいえない、といわれる通りの気になって、おまいりをしましたり。……逗留のうち、幾度、あの牡丹の前へ立ったでしょう。
 柱一本、根太板も、親たちの手の触ったのが残っていましょう。あの骨を拾おう。どうしよう。こうか、埋めようか。ちょっと九尺二間を建てるにしても、場所がいまの田畝たんぼではどうにもならず。(地蔵様のほこらを建てなさい、)隠居たちがいうんです。ああ、いいわねえ、そうしましょうか。
 思出しても身体からだがふるえる、……
 今年二月のはじめでした。……東京も、そうだったって聞いたんですが、この辺でも珍らしく、雪の少い、暖かな冬でしたの。……今夜の豆撒まめまきが済むと、片原で年を取って、あかんぼも二つになると、隠居たちも笑っていました。その晩――暮方……
 湯上りのいい心持の処へ、ちらちら降出しました雪が嬉しくって、生意気に、……それだし、銀座辺、あの築地辺の夜ふけの辻で、つまらない悪戯いたずらをされました覚えもなし、またいたずらに逢ったところで、ところ久しいだけ、かどなみ知っているんです。……梅水のものですよ。それで大概、挨拶あいさつをして離れちまいますんですもの、道の可恐こわさはちっとも知らずにいたんです。――それに牡丹亭のあとまでは、つれがありましたり、一人でも幾度も行ったり来たり、屋根のない長い廊下もおんなじに思っていましたものですから、コオトも着ないで、小県さん、浴衣に襟つき一枚何かで。――すそへ流れる水、あの小川も、梅水に居て、座敷の奥で、水調子を聞く音がします。……牡丹はもう、枝ばかり、それも枯れていたんですが、降る雪がすっきりと、白いつぼみに積りました。……大輪おおりんなのも面影に見えるようです。
 向うへ、小さなお地蔵様のお堂を建てたら、お提灯ちょうちんつたの紋、養子が出来て、その人のと、二つなら嬉しいだろう。まあきまりの悪い。……わざとお賽銭箱さいせんばこを置いて、宝珠の玉……違った、それはお稲荷様いなりさま、と思っているうちに、こんな風に傘をさして、ちらちらと、藤の花だか、鷺だかの娘になって、踊ったこともあったっけ。――傘は、ここで、畳んだか、開いてさしたかと、うっかりしました。――からかさを、ひどい力で、上へぐいと引いたんです。天にも地にも、小県さん、観音様と、明神様のほかには、女の身体からだで、口へ出して……」
 キリキリと歯をんで、つとまぶたの色がせた。
しゃくか。しっかりなさい、お誓さん。」
 さそくにすくった柄杓ひしゃくの水を、削るがごとく口に含んで、
「人間がましい、癪なんぞは、通越しているんです。ああ、この水が、そのまんま、青い煙になって焼いちまってくれればいいのに。」
 しばらく、声も途絶えたのである。
口惜くやしいわ、私、小県さん、足が上へ浮く処を、うしろから、もこん、と抱込んだものを、見ました時。」
 わなわなと震えたから、小県も肩にかけていた手を離した。倒れそうに腰をつくと、つまを投げて、片手をこけすべらした。
灰汁あくのような毛が一面にかぶさった。枯木のような脊の高い、蒼い顔した※々ひひ[#「けものへん+非」、88-17]、あの、絵の※[#「けものへん+非」、88-18]々、それの鼻、がまた高くておおきいのが、黒雲のようにかぶさると思いましたばかり……何にも分らなくなりました。
 あとで――息の返りましたのは、一軒家であめを売ります、おばあさんと、お爺さんの炉端でした。裏背戸口へ、どさりと音がしたきりだった、という事です。
 どんな形で、ほうり出されていたんでしょう。」
 褄を引合わせ、身をしめて、
「……のちに、大沼で、とれたといって、旅宿やどの台所に、白いがん仰向あおむけに、まないたの上に乗ったのを、ふと見まして、もう一度ゾッとすると、ひきつけて倒れました事さえあるんです。
