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神鷺之巻(しんろのまき)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-22 16:27:06 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



       三

「――余り不思議です。お誓さん、ほんとのお誓さんなら、顔を見せて下さい、顔を……こっちを向いて、」
 ほとんど樹の枝に乗った位置から、おのずと出る声の調子に、小県は自分ながら不気味を感じた。
 きれぎれに、
「お恥かしくって、そちらが向けないほどなんですもの。」
 泣声だし、唇を含んでかすれたが、まさか恥かしいという顔に異状はあるまい。およそ薙刀をひらめかしてぎ伏せようとした当の敵に対して、その身構えが、背後うしろむきになって、堂の縁を、もの狂わしく駆廻ったはおろか、いまだに、振向いても見ないで、胸を、腹部を袖でかくすらしい、というだけでも、この話の運びを辿たどって、読者も、あらかじめうなずかるるであろう、このおんなは姙娠している。
「私が、そこへきますが、構いませんか。今度は、こっちで武芸を用いる。高いこの樹の根からだと、すれすれだから欄干が飛べそうだから。」
 おんなは、格子にすがって、また立った。なおその背後向きのままで居る。
「しかし、その薙刀を何とかして下さらないか。どうも、まことに、危いのですよ。」
「いま、そちらへ参りますよ。」
 落ついてしずかにいうのが、遠く、築地の梅水で、お酌ねだりをたしなめるように聞えて、銑吉はひとりで苦笑した。すぐに榎の根を、草へ下りて、おとなしく控え待った。
 枝がくれに、ひらひらと伸び縮みする……というと蛇体にきこえる、と悪い。ほっそりした姿で、薄い色のつまを引上げ、腰紐を直し、伊達巻をしめながら、襟を掻合かきあわせ掻合わせするのが、茂りの彼方かなたに枝透いて、すだれ越に薬玉くすだまが消えんとする。
 やがて、向直ってきざはしを下りて来た。引合わせている袖の下が、脇明わきあけれるまで、ふっくりと、やや円い。
 牡丹ぼたんいだいた白鷺の風情である。
 見まい。
「水をのみます。小県さん、私……息が切れる。」
 と、すぐその榎の根の湧水わきみずに、きように褄を膝に挟んで、うつむけにもならず尋常に二の腕をあらわに挿入さしいれた。榎の葉蔭に、手の青い脈を流れて、すぐ咽喉のどへ通りそうに見えたが、もうとすると、たなそこが薄く、玉の数珠じゅずのように、しずくが切れて皆こぼれる。
両掌りょうてでなさい、両掌で……明神様の水でしょう。野郎に見得もにもいりゃしません。」
「はい、いいえ。」
 膝の上へ、胸をかくして折りかけた袖をおさえ、やっぱり腹部をおおうた、その片手を離さない。
「だって、両掌を突込つっこまないじゃ、いけないじゃありませんか。」
「ええ、あの柄杓ひしゃくがあるんですけど。」
「柄杓、」
 手水鉢ちょうずばちに。
「ああ、手近です。あげましょう。青いこけだけれどもね、乾いているから安心です、さあ。」
「済みません、小県さん、私知っていましたんですけど、つい、とっちてしまいましたの。」
「ところで……ちょっとお待ちなさい。この水は飲んで差支えないんですかね。」
「ええ、冷い、おいしい、私は毎日のように飲んでいます。」
 それだと毎日このほこらへ。
「あ、あ。」
 と、消えるように、息を引いて、
「おいしいこと、ああ、おいしい。」
 唇も青澄んだように見える。
「うらやましいなあ。飲んだらこっちへ貸して下さい。」
「私が。」
 とて、柄を手巾ハンケチいたあとを、見入っていた。
「どうしました。」
「髪がこんなですから、毛が落ちているといけませんわ。」
満々なみなみと下さい。ありがたい、これは冷い。一気には舌が縮みますね。」
 とぐっと飲み、
「甘露が五臓へみます。」
 とすずしく云った。
 小県の顔を、すっと通った鼻筋の、横顔でななめながら、
「まあ、おきれいですこと。」
「水?……勿論!」
「いいえ、あなたが。」
「あなたが。」
「さっき、絵馬を見ていらっしゃいました時もおきれいだと思ったんですが、清水を一息にめしあがる処が、あの……」
「いや、どうも、そりゃちと違いましょう。牛肉のバタ焼の黒煙を立てて、腐った樽柿の息を吹くのと、明神の清水をんで、松風を吸ったのでは、それは、いくらか違わなくっては。」
 と、はじめて声を出して軽く笑った。
「透通るほどなのは、あなたさ。」
「ええ。」
 と無邪気にうけながら、ちょっと眉をひそめた。の下を且つおおう袖。
「一度、二十許はたちばかりの親類の娘を連れて、鬼子母神きしもじん参詣さんけいをした事がありますがね、桐の花が窓へ散る、しんとした御堂おどうの燈明でた、襟脚のよさというものは、拝んで閉じた目もりんとして……白さは白粉おしろい以上なんです。――前刻さっきも山下のお寺の観世音の前で……お誓さん――女持の薄紫の扇を視ました。ああ、ここへお参りして拝んだ姿は、どんなに美しかろうと思いましたが。」
 誓はうつむく。
 その襟脚はいうまでもなかろう。
「その人もわかりました。いまおなじ人が、この明神様にこもったのもわかったのです。が、お待ちなさいよ。絵馬を、私が視ていた時、お誓さんは、どこに居て……」
「ええ、そして、あの、何をしたんだとおっしゃいましょう。」
 つと寄ると、手巾ハンケチを払った手で、柄杓の柄の半ばを取りしめた。その半ばを持ったまま、居処いどころをかえて、小県は、樹の高根に腰を掛けた。
