二
「――何だ、薙刀というのは、――絵馬の画――これか。」 あの、爺い。口さきで人を薙刀に掛けたな。銑吉は御堂の格子を入って、床の右横の破欄間にかかった、絵馬を視て、吻と息を吐きつつ微笑んだ。 しかし、一口に絵馬とはいうが、入念の彩色、塗柄の蒔絵に唐草さえある。もっとも年数のほども分らず、納ぬしの文字などは見分けがつかない。けれども、塗柄を受けた服紗のようなものは、紗綾か、緞子か、濃い紫をその細工ものに縫込んだ。 武器は武器でも、念流、一刀流などの猛者の手を経たものではない。流儀の名の、静も優しい、婦人の奉納に違いない。 眉も胸も和になった。が、ここへ来て彳むまで、銑吉は実は瞳を据え、唇を緊めて、驚破といわばの気構をしたのである。何より聞怯じをした事は、いささかたりとも神慮に背くと、静流がひらめくとともに、鼻を殺がるる、というのである。 これは、生命より可恐い。むかし、悪性の唐瘡を煩ったものが、厠から出て、嚔をした拍子に、鼻が飛んで、鉢前をちょろちょろと這った、二十三夜講の、前の話を思出す。――その鼻の飛んだ時、キャッと叫ぶと、顔の真中へ舌が出て、もげた鼻を追掛けたというのである。鳥博士のは凍傷と聞いたが、結果はおなじい。 鼻をそがれて、顔の真中へ舌が出たのでは、二度と東京が見られない。第一汽車に乗せなかろう。 草生の坂を上る時は、日中三時さがり、やや暑さを覚えながら、幾度も単衣の襟を正した。
銑吉は、寺を出る時、羽織を、観世音の御堂に脱いで、着流しで扇を持った。この形は、さんげ、さんげ、金剛杖で、お山に昇る力もなく、登山靴で、嶽を征服するとかいう偉さもない。明神の青葉の砦へ、見すぼらしく降参をするに似た。が、謹んでその方が無事でいい。 石段もところどころ崩れ損じた、控綱の欲いほど急ではないが、段の数は、累々と畳まって、半身を、夏の雲に抽いた、と思うほど、聳えていた。 ここに、思掛けなかったのは――不断ほとんど詣ずるもののない、無人の境だと聞いただけに、蛇類のおそれ、雑草が伸茂って、道を蔽うていそうだったのが、敷石が一筋、すっと正面の階段まで、常磐樹の落葉さえ、五枚六枚数うるばかり、草を靡かして滑かに通った事であった。 やがて近づく、御手洗の水は乾いたが、雪の白山の、故郷の、氏神を念じて、御堂の姫の影を幻に描いた。 すぐその御手洗の傍に、三抱ほどなる大榎の枝が茂って、檜皮葺の屋根を、森々と暗いまで緑に包んだ、棟の鰹木を見れば、紛うべくもない女神である。根上りの根の、譬えば黒い珊瑚碓のごとく、堆く築いて、青く白く、立浪を砕くように床の縁下へ蟠ったのが、三間四面の御堂を、組桟敷のごとく、さながら枝の上に支えていて、下蔭はたちまち、ぞくりと寒い、根の空洞に、清水があって、翠珠を湛えて湧くのが見える。 銑吉はそこで手を浄めた。 階段を静に――むしろ密と上りつつ、ハタと胸を衝いたのは、途中までは爺さんが一所に来る筈だった。鍵を、もし、錠がささっていれば、扉は開かない、と思ったのに、格子は押附けてはあるが、合せ目が浮いていた。裡の薄暗いのは、上の大樹の茂りであろう。及腰ながら差覗くと、廻縁の板戸は、三方とも一二枚ずつ鎖してない。 手を扉にかけた。 裡の、その真上に、薙刀がかかっている筈である。 そこで、銑吉がどんな可笑な態をしたかは、およそ読者の想像さるる通りである。 「お通しを願います、失礼。」 と云った。 片扉、とって引くと、床も青く澄んで朗か。
絵馬を見て、彳んで、いま、その心易さに莞爾としたのである。 思いも掛けず、袖を射て、稲妻が飛んだ。桔梗、萩、女郎花、一幅の花野が水とともに床に流れ、露を縫った銀糸の照る、彩ある女帯が目を打つと同時に、銑吉は宙を飛んで、階段を下へ刎ね落ちた。再び裾へ飜えるのは、柄長き薙刀の刃尖である。その稲妻が、雨のごとき冷汗を透して、再び光った。 次の瞬間、銑吉の身は、ほとんど本能的に大榎の幹を小盾に取っていた。 どうも人間より蝉に似ている。堂の屋根うらを飛んで、樹へ遁げたその形が。――そうして、少時して、青い顔の目ばかり樹の幹から出した処は、いよいよ似ている。 柳の影を素膚に絡うたのでは、よもあるまい。よく似た模様をすらすらと肩裳へ、腰には、淡紅の伊達巻ばかり。