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神鷺之巻(しんろのまき)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-22 16:27:06 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 泉鏡花集成9
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1996(平成8)年6月24日
入力に使用: 1996(平成8)年6月24日第1刷
校正に使用: 1996(平成8)年6月24日第1刷

 

      一

 白鷺明神しらさぎみょうじんほこらへ――一緑の森をその峰に仰いで、小県銑吉おがたせんきちがいざ詣でようとすると、案内に立ちそうな村の爺さんが少なからず難色をあらわした。
 この爺さんは、
「――おらが口で、あらためていうではねえがなす、内のばばあは、へい一通りならねえ巫女いちこでがすで。」……
 若い時は、渡り仲間の、のらもので、猟夫かりゅうどを片手間に、小賭博こばくちなどもるらしいが、そんな事より、古女房が巫女というので、聞くものに一種の威力があったのはいうまでもない。
 またその媼巫女うばいちこの、巫術ふじゅつ修煉しゅうれんの一通りのものでない事は、読者にも、間もなく知れよう。
 一体、孫八が名だそうだ、この爺さんは、つい今しがた、この奥州、関屋の在、旧――街道わきの古寺、西明寺さいみょうじの、見る影もなく荒涼あれすさんだ乱塔場で偶然知己ちかづきになったので。それから――無住ではない、住職の和尚は、斎稼ときかせぎに出て留守だった――その寺へ伴われ、庫裡くりから、ここに准胝観世音じゅんでいかんぜおん御堂みどうに詣でた。
 いま、その御廚子みずしの前に、わずかに二三畳の破畳やれだたみの上に居るのである。
 さながら野晒のざらし肋骨あばらぼねを組合わせたように、れ古びた、正面の閉した格子を透いて、向う峰の明神の森は小さな堂の屋根を包んで、街道を中に、石段は高いが、あたかも、ついそこに掛けた、一面墨絵の額、いや、ざっと彩った絵馬のごとく望まるる。
 明神は女体におわす――爺さんがいうのであるが――それへ、詣ずるのは、石段の上の拝殿までだが、そこへくだけでさえ、清浄しょうじょう斎戒さいかいがなければならぬ。奥の大巌おおいわの中腹に、祠が立って、うやうやしくいつき祭った神像は、大深秘で、軽々しく拝まれない――だから、参った処で、そのかいはあるまい……とくのを留めたそうな口吻くちぶりであった。
「ごく内々の事でがすがなす、明神様のお姿というのはなす。」
 時に、勿体ないが、大破落壁した、この御堂の壇に、観音の緑髪、朱唇しゅしん白衣びゃくえ白木彫しらきぼりの、み姿の、片扉金具の抜けて、おのずから開いた廚子から拝されて、が捧げたか、花瓶の雪の卯の花が、そのまま、御袖みそでもすそまがいつつ、銑吉が参らせた蝋燭ろうそくの灯に、格天井ごうてんじょうを漏る昼の月影のごとく、ちらちらと薄青く、また金色こんじきの影がさす。
「なす、この観音様に、よう似てござらっしゃる、との事でなす。」……
 ただこの観世音の麗相を、やや細面にして、玉のしろきがごとく、そして御髪みぐしが黒く、やっぱり唇は一点の紅である。
 その明神は、白鷺の月冠をめしている。白衣で、はかまは、白とも、ともいうが、夜の花のおぼろと思え。……
 どの道、いわおの奥殿の扉を開くわけには行かないのだから、ひとえに観世音を念じて、彼処かしこの面影をしのべばよかろう。
 爺さんは、とかく、手に取れそうな、峰の堂――絵馬のなかへ、銑吉を上らせまいとするのである。
