三
夜はすでに十一時に近づきぬ。磧は凄涼として一箇の人影を見ず、天高く、露気ひややかに、月のみぞひとり澄めりける。 熱鬧を極めたりし露店はことごとく形を斂めて、ただここかしこに見世物小屋の板囲いを洩るる燈火は、かすかに宵のほどの名残を留めつ。河は長く流れて、向山の松風静かに度る処、天神橋の欄干に靠れて、うとうとと交睫む漢子あり。 渠は山に倚り、水に臨み、清風を担い、明月を戴き、了然たる一身、蕭然たる四境、自然の清福を占領して、いと心地よげに見えたりき。 折から磧の小屋より顕われたる婀娜者あり。紺絞りの首抜きの浴衣を着て、赤毛布を引き絡い、身を持て余したるがごとくに歩みを運び、下駄の爪頭に戞々と礫を蹴遣りつつ、流れに沿いて逍遥いたりしが、瑠璃色に澄み渡れる空を打ち仰ぎて、 「ああ、いいお月夜だ。寝るには惜しい」 川風はさっと渠の鬢を吹き乱せり。 「ああ、薄ら寒くなってきた」 しかと毛布を絡いて、渠はあたりをしぬ。 「人っ子一人いやしない。なんだ、ほんとに、暑いときはわあわあ騒いで、涼しくなる時分には寝てしまうのか。ふふ、人間というものはいこじなもんだ。涼むんならこういうときじゃないか。どれ、橋の上へでも行ってみようか。人さえいなけりゃ、どこでもいい景色なもんだ」 渠は再び徐々として歩を移せり。 この女は滝の白糸なり。渠らの仲間は便宜上旅籠を取らずして、小屋を家とせるもの寡なからず。白糸も然なり。 やがて渠は橋に来りぬ。吾妻下駄の音は天地の寂黙を破りて、からんころんと月に響けり。渠はその音の可愛さに、なおしいて響かせつつ、橋の央近く来たれるとき、やにわに左手を抗げてその高髷を攫み、 「ええもう重っ苦しい。ちょっうるせえ!」 暴々しく引き解きて、手早くぐるぐる巻きにせり。 「ああこれで清々した。二十四にもなって高島田に厚化粧でもあるまい」 かくて白糸は水を聴き、月を望み、夜色の幽静を賞して、ようやく橋の半ばを過ぎぬ。渠はたちまちのんきなる人の姿を認めぬ。何者かこれ、天地を枕衾として露下月前に快眠せる漢子は、数歩のうちにありてを立てつ。 「おや! いい気なものだよ。だれだい、新じゃないか」 囃子方に新という者あり。宵より出でていまだ小屋に還らざれば、それかと白糸は間近に寄りて、男の寝顔をきたり。 新はいまだかくのごとくのんきならざるなり。渠ははたして新にはあらざりき。新の相貌はかくのごとく威儀あるものにあらざるなり。渠は千の新を合わせて、なおかつ勝ること千の新なるべき異常の面魂なりき。 その眉は長くこまやかに、睡れる眸子も凛如として、正しく結びたる脣は、夢中も放心せざる渠が意気の俊爽なるを語れり。漆のごとき髪はやや生いて、広き額に垂れたるが、吹き揚ぐる川風に絶えず戦げり。 つくづく視めたりし白糸はたちまち色を作して叫びぬ。 「あら、まあ! 金さんだよ」 欄干に眠れるはこれ余人ならず、例の乗り合い馬車の馭者なり。 「どうして今時分こんなところにねえ」 渠は跫音を忍びて、再び男に寄り添いつつ、 「ほんとに罪のない顔をして寝ているよ」 恍惚として瞳を凝らしたりしが、にわかにおのれが絡いし毛布を脱ぎて被せ懸けたれども、馭者は夢にも知らで熟睡せり。 白糸は欄干に腰を憩めて、しばらくなすこともあらざりしが、突然声を揚げて、 「ええひどい蚊だ」膝のあたりをはたと拊てり。この音にや驚きけん、馭者は眼覚まして、叭まじりに、 「ああ、寝た。もう何時か知らん」 思い寄らざりしわがかたわらに媚めける声ありて、 「もうかれこれ一時ですよ」 馭者は愕然として顧みれば、わが肩に見覚えぬ毛布ありて、深夜の寒を護れり。 「や、毛布を着せてくだすったのは! あなた? でございますか」 白糸は微笑を含みて、呆れたる馭者の面を視つつ、 「夜露に打たれると体の毒ですよ」 馭者は黙して一礼せり。白糸はうれしげに身を進めて、 「あなた、その後は御機嫌よう」 いよいよ呆れたる馭者は少しく身を退りて、仮初ながら、狐狸変化のものにはあらずやと心ひそかに疑えり。