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義血侠血(ぎけつきょうけつ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-22 12:50:09 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 高野聖
出版社: 角川文庫、角川書店
初版発行日: 1971(昭和46)年4月20日改版初版
入力に使用: 1999(平成11)年2月10日改版40版

 

    一

 越中高岡たかおかより倶利伽羅下くりからじた建場たてばなる石動いするぎまで、四里八町が間を定時発の乗り合い馬車あり。
 賃銭のやすきがゆえに、旅客はおおかた人力車を捨ててこれに便たよりぬ。車夫はその不景気を馬車会社にうらみて、人と馬との軋轢あつれきようやくはなはだしきも、わずかに顔役の調和によりて、営業上相干あいおかさざるを装えども、折に触れては紛乱を生ずることしばしばなりき。
 七月八日の朝、一番発の馬車は乗り合いをそろえんとて、やっこはその門前に鈴を打ち振りつつ、
「馬車はいかがです。むちゃに廉くって、腕車くるまよりおはようござい。さあお乗んなさい。すぐに出ますよ」
 甲走かんばしる声は鈴のよりも高く、静かなる朝のまちに響き渡れり。通りすがりの婀娜者あだものは歩みをとどめて、
「ちょいと小僧さん、石動までいくら? なに十銭だとえ。ふう、廉いね。その代わりおそいだろう」
 沢庵たくあんを洗い立てたるように色揚げしたる編片アンペラの古帽子の下より、やっこ猿眼さるまなこきらめかして、
「ものは可試ためしだ。まあお召しなすってください。腕車よりおそかったら代はいただきません」
 かく言ううちもかれの手なる鈴は絶えずさわぎぬ。
「そんなりっぱなことを言って、きっとだね」
 奴は昂然こうぜんとして、
虚言うそと坊主のあたまは、いったことはありません」
「なんだね、しゃらくさい」
 微笑ほおえみつつ女子おんなはかく言い捨てて乗り込みたり。
 その年紀としごろは二十三、四、姿はしいて満開の花の色を洗いて、清楚せいそたる葉桜の緑浅し。色白く、鼻筋通り、まゆに力みありて、眼色めざしにいくぶんのすごみを帯び、見るだに涼しき美人なり。
 これはたして何者なるか。髪は櫛巻くしまきにつかねて、素顔を自慢に※脂べに[#「月+因」、6-15]のみをしたり。服装いでたちは、将棊しょうぎこまを大形に散らしたる紺縮みの浴衣ゆかたに、唐繻子とうじゅす繻珍しゅちんの昼夜帯をばゆるく引っ掛けに結びて、空色縮緬ちりめん蹴出けだしを微露ほのめかし、素足に吾妻下駄あずまげた、絹張りの日傘ひがさ更紗さらさの小包みを持ち添えたり。
 挙止とりなりきゃんにして、人をおそれざる気色けしきは、世磨よずれ、場慣れて、一条縄ひとすじなわつなぐべからざる魂を表わせり。おもうにかれが雪のごときはだには、剳青淋漓さっせいりんりとして、悪竜あくりょうほのおを吐くにあらざれば、すくなくも、その左のかいなには、双枕ふたつまくら偕老かいろうの名や刻みたるべし。
 馬車はこの怪しき美人をもって満員となれり。発車の号令は割るるばかりにしばらく響けり。向者さきより待合所の縁にりて、一ぺんの書をひもとける二十四、五の壮佼わかものあり。盲縞めくらじまの腹掛け、股引ももひきによごれたる白小倉の背広を着て、ゴムのほつれたる深靴ふかぐつ穿き、鍔広つばびろなる麦稈むぎわら帽子を阿弥陀あみだかぶりて、踏んまたぎたるひざの間に、茶褐色ちゃかっしょくなる渦毛うずげの犬の太くたくましきをれて、その頭をでつつ、専念に書見したりしが、このとき鈴のを聞くとひとしく身を起こして、ひらりと御者台に乗り移れり。
