四
「……小県さん、女が、女の不束で、絶家を起す、家を立てたい――」 「絶家を起す、家を起てたい……」 「ええ、その考えは、間違っていますでしょうか。」 「何が、間違いです。誰が間違いだと云いました。とんでもない、天晴れじゃありませんか。」 「私の父は、この土地のものなんです。」 「ああ、成程。」 「――この藩のちょっとした藩士だったそうなんですが、道楽ものだったと思います。御維新の騒ぎに刀さしをやめたのは可いんですけれど、そういう人ですから、堅気の商売が出来ないで、まだ――街道が賑かだったそうですから、片原の町はずれへ、茶屋旅籠の店を出したと申しますの。 ……貴方、こちらへいらっしゃりがけに――その、あの、牡丹、牡丹ですが。」 なぜか、引くいきに、声がかすれて、 「あの咲いております処は、今は田畝のようになりましたけれど、もと、はなれの庭だったそうですの……そして―― 牡丹は、父の手しおにかけましたものですって。……あとでは、料理ばかりにして、牡丹亭といったそうです。父がなくなりますと……それが人手から人手へ渡って、あとでは立ちぐされも同様。でも、それも、不景気で、こぼし屋の引取手もなしに、暴風雨で潰れたのが、家の骸骨のように路端に倒れていますわ。 母はその牡丹亭ごろの、おかみさん。……そんな事は申しませんでもいいんですけど、父とは、大層若くて年が違いました。 ――町あたりの芸者だそうです。ですが、武家の娘だったせいですか――まだ、私がお腹に。……」 ふと耳許をほんのりと薄く染めた。 「お腹のうち、本所に居る東京の遠縁のものにたよって出まして、のちに、浅草で、また芸者をしたんですけれど、なくなります時、いまわの際まで、血統が絶える、田沢の家を、田沢の家をと、せめて後を絶さないように遺言をしたんです。 私はその時分、新橋でお酌に出ておりました。十四や十五の考えで、この上一本になって、人の世話になるにした処で、一人で商売をした処で、家を立てるのぞみがありそうに思われません。だもんですから、都合をつけて道をかえまして、梅水へ奉公をしましたのです。自分の口からお恥かしい、余りあからさまのようですが、つむりのものより、なりかたちより、少しでもお金を貯めて、小さな店でも出せますように、その上で、堅気の養子になる人を、縁があったらと、思詰め、念じ切っておりました。 こんなものでも、一つ家に、十年の余も辛抱をしますうちには、お一人やお二方、相談をして下さる方のないこともなかったんですけど、田沢の家の養子とでは、まるでかけ離れました縁ですもの。冷たい顔して、きっぱりと、お断り申しました。それが、心得違いだったんです、間違っていたんです。ねえ。」 「間違いではありません。お誓さん、しかし、ただ、道も一条の上だとしたら、家を起す――血統を絶やさない、真に立派な覚悟だけれど、……本当は女一人だとすると、どうしていいか、それは、学者でも、教育家でも、たとえばお寺の坊さんでも、実地に当ると、八衢に前途が岐れて、道しるべをする事はむずかしい……世の中になったんですね。」 「まったくですわ。でも、それも、まだ月日は長し……昨日や今日の事とは思わなかったんですのに――昨年、店の都合で裾野の方へ一夏まいりまして、朝夕、あの、富士山の景色を見ますにつけ……ついのんびりと、一人で旅がしてみたくなったんです。一体出不精な処へ、お蔭様、店も忙しゅうございますし、本所の伯父伯母と云った処で、ほんの母がたよりました寄親同様。これといって行きたい場所も知りませんものですから、旅をするなら、名ばかりでも、聞いただけ懐しい、片原を、と存じまして、十月小春のいい時候に、もみじもさかり、と聞きました。