 第一可恐おそろしいのは、明神の拝殿のしとみうち、すぐの承塵なげしに、いつの昔に奉納したのか薙刀なぎなた一振ひとふりかかっている。勿論誰も手を触れず、いつ研いだ事もないのに、切味きれあじの鋭さは、月の影に翔込かけこふくろう、小春日になく山鳩は構いない。いたずらものの野鼠は真二つになって落ち、ぬたくる蛇は寸断ずたずたになってうごめくほどで、虫、けだものも、今は恐れて、床、天井を損わない。
 人間なりとて、心柄によっては無事では済まない。かねて禁断であるものを、色にめしいて血気な徒が、分別を取はずし、夜中、御堂へ、村の娘を連込んだものがあった。隔てのとばりも、すだれもないのに――
 ――それが、何と、あかるい月夜よ。明神様もけなりがッつろと、二十三夜の月待の夜話よばなしに、森へ下弦の月がかかるのを見て饒舌しゃべった。不埒ふらちを働いてから十五年。四十を越えて、それまでは内々恐れて、黙っていたのだが、――たたるものか、この通り、と鼻をさして、何の罰が当るかい。――舌も引かぬに、天井から、青い光がさし、その百姓屋の壁を抜いて、散りかかる柳の刃がキラリと座のものの目に輝いた時、色男の顔から血しぶきが立って、そぎ落された低い鼻が、守宮やもりのように、畳でピチピチとねた事さえある。
 いま現に、町や村で、ふなあ、ふなあ、と鼻くたで、因果と、ふなどじょうを売っている、老ぼれがそれである。
 村若衆わかいしゅの堂の出合は、ありそうな事だけれど、こんな話はどこかに類がないでもなかろう。
 しかし、なお押重ねて、爺さんが言った、……次の事実は、少からず銑吉を驚かして、胸さきをヒヤリとさせた。
 余り里近なせいであろう。近頃では場所が移った。が、以前は、あの明神の森が、すぐ、いつも雪の降ったような白鷺の巣であった。近く大正の末である。一夜に二件、人間二人、ものすごい異状が起った。
 その一人は、近国の門閥家もんばつかで、地方的に名望権威があって、我がままの出来る旦那だんな方。人に、鳥博士ととなえられる、聞こえた鳥類の研究家で。家には、鳥屋というより、小さな博物館ぐらいの標本を備えもし、飼ってもいる。近県近郷の学校の教師、無論学生たち、志あるものは、都会、遠国からも見学にきたうこと、須賀川の牡丹ぼたんの観賞に相斉あいひとしい。で、いずれの方面からも許されて、その旦那の紳士ばかりは、猟期、禁制の、時と、場所を問わず、学問のためとして、任意に、得意の猟銃の打金をカチンと打ち、生きた的に向って、ピタリと照準する事が出来る。
 時に、その年は、獲ものでなしに、巣の白鷺の産卵と、生育状態の実験を思立たれたという。……ひよッ子はどんなだろう。鶏や、雀と違って、ただ聞いても、鴛鴦おしどりだの、白鷺のあかんぼには、博物にほとんど無関心な銑吉も、聞きつつ、早くまず耳を傾けた。
 在所には、旦那方の泊るような旅館がない。片原の町へ宿を取って、鳥博士は、夏から秋へかけて、その時々。足繁くなると、ほとんど毎日のように、明神の森へ通ったが、思う壺の巣が見出せない。
 ――村に猟夫かりゅうどが居る。猟夫りょうしといっても、南部のいのししや、信州の熊に対するような、本職の、またぎ、おやじのおすではない。のらくらものの隙稼ひまかせぎに鑑札だけは受けているのが、いよいよ獲ものにこうずると、極めて内証に、森の白鷺を盗みうちする。人目をはばかるのだから、忍びに忍んで潜入するのだが、いや、どうも、我折がおれた根気のいい事は、朝早くでも、晩方でも、日が暮れたりといえどもで、夏の末のあるなどは、ままよ宿鳥ねどりなりと、占めようと、右の猟夫りょうしが夜中真暗まっくらな森を※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)さまよううちに、青白い光りものが、目一つの山の神のように動いて来るのに出撞でっくわした。けだし光は旦那方の持つ懐中電燈であった。が、その時の鳥旦那のよそおいは、杉の葉を、頭や、腰のまわりに結びつけた、つらまで青い、森の悪魔のように見えて、猟夫を息を引いて驚倒せしめた。旦那の智恵によると、鳥に近づくには、季節によって、樹木と同化するのと、また鳥とほぼ服装のいろどりを同じゅうするのが妙術だという。