 渠の形躯かたちは貴公子のごとく華車きゃしゃに、態度は森厳しんげんにして、そのうちおのずから活溌かっぱつの気を含めり。いやしげに日に※(「犂」の「牛」に代えて「黒の旧字」、第4水準2-94-60)くろみたるおもて熟視よくみれば、清※明眉せいろめいび[#「目+盧」、7-12]相貌そうぼうひいでて尋常よのつねならず。とかくは馬蹄ばていちりまみれてべんぐるのはいにあらざるなり。
 御者は書巻を腹掛けの衣兜かくしに収め、革紐かわひもけたる竹根のむちりて、しずかに手綱をさばきつつ身構うるとき、一りょうの人力車ありて南より来たり、疾風のごとく馬車のかたわらをかすめて、またたひまに一点の黒影となりおわんぬ。
 美人はこれを望みて、
「おい小僧さん、腕車くるまよりおそいじゃないか」
 奴のいまだ答えざるに先だちて、御者はきと面をげ、かすかになれる車の影を見送りて、
「吉公、てめえまた腕車よりはええといったな」
 奴は愛嬌あいきょうよく頭をきて、
「ああ、言った。でもそう言わねえと乗らねえもの」
 御者は黙してうなずきぬ。たちまち鞭の鳴るとともに、二頭の馬は高くいななきて一文字にだせり。不意をくらいたる乗り合いは、座にたまらずしてほとんどまろちなんとせり。奔馬ほんばちゅうけて、見る見る腕車を乗っ越したり。御者はやがて馬の足掻あがきをゆるめ、渠に先を越させぬまでに徐々として進行しつ。
 車夫は必死となりて、やわかおくれじとあせれども、馬車はさながら月を負いたる自家おのれの影のごとく、一歩を進むるごとに一歩を進めて、追えども追えども先んじがたく、ようよう力衰え、息せまりて、今やたおれぬべく覚ゆるころ、高岡より一里を隔つる立野たてのの駅に来たりぬ。
 この街道かいどうの車夫は組合を設けて、建場建場に連絡を通ずるがゆえに、今この車夫が馬車におくれて、あえぎ喘ぎ走るを見るより、そこに客待ちせる夥間なかまの一人は、手につばしておどり出で、
「おい、兄弟きょうでえしっかりしなよ。馬車の畜生どうしてくりょう」
 やにわに対曳さしびきの綱を梶棒かじぼうに投げくれば、疲れたる車夫は勢いを得て、
「ありがてえ! 頼むよ」
合点がってんだい!」
 それと言うままき出だせり。二人の車夫は勇ましく相呼び相応あいこたえつつ、にわかに驚くべき速力をもて走りぬ。やがて町はずれの狭く急なる曲がりかどを争うと見えたりしが、人力車くるまは無二無三に突進して、ついに一歩をきけり。
 車夫は諸声いっせい凱歌かちどきを揚げ、勢いに乗じて二歩を抽き、三歩を抽き、ますますせて、軽迅たまおどるがごとく二、三間を先んじたり。
 向者さきのほどは腕車を流眄しりめに見て、いとも揚々たりし乗り合いの一人いちにんは、
「さあ、やられた!」と身をもだえて騒げば、車中いずれも同感の色を動かして、力瘤ちからこぶを握るものあり、地蹈※(「韋+鞴のつくり」、第3水準1-93-84)じだたらを踏むもあり、奴をしっしてしきりに喇叭らっぱを吹かしむるもあり。御者は縦横に鞭をふるいて、激しく手綱をい繰れば、馬背の流汗滂沱ぼうだとしてきくすべく、轡頭くつわづらだしたる白泡しろあわ木綿きわたの一袋もありぬべし。
 かかるほどに車体は一上一下と動揺して、あるいは頓挫とんざし、あるいは傾斜し、ただこれ風の落ち葉をき、早瀬の浮き木をもてあそぶに異ならず。乗り合いは前後に俯仰ふぎょうし、左右になだれて、片時へんじも安き心はなく、今にもこの車顛覆くつがえるか、ただしはその身投げ落とさるるか。いずれも怪我けがのがれぬところと、老いたるは震いおののき、若きは凝瞳すえまなこになりて、ただ一秒ののちを危ぶめり。