…… はじめて、泊りました、その土地の町の旅宿が、まわり合せですか、因縁だか、その宿の隠居夫婦が、よく昔の事を知っていました。もの珍らしいからでしょう、宿帳の田沢だけで、もう、ちっとでも片原に縁があるだろう、といいましてね。 そんなですから、隠居二人で、西明寺の父の墓も案内をしてくれますし。……まことに不思議な、久しく下草の中に消えていた、街道端の牡丹が、去年から芽を出して、どうしてでしょう、今年の夏は、花を持った。町でも人が沢山見に行き、下の流れを飲んで酔うといえば、汲んで取って、香水だと賞めるのもある。……お嬢さん……私の事です。」 と頬も冷たそうに、うら寂しく、 「故郷へ帰って来て、田沢家を起す、瑞祥はこれで分った、と下へも置かないで、それはほんとうに深切に世話をして、牡丹さん、牡丹さん、私の部屋が牡丹の間。餡子ではあんまりだ、黄色い白粉でもつけましょう、牡丹亭きな子です。お一ついかが……そういってどうかすると、お客にお酌をした事もあるんです。長逗留の退屈ばらし、それには馴れた軽はずみ……」 歎息も弱々と、 「もっとも煩いことでも言えば、その場から、つい立って、牡丹の間へ帰っていたんです。それというのが、ああも、こうもと、それから、それへ、商売のこと、家のこと。隠居夫婦と、主人夫婦、家のものばかりも四人でしょう。番頭ですの、女中ですの、入かわり相談をしてくれます。聞くだけでも楽みで、つんだり、崩したり、切組みましたり、庭背戸まで見積って、子供の積木細工で居るうちに、日が経ちます。……鳥居数をくぐり、門松を視ないと、故郷とはいえない、といわれる通りの気になって、おまいりをしましたり。……逗留のうち、幾度、あの牡丹の前へ立ったでしょう。 柱一本、根太板も、親たちの手の触ったのが残っていましょう。あの骨を拾おう。どうしよう。焚こうか、埋めようか。ちょっと九尺二間を建てるにしても、場所がいまの田畝ではどうにもならず。(地蔵様の祠を建てなさい、)隠居たちがいうんです。ああ、いいわねえ、そうしましょうか。 思出しても身体がふるえる、…… 今年二月の始でした。……東京も、そうだったって聞いたんですが、この辺でも珍らしく、雪の少い、暖かな冬でしたの。……今夜の豆撒が済むと、片原で年を取って、あかんぼも二つになると、隠居たちも笑っていました。その晩――暮方…… 湯上りのいい心持の処へ、ちらちら降出しました雪が嬉しくって、生意気に、……それだし、銀座辺、あの築地辺の夜ふけの辻で、つまらない悪戯をされました覚えもなし、またいたずらに逢ったところで、ところ久しいだけ、門なみ知っているんです。……梅水のものですよ。それで大概、挨拶をして離れちまいますんですもの、道の可恐さはちっとも知らずにいたんです。――それに牡丹亭のあとまでは、つれがありましたり、一人でも幾度も行ったり来たり、屋根のない長い廊下もおんなじに思っていましたものですから、コオトも着ないで、小県さん、浴衣に襟つき一枚何かで。――裙へ流れる水、あの小川も、梅水に居て、座敷の奥で、水調子を聞く音がします。……牡丹はもう、枝ばかり、それも枯れていたんですが、降る雪がすっきりと、白い莟に積りました。……大輪なのも面影に見えるようです。 向うへ、小さなお地蔵様のお堂を建てたら、お提灯に蔦の紋、養子が出来て、その人のと、二つなら嬉しいだろう。まあ極りの悪い。……わざとお賽銭箱を置いて、宝珠の玉……違った、それはお稲荷様、と思っているうちに、こんな風に傘をさして、ちらちらと、藤の花だか、鷺だかの娘になって、踊ったこともあったっけ。――傘は、ここで、畳んだか、開いてさしたかと、うっかりしました。――傘を、ひどい力で、上へぐいと引いたんです。