月を浴びてものすごきまで美しき女の顔を、無遠慮に打ち眺めたる渠の眼色は、顰める眉の下より異彩を放てり。 「どなたでしたか、いっこう存じません」 白糸は片頬笑みて、 「あれ、情なしだねえ。私は忘れやしないよ」 「はてな」と馭者は首を傾けたり。 「金さん」と女はなれなれしく呼びかけぬ。 馭者はいたく驚けり。月下の美人生面にしてわが名を識る。馭者たる者だれか驚かざらんや。渠は実にいまだかつて信ぜざりし狐狸の類にはあらずや、と心はじめて惑いぬ。 「おまえさんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんということがあるものかね」 「抱いた? 私が?」 「ああ、お前さんに抱かれたのさ」 「どこで?」 「いい所で!」 袖を掩いて白糸は嫣然一笑せり。 馭者は深く思案に暮れたりしが、ようよう傾けし首を正して言えり。 「抱いた記憶はないが、なるほどどこかで見たようだ」 「見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競走をして、石動手前からおまえさんに抱かれて、馬上の合い乗りをした女さ」 「おお! そうだ」横手を拍ちて、馭者は大声を発せり、白糸はその声に驚かされて、 「ええびっくりした。ねえおまえさん、覚えておいでだろう」 「うむ、覚えとる。そうだった、そうだった」 馭者は脣辺に微笑を浮かべて、再び横手を拍てり。 「でも言われるまで憶い出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ」 「いや、不実というわけではないけれど、毎日何十人という客の顔を、いちいち覚えていられるものではない」 「それはごもっともさ。そうだけれども、馬上の合い乗りをするお客は毎日はありますまい」 「あんなことが毎日あられてたまるものか」 二人は相見て笑いぬ。ときに数杵の鐘声遠く響きて、月はますます白く、空はますます澄めり。 白糸はあらためて馭者に向かい、 「おまえさん、金沢へは何日、どうしてお出でなすったの?」 四顧寥廓として、ただ山水と明月とあるのみ。戻たる天風はおもむろに馭者の毛布を飄せり。 「実はあっちを浪人してね……」 「おやまあ、どうして?」 「これも君ゆえさ」と笑えば、 「御冗談もんだよ」と白糸は流眄に見遣りぬ。 「いや、それはともかくも、話説をせんけりゃ解らん」 馭者は懐裡を捜りて、油紙の蒲簀莨入れを取り出だし、いそがわしく一服を喫して、直ちに物語の端を発かんとせり。白糸は渠が吸い殻を撃くを待ちて、 「済みませんが、一服貸してくださいな」 馭者は言下に莨入れとマッチとを手渡して、 「煙管が壅ってます」 「いいえ、結構」 白糸は一吃を試みぬ。はたしてその言のごとく、煙管は不快き脂の音のみして、煙の通うこと縷よりわずかなり。 「なるほどこれは壅ってる」 「それで吸うにはよっぽど力が要るのだ」 「ばかにしないねえ」 美人は紙縷を撚りて、煙管を通し、溝泥のごとき脂に面を皺めて、 「こら! 御覧な、無性だねえ。おまえさん寡夫かい」 「もちろん」 「おや、もちろんとは御挨拶だ。でも、情婦の一人や半分はありましょう」 「ばかな!」と馭者は一喝せり。 「じゃないの?」 「知れたこと」 「ほんとに?」 「くどいなあ」 渠はこの問答を忌まわしげに空嘯きぬ。 「おまえさんの壮年で、独身で、情婦がないなんて、ほんとに男子の恥辱だよ。私が似合わしいのを一人世話してあげようか」 馭者は傲然として、 「そんなものは要らんよ」 「おや、ご免なさいまし。さあ、お掃除ができたから、一服戴こう」 白糸はまず二服を吃して、三服目を馭者に、 「あい、上げましょう」 「これはありがとう。ああよく通ったね」 「また壅ったときは、いつでも持ってお出でなさい」 大口開いて馭者は心快げに笑えり。