四
滝の白糸は越後の国新潟の産にして、その地特有の麗質を備えたるが上に、その手練の水芸は、ほとんど人間業を離れて、すこぶる驚くべきものなりき。さればいたるところ大入り叶わざるなきがゆえに、四方の金主は渠を争いて、ついに例なき莫大の給金を払うに到れり。 渠は親もあらず、同胞もあらず、情夫とてもあらざれば、一切の収入はことごとくこれをわが身ひとつに費やすべく、加うるに、豁達豪放の気は、この余裕あるがためにますます膨張して、十金を獲れば二十金を散ずべき勢いをもって、得るままに撒き散らせり。これ一つには、金銭を獲るの難きを渠は知らざりしゆえなり。 渠はまた貴族的生活を喜ばず、好みて下等社会の境遇を甘んじ、衣食の美と辺幅の修飾とを求めざりき。渠のあまりに平民的なる、その度を放越して鉄拐となりぬ。往々見るところの女流の鉄拐は、すべて汚行と、罪業と、悪徳との養成にあらざるなし。白糸の鉄拐はこれを天真に発して、きわめて純潔清浄なるものなり。 渠は思うままにこの鉄拐を振り舞わして、天高く、地広く、この幾歳をのどかに過ごしたりけるが、いまやすなわちしからざるなり。村越欣弥は渠が然諾を信じて東京に遊学せり。高岡に住めるその母は、箸を控えて渠が饋餉を待てり。白糸は月々渠らを扶持すべき責任ある世帯持ちの身となれり。 従来の滝の白糸は、まさにその放逸を縛し、その奇骨を挫ぎて、世話女房のお友とならざるを得ざるべきなり。渠はついにその責任のために石を巻き、鉄を捩じ、屈すべからざる節を屈して、勤倹小心の婦人となりぬ。その行ないにおいてはなおかつ滝の白糸たる活気をば有ちつつ、その精神は全く村越友として経営苦労しつ。その間は実に三年の長きに亙れり。 あるいは富山に赴き、高岡に買われ、はた大聖寺福井に行き、遠くは故郷の新潟に興行し、身を厭わず八方に稼ぎ廻りて、幸いにいずくも外さざりければ、あるいは血をも濺がざるべからざる至重の責任も、その収入によりて難なく果たされき。 されども見世物の類は春夏の二季を黄金期とせり。秋は漸く寂しく、冬は霜枯れの哀れむべきを免れざるなり。いわんや北国の雪世界はほとんど一年の三分の一を白き物の中に蟄居せざるべからざるや。ことに時候を論ぜざる見世物と異なりて、渠の演芸はおのずから夏炉冬扇のきらいあり。その喝采は全く暑中にありて、冬季は坐食す。 よし渠は糊口に窮せざるも、月々十数円の工面は尋常手段の及ぶべきにあらざるなり。渠はいかにしてかなき袖を振りける? 魚は木に縁りて求むべからず、渠は他日の興行を質入れして前借りしたりしなり。 その一年、その二年は、とにもかくにもかくのごとき算段によりて過ごしぬ。その三年ののちは、さすがに八方塞がりて、融通の道も絶えなむとせり。 翌年の初夏金沢の招魂祭を当て込みて、白糸の水芸は興行せられたりき。渠は例の美しき姿と妙なる技とをもって、希有の人気を取りたりしかば、即座に越前福井なるなにがしという金主附きて、金沢を打ち揚げしだい、二箇月間三百円にて雇わんとの相談は調いき。 白糸は諸方に負債ある旨を打ち明けて、その三分の二を前借りし、不義理なる借金を払いて、手もとに百余円を剰してけり。これをもってせば欣弥母子が半年の扶持に足るべしとて、渠は顰みたりし愁眉を開けり。 されども欣弥は実際半年間の仕送りを要せざるなり。 渠の希望はすでに手の達くばかりに近づきて、わずかにここ二、三箇月を支うるを得ば足れり。