天にも地にも、小県さん、観音様と、明神様のほかには、女の身体で、口へ出して……」 キリキリと歯を噛んで、つと瞼の色が褪せた。 「癪か。しっかりなさい、お誓さん。」 さそくに掬った柄杓の水を、削るがごとく口に含んで、 「人間がましい、癪なんぞは、通越しているんです。ああ、この水が、そのまんま、青い煙になって焼いちまってくれればいいのに。」 しばらく、声も途絶えたのである。 「口惜しいわ、私、小県さん、足が上へ浮く処を、うしろから、もこん、と抱込んだものを、見ました時。」 わなわなと震えたから、小県も肩にかけていた手を離した。倒れそうに腰をつくと、褄を投げて、片手を苔に辷らした。 「灰汁のような毛が一面にかぶさった。枯木のような脊の高い、蒼い顔した※々[#「けものへん+非」、88-17]、あの、絵の※[#「けものへん+非」、88-18]々、それの鼻、がまた高くて巨いのが、黒雲のようにかぶさると思いましたばかり……何にも分らなくなりました。 あとで――息の返りましたのは、一軒家で飴を売ります、お媼さんと、お爺さんの炉端でした。裏背戸口へ、どさりと音がしたきりだった、という事です。 どんな形で、投り出されていたんでしょう。」 褄を引合わせ、身をしめて、 「……のちに、大沼で、とれたといって、旅宿の台所に、白い雁が仰向けに、俎の上に乗ったのを、ふと見まして、もう一度ゾッとすると、ひきつけて倒れました事さえあるんです。 ――その晩は、お爺さんの内から、ほんの四五町の処を、俥にのって帰ったのです。急に、ひどい悪寒がするといって、引被って寝ましたきり、枕も顔もあげられますもんですか。悪寒どころですか、身体はやけますようですのに、冷い汗を絞るんです。その汗が脇の下も、乳の処も、……ずくずく……悪臭い、鱶だか、鮫だかの、六月いきれに、すえたような臭いでしょう。むしりたい、切って取りたい、削りたい、身体中がむかむかして、しっきりなしに吐くんです。 無理やりに服まされました、何の薬のせいですか、有る命は死にません。――活きているかいはなし……ただ西明寺の観音様へお縋りにまいります。それだって、途中、牡丹のあるところを視ます時の心もちは、ただお察しにまかせます。……何の罪咎があるんでしょう、と思うのは、身勝手な、我身ばかりで、神様や仏様の目で、ごらんになったら。」 「お誓さん、……」 声を沈めて遮った。 「神、仏の目には、何の咎、何の罪もない。あなたのような人間を、かえって悪魔は狙うのですよ。幾年目かに朽ちた牡丹の花が咲いた……それは嘘ではありますまい。人は見て奇瑞とするが、魔が咲かせたかも知れないんです。反対に、お誓さんが故郷へ帰った、その瑞兆が顕われたとして、しかも家の骨に地蔵尊を祭る奇特がある。功徳、恭養、善行、美事、その只中を狙うのが、悪魔の役です。どっちにしろ可恐しい、早くそこを通抜けよう。さ、あなたも目をつむって、観音様の前へおいでなさい。」 「――ある時、和尚さんが、お寺へ紅白の切を、何ほどか寄進をして欲しいものじゃ、とおっしゃるんです。寺の用でない、諸人の施行のためじゃけれど、この通りの貧乏寺。……ええ、私の方から、おやくに立ちますならお願い申したいほどですわ。三反持って参りますと、六尺ずつに切りたいが、鋏というものもなし……庖丁ではどうであろう。まあ、手で裂いても間に合いますわ。和尚さんに手伝って三方の上へ重ねました時、つい、それまでは不信心な、何にも知らずにおりました。子育ての慈愛をなさいます、五月帯のわけを聞きまして、時も時、折も折ですし、……観音様。」 お誓が、髪を長く、すっと立って、麓に白い手を合わせた。 「つい女気で、紅い切を上へ積んだものですから、真上のを、内証で、そっと、頂いたんです。」 