白糸は再び煙管を仮りて、のどかに烟を吹きつつ、 「今の顛末というのを聞かしてくださいな」 馭者は頷きて、立てりし態を変えて、斜めに欄干に倚り、 「あのとき、あんな乱暴を行って、とうとう人力車を乗っ越したのはよかったが、きゃつらはあれを非常に口惜しがってね、会社へむずかしい掛け合いを始めたのだ」 美人は眉を昂げて、 「なんだってまた?」 「何もかにも理窟なんぞはありゃせん。あの一件を根に持って、喧嘩を仕掛けに来たのさね」 「うむ、生意気な! どうしたい?」 「相手になると、事がめんどうになって、実は双方とも商売のじゃまになるのだ。そこで、会社のほうでは穏便がいいというので、むろん片手落ちの裁判だけれど、私が因果を含められて、雇を解かれたのさ」 白糸は身に沁む夜風にわれとわが身を抱きて、 「まあ、おきのどくだったねえ」 渠は慰むる語なきがごとき面色なりき。馭者は冷笑いて、 「なあに、高が馬方だ」 「けれどもさ、まことにおきのどくなことをしたねえ、いわば私のためだもの」 美人は愁然として腕を拱きぬ。馭者はまじめに、 「その代わり煙管の掃除をしてもらった」 「あら、冗談じゃないよ、この人は。そうしておまえさんこれからどうするつもりなの?」 「どうといって、やっぱり食う算段さ。高岡に彷徨いていたって始まらんので、金沢には士官がいるから、馬丁の口でもあるだろうと思って、探しに出て来た。今日も朝から一日奔走いたので、すっかり憊れてしまって、晩方一風呂入ったところが、暑くて寝られんから、ぶらぶら納涼に出掛けて、ここで月を観ていたうちに、いい心地になって睡こんでしまった」 「おや、そう。そうして口はありましたか」 「ない!」と馭者は頭を掉りぬ。 白糸はしばらく沈吟したりしが、 「あなた、こんなことを申しちゃ生意気だけれど、お見受け申したところが、馬丁なんぞをなさるような御人体じゃないね」 馭者は長嘆せり。 「生得からの馬丁でもないさ」 美人は黙して頷きぬ。 「愚痴じゃあるが、聞いてくれるか」 わびしげなる男の顔をつくづく視めて、白糸は渠の物語るを待てり。 「私は金沢の士族だが、少し仔細があって、幼少ころに家は高岡へ引っ越したのだ。そののち私一人金沢へ出て来て、ある学校へ入っているうち、阿爺に亡くなられて、ちょうど三年前だね、余儀なく中途で学問は廃止さ。それから高岡へ還ってみると、その日から稼ぎ人というものがないのだ。私が母親を過ごさにゃならんのだ。何を言うにも、まだ書生中の体だろう、食うほどの芸はなし、実は弱ったね。亡父は馬の家じゃなかったけれど、大の所好で、馬術では藩で鳴らしたものだそうだ。それだから、私も小児の時分稽古をして、少しは所得があるので、馬車会社へ住み込んで、馭者となった。それでまず活計を立てているという、まことに愧ずかしい次第さ。しかし、私だってまさか馬方で果てる了簡でもない、目的も希望もあるのだけれど、ままにならぬが浮き世かね」 渠は茫々たる天を仰ぎて、しばらく悵然たりき。その面上にはいうべからざる悲憤の色を見たり。白糸は情に勝えざる声音にて、 「そりゃあ、もうだれしも浮き世ですよ」 「うむ、まあ、浮き世とあきらめておくのだ」 「今おまえさんのおっしゃった希望というのは、私たちには聞いても解りはしますまいけれど、なんぞ、その、学問のことでしょうね?」 「そう、法律という学問の修行さ」 「学問をするなら、金沢なんぞより東京のほうがいいというじゃありませんか」 馭者は苦笑いして、 「そうとも」 「それじゃいっそ東京へお出でなさればいいのにねえ」 「行けりゃ行くさ。そこが浮き世じゃないか」 白糸は軽く小膝を拊ちて、 「黄金の世の中ですか」 「地獄の沙汰さえ、なあ」 再び馭者は苦笑いせり。 白糸は事もなげに、 「じゃあなた、お出でなさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立っちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送ってあげようじゃありませんか」 深沈なる馭者の魂も、このとき跳るばかりに動きぬ。渠は驚くよりむしろ呆れたり。