 ――その晩は、お爺さんの内から、ほんの四五町の処を、くるまにのって帰ったのです。急に、ひどい悪寒がするといって、引被ひっかぶって寝ましたきり、枕も顔もあげられますもんですか。悪寒どころですか、身体からだはやけますようですのに、冷い汗を絞るんです。その汗が脇の下も、乳の処も、……ずくずく……悪臭い、ふかだか、さめだかの、六月いきれに、すえたようなにおいでしょう。むしりたい、切って取りたい、削りたい、身体中がむかむかして、しっきりなしに吐くんです。
 無理やりにまされました、何の薬のせいですか、有る命は死にません。――活きているかいはなし……ただ西明寺の観音様へおすがりにまいります。それだって、途中、牡丹のあるところをます時の心もちは、ただお察しにまかせます。……何の罪咎つみとががあるんでしょう、と思うのは、身勝手な、我身ばかりで、神様や仏様の目で、ごらんになったら。」
「お誓さん、……」
 声を沈めて遮った。
「神、仏の目には、何の咎、何の罪もない。あなたのような人間を、かえって悪魔は狙うのですよ。幾年目かに朽ちた牡丹の花が咲いた……それは嘘ではありますまい。人は見て奇瑞きずいとするが、魔が咲かせたかも知れないんです。反対に、お誓さんが故郷へ帰った、その瑞兆ずいちょうあらわれたとして、しかも家の骨に地蔵尊を祭る奇特がある。功徳、恭養、善行、美事、その只中ただなかを狙うのが、悪魔の役です。どっちにしろ可恐おそろしい、早くそこを通抜けよう。さ、あなたも目をつむって、観音様の前へおいでなさい。」
「――ある時、和尚さんが、お寺へ紅白のきれを、何ほどか寄進をして欲しいものじゃ、とおっしゃるんです。寺の用でない、諸人しょにん施行せぎょうのためじゃけれど、この通りの貧乏寺。……ええ、私の方から、おやくに立ちますならお願い申したいほどですわ。三反持って参りますと、六尺ずつに切りたいが、はさみというものもなし……庖丁ではどうであろう。まあ、手で裂いても間に合いますわ。和尚さんに手伝って三方の上へ重ねました時、つい、それまでは不信心な、何にも知らずにおりました。子育ての慈愛をなさいます、五月帯いわたおびのわけを聞きまして、時も時、折も折ですし、……観音様。」
 お誓が、髪を長く、すっと立って、ふもとに白い手を合わせた。
「つい女気で、あかい切を上へ積んだものですから、真上のを、内証ないしょで、そっと、頂いたんです。」
「それは、めでたい。――結構ではないか、お誓さん。」
 お誓は榎の根に、今度はほっとして憩った、それとさしむかいに、小県は、より低い処に腰を置いて、片足を前に、くつろぐさまして、
「節分の夜の事だ。対手あいてを鬼と思いたまえ。が、それも出放題過ぎるなら、怪我……病気だと思ったらどうです。怪我や病気は誰もする。……その怪我にも、病気にも障りがなくって、赤ちゃんが、御免なさいよ、ま、出来たとする。昔から偉人には奇蹟が携わる、日を見て、月を見て、星を見て、いや、ちと大道うらないに似て来たかね。」
 袖を開いて扇を使った。柳の影が映りそうで、道得いいえて、いささかよしと思ったらしい。
「鶴をて懐姙したげんはいくらもある。いわゆる、もうし子だとお思いなさい。その上、面倒な口を利く父親なしに、お誓さん一人で育てたら、それが生一本の田沢家の血統じゃありませんか。そうだ、悪魔などと言ったのは、私のあやまり、豊年の何とかいう雪が降って、節分には、よく降るんです。正に春立りっしゅんならんとする時、牡丹に雪のずいといい、地蔵菩薩のしょうといい、あなたはさずかりものをしたんじゃないか、たしかにそうだ、――お誓さん。」
 お誓はうすくまたまぶたを染めた。