「それは、めでたい。――結構ではないか、お誓さん。」 お誓は榎の根に、今度は吻として憩った、それと差むかいに、小県は、より低い処に腰を置いて、片足を前に、くつろぐ状して、 「節分の夜の事だ。対手を鬼と思いたまえ。が、それも出放題過ぎるなら、怪我……病気だと思ったらどうです。怪我や病気は誰もする。……その怪我にも、病気にも障りがなくって、赤ちゃんが、御免なさいよ、ま、出来たとする。昔から偉人には奇蹟が携わる、日を見て、月を見て、星を見て、いや、ちと大道うらないに似て来たかね。」 袖を開いて扇を使った。柳の影が映りそうで、道得て、いささか可と思ったらしい。 「鶴を視て懐姙した験はいくらもある。いわゆる、もうし子だとお思いなさい。その上、面倒な口を利く父親なしに、お誓さん一人で育てたら、それが生一本の田沢家の血統じゃありませんか。そうだ、悪魔などと言ったのは、私のあやまり、豊年の何とかいう雪が降って、節分には、よく降るんです。正に春立ならんとする時、牡丹に雪の瑞といい、地蔵菩薩の祥といい、あなたは授りものをしたんじゃないか、確にそうだ、――お誓さん。」 お誓は淡くまた瞼を染めた。 「そんな、あの、大それた、高望みはしませんけれど、女の子かも知れないと思いました。五日、七日、二夜、三夜、観音様の前に静としていますうちに、そういえば、今時、天狗も※々[#「けものへん+非」、91-16]も居まいし、第一獣の臭気がしません。くされたというは心持で、何ですか、水に棲むもののような気がするし、森の香の、時々峰からおろす松風と一所に通って来るのも、水神、山の神に魅入られたのかも分らない。ええ、因果と業。不具でも、虫でもいい。鳶鴉でも、鮒、鰌でも構わない。その子を連れて、勧進比丘尼で、諸国を廻って親子の見世ものになったらそれまで、どうなるものか。……そうすると、気が易くなりました。」 「ああ、観音の利益だなあ。」 つと顔を背けると、肩をそいで、お誓は、はらはらと涙を落した。 「その御利益を、小県さん、頂いてだけいればよかったんですけれど――早くから、関屋からこの辺かけて、鳥の学者、博士が居ます。」 「…………」 「鳥の巣に近づくため、撃つために、いろいろな……あんな形もする、こうもする。……頭に樹の枝をかぶったり、かずらや枯葉を腰へ巻いたり……何の気もなしに、孫八ッて……その飴屋の爺さんが夜話するのを、一言……」 (!…………) 「焼火箸を脇の下へ突貫かれた気がしました。扇子をむしって棄ちょうとして、勿体ない、観音様に投げうちをするようなと、手が痺れて落したほどです。夜中に谷へ飛降りて、田沢の墓へ噛みつこうか、とガチガチと歯が震える。……路傍のつぶれ屋を、石油を掛けて焼消そうか。牡丹の根へ毒を絞って、あの小川をのみ干そうか。 もうとても……大慈大悲に、腹帯をお守り下さいます、観音様の前には、口惜くって、もどかしくって居堪らなくなったんですもの。悪念、邪心に、肝も魂も飛上って……あら神様で、祟の鋭い、明神様に、一昨日と、昨日、今日……」 ――誓ただひとりこの御堂に―― 「独り居れば、ひとり居るほど、血が動き、肉が震えて、つきます息も、千本の針で身体中さすようです。――前刻も前刻、絵馬の中に、白い女の裸身を仰向けにくくりつけ、膨れた腹を裂いています、安達ヶ原の孤家の、もの凄いのを見ますとね。」 (――実は、その絵馬は違っていた――) 「ああ、さぞ、せいせいするだろう。あの女は羨しいと思いますと、お腹の裡で、動くのが、動くばかりでなくなって、もそもそと這うような、ものをいうような、ぐっぐっ、と巨きな鼻が息をするような、その鼻が舐めるような、舌を出すような、蒼黄色い顔――畜生――牡丹の根で気絶して、生死も知らないでいたうちの事が現に顕われて、お腹の中で、土蜘蛛が黒い手を拡げるように動くんですもの。 帯を解いて、投げました。 ええ、男に許したのではない。 自分の腹を露出したんです。 芬と、麝香の薫のする、金襴の袋を解いて、長刀を、この乳の下へ、平当てにヒヤリと、また芬と、丁子の香がしましたのです。」……