 七、八町を競争して、幸いに別条なく、馬車は辛くも人力車を追い抽きぬ。乗り合いは思わず手をちて、車もうごくばかりに喝采かっさいせり。奴は凱歌かちどきの喇叭を吹き鳴らして、おくれたる人力車をさしまねきつつ、踏み段の上に躍れり。ひとり御者のみは喜ぶ気色けしきもなく、こころを注ぎて馬をいたわけさせたり。
 怪しき美人は満面にみを含みて、起伏常ならざる席に安んずるを、隣たる老人は感に堪えて、
「おまえさんどうもお強い。よく血の道がおこりませんね。平気なものだ、女丈夫おとこまさりだ。わたしなんぞはからきし意気地いくじはない。それもそのはずかい、もう五十八だもの」
 そのことばわらざるに、車は凸凹路でこぼこみちを踏みて、がたくりんとつまずきぬ。老夫おやじは横様に薙仆なぎたおされて、半ば禿げたる法然頭ほうねんあたまはどっさりと美人の膝にまくらせり。
「あれ、あぶない!」
 と美人はその肩をしかといだきぬ。
 老夫はむくむく身をもたげて、
「へいこれは、これはどうもはばかり様。さぞお痛うございましたろう。御免なすってくださいましよ。いやはや、意気地はありません。これさ馬丁べっとうさんや、もし若いしゅさん、なんと顛覆ひっくりかえるようなことはなかろうの」
 御者は見も返らず、勢めたる一べんを加えて、
「わかりません。馬が跌きゃそれまででさ」
 老夫はまるくして狼狽うろたえぬ。
「いやさ、ころばぬさきつえだよ。ほんにお願いだ、気を着けておくれ。若い人と違って年老としよりのことだ、ほうり出されたらそれまでだよ。もういいかげんにして、徐々やわやわとやってもらおうじゃないか。なんと皆さんどうでございます」
「船に乗れば船頭任せ。この馬車にお乗んなすった以上は、わたしに任せたものとして、安心しなければなりません」
「ええ途方もない。どうして安心がなるものか」
 あきれはてて老夫はつぶやけば、御者ははじめて顧みつ。
「それで安心ができなけりゃ、御自分のあしで歩くです」
「はいはい。それは御深切に」
 老夫は腹だたしげに御者のかお偸視とうしせり。
 後れたる人力車は次の建場にてまた一人を増して、後押あとおしを加えたれども、なおいまだおよばざるより、車夫らはますます発憤して、もだゆる折から松並み木の中ほどにて、前面むかいより空車からぐるまき来たる二人の車夫に出会いぬ。行き違いさまに、綱曳つなひきは血声ちごえを振り立て、
「後生だい、手をしてくんねえか。あの瓦多がた馬車の畜生、乗っ越さねえじゃ」
「こっとらの顔が立たねえんだ」と他の一箇ひとりは叫べり。
 血気事を好むてあいは、応と言うがままにその車を道ばたにてて、総勢五人の車夫はみに揉んで駈けたりければ、二、三町ならずして敵にい着き、しばらくは相並びて互いに一歩を争いぬ。
 そのとき車夫はいっせいに吶喊とっかんして馬をおどろかせり。馬はおびえて躍り狂いぬ。車はこれがために傾斜して、まさに乗り合いを振り落とさんとせり。
 恐怖、叫喚、騒擾そうじょう、地震における惨状は馬車のうちあらわれたり。冷々然たるはひとりかの怪しき美人のみ。
 一身をわれに任せよと言いし御者は、風波に掀翻きんぽんせらるる汽船の、やがて千尋ちひろの底に汨没こつぼつせんずる危急に際して、蒸気機関はなおよう々たる穏波をると異ならざる精神をもって、その職をくすがごとく、従容しょうようとして手綱を操り、競争者におくれずすすまず、ひまだにあらば一躍して乗っ越さんと、にらみ合いつつ推し行くさまは、この道堪能かんのうの達者と覚しく、いと頼もしく見えたりき。