「そんな、あの、大それた、高望みはしませんけれど、女の子かも知れないと思いました。五日、七日なぬか二夜ふたよ、三夜、観音様の前にじっとしていますうちに、そういえば、今時、天狗てんぐ※々ひひ[#「けものへん+非」、91-16]も居まいし、第一けもの臭気においがしません。くされたというは心持で、何ですか、水にむもののような気がするし、森の香の、時々峰からおろす松風と一所に通って来るのも、水神、山の神に魅入られたのかも分らない。ええ、因果と業。不具かたわでも、虫でもいい。とんびからすでも、ふなどじょうでも構わない。その子を連れて、勧進比丘尼かんじんびくにで、諸国をめぐって親子の見世ものになったらそれまで、どうなるものか。……そうすると、気が易くなりました。」
「ああ、観音の利益だなあ。」
 つと顔を背けると、肩をそいで、お誓は、はらはらと涙を落した。
「その御利益を、小県さん、頂いてだけいればよかったんですけれど――早くから、関屋からこの辺かけて、鳥の学者、博士が居ます。」
「…………」
「鳥の巣に近づくため、撃つために、いろいろな……あんななりもする、こうもする。……頭に樹の枝をかぶったり、かずらや枯葉を腰へ巻いたり……何の気もなしに、孫八ッて……その飴屋の爺さんが夜話するのを、一言……」
    (!…………)
「焼火箸を脇の下へ突貫つきぬかれた気がしました。扇子おうぎをむしってちょうとして、勿体ない、観音様に投げうちをするようなと、手がしびれて落したほどです。夜中に谷へ飛降りて、田沢の墓へみつこうか、とガチガチと歯が震える。……路傍みちばたのつぶれ屋を、石油を掛けて焼消そうか。牡丹の根へ毒を絞って、あの小川をのみ干そうか。
 もうとても……大慈大悲に、腹帯をお守り下さいます、観音様の前には、口惜くやしくって、もどかしくって居堪いたたまらなくなったんですもの。悪念、邪心に、肝も魂も飛上って……あら神様で、たたりの鋭い、明神様に、一昨日おとといと、昨日きのう、今日……」
 ――誓ただひとりこの御堂みどうに――
「独り居れば、ひとり居るほど、血が動き、肉が震えて、つきます息も、千本の針で身体中さすようです。――前刻さっきも前刻、絵馬の中に、白い女の裸身はだかみを仰向けにくくりつけ、膨れた腹を裂いています、安達あだちヶ原の孤家ひとつやの、ものすごいのを見ますとね。」
(――実は、その絵馬は違っていた――)
「ああ、さぞ、せいせいするだろう。あの女は羨しいと思いますと、お腹のなかで、動くのが、動くばかりでなくなって、もそもそとうような、ものをいうような、ぐっぐっ、とおおきな鼻が息をするような、その鼻がめるような、舌を出すような、蒼黄色あおぎいろい顔――畜生――牡丹の根で気絶して、生死いきしにも知らないでいたうちの事がうつつあらわれて、お腹の中で、土蜘蛛つちぐもが黒い手を拡げるように動くんですもの。
 帯を解いて、投げました。
 ええ、男に許したのではない。
 自分の腹を露出むきだしたんです。
 ぷんと、麝香じゃこうかおりのする、金襴きんらんの袋を解いて、長刀なぎなたを、この乳の下へ、平当てにヒヤリと、また芬と、丁子ちょうじの香がしましたのです。」……

 この薙刀を、もとのなげしに納める時は、二人がかりで、それはいいが、お誓が刃の方を支えたのだから、おかしい。
 誰も、ここで、薙刀で腹を切ったり、切らせたりするとは思うまい。
 ――しかも、これを取はずしたという時に落したのであろう。女の長い切髪の、いつ納めたか、元結もとゆいを掛けて黒い水引でしめたのが落ちていた。見てさえ気味の悪いのを、しずかに掛直した。お誓は偉い!……落着いている。
 そのかわり、気の静まった女に返ると、身だしなみをするのに、ちょっと手間が取れた。
 下じめ――腰帯から、解いて、しめ直しはじめたのである。床へ坐って……