この薙刀を、もとのなげしに納める時は、二人がかりで、それはいいが、お誓が刃の方を支えたのだから、おかしい。 誰も、ここで、薙刀で腹を切ったり、切らせたりするとは思うまい。 ――しかも、これを取はずしたという時に落したのであろう。女の長い切髪の、いつ納めたか、元結を掛けて黒い水引でしめたのが落ちていた。見てさえ気味の悪いのを、静に掛直した。お誓は偉い!……落着いている。 そのかわり、気の静まった女に返ると、身だしなみをするのに、ちょっと手間が取れた。 下じめ――腰帯から、解いて、しめ直しはじめたのである。床へ坐って…… ちっと擽ったいばかり。こういう時の男の起居挙動は、漫画でないと、容易にその範容が見当らない。小県は一つ一つ絵馬を視ていた。薙刀の、それからはじめて。―― 一度横目を流したが、その時は、投げた単衣の後褄を、かなぐり取った花野の帯の輪で守護して、その秋草の、幻に夕映ゆる、蹴出しの色の片膝を立て、それによりかかるように脛をあらわに、おくれ毛を撫でつけるのに、指のさきをなめるのを、ふと見まじいものを見たように、目を外らした。 「その絵馬なんですわ、小県さん。」 起つと、坐ると、しかも背中合せでも、狭い堂の中の一つ処で、気勢は通ずる。安達ヶ原の…… 「お誓さん、気のせいだ。この絵馬は、俎の上へ――裸体の恋絹を縛ったのではない。白鷺を一羽仰向けにしてあるんだよ。しかもだね、料理をするのは、もの凄い鬼婆々じゃなくって、鮹の口を尖らした、とぼけた爺さん。笑わせるな、これは願事でなくて、殺生をしない戒めの絵馬らしい。」 事情も解めている。半ば上の空でいううちに、小県のまた視めていたのは、その次の絵馬で。 はげて、くすんだ、泥絵具で一刷毛なすりつけた、波の線が太いから、海を被いだには違いない。……鮹かと思うと脚が見えぬ、鰈、比目魚には、どんよりと色が赤い。赤だ。が何を意味する?……つかわしめだと聞く白鷺を引立たせる、待女郎の意味の奉納か。その待女郎の目が、一つ、黄色に照って、縦にきらきらと天井の暗さに光る、と見つつ、且つその俎の女の正体をお誓に言うのに、一度、気を取られて、見直した時、ふと、もうその目の玉の縦に切れたのが消えていた。 斑だ。斑が留っていた。 「お誓さん、お誓さん。――その辺に、綺麗な虫が一つ居はしませんか、虫が。」 「ええ。」 「居る?」 「ええ。居ますわ。」 バタリと口に啣えた櫛が落ちた。お誓は帯のむすびめをうしろに取って、細い腰をしめさまに、その引掛けを手繰っていたが、 「玉虫でしょう、綺麗な。ええ、人間は、女は浅間しい。すぐに死なないと思いましたら、簪も衣ものも欲いんです。この場所ですから、姫神様が下さるんだと思いましてさ、ちょっと、櫛でおさえました。ツイとそれて、取損って、見えませんわ。そちらに居ません? 玉虫でしょう。」 筐の簪、箪笥の衣、薙刀で割く腹より、小県はこの時、涙ぐんだ。 いや、懸念に堪えない。 「玉虫どころか……」 名は知るまいと思うばかり、その説明の暇もない。 「大変な毒虫だよ。――支度はいいね、お誓さん、お堂の下へおりて下さい。さあ……その櫛……指を、唇へ触りはしまいね。」 「櫛は峰の方を啣えました。でも、指はあの、鬢の毛を撫でつけます時、水がなかったもんですから、つい……いいえ、毒にあたれば、神様のおぼしめしです。