三
「――余り不思議です。お誓さん、ほんとのお誓さんなら、顔を見せて下さい、顔を……こっちを向いて、」 ほとんど樹の枝に乗った位置から、おのずと出る声の調子に、小県は自分ながら不気味を感じた。 きれぎれに、 「お恥かしくって、そちらが向けないほどなんですもの。」 泣声だし、唇を含んでかすれたが、まさか恥かしいという顔に異状はあるまい。およそ薙刀を閃めかして薙ぎ伏せようとした当の敵に対して、その身構えが、背後むきになって、堂の縁を、もの狂わしく駆廻ったはおろか、いまだに、振向いても見ないで、胸を、腹部を袖で秘すらしい、というだけでも、この話の運びを辿って、読者も、あらかじめ頷かるるであろう、この婦は姙娠している。 「私が、そこへ行きますが、構いませんか。今度は、こっちで武芸を用いる。高いこの樹の根からだと、すれすれだから欄干が飛べそうだから。」 婦は、格子に縋って、また立った。なおその背後向きのままで居る。 「しかし、その薙刀を何とかして下さらないか。どうも、まことに、危いのですよ。」 「いま、そちらへ参りますよ。」 落ついて静にいうのが、遠く、築地の梅水で、お酌ねだりをたしなめるように聞えて、銑吉はひとりで苦笑した。すぐに榎の根を、草へ下りて、おとなしく控え待った。 枝がくれに、ひらひらと伸び縮みする……というと蛇体にきこえる、と悪い。細りした姿で、薄い色の褄を引上げ、腰紐を直し、伊達巻をしめながら、襟を掻合わせ掻合わせするのが、茂りの彼方に枝透いて、簾越に薬玉が消えんとする。 やがて、向直って階を下りて来た。引合わせている袖の下が、脇明を洩れるまで、ふっくりと、やや円い。 牡丹を抱いた白鷺の風情である。 見まい。 「水をのみます。小県さん、私……息が切れる。」 と、すぐその榎の根の湧水に、きように褄を膝に挟んで、うつむけにもならず尋常に二の腕をあらわに挿入れた。榎の葉蔭に、手の青い脈を流れて、すぐ咽喉へ通りそうに見えたが、掬もうとすると、掌が薄く、玉の数珠のように、雫が切れて皆溢れる。 「両掌でなさい、両掌で……明神様の水でしょう。野郎に見得も何にもいりゃしません。」 「はい、いいえ。」 膝の上へ、胸をかくして折りかけた袖を圧え、やっぱり腹部を蔽うた、その片手を離さない。 「だって、両掌を突込まないじゃ、いけないじゃありませんか。」 「ええ、あの柄杓があるんですけど。」 「柄杓、」 手水鉢に。 「ああ、手近です。あげましょう。青い苔だけれどもね、乾いているから安心です、さあ。」 「済みません、小県さん、私知っていましたんですけど、つい、とっちてしまいましたの。」 「ところで……ちょっとお待ちなさい。この水は飲んで差支えないんですかね。」 「ええ、冷い、おいしい、私は毎日のように飲んでいます。」 それだと毎日この祠へ。 「あ、あ。」 と、消えるように、息を引いて、 「おいしいこと、ああ、おいしい。」 唇も青澄んだように見える。 「うらやましいなあ。飲んだらこっちへ貸して下さい。」 「私が。」 とて、柄を手巾で拭いたあとを、見入っていた。 「どうしました。」 「髪がこんなですから、毛が落ちているといけませんわ。」 「満々と下さい。ありがたい、これは冷い。一気には舌が縮みますね。」 とぐっと飲み、 「甘露が五臓へ沁みます。」 と清しく云った。 小県の顔を、すっと通った鼻筋の、横顔で斜に視ながら、 「まあ、おきれいですこと。」 「水?……勿論!」 「いいえ、あなたが。」 「あなたが。」 「さっき、絵馬を見ていらっしゃいました時もおきれいだと思ったんですが、清水を一息にめしあがる処が、あの……」 「いや、どうも、そりゃちと違いましょう。牛肉のバタ焼の黒煙を立てて、腐った樽柿の息を吹くのと、明神の清水を汲んで、松風を吸ったのでは、それは、いくらか違わなくっては。」 と、はじめて声を出して軽く笑った。 「透通るほどなのは、あなたさ。」 「ええ。」 と無邪気にうけながら、ちょっと眉を顰めた。乳の下を且つ蔽う袖。 「一度、二十許りの親類の娘を連れて、鬼子母神へ参詣をした事がありますがね、桐の花が窓へ散る、しんとした御堂の燈明で視た、襟脚のよさというものは、拝んで閉じた目も凜として……白さは白粉以上なんです。――前刻も山下のお寺の観世音の前で……お誓さん――女持の薄紫の扇を視ました。ああ、ここへお参りして拝んだ姿は、どんなに美しかろうと思いましたが。」 誓はうつむく。 その襟脚はいうまでもなかろう。 「その人もわかりました。いまおなじ人が、この明神様に籠ったのもわかったのです。が、お待ちなさいよ。絵馬を、私が視ていた時、お誓さんは、どこに居て……」 「ええ、そして、あの、何をしたんだとおっしゃいましょう。」 つと寄ると、手巾を払った手で、柄杓の柄の半ばを取りしめた。その半ばを持ったまま、居処をかえて、小県は、樹の高根に腰を掛けた。 「言いますわ、私……ですが、あなたは、あなたは、どうして、ここへ……」 「おたずね、ごもっともです。