無頓着なる白糸はただその健康を尋ぬるのみに安んじて、あえてその成業の期を問わず、欣弥もまたあながちこれを告げんとは為さざりき。その約に負かざらんことを虞るる者と、恩中に恩を顧みざる者とは、おのおのその務むべきところを務むるに専なりき。 かくて翌日まさに福井に向かいて発足すべき三日目の夜の興行をわりたりしは、一時に垂んとするころなりき。白昼を欺くばかりなりし公園内の万燈は全く消えて、雨催の天に月はあれども、四面※[#「さんずい+孛」、49-15]として煙の布くがごとく、淡墨を流せる森のかなたに、たちまち跫音の響きて、がやがやと罵る声せるは、見世物師らが打ち連れ立ちて公園を引き払うにぞありける。この一群れの迹に残りて語合う女あり。 「ちょいと、お隣の長松さんや、明日はどこへ行きなさる?」 年増の抱ける猿の頭を撫でて、かく訊ねしは、猿芝居と小屋を並べし轆轤首の因果娘なり。 「はい、明日は福井まで参じます」 年増は猿に代わりて答えぬ。轆轤首は愛相よく、 「おおおお、それはまあ遠い所へ」 「はい、ちと遠方でございますと言いなよ。これ、長松、ここがの、金沢の兼六園といって、百万石のお庭だよ。千代公のほうは二度目だけれど、おまえははじめてだ。さあよく見物しなよ」 渠は抱きし猿を放ち遣りぬ。 折からあなたの池のあたりに、マッチの火のぱっと燃えたる影に、頬被りせる男の顔は赤く顕われぬ。黒き影法師も両三箇そのかたわらに見えたりき。因果娘は偸視て、 「おや、出刃打ちの連中があすこに憩んでいなさるようだ」 「どれどれ」と見向く年増の背後に声ありて、 「おい、そろそろ出掛けようぜ」 旅装束したる四、五人の男は二人のそばに立ち住まりぬ。年増は直ちに猿を抱き取りて、 「そんなら、姉さん」 「参りましょうかね」 両箇の女は渠らとともに行きぬ。続きて一団また一団、大蛇を籠に入れて荷う者と、馬に跨りて行く曲馬芝居の座頭とを先に立てて、さまざまの動物と異形の人類が、絡繹として森蔭に列を成せるその状は、げに百鬼夜行一幅の活図なり。 ややありて渠らはみな行き尽くせり。公園は森邃として月色ますます昏く、夜はいまや全くその死寂に眠れるとき、谺に響き、水に鳴りて、魂消る一声、 「あれえ!」
五
水は沈濁して油のごとき霞が池の汀に、生死も分かず仆れたる婦人あり。四肢を弛めて地に領伏し、身動きもせでしばらく横たわりたりしが、ようよう枕を返して、がっくりと頭を俛れ、やがて草の根を力におぼつかなくも立ち起がりて、く体をかたわらなる露根松に辛くも支えたり。 その浴衣は所々引き裂け、帯は半ば解けて脛を露わし、高島田は面影を留めぬまでに打ち頽れたり。こはこれ、盗難に遇えりし滝の白糸が姿なり。 渠はこの夜の演芸をわりしのち、連日の疲労一時に発して、楽屋の涼しき所に交睫みたりき。一座の連中は早くも荷物を取纏めて、いざ引き払わんと、太夫の夢を喚びたりしに、渠は快眠を惜しみて、一足先に行けと現に言い放ちて、再び熟睡せり。渠らは豪放なる太夫の平常を識りければ、その言うままに捨て置きて立ち去りけるなり。 程経て白糸は目覚ましぬ。この空小屋のうちに仮寝せし渠の懐には、欣弥が半年の学資を蔵めたるなり。されども渠は危うかりしとも思わず、昼の暑さに引き替えて、涼しき真夜中の幽静なるを喜びつつ、福井の金主が待てる旅宿に赴かんとて、そこまで来たりけるに、ばらばらと小蔭より躍り出ずる人数あり。 みなこれ屈竟の大男、いずれも手拭いに面を覆みたるが五人ばかり、手に手に研ぎ澄ましたる出