呆るるよりむしろ慄きたるなり。渠は色を変えて、この美しき魔性のものを睨めたりけり。さきに半円の酒銭を投じて、他の一銭よりも吝しまざりしこの美人の胆は、拾人の乗り合いをしてそぞろに寒心せしめたりき。銀貨一片に目せし乗り合いよ、君らをして今夜天神橋上の壮語を聞かしめなば、肝胆たちまち破れて、血は耳に迸出らん。花顔柳腰の人、そもそもなんじは狐狸か、変化か、魔性か。おそらくは※脂[#「月+因」、35-8]の怪物なるべし。またこれ一種の魔性たる馭者だも驚きかつ慄けり。 馭者は美人の意をその面に読まんとしたりしが、能わずしてついに呻き出だせり。 「なんだって?」 美人も希有なる面色にて反問せり。 「なんだってとは?」 「どういうわけで」 「わけも何もありはしない、ただおまえさんに仕送りがしてみたいのさ」 「酔興な!」と馭者はその愚に唾するがごとく独語ちぬ。 「酔興さ。私も酔興だから、おまえさんも酔興に一番私の志を受けてみる気はなしかい。ええ、金さん、どうだね」 馭者はしきりに打ち案じて、とこうの分別に迷いぬ。 「そんなに慮えることはないじゃないか」 「しかし、縁も由縁もないものに……」 「縁というものも始めは他人どうし。ここでおまえさんが私の志を受けてくだされば、それがつまり縁になるんだろうじゃありませんかね」 「恩を受ければ報さんければならぬ義務がある。その責任が重いから……」 「それで断わるとお言いのかい。なんだねえ、報恩ができるの、できないのと、そんなことを苦にするおまえさんでもなかろうじゃないか。私だって泥坊に伯父さんがあるのじゃなし、知りもしない人を捉えて、やたらにお金を貢いでたまるものかね。私はおまえさんだから貢いでみたいのさ。いくらいやだとお言いでも、私は貢ぐよ。後生だから貢がしてくださいよ。ねえ、いいでしょう、いいよう! うんとお言いよ。構うものかね、遠慮も何も要るものじゃない。私はおまえさんの希望というのがいさえすれば、それでいいのだ。それが私への報恩さ、いいじゃないか。私はおまえさんはきっとりっぱな人物になれると想うから、ぜひりっぱな人物にしてみたくってたまらないんだもの。後生だから早く勉強して、りっぱな人物になってくださいよう」 その音柔媚なれども言々風霜を挟みて、凛たり、烈たり。馭者は感奮して、両眼に熱涙を浮かべ、 「うん、せっかくのお志だ。ご恩に預かりましょう」 渠は襟を正して、うやうやしく白糸の前に頭を下げたり。 「なんですねえ、いやに改まってさ。そう、そんなら私の志を受けてくださるの?」 美人は喜色満面に溢るるばかりなり。 「お世話になります」 「いやだよ、もう金さん、そんなていねいな語を遣われると、私は気が逼るから、やっぱり書生言葉を遣ってくださいよ。ほんとに凛々しくって、私は書生言葉は大好きさ」 「恩人に向かって済まんけれども、それじゃぞんざいな言葉を遣おう」 「ああ、それがいいんですよ」 「しかしね、ここに一つ窮ったのは、私が東京へ行ってしまうと、母親がひとりで……」 「それは御心配なく。及ばずながら私がね……」 馭者は夢みる心地しつつ耳を傾けたり。白糸は誠を面に露わして、 「きっとお世話をしますから」 「いや、どうも重ね重ね、それでは実に済まん。私もこの報恩には、おまえさんのために力の及ぶだけのことはしなければならんが、何かお所望はありませんか」 「だからさ、私の所望はおまえさんの希望がいさえすれば……」 「それはいかん! 自分の所望を遂げるために恩を受けて、その望みを果たしたで、報恩になるものではない。それはただ恩に対するところのわが身だけの義務というもので、けっして恩人に対する義務ではない」 「でも私が承知ならいいじゃありませんかね」 「いくらおまえさんが承知でも、私が不承知だ」 「おや、まあ、いやにむずかしいのね」 かく言いつつ美人は微笑みぬ。 「いや、理屈を言うわけではないがね、目的を達するのを報恩といえば、乞食も同然だ。乞食が銭をもらう、それで食っていく、渠らの目的は食うのだ。