 されども危急の際この頼もしさを見たりしは、わずかにくだんの美人あるのみなり。他はみな見苦しくもあわふためきて、あまたの神と仏とは心々にいのられき。なおかの美人はこの騒擾の間、終始御者の様子を打ちまもりたり。
 かくて六箇むつの車輪はあたかも同一ひとつの軸にありて転ずるごとく、両々相並びて福岡ふくおかというに着けり。ここに馬車の休憩所ありて、馬にみずかい、客に茶を売るを例とすれども、今日きょうばかりは素通りなるべし、と乗り合いは心々におもいぬ。
 御者はこの店頭みせさきに馬をとどめてけり。わが物得つと、車夫はにわかに勢いを増して、手をり、声をげ、思うままに侮辱して駈け去りぬ。
 乗り合いは切歯はがみをしつつ見送りたりしに、車は遠く一団の砂煙すなけぶりつつまれて、ついに眼界のほかに失われき。
 旅商人体たびあきゅうどていの男は最もいらだちて、
「なんと皆さん、業肚ごうはらじゃございませんか。おとなげのないわけだけれど、こういう行き懸かりになってみると、どうも負けるのは残念だ。おい、馬丁べっとうさん、早くってくれたまえな」
「それもそうですけれどもな、老者おやじはまことにはやどうも。第一このせんさわりますのでな」
 と遠慮がちに訴うるは、美人の膝枕せし老夫おやじなり。馬は群がるはえあぶとの中に優々と水飲み、奴は木蔭こかげ床几しょうぎに大の字なりにたおれて、むしゃむしゃと菓子をらえり。御者はかまちいこいて巻きたばこくゆらしつつ茶店のかかものがたりぬ。
「こりゃ急に出そうもない」と一人がつぶやけば、田舎いなか女房と見えたるがその前面むかいにいて、
「憎々しく落ち着いてるじゃありませんかね」
 最初の発言者はつごんしゃはますます堪えかねて、
「ときに皆さん、あのとおり御者も骨を折りましたんですから、お互い様にいくらか酒手をはずみまして、もう一骨折ってもらおうじゃございませんか。なにとぞ御賛成を願います」
 渠は直ちに帯佩おびさげの蟇口がまぐちを取り出して、中なる銭をさぐりつつ、
「ねえあなた、ここでああなまけられてしまった日には、仏造って魂入れずでさ、冗談じゃない」
 やがて銅貨三銭をもってかいより始めつ。帽子を脱ぎてその中に入れたるを、衆人ひとびとの前に差し出して、渠はあまねく義捐ぎえんを募れり。
 あるいは勇んで躍り込みたる白銅あり。あるいはしぶしぶ捨てられたる五厘もあり。ここの一銭、かしこの二銭、積もりて十六銭五厘とぞなりにける。
 美人は片すみにありて、応募の最終なりき。隗の帽子は巡回して渠の前に着せるとき、世話人はことばひくうして挨拶あいさつせり。
「とんだおき合いで、どうもおきのどく様でございます」
 美人はかろく会釈するとともに、その手は帯の間に入りぬ。小菊にて上包みせる緋塩瀬ひしおぜの紙入れを開きて、渠はむぞうさに半円銀貨を投げ出だせり。
 余所目よそめたる老夫はいたく驚きてかおそむけぬ、世話人は頭をきて、
「いや、これは剰銭おつりが足りない。私もあいにくこまかいのが……」
 と腰なる蟇口に手を掛くれば、
「いいえ、いいんですよ」
 世話人はあきれて叫びぬ。
「これだけ? 五十銭!」
 これを聞ける乗り合いは、さなきだに、何者なるか、怪しき別品と目を着けたりしに、今この散財きれはなれ婦女子おんなに似気なきより、いよいよ底気味悪くいぶかれり。
 世話人は帽子を揺り動かして銭を鳴らしつつ、
しめて金六十六銭と五厘! たいしたことになりました。これなら馬は駈けますぜ」