 ちっとくすぐったいばかり。こういう時の男の起居挙動たちいふるまいは、漫画でないと、容易にその範容が見当らない。小県は一つ一つ絵馬をていた。薙刀の、それからはじめて。――
 一度横目を流したが、その時は、投げた単衣ひとえ後褄うしろづまを、かなぐり取った花野の帯の輪で守護して、その秋草の、幻に夕映ゆる、蹴出けだしの色の片膝を立て、それによりかかるようにはぎをあらわに、おくれ毛をでつけるのに、指のさきをなめるのを、ふと見まじいものを見たように、目を外らした。
「その絵馬なんですわ、小県さん。」
 つと、坐ると、しかも背中合せでも、狭い堂の中の一つ処で、気勢けはいは通ずる。安達ヶ原の……
「お誓さん、気のせいだ。この絵馬は、まないたの上へ――裸体はだかの恋絹を縛ったのではない。白鷺を一羽仰向けにしてあるんだよ。しかもだね、料理をするのは、ものすご鬼婆々おにばばあじゃなくって、たこの口をとがらした、とぼけた爺さん。笑わせるな、これは願事ねがいごとでなくて、殺生をしない戒めの絵馬らしい。」
 事情ことがらめている。半ば上の空でいううちに、小県のまたながめていたのは、その次の絵馬で。
 はげて、くすんだ、泥絵具で一刷毛ひとはけなすりつけた、波の線が太いから、海をかついだには違いない。……鮹かと思うと脚が見えぬ、かれい比目魚ひらめには、どんよりと色が赤い。※(「魚+覃」、第3水準1-94-50)あかえいだ。が何を意味する?……つかわしめだと聞く白鷺を引立たせる、待女郎まちじょろうの意味の奉納か。その待女郎の目が、一つ、黄色に照って、縦にきらきらと天井の暗さに光る、と見つつ、且つその俎の女の正体をお誓に言うのに、一度、気を取られて、見直した時、ふと、もうその目の玉の縦に切れたのが消えていた。
 ※(「(矛+攵)/虫」、第4水準2-87-65)はんみょうだ。斑※(「(矛+攵)/虫」、第4水準2-87-65)が留っていた。
「お誓さん、お誓さん。――その辺に、綺麗きれいな虫が一つ居はしませんか、虫が。」
「ええ。」
「居る?」
「ええ。居ますわ。」
 バタリと口にくわえたくしが落ちた。お誓は帯のむすびめをうしろに取って、細い腰をしめさまに、その引掛ひっかけを手繰っていたが、
「玉虫でしょう、綺麗な。ええ、人間は、女は浅間しい。すぐに死なないと思いましたら、かんざしものもほしいんです。この場所ですから、姫神様が下さるんだと思いましてさ、ちょっと、櫛でおさえました。ツイとそれて、取損って、見えませんわ。そちらに居ません? 玉虫でしょう。」
 かたみの簪、箪笥たんすきぬ、薙刀で割く腹より、小県はこの時、涙ぐんだ。
 いや、懸念に堪えない。
「玉虫どころか……」
 名は知るまいと思うばかり、その説明の暇もない。
「大変な毒虫だよ。――支度はいいね、お誓さん、お堂の下へおりて下さい。さあ……その櫛……指を、唇へ触りはしまいね。」
「櫛は峰の方を啣えました。でも、指はあの、びんの毛を撫でつけます時、水がなかったもんですから、つい……いいえ、毒にあたれば、神様のおぼしめしです。こんな身体からだを、構わんですわ。」
 ちょっとなまって、甘えるような口ぶりが、なお、きっぱりと断念あきらめがよく聞えた。いやが上に、それも可哀あわれで、その、いじらしさ。
「帯にも、袖にも、どこにも、居ないかね。」
 再び巨榎おおえのきみどりの蔭に透通る、寂しく澄んだ姿をた。
 水にも、満つる時ありや、樹の根の清水はあふれたり。
「ああ、さっき水を飲んだ時でなくてかった。」
 引立ててきざはしを下りた、その蔀格子しとみごうしの暗い処に、カタリと音がした。
「あれ、薙刀がはずれましたか。」
 清水のおもてが、柄杓ひしゃくこけを、※(「王+干」、第3水準1-87-83)ろうかんのごとく、こずえもる透間すきまを、銀象嵌ぎんぞうがんちりばめつつ、そのもの音の響きに揺れた。