食っていけるからそれが方々で銭を乞った報恩になるとはいわれまい。私は馬方こそするが、まだ乞食はしたくない。もとよりお志は受けたいのは山々だ。どうか、ねえ、受けられるようにして受けさしてください。すれば、私は喜んで受ける。さもなければ、せっかくだけれどお断わり申そう」 とみには返す語もなくて、白糸は頭を低れたりしが、やがて馭者の面を見るがごとく見ざるがごとくいつつ、 「じゃ言いましょうか」 「うん、承ろう」と男はやや容を正せり。 「ちっと羞ずかしいことさ」 「なんなりとも」 「諾いてくださるか。いずれおまえさんの身に適ったことじゃあるけれども」 「一応聴いた上でなければ、返事はできんけれど、身に適ったことなら、ずいぶん諾くさ」 白糸は鬢の乱れを掻き上げて、いくぶんの赧羞しさを紛らわさんとせり。馭者は月に向かえる美人の姿の輝くばかりなるを打ち瞶りつつ、固唾を嚥みてその語るを待てり。白糸は始めに口籠もりたりしが、直ちに心を定めたる気色にて、 「処女のように羞ずかしがることもない、いい婆のくせにさ。私の所望というのはね、おまえさんにかわいがってもらいたいの」 「ええ!」と馭者は鋭く叫びぬ。 「あれ、そんなこわい顔をしなくったっていいじゃありませんか。何も内君にしてくれと言うんじゃなし。ただ他人らしくなく、生涯親類のようにして暮らしたいと言うんでさね」 馭者は遅疑せず、渠の語るを追いて潔く答えぬ。 「よろしい。けっしてもう他人ではない」 涼しき眼と凛々しき眼とは、無量の意を含みて相合えり。渠らは無言の数秒の間に、不能語、不可説なる至微至妙の霊語を交えたりき。渠らが十年語りて尽くすべからざる心底の磅は、実にこの瞬息において神会黙契されけるなり。ややありて、まず馭者は口を開きぬ。 「私は高岡の片原町で、村越欣弥という者だ」 「私は水島友といいます」 「水島友? そうしてお宅は?」 白糸ははたと語に塞りぬ。渠は定まれる家のあらざればなり。 「お宅はちっと窮ったねえ」 「だって、家のないものがあるものか」 「それがないのだからさ」 天下に家なきは何者ぞ。乞食の徒といえども、なおかつ雨露を凌ぐべき蔭に眠らずや。世上の例をもってせば、この人まさに金屋に入り、瑶輿に乗るべきなり。しかるを渠は無宿と言う。その行ないすでに奇にして、その心また奇なりといえども、いまだこの言の奇なるには如かず、と馭者は思えり。 「それじゃどこにいるのだ」 「あすこさ」と美人は磧の小屋を指させり。 馭者はそなたを望みて、 「あすことは?」 「見世物小屋さ」と白糸は異様の微笑を含みぬ。 「ははあ、見世物小屋とは異っている」 馭者は心ひそかに驚きたるなり。渠はもとよりこの女をもって良家の女子とは思い懸けざりき、寡なくとも、海に山に五百年の怪物たるを看破したりけれども、見世物小屋に起き臥しせる乞食芸人の徒ならんとは、実に意表に出でたりしなり。とはいえども渠はさあらぬ体に答えたりき。白糸は渠の心を酌みておのれを嘲りぬ。 「あんまり異りすぎてるわね」 「見世物の三味線でも弾いているのかい」 「これでも太夫元さ。太夫だけになお悪いかもしれない」 馭者は軽侮の色をも露わさず、 「はあ、太夫! なんの太夫?」 「無官の太夫じゃない、水芸の太夫さ。あんまり聞いておくれでないよ、面目が悪いからさ」 馭者はますますまじめにて、 「水芸の太夫? ははあ、それじゃこのごろ評判の……」 かく言いつつ珍しげに女の面をきぬ。白糸はさっと赧む顔を背けつつ、 「ああもうたくさん、堪忍しておくれよ」 「滝の白糸というのはおまえさんか」 白糸は渠の語を手もて制しつ。 「もういいってばさ!」 「うん、なるほど!」と心の問うところに答え得たる風情にて、欣弥は頷けり。白糸はいよいよ羞じらいて、 「いやだよ、もう。何がなるほどなんだね」 「非常にいい女だと聞いていたが、なるほど……」 「もういいってばさ」 つと身を寄せて、白糸はやにわに欣弥を撞きたり。 「ええあぶねえ! いい女だからいいと言うのに、撞き飛ばすことはないじゃないか」 「人をばかにするからさ」 「ばかにするものか。