 それだから一夜に事の起った時は、冬で雪が降っていたために、鳥博士は、帽子も、服も、靴まで真白まっしろにしていた、と話すのであった。
      (……?……)
 ところで、鳥博士も、猟夫りょうしも、相互の仕事が、両方とも邪魔にはなるが、幾度いくたびも顔を合わせるから、逢えば自然と口を利く。「ここのおつかい姫は、何だな、馬鹿に恥かしがり屋で居るんだな。なかなか産む処を見せないが。」「旦那、とんでもねえ罰が当る。」「撃つやつとどうかな。」段々秋が深くなると、「これまでのは渡りものの、やす女だ、侍女こしもとも上等のになると、段々勿体もったいをつけて奥の方へ引込むな。」従って森の奥になる。「今度見つけた巣は一番上等だ。鷺の中でも貴婦人となると、産は雪の中らしい。人目を忍ぶんだな。産屋うぶやも奥御殿という処だ。」「やれ、罰が当るてば。旦那。」「撃つやつとどうかな。」――雪の中に産育する、そんな鷺があるかどうかは知らない。爺さんの話のまま――猟夫りょうしがこの爺さんである事は言うまでもなかろうと思う。さて猟夫が、雪の降頻ふりしきる中を、朝のに森へくと、幹と根と一面の白い上に、既に縦横に靴で踏込んだあとがあった。――畜生、こんなにはやくから旦那が来ている。博士の、静粛な白銀しろがねの林の中なる白鷺の貴婦人の臨月の観察に、ズトン! は大禁物であるから、にらまれては事こわしだ。一旦いったん破寺やれでら――西明寺はその一頃は無住であった――その庫裡くりに引取って、炉に焚火たきびをして、弁当を使ったあとで、出直して、降積った雪の森に襲い入ると、段々に奥深く、やがて向うに青い水があらわれた、土地で、大沼というのである。
 今はよく晴れて、沼を囲んだ、樹の袖、樹のすそが、おおいなる紺青こんじょうの姿見をいだいて、化粧するようにも見え、立囲った幾千の白い※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じょうろうが、瑠璃るり皎殿こうでんめぐり、碧橋へききょうを渡って、風に舞うようにもながめられた。
 この時、煩悩ぼんのうも、菩提ぼだいもない。ちょうどなぎさの銀のあしを、一むら肩でさらりと分けて、雪にまがう鷺が一羽、人を払う言伝ことづてがありそうに、すらりと立って歩む出端でばなを、ああ、ああ、ああ、こんな日に限って、ふと仰がるる、那須嶽連山のみねに、たちまち一朶いちだの黒雲のいたのも気にしないで、折敷おりしきにカンと打った。キャッ! と若い女の声。たまぎる声。
 ったか、飛んだか、すべったか。猟夫りょうしが目くるめいて駆付けると、てざまの白雪に、ぽた、ぽた、ぽたとあけが染まって、どこを撃ったか、黒髪の乱れた、うつくしい女が、仰向あおむけに倒れ、もがいた手足をそのままに乱れ敷いていたのである。
 いやが上の恐怖と驚駭きょうがいは、わずかに四五間離れた処に、鳥の旦那が真白まっしろなヘルメット帽、警官の白い夏服で、腹這はらばいになっている。「お助けだ――旦那、薬はねえか。」と自分が救われたそうに手を合せた。が、鳥旦那は――鷺が若い女になる――そんな魔法は、俺が使ったぞ、というように知らん顔して、遠めがねを、それも白布で巻いたので、じっとどこかの樹を枝を凝視みつめていて、ものも言わない。
 猟夫は最期いまわと覚悟をした。……
 そこで、急いで我が屋へ帰って、不断、常住、無益な殺生を、するな、なせそと戒める、古女房の老巫女いちこに、しおしおと、青くなって次第を話して、……その筋へなのって出るのに、すぐにはりへ掛けたそうにふんどしをしめなおすと、あずさの弓を看板に掛けて家業にはしないで、茅屋あばらやに隠れてはいるが、うらないも祈祷きとうも、その道の博士だ――と言う。どういうものか、正式に学校から授けない、ものの巧者は、学士を飛越えて博士になる。博士神巫いちこが、亭主が人殺しをして、唇の色まで変って震えているものを、そんな事ぐらいでめはしない……冬の日の暗い納戸で、糸車をじい……じい……村も浮世も寒さに喘息ぜんそくを病んだように響かせながら、猟夫に真裸まっぱだかになれ、と歯茎をめておごそかに言った。