 御者はすでに着席して出発の用意せり。世話人は酒手を紙に包みて持ち行きつ。
「おい、若い衆さん、これは皆さんからの酒手だよ。六十六銭と五厘あるのだ。なにぶんひとつ奮発してね。頼むよ」
 渠は気軽に御者の肩をたたきて、
「隊長、一晩遊べるぜ」
 御者は流眄ながしめに紙包みを見遣みやりて空嘯そらうそぶきぬ。
「酒手で馬は動きません」
 わずかに五銭六厘をふところにせる奴は驚きかつ惜しみて、有意的こころありげに御者のおもてながめたり。好意を無にせられたる世話人は腹立ちて、
「せっかく皆さんが下さるというのに、それじゃいらないんだね」
 車は徐々として進行せり。
いただく因縁がありませんから」
「そんな生意気なことを言うもんじゃない。骨折り賃だ。まあ野暮を言わずに取っときたまえてことさ」
 六十六銭五厘はまさに御者のポケットに闖入ちんにゅうせんとせり。渠はかたこばみて、
「思し召しはありがとうございますが、規定きめの賃銭のほかに骨折り賃を戴く理由わけがございません」
 世話人は推し返されたる紙包みを持て扱いつつ、
理由わけ糸瓜へちまもあるものかな。お客がくれるというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものをもらって済まないと思ったら、一骨折って今の腕車くるまいてくれたまえな」
「酒手なんぞは戴かなくっても、十分骨は折ってるです」
 世話人は冷笑あざわらいぬ。
「そんなりっぱな口を[#「口+世」、16-16]いたって、約束が違や世話はねえ」
 御者はきと振りかえりて、
「なんですと?」
「この馬車は腕車よりはやいという約束だぜ」
 儼然げんぜんとして御者は答えぬ。
「そんなお約束はしません」
「おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、このねえさんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の酒手をお出しなすったのはこのかただよ。あの腕車より迅く行ってもらおうと思やこそ、こうして莫大ばくだいな酒手もはずもうというのだ。どうだ、先生、恐れ入ったか」
 鼻うごめかして世話人は御者のそびらを指もてきぬ。渠は一言いちごんを発せず、世話人はすこぶる得意なりき。美人は戯るるがごとくになじれり。
「馬丁さん、ほんとに約束だよ、どうしたってんだね」
 なお渠は緘黙かんもくせり。そのくちびるを鼓動すべき力は、渠の両腕に奮いて、馬蹄ばていたちまち高くぐれば、車輪はそのやぼねの見るべからざるまでに快転せり。乗り合いは再び地上のなみられて、浮沈のき目にいぬ。
 縦騁しょうてい五分間ののち、前途はるかに競争者の影を認め得たり。しかれども時遅れたれば、容易に追迫すべくもあらざりき。しこうして到着地なる石動いするぎはもはや間近になれり。今にして一躍のもとに乗り越さずんば、ついに失敗おくれを取らざるを得ざるべきなり。あわれむべし過度の※(「(矛+攵)/馬」、第4水準2-92-92)ちぶに疲れ果てたる馬は、力なげにれたる首をならべて、てども走れども、足は重りて地を離れかねたりき。
 何思いけん、御者は地上に下り立ちたり。乗り合いはこはそもいかにと見る間に、渠は手早く、一頭の馬を解き放ちて、
「姉さん済みませんが、ちょっと下りてください」
 乗り合いは顔を見合わせて、このなぞを解くに苦しめり。美人は渠の言うがままに車を下れば、