実に美しい、何歳になるのだ」 「おまえさん何歳になるの?」 「私は二十六だ」 「おや六なの? まだ若いねえ。私なんぞはもう婆だね」 「何歳さ」 「言うと愛想を尽かされるからいや」 「ばかな! ほんとに何歳だよ」 「もう婆だってば。四さ」 「二十四か! 若いね。二十歳ぐらいかと想った」 「何か奢りましょうよ」 白糸は帯の間より白縮緬の袱紗包みを取り出だせり。解けば一束の紙幣を紙包みにしたるなり。 「これに三十円あります。まあこれだけ進げておきますから、家の処置をつけて、一日も早く東京へおいでなさいな」 「家の処置といって、別に金円の要るようなことはなし、そんなには要らない」 「いいからお持ちなさいよ」 「全額もらったらおまえさんが窮るだろう」 「私はまた明日入る口があるからさ」 「どうも済まんなあ」 欣弥は受け取りたる紙幣を軽く戴きて懐にせり。時に通り懸かりたる夜稼ぎの車夫は、怪しむべき月下の密会を一瞥して、 「お合い乗り、都合で、いかがで」 渠は愚弄の態度を示して、両箇のかたわらに立ち住まりぬ。白糸はわずかに顧眄りて、棄つるがごとく言い放てり。 「要らないよ」 「そうおっしゃらずにお召しなすって。へへへへへ」 「なんだね、人をばかにして。一人乗りに同乗ができるかい」 「そこはまたお話合いで、よろしいようにしてお乗んなすってください」 おもしろ半分にるを、白糸は鼻の端に遇いて、 「おまえもとんだ苦労性だよ。他のことよりは、早く還って、内君でも悦ばしておやんな」 さすがに車夫もこの姉御の与しやすからざるを知りぬ。 「へい、これははばかり様。まああなたもお楽しみなさいまし」 渠は直ちに踵を回らして、鼻唄まじりに行き過ぎぬ。欣弥は何思いけん、 「おい、車夫!」とにわかに呼び住めたり。 車夫は頭を振り向けて、 「へえ、やっぱりお合い乗りですかね」 「ばか言え! 伏木まで行くか」 渠の答うるに先だちて、白糸は驚きかつ怪しみて問えり。 「伏木……あの、伏木まで?」 伏木はけだし上都の道、越後直江津まで汽船便ある港なり。欣弥は平然として、 「これからすぐに発とうと思う」 「これから」と白糸はさすがに心を轟かせり。 欣弥は頷きたりし頭をそのまま低れて、見るべき物もあらぬ橋の上に瞳を凝らしつつ、その胸中は二途の分別を追うに忙しかりき。 「これからとはあんまり早急じゃありませんか。まだお話したいこともあるのだから、今夜はともかくも、ねえ」 一面は欣弥を説き、一面は車夫に向かい、 「若い衆さん、済まないけれど、これを持って行っとくれよ」 渠が紙入れを捜るとき、欣弥はあわただしく、 「車夫、待っとれ。行っちゃいかんぜ」 「あれさ、いいやね。さあ、若い衆さんこれを持って行っとくれよ」 五銭の白銅を把りて、まさに渡さんとせり。欣弥はその間に分け入りて、 「少し都合があるのだから、これから遣ってくれ」 渠は十分に決心の色を露わせり。白糸はとうていその動かす能わざるを覚りて、潔く未練を棄てぬ。 「そう。それじゃ無理に留めないけれども……」 このとき両箇の眼は期せずして合えり。 「そうしてお母さんには?」 「道で寄って暇乞いをする、ぜひ高岡を通るのだから」 「じゃ町はずれまで送りましょう。若衆さん、もう一台ないかねえ」 「四、五町行きゃいくらもありまさあ。そこまでだからいっしょに召していらっしゃい」 「お巫山戯でないよ」 欣弥はすでに車上にありて、 「車夫、どうだろう。二人乗ったら毀れるかなあ、この車は?」 「なあにだいじょうぶ。姉さんほんとにお召しなさいよ」 「構うことはない。早く乗った乗った」 欣弥は手招けば、白糸は微笑む。その肩を車夫はとんと拊ちて、 「とうとう異な寸法になりましたぜ」 「いやだよ、欣さん」 「いいさ、いいさ!」と欣弥は一笑せり。 月はようやく傾きて、鶏声ほのかに白し。
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