経帷子きょうかたびらにでも着換えるのか、そんな用意はねえすべい。……井戸川で凍死こごえじにでもさせる気だろう。しかしそのことばの通りにすると、みのを着よ、そのようなその羅紗らしゃの、毛くさいやぶれ帽子などは脱いで、菅笠すげがさかぶれという。そんで、へい、苧殻おがらか、青竹のつえでもつくか、と聞くと、それは、ついてもつかいでも、のう、もう一度、明神様の森へ走って、旦那がそばに居ようと、居まいと、その若い婦女おんな死骸しがいを、蓑の下へ、はだづけに負いまして、また早や急いで帰れ、と少し早めに糸車を廻わしている。
 いや、もう、肝魂きもたまを消して、さきに死骸の傍を離れる時から、那須颪なすおろし真黒まっくろになって、再び、日の暮方の雪が降出したのが、今度行向う時は、向風の吹雪になった。が、寒さも冷たさも猟夫は覚えぬ。ただつらを打って巴卍ともえまんじに打ち乱れる紛泪ふんぱくの中に、かの薙刀なぎなたの刃がギラリと光って、鼻耳をそがれはしまいか。幾度立ちすくみになったやら。……
 我が手で、鉄砲でうった女の死骸を、雪をいて膚におぶった、そ、その心持というものは、紅蓮ぐれん大紅蓮の土壇どたんとも、八寒地獄の磔柱はりつけばしらとも、たとえように口も利けぬ。ただ吹雪に怪飛けしとんで、亡者のごとく、ふらふらと内へ戻ると、媼巫女うばみこは、台所の筵敷むしろじき居敷いしかり、出刃庖丁をドギドギと研いでいて、納戸の炉に火が燃えて、破鍋われなべのかかったのが、阿鼻とも焦熱ともすさまじい。……「さ、さ、帯を解け、しての、死骸をまないたの上へ、」というが、石でもあかがねでもない。台所の俎で。……うばの形相は、絵に描いた安達あだちヶ原と思うのに、くびには、狼のきばやら、狐の目やら、いたちの足やら、つなぎ合せた長数珠ながじゅず三重みえきながらの指図でござった。
 ……不思議というは、青い腰も血の胸も、死骸はすっくり俎の上へ納って、首だけが土間へがっくりと垂れる。めったに使ったことのない、大俵の炭をぶちまけたようにもとどりが砕けて、黒髪が散りかかる雪に敷いた。媼が伸上り、じろりとて、「天人のようなおんなやな、羽衣をけ、剥け。」と言う。襟も袖も引き※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしる、と白い優しい肩から脇の下まで仰向あおむけにあらわれ、乳へ膝を折上げて、くくられたように、かかとを空へかがめた姿で、やわらかにすくんでいる。「さ、そのしらッこい、あぶらののった双ももを放さっしゃれ。けだものは背中に、鳥は腹に肉があるという事いの。腹からかっしゃるか、それとも背からひらくかの、」と何と、ひたわななきにわななく、猟夫の手に庖丁を渡して、「えい、それ。」媼が、女の両脚を餅のように下へ引くとな、腹が、ふわりと動いて胴がしんなりと伸び申したなす。
「観音様の前だ、旦那、許さっせえ。」
 御廚子の菩薩ぼさつは、ちらちらと蝋燭の灯に瞬きたまう。
 ――茫然ぼうぜんとして、銑吉は聞いていた――
 血は、とろとろと流れた、が、氷ったように、大腸小腸おおわたこわた赤肝あかぎも碧胆あおぎも、五臓は見る見る解きあばかれ、続いて、首を切れと云う。その、しなりと俎の下へ伸びた皓々しろじろとした咽喉首のどくびに、触ると震えそうな細い筋よ、わらび、ぜんまいが、山賤やましずには口相応、といって、猟夫だとて、若い時、宿場女郎の、まいらせそろ[#「参らせ候」のくずし字、65-2]もかしくも見たれど、そんなものがたとえになろうか。……若菜の二葉の青いような脈筋が透いて見えて、庖丁の当てようがござらない。容顔が美麗なで、気後きおくれをするげな、この痴気たわけおやじと、媼はニヤリ、「鼻をそげそげ、思切って。ええ、それでのうては、こなじじい、人殺しの解死人げしにんのがれぬぞ、」とおどす。――命ばかりはほしいと思い、ここで我が鼻も薙刀なぎなたひきそがりょう、恐ろしさ。古手拭ふるてぬぐいで、我が鼻を、頸窪ぼんのくぼゆわえたが、美しい女の冷い鼻をつるりとつまみ、じょきりと庖丁でねると、ああ、あつつ焼火箸やけひばしてのひらを貫かれたような、その疼痛いたさに、くらんだ目が、はあ、でんぐり返って気がつけば、鼻のかわりに、細長い鳥のくちばしを握っていて、俎の上には、ただ腹を解いた白鷺が一羽。蓑毛も、胸毛も、散りぢりに、血は俎の上と、鷺の首と、おのが掌にたらたらとまみれていた。