「まあ、あれ、あれ、ご覧なさいまし、長刀が空を飛んで行く。」……
 榎の梢を、兎のような雲にのって。
「桃色の三日月様のように。」
 と言った。
 松島の沿道の、雨晴れの雲を豆府に、陽炎かげろうを油揚に見物したという、外道俳人、小県の目にも、これを仰いだ目に疑いはない。薙刀のき刃のように、たとえば片鎌の月のように、銀光を帯び、水紅ときうすものして、あまかける鳥の翼を見よ。
「大沼の方へ飛びました。明神様の導きです。あすこへ行きます、行って……」
「行って、どうします? 行って。」
「もうこんな気になりましては、腹の子をお守り遊ばす、観音様の腹帯を、肌につけてはいられません。解きます処、棄てます処、流す処がなかったのです。女の肌につけたものが一度は人目に触れるんですもの。抽斗ひきだしにしまって封をすれば、仏様のなさけあだの女の邪念で、蛇、ひるに、のびちぢみ、ちぎれて、蜘蛛くもになるかも知れない。やり場がなかったんですのに、導びきと一所に、おさとしなんです。小県さん。あの沼は、真中まんなかが渦を巻いて底知れず水を巻込むんですって、爺さんに聞いています……」
 と、銑吉のたもとの端をしかと取った。
く道が分っていますか。」
「ええ、身を投げようと、……二度も、三度も。」――
 欄干の折れた西の縁の出端はずれから、袖形に地のなびく、向うの末の、雑樹ぞうき茂り、葎蔽むぐらおおい、ほとんど国を一重隔てた昔話の音せぬ滝のようなのを、猶予ためらわずくぐる時から、お誓が先に立った。おもいのほか、外は細い路がうねって通った。が、小県はほとんど山姫に半ばを誘わるる思いがした。ことさらにあとへ退さがったのではない、もう二三尺と思いつつ、お誓の、草がくれに、いつもその半身、縞絹しまぎぬに黒髪した遁水にげみずのごとき姿を追ったからである。
 沼は、不忍しのばずの池を、そのなかばにしたと思えばい。ただ周囲に蓊鬱おううつとして、樹が茂って暗い。
 森をくぐって、青い姿見が蘆間あしまに映った時である。
 なぎさの、斜向はすむこうへ――おおきな赤い蛇があらわれた。蘆かやを引伏せて、鎌首を挙げたのは、真赤まっかなヘルメット帽である。
 小県が追縋おいすがすきもなかった。
 く、お誓が、心せいたか、樹と樹の幹にちょっと支えられたようだったが、そのまま両手で裂くように、水に襟を開いた。玉なめらかに、きめ細かに、白妙しろたえなる、乳首の深秘は、かすかに雪間のすみれを装い、牡丹冷やかにくずれたのは、その腹帯の結びめを、伏目に一目、きりきりと解きかけつつ、
「畜生……」
 と云った、女の声とともに、こだまが冴えて、銃が響いた。
 小県は草に、ふせかまえを取った。これは西洋において、いやこの頃は、もっと近くでるかも知れない……爪さきに接吻キスをしようとしたのではない。ものいうもなし、お誓を引倒して、危難を避けさせようとして、且つ及ばなかったのである。
 その草伏くさぶしの小県の目に、お誓の姿が――峰をいて、高く、金色こんじきの夕日にそばだって見えた。ひとしく、野の燃ゆるがごとく煙って、鼻のとがった、おおいなる紳士が、銃を倒す、と斉しく、ヘルメット帽を脱いで、高くポンと空へ投げて、拾って、また投げて、落ちると、宙に受けて、またなげるのを視た。足でなく、頭で雀躍こおどりしたのである。たちまち、法衣ころもを脱ぎ、手早く靴を投ると、いきおいよく沼へ入った。
 続いて、赤少年が三人泳ぎ出した。
 中心へ近づくままに、く手のひじの上へあらわれた鼻の、黄色に青みを帯び、きのこのくさりかかったようなおもてを視た。水につたないのであろう。あえぐ――しかむ、泡を噴く。が、あるいは鳥に対する隠形おんぎょう一術ひとてであろうも計られぬ。
「ばか。」