「言いますわ、私……ですが、あなたは、あなたは、どうして、ここへ……」
「おたずね、ごもっともです。――少し気取るようだけれど、ちょっと柄にない松島見物という不了簡ふりょうけんを起して……その帰り道なんです。――先祖の墓参りというと殊勝ですが、それなら、行きみちにすべき筈です。関屋まで来ると、ふと、この片原の在所の寺、西明寺ですね。あすこに先祖の墓のある事を、子供のうち、爺さん、祖母ばあさんに聞いていたのを思出しました。勿体ないが、ろくに名も知らない人たちです。
 墓は、草にうずまって皆分りません、一家遠国へ流転のうちに、無縁同然なんですから、寺もまた荒れていますしね。住職も留守で、過去帳も見られないし、その寺へ帰るのを待つに――しかし、そればかりではありません。
 ――片原の町から寺へ来る途中、田畝畷たんぼなわての道端に、お中食処ちゅうじきどころの看板が、屋根、ひさしぐるみ、朽倒れにつぶれていて、清い小流こながれの前に、思いがけない緋牡丹ひぼたんが、」
 お誓は、おくれ毛をなびかし、顔を上げる。
「その花の影、水岸に、白鷺が一羽居て、それが、※(「(矛+攵)/虫」、第4水準2-87-65)はんみょう――人を殺す大毒虫――みちおしえ、というんですがね、引啣ひきくわえて、この森の空へ飛んだんです。
 まだその以前、その前ですよ。片原まで来る途中、林の中の道で、途中から、不意に、無理やりに、私の雇った自動車へ乗込んだ、いやな、不気味な人相、赤い服装、赤いヘルメット帽、赤い法衣ころもの男が、男の子四人、同じ赤いシャツを着たのを連れて、猟銃を持ったのがありましてね。勝手な処で、山の下へ、やぶへ入って見えなくなったのが――この山つづきのようですから、白鷺の飛んだ方角といい、やしろのこのあたりか。ずッと奥になると言いますね、大沼か。どっちかで、夢のような話だけれど、神と、魔と、いくさでもはじまりそうな気がしたものですから。」
 銑吉は話すうちに、あわれに伏せたお誓の目が、いきどおりを含んで、きっとして、それが無念を引きしめて、一層青味を帯びたのに驚いた――思いしことよ。……悪魔は、お誓の身にかかわりがないのでない。
「……わけを言います、小県さん、……言いますが、恥かしいのと、口惜くやしいのとで、息が詰って、声も出なくなりましたら、こんな、私のような、こんな身体からだに、手をお掛けになるまでもありません。この柄杓の柄を、ただお離しなすって下さい。そのままのめって、人間の青いこけ……」
「いや、こうして、あなたと半分持った、柄杓の柄は離しません。」
「あの、そのお優しいお心でしたら、きつけの水を下さいまし……私は、貴方あなたを……おきれいだ、と申しましたわね、ねえ。」
「忘れました、そういう串戯じょうだんをきいていたくはないのです。」
「いえ、串戯ではないのですが。いま、あの、私は、あの薙刀で、このおなかを引破って、きもも臓腑も……」
 その水色に花野の帯が、蔀下しとみしたの敷居に乱れて、お誓の背とともに、むこうに震えているのが見える。榎の梢がざわざわと鳴り、風がさっと通った。
「――そこへ、貴方のお姿が、すっと雲からおさがりなすったように……」
「何、私なら落ちたんでしょう。」
「そして、石段の上口あがりくちに見えました。まるで誰も来ないのを知って、こちらへ参っているのですし、土地の巧者な、お爺さんに頼みまして、この二三日、来る人も留めてもらうように用意をしていましたんですもの! 思いもよらない、参詣の、それが貴方。格子からじっのぞいていますと、この水へ、影もうつりそうな、小県さんなんですもの、貴方なんですもの。」
 その爺さんにも逢っている。銑吉は幾度いくたびも独りうなずいた。
「こんな、こんな処、奥州の山の上で。」
「御同様です。」
「その拝殿を、一旦いったんむこうの隅へ急いでげました。正面に奥の院へ通います階段と石段と。……間は、樹も草も蓬々ぼうぼうと茂っています。その階段の下へかくれて、またよく見ました。寸分お違いなさらない、東京の小県さん――おきれいなのがなおあやしい、怪しいどころか可恐こわいんです。――ばけものが来た、ばけて来た、畜生、また、来た。ばけものだ!……と思ったんです。」
「…………」
「そのばけものに、口惜くやしい、口惜い、口惜い目に逢わされているんですから。……
 ――畜生――
 と声も出ないで。」
「ははあ、たちまち一打ひとうち……薙刀ですな。」
「明神様のお持料もちりょうです。それでも持ったのが私です、討てる、切れるとは思いませんが――畜生――叩倒たたきたおしてやろうと思って、」
「切られる分には、まだ、不具かたわです。薙倒されては真二まっぷたつです、危い、危い。」
 と、いまは笑った。
「堪忍して下さいな、貴方をばけものだと思った私は、浅間あさましいけだものです、畜生です、犬です、犬にまれたとお思いになって。」
「馬鹿なことを……飛んでもない、犬にまれるくらいなら、私はお誓さんの薙刀に掛けられますよ。かすりきずも負わないから、太腹ふとっぱららしく太平楽をいうのではないんだが、怒りも怨みもしやしません。気やすく、落着いてお話しなさい。あなたは少しどうかしている、気を沈めて。……これは、ばけものの手触りかも知れませんよ。」
 そこで、せなに手を置くのに、みだれ髪が、氷のように冷たく触った。
「どうぞ、あの薙刀の飛ばないように。」
 その黒髪は、漆のやいばのようにヒヤリとする。
 水へすべった柄杓が、カンと響いた。

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