「どうかこちらへ」と御者はおのれの立てる馬のそばに招きぬ。美人はますますその意を得ざれども、なお渠の言うがままに進み寄りぬ。御者はものをも言わず美人を引っ抱えて、ひらりと馬にまたがりたり。
 魂消たまげたるは乗り合いなり。乗り合いは実に魂消たるなり。渠らは千体仏のごとくおもてあつめ、あけらかんとおとがいを垂れて、おそらくはにもるべからざるこの不思議の為体ていたらくを奪われたりしに、その馬は奇怪なる御者と、奇怪なる美人と、奇怪なる挙動ふるまいとを載せてましぐらにせ去りぬ。車上の見物はようやくわれにかえりて響動どよめり。
「いったいどうしたんでしょう」
「まず乗せ逃げとでもいうんでしょう」
「へえ、なんでございます」
「客の逃げたのが乗り逃げ。御者のほうで逃げたのだから乗せ逃げでしょう」
 例の老夫は頭をり悼りつぶやけり。
「いや洒落しゃれどころか。こりゃ、まあどうしてくれるつもりだ」
 不審のまゆあつめたるさきの世話人は、腕をこまぬきつつ座中を※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわして、
「皆さん、なんと思し召す? こりゃ尋常事ただごとじゃありませんぜ。ばかを見たのはわれわれですよ。全くけ落ちですな。どうもあの女がさ、尋常ただねずみじゃあんめえとにらんでおきましたが、こりゃあまさにそうだった。しかしいい女だ」
「私は急ぎの用をかかえているからだだから、こうして安閑あんかんとしてはいられない。なんとこの小僧に頼んで、一匹の馬でってもらおうじゃございませんか。ばかばかしい、銭を出して、あの醜態ざまを見せられて、置き去りをうやつもないものだ」
「全くそうでごさいますよ。ほんとに巫山戯ふざけ真似まねをする野郎だ。小僧早く遣ってくんな」
 やっこは途方に暮れて、さきより車の前後に出没したりしが、
「どうもおきのどく様です」
「おきのどく様は知れてらあ。いつまでこうしておくんだ。早く遣ってくれ、遣ってくれ!」
「私にはまだよく馬が動きません」
きてるものの動かないという法があるものか」
臀部けつっぺたぱたけ引っ撲け」
 奴は苦笑いしつつ、
「そんなことを言ったっていけません。二頭きの車ですから、馬が一匹じゃ遣り切れません」
「そんならここで下りるから銭を返してくれ」
 腹立つ者、無理言う者、呟く者、ののしる者、迷惑せる者、乗り合いの不平は奴の一身にあつまれり。渠はさんざんにさいなまれてついに涙ぐみ、身のき所に窮して、辛くも車のあとすくみたりき。乗り合いはますますさわぎて、敵手あいてなき喧嘩けんかに狂いぬ。
 御者は真一文字に馬を飛ばして、雲をかすみと走りければ、美人は魂身に添わず、目を閉じ、息を凝らし、五体を縮めて、力の限り渠の腰にすがりつ。風は※々しゅうしゅう[#「風にょう」+「容」の「口」に代えて「又」、20-11]両腋りょうえきに起こりて毛髪ち、道はさながらかわのごとく、濁流脚下に奔注ほんちゅうして、身はこれ虚空をまろぶに似たり。
 渠は実に死すべしとおもいぬ。しだいに風み、馬とどまると覚えて、直ちに昏倒こんとうして正気しょうきを失いぬ。これ御者が静かに馬よりたすけ下ろして、茶店の座敷にき入れたりしときなり。渠はこの介抱をあるじおうなたのみて、その身は息をもかず再び羸馬るいばむちうちて、もと来しみちを急ぎけり。
 ほどなく美人はめて、こは石動の棒端ぼうばななるをさとりぬ。御者はすでにあらず。渠はその名を嫗にたずねて、金さんなるを知りぬ。その為人ひととなりを問えば、方正謹厳、その行ないをただせば学問好き。

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