 媼が世帯ぶって、口軽に、「大ごなしが済んだあとは、わしが手でぶつぶつと切っておましょ。鷺の料理は知らぬなれど、清汁すましか、味噌か、焼こうかの。」とほだをほだて、鍋をゆすぶって見せつけて、「人間の娘も、鷺のおんなも、いのち惜しさにかわりはないぞの。」といわれた時は、俎につくばい、鳥にかがみ、媼にって、手をついた。断つ、断つ、ふッつりと猟を断つ、慰みの無益の殺生は、断つわいやい。
 はたけ二三枚、つい近い、前畷まえなわての夜の雪路ゆきみちを、狸が葬式を真似まねるように、陰々と火がともれて、人影のざわざわと通り過ぎたのは――真中まんなかに戸板をいていた。――鳥旦那の、凍えて人事不省ひとごこちなくなったのを助け出した、行列であった。
 町の病院で、二月以上煩ったが、凍傷のために、足の指二本、鼻のさきが少々、とれた、そげた、欠けた、はて何といおう、もげたと言おう、もげた。
 どうもせぬ。さて、合点のゆかない。現におつかい姫を、鉄砲で撃った猟夫は、肝をつぶしただけで、無事に助かった。旦那はまず不具かたわだ。巣を見るばかりで、そのたたりは、と内証ないしょで声をひそめて、老巫女おいみこうかがいを立てた。されば、明神様の思召おぼしめしは、鉄砲はけもされる。また眷属けんぞく怪我けがに打たれまいものではない。――御殿のねやのぞかれ、あまつさえ、とばりの奥のその奥の産屋を――おみずからではあるまいが――おうるさい……との事である。
 要するに、御堂の女神は、鉄砲より、研究がおきらいなのである。――
「――万事、その気でござらっしゃれよ。」
「勿論です――」
 が、まだその上にも、銑吉を一人で御堂へかせるのは、気づかいらしくもあり、好もしくない様子が見えた。すなわち明神のほこらへは、孫八爺さんが一所に行こうという。銑吉とても、ただおどかしばかりでもなさそうな、秘密と、奇異と、第一、人気のまるでないその祠に、入口にかかった薙刀なぎなたを思うと、掛釘が錆朽さびくちていまいものでもなし、控えの綱など断切れていないと限らない。同行はむしろ便宜であったが。
 さて、旧街道を――庫裡くりを一廻り、寺の前から――路をうずめた浅茅あさじを踏んで、横切って、石段下のたらたらざかを昇りかかった時であった。明神の森とは、山波をつづけて、なだらかにもと来た片原の町はずれへ続く、それをななめに見上げる、山の高き青芒あおすすきわらびの広葉の茂った中へ、ちらりと出た……さあ、いくつぐらいだろう、女の子のあかい帯が、ふともみはかまのように見えたのも稀有けうであった、が、その下ななめに、草堤くさどてを、田螺たにしが二つ並んで、日中ひなかあぜうつりをしているような人影を見おろすと、
「おんいええ。」
 と野へ響く、広くとおった声で呼んだ。
 貝のさき白髪しらがの田螺が、
「おお。」
いよう。」
「……爺ン爺い、とこくわ――おおよ。」
が、なあえ、すぐに帰って、ござれとよう。」
「酒でも餅でもあんめえが、……やあ。」
「知らねえよう。」
「客人と、やい、明神様詣るだと、言うだあよう。」
あんでも帰れ、とよう。媼ン媼が言うだがええ。」
 なぜか、その女の子、その声に、いや、その言托ことづけをするものに、銑吉さえ一種の威のあるのを感じた。
「そんでは、旦那。」
 白髪の田螺は、麦稈帽むぎわらぼうの田螺に、ぼつりと分れる。

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