こんな身体を、構わんですわ。」 ちょっとなまって、甘えるような口ぶりが、なお、きっぱりと断念がよく聞えた。いやが上に、それも可哀で、その、いじらしさ。 「帯にも、袖にも、どこにも、居ないかね。」 再び巨榎の翠の蔭に透通る、寂しく澄んだ姿を視た。 水にも、満つる時ありや、樹の根の清水はあふれたり。 「ああ、さっき水を飲んだ時でなくて可かった。」 引立てて階を下りた、その蔀格子の暗い処に、カタリと音がした。 「あれ、薙刀がはずれましたか。」 清水の面が、柄杓の苔を、琅のごとく、梢もる透間を、銀象嵌に鏤めつつ、そのもの音の響きに揺れた。 「まあ、あれ、あれ、ご覧なさいまし、長刀が空を飛んで行く。」…… 榎の梢を、兎のような雲にのって。 「桃色の三日月様のように。」 と言った。 松島の沿道の、雨晴れの雲を豆府に、陽炎を油揚に見物したという、外道俳人、小県の目にも、これを仰いだ目に疑いはない。薙刀の鋭き刃のように、たとえば片鎌の月のように、銀光を帯び、水紅の羅して、あま翔る鳥の翼を見よ。 「大沼の方へ飛びました。明神様の導きです。あすこへ行きます、行って……」 「行って、どうします? 行って。」 「もうこんな気になりましては、腹の子をお守り遊ばす、観音様の腹帯を、肌につけてはいられません。解きます処、棄てます処、流す処がなかったのです。女の肌につけたものが一度は人目に触れるんですもの。抽斗にしまって封をすれば、仏様の情を仇の女の邪念で、蛇、蛭に、のびちぢみ、ちぎれて、蜘蛛になるかも知れない。やり場がなかったんですのに、導びきと一所に、お諭しなんです。小県さん。あの沼は、真中が渦を巻いて底知れず水を巻込むんですって、爺さんに聞いています……」 と、銑吉の袂の端を確と取った。 「行く道が分っていますか。」 「ええ、身を投げようと、……二度も、三度も。」―― 欄干の折れた西の縁の出端から、袖形に地の靡く、向うの末の、雑樹茂り、葎蔽い、ほとんど国を一重隔てた昔話の音せぬ滝のようなのを、猶予らわず潜る時から、お誓が先に立った。おもいのほか、外は細い路が畝って通った。が、小県はほとんど山姫に半ばを誘わるる思いがした。ことさらにあとへ退ったのではない、もう二三尺と思いつつ、お誓の、草がくれに、いつもその半身、縞絹に黒髪した遁水のごとき姿を追ったからである。 沼は、不忍の池を、その半にしたと思えば可い。ただ周囲に蓊鬱として、樹が茂って暗い。 森をくぐって、青い姿見が蘆間に映った時である。 汀の、斜向うへ――巨な赤い蛇が顕われた。蘆萱を引伏せて、鎌首を挙げたのは、真赤なヘルメット帽である。 小県が追縋る隙もなかった。 衝と行く、お誓が、心せいたか、樹と樹の幹にちょっと支えられたようだったが、そのまま両手で裂くように、水に襟を開いた。玉なめらかに、きめ細かに、白妙なる、乳首の深秘は、幽に雪間の菫を装い、牡丹冷やかにくずれたのは、その腹帯の結びめを、伏目に一目、きりきりと解きかけつつ、 「畜生……」 と云った、女の声とともに、谺が冴えて、銃が響いた。 小県は草に、伏の構を取った。これは西洋において、いやこの頃は、もっと近くで行るかも知れない……爪さきに接吻をしようとしたのではない。ものいう間もなし、お誓を引倒して、危難を避けさせようとして、且つ及ばなかったのである。 その草伏の小県の目に、お誓の姿が――峰を抽いて、高く、金色の夕日に聳って見えた。斉しく、野の燃ゆるがごとく煙って、鼻の尖った、巨なる紳士が、銃を倒す、と斉しく、ヘルメット帽を脱いで、高くポンと空へ投げて、拾って、また投げて、落ちると、宙に受けて、また投るのを視た。足でなく、頭で雀躍したのである。