 投棄てるようにいうとともに、お誓はよろよろと倒れて、うっとりと目を閉じた。
 早く解いて流したくれないの腹帯は、二重三重にわがなって、大輪の花のようなのを、もろを添えて、白鷺が、すれすれに水を切って、鳥旦那のきたり迫る波がしらと直線に、水脚を切ってく。その、花片はなびらに、いやその腹帯の端に、キラキラと、虫が居て、青く光った。
 鼻を仰向け、諸手もろてで、腹帯をつかむと、紳士は、ずぶずぶと沼に潜った。次に浮きざまにひるがえった帯は、翼かと思う波を立てて消え、紳士も沈んだ。三個の赤い少年も、もう影もない。
 ただ一人、水に入ろうとする、ずんぐりものの色の黒い少年を、その諸足を取って、孫八じいが押えたのが見える。押えられて、手を突込つっこんだから、脚をばったのように、いや、ずんぐりだから、蟋蟀こおろぎのように※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)もがいて、頭でうすいていた。

「――そろそろと歩行あるいてき、ただ一番あとのものを助けるよう――」
 途中から女の子に呼戻させておいて、媼巫女うばみこ、その孫八爺さんに命ずるがごとくに云って――方角を教えた。
 ずんぐりが一番あとだったのを、孫八が来て見出したとともに、助けたのである。
 この少年は、少なからぬ便宜を与えた。――しらべする官人の前で、
「――三日以来、大沼が、日に三度ずつ、水の色が真赤まっかになる情報があったであります。の鳥が一羽ずつ来るのだと鳥博士が申されました。奇鳥で、非常な価値である。十分に準備を整えて出向ったであります。果して、対岸に真紅まっかな鳥が居る。撃ったであります。銃の命中したその鳥は、沼の中心へ落ちたであります。従って高級なる猟犬として泳いだのであります。」
 と明確に言った。
 のみならず、紳士の舌には、斑※(「(矛+攵)/虫」、第4水準2-87-65)がねばりついていた。
 一人として事件に煩わされたものはない。
 なぎさで、お誓を抱いた時、惜しや、かわいそうに、もういけないと思った。胸に硝薬しょうやくのにおいがしたからである。
 水をもうとする処へ、少年を促がしつつ、廻りけに駈けつけた孫八があわただしく留めた。水を飲んじゃなりましねえ。山野に馴れた爺の目には、沼の水を見さっせえ、お前等めえらがいった、毒虫が、ポカリポカリ浮いてるだ。……
 明神まで引返す、これにも少年が用立った。爺さんにかわって、お誓を背にして走った。
 清水につくと、魑魅すだまが枝を下り、茂りの中からあらわれたように見えたが、早く尾根づたいして、八十路やそじに近い、脊の低い柔和なおばあさんが、片手に幣結しでゆえるさかきを持ち、つえはついたが、すこやかに来合わせて、
「苦労さしゃったの。もうよし、よし。」
 と、お誓のそのふくよかな腹を、袖の下でさすって微笑ほほえんだ。そこがちょうど結び目の帯留の金具を射て、弾丸たまれたらしい。小指のさきほどの打身があった。うすいふすぼりが、うばの手が榊を清水にひたして冷すうちに、ブライツッケルの冷罨法れいあんぽうにもかなえるごとく、やや青く、薄紫にあせるとともに、が銀の露に汗ばんで、濡色の睫毛まつげが生きた。
 町へ急ぐようにと云って、媼はなおあとへ残るから、
「お前様は?」
 お誓が聞くと、
「姫神様がの、お冠のひもが解けた、と御意じゃよ。」

 これを聞いて、活ける女神じょしんが、なぜみずからのその手にて、などというものは、烏帽子折えぼしおりを思わるるがいい。早い処は、さようなお方は、恋人に羽織をきせられなかろう。袴腰も、御自分で当て、帽子も、御自分で取っておかぶりなさい。

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