いまの花野の帯は、黒格子を仄に、端が靡いて、婦人は、頬のかかり頸脚の白く透通る、黒髪のうしろ向きに、ずり落ちた褄を薄く引き、ほとんど白脛に消ゆるに近い薄紅の蹴出しを、ただなよなよと捌きながら、堂の縁の三方を、そのうしろ向きのまま、するすると行き、よろよろと還って、往きつ戻りつしている。その取乱した態の、あわただしい中にも、媚しさは、姿の見えかくれる榎の根の荘厳に感じらるるのさえ、かえって露草の根の糸の、細く、やさしく戦ぎ縺れるように思わせつつ、堂の縁を往来した。が、後姿のままで、やがて、片扉開いた格子に、ひたと額をつけて、じっと留まると、華奢な肩で激しく息をした。髪が髢のごとくさらさらと揺れた。その立って、踏みぐくめつつも乱れた裾に、細く白々と鳥の羽のような軽い白足袋の爪尖が震えたが、半身を扉に持たせ、半ばを取縋って、柄を高くついた、その薙刀が倒で……刃尖が爪先を切ろうとしている。 戦は、銑吉が勝らしい。由来いかなる戦史、軍記にも、薙刀を倒についた方は負である。同時に、その刃尖が肉を削り、鮮血が踵を染めて伝わりそうで、見る目も危い。 青い蝉が、かなかなのような調子はずれの声を、 「貴女、貴女、誰方にしましても、何事にしましても、危い、それは危い。怪我をします。怪我をします。気をおつけなさらないと。」 髪を分けた頬を白く、手首とともに、一層扉に押当てて、 「あああ」 とやさしい、うら若い、あどけないほどの、うけこたえとまでもない溜息を深くすると、 「小県さん――」 冴えて、澄み、すこし掠れた細い声。が、これには銑吉が幹の支えを失って、手をはずして落ちようとした。堂の縁の女でなく、大榎の梢から化鳥が呼んだように聞えたのである。 「……小県さん、ほんとうの小県さんですか。」 この場合、声はまた心持涸れたようだが、やっぱり澄んで、はっきりした。 夏は簾、冬は襖、間を隔てた、もの越は、人を思うには一段、床しく懐しい。……聞覚えた以上であるが、それだけに、思掛けなさも、余りに激しい。―― まだ人間に返り切れぬ。薙刀怯えの蝉は、少々震声して、 「小県ですよ、ほんとう以上の小県銑吉です、私です。――ここに居ますがね。……築地の、東京の築地の、お誓さん、きみこそ、いや、あなたこそ、ほんとうのお誓さんですか。」 「ええ、誓ですの、誓ですの、誓の身の果なんですの。」 「あ、危い。」 長刀は朽縁に倒れた。その刃の平に、雪の掌を置くばかり、たよたよと崩折れて、顔に片袖を蔽うて泣いた。身の果と言う……身の果か。かくては、一城の姫か、うつくしい腰元の――敗軍には違いない――落人となって、辻堂にった伝説を目のあたり、見るものの目に、幽窈、玄麗の趣があって、娑婆近い事のようには思われぬ。 話は別にある。今それを言うべき場合でない。築地の料理店梅水の娘分で、店はこの美人のために賑った。早くから銑吉の恋人である。勿論、その恋を得たのでもなければ、意を通ずるほどの事さえも果さないうちに、昨年の夏、梅水が富士の裾野へ暑中の出店をして、避暑かたがた、お誓がその店を預ったのを知っただけで、この時まで、その消息を知らなかった次第なのである。…… その暑中の出店が、日光、軽井沢などだったら、雲のゆききのゆかりもあろう。ここは、関屋を五里六里、山路、野道を分入った僻村であるものを。―― ――実は、銑吉は、これより先き、麓の西明寺の庫裡の棚では、大木魚の下に敷かれた、女持の提紙入を見たし、続いて、准胝観音の御廚子の前に、菩薩が求児擁護の結縁に、紅白の腹帯を据えた三方に、置忘れた紫の女扇子の銀砂子の端に、「せい」としたのを見て、ぞっとした時さえ、ただ遥にその人の面影をしのんだばかりであったのに。 かえって、木魚に圧された提紙入には、美女の古寺の凌辱を危み、三方の女扇子には、姙娠の婦人の生死を懸念して、別に爺さんに、うら問いもしたのであったが、爺さんは、耳をそらし、口を避けて、色ある二品のいわれに触れるのさえ厭うらしいので、そのまま黙した事実があった。 ただ、あだには見過し難い、その二品に対する心ゆかしと、帰路には必ず立寄るべき心のしるしに、羽織を脱いで、寺にさし置いた事だけを――言い添えよう。 いずれにしても、ここで、そのお誓に逢おうなどとは……譬にこまった……間に合わせに、されば、箱根で田沢湖を見たようなものである。
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