――少し気取るようだけれど、ちょっと柄にない松島見物という不了簡を起して……その帰り道なんです。――先祖の墓参りというと殊勝ですが、それなら、行きみちにすべき筈です。関屋まで来ると、ふと、この片原の在所の寺、西明寺ですね。あすこに先祖の墓のある事を、子供のうち、爺さん、祖母さんに聞いていたのを思出しました。勿体ないが、ろくに名も知らない人たちです。 墓は、草に埋まって皆分りません、一家遠国へ流転のうちに、無縁同然なんですから、寺もまた荒れていますしね。住職も留守で、過去帳も見られないし、その寺へ帰るのを待つ間に――しかし、そればかりではありません。 ――片原の町から寺へ来る途中、田畝畷の道端に、お中食処の看板が、屋根、廂ぐるみ、朽倒れに潰れていて、清い小流の前に、思いがけない緋牡丹が、」 お誓は、おくれ毛を靡かし、顔を上げる。 「その花の影、水岸に、白鷺が一羽居て、それが、斑――人を殺す大毒虫――みちおしえ、というんですがね、引啣えて、この森の空へ飛んだんです。 まだその以前、その前ですよ。片原まで来る途中、林の中の道で、途中から、不意に、無理やりに、私の雇った自動車へ乗込んだ、いやな、不気味な人相、赤い服装、赤いヘルメット帽、赤い法衣の男が、男の子四人、同じ赤いシャツを着たのを連れて、猟銃を持ったのがありましてね。勝手な処で、山の下へ、藪へ入って見えなくなったのが――この山続のようですから、白鷺の飛んだ方角といい、社のこのあたりか。ずッと奥になると言いますね、大沼か。どっちかで、夢のような話だけれど、神と、魔と、いくさでもはじまりそうな気がしたものですから。」 銑吉は話すうちに、あわれに伏せたお誓の目が、憤を含んで、屹として、それが無念を引きしめて、一層青味を帯びたのに驚いた――思いしことよ。……悪魔は、お誓の身にかかわりがないのでない。 「……わけを言います、小県さん、……言いますが、恥かしいのと、口惜いのとで、息が詰って、声も出なくなりましたら、こんな、私のような、こんな身体に、手をお掛けになるまでもありません。この柄杓の柄を、ただお離しなすって下さい。そのままのめって、人間の青い苔……」 「いや、こうして、あなたと半分持った、柄杓の柄は離しません。」 「あの、そのお優しいお心でしたら、きつけの水を下さいまし……私は、貴方を……おきれいだ、と申しましたわね、ねえ。」 「忘れました、そういう串戯をきいていたくはないのです。」 「いえ、串戯ではないのですが。いま、あの、私は、あの薙刀で、このお腹を引破って、肝も臓腑も……」 その水色に花野の帯が、蔀下の敷居に乱れて、お誓の背とともに、むこうに震えているのが見える。榎の梢がざわざわと鳴り、風が颯と通った。 「――そこへ、貴方のお姿が、すっと雲からおさがりなすったように……」 「何、私なら落ちたんでしょう。」 「そして、石段の上口に見えました。まるで誰も来ないのを知って、こちらへ参っているのですし、土地の巧者な、お爺さんに頼みまして、この二三日、来る人も留めてもらうように用意をしていましたんですもの! 思いもよらない、参詣の、それが貴方。格子から熟と覗いていますと、この水へ、影もうつりそうな、小県さんなんですもの、貴方なんですもの。」 その爺さんにも逢っている。銑吉は幾度も独りうなずいた。 「こんな、こんな処、奥州の山の上で。」 「御同様です。」 「その拝殿を、一旦むこうの隅へ急いで遁げました。正面に奥の院へ通います階段と石段と。……間は、樹も草も蓬々と茂っています。その階段の下へかくれて、またよく見ました。寸分お違いなさらない、東京の小県さん――おきれいなのがなおあやしい、怪しいどころか可恐いんです。――ばけものが来た、ばけて来た、畜生、また、来た。ばけものだ!……と思ったんです。」 「…………」 「その怪ものに、口惜い、口惜い、口惜い目に逢わされているんですから。…… ――畜生―― と声も出ないで。」 「ははあ、たちまち一打……薙刀ですな。」 「明神様のお持料です。それでも持ったのが私です、討てる、切れるとは思いませんが――畜生――叩倒してやろうと思って、」 「切られる分には、まだ、不具です。薙倒されては真二つです、危い、危い。」 と、いまは笑った。 「堪忍して下さいな、貴方をばけものだと思った私は、浅間しい獣です、畜生です、犬です、犬に噛まれたとお思いになって。」 「馬鹿なことを……飛んでもない、犬に咬まれるくらいなら、私はお誓さんの薙刀に掛けられますよ。かすり疵も負わないから、太腹らしく太平楽をいうのではないんだが、怒りも怨みもしやしません。気やすく、落着いてお話しなさい。あなたは少しどうかしている、気を沈めて。……これは、ばけものの手触りかも知れませんよ。」 そこで、背に手を置くのに、みだれ髪が、氷のように冷たく触った。 「どうぞ、あの薙刀の飛ばないように。」 その黒髪は、漆の刃のようにヒヤリとする。 水へ辷った柄杓が、カンと響いた。
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