たちまち、法衣を脱ぎ、手早く靴を投ると、勢よく沼へ入った。 続いて、赤少年が三人泳ぎ出した。 中心へ近づくままに、掻く手の肱の上へ顕われた鼻の、黄色に青みを帯び、茸のくさりかかったような面を視た。水に拙いのであろう。喘ぐ――しかむ、泡を噴く。が、あるいは鳥に対する隠形の一術であろうも計られぬ。 「ばか。」 投棄てるようにいうとともに、お誓はよろよろと倒れて、うっとりと目を閉じた。 早く解いて流した紅の腹帯は、二重三重にわがなって、大輪の花のようなのを、もろ翼を添えて、白鷺が、すれすれに水を切って、鳥旦那の来り迫る波がしらと直線に、水脚を切って行く。その、花片に、いやその腹帯の端に、キラキラと、虫が居て、青く光った。 鼻を仰向け、諸手で、腹帯を掴むと、紳士は、ずぶずぶと沼に潜った。次に浮きざまに飜った帯は、翼かと思う波を立てて消え、紳士も沈んだ。三個の赤い少年も、もう影もない。 ただ一人、水に入ろうとする、ずんぐりものの色の黒い少年を、その諸足を取って、孫八爺が押えたのが見える。押えられて、手を突込んだから、脚をばったのように、いや、ずんぐりだから、蟋蟀のようにいて、頭で臼を搗いていた。
「――そろそろと歩行いて行き、ただ一番あとのものを助けるよう――」 途中から女の子に呼戻させておいて、媼巫女、その孫八爺さんに命ずるがごとくに云って――方角を教えた。 ずんぐりが一番あとだったのを、孫八が来て見出したとともに、助けたのである。 この少年は、少なからぬ便宜を与えた。――検する官人の前で、 「――三日以来、大沼が、日に三度ずつ、水の色が真赤になる情報があったであります。緋の鳥が一羽ずつ来るのだと鳥博士が申されました。奇鳥で、非常な価値である。十分に準備を整えて出向ったであります。果して、対岸に真紅な鳥が居る。撃ったであります。銃の命中したその鳥は、沼の中心へ落ちたであります。従って高級なる猟犬として泳いだのであります。」 と明確に言った。 のみならず、紳士の舌には、斑がねばりついていた。 一人として事件に煩わされたものはない。 汀で、お誓を抱いた時、惜しや、かわいそうに、もういけないと思った。胸に硝薬のにおいがしたからである。 水を汲もうとする処へ、少年を促がしつつ、廻り駈けに駈けつけた孫八が慌しく留めた。水を飲んじゃなりましねえ。山野に馴れた爺の目には、沼の水を見さっせえ、お前等がいった、毒虫が、ポカリポカリ浮いてるだ。…… 明神まで引返す、これにも少年が用立った。爺さんにかわって、お誓を背にして走った。 清水につくと、魑魅が枝を下り、茂りの中から顕われたように見えたが、早く尾根づたいして、八十路に近い、脊の低い柔和なお媼さんが、片手に幣結える榊を持ち、杖はついたが、健に来合わせて、 「苦労さしゃったの。もうよし、よし。」 と、お誓のそのふくよかな腹を、袖の下で擦って微笑んだ。そこがちょうど結び目の帯留の金具を射て、弾丸は外れたらしい。小指のさきほどの打身があった。淡いふすぼりが、媼の手が榊を清水にひたして冷すうちに、ブライツッケルの冷罨法にも合えるごとく、やや青く、薄紫にあせるとともに、乳が銀の露に汗ばんで、濡色の睫毛が生きた。 町へ急ぐようにと云って、媼はなおあとへ残るから、 「お前様は?」 お誓が聞くと、 「姫神様がの、お冠の纓が解けた、と御意じゃよ。」
これを聞いて、活ける女神が、なぜみずからのその手にて、などというものは、烏帽子折を思わるるがいい。早い処は、さようなお方は、恋人に羽織をきせられなかろう。袴腰も、御自分で当て、帽子も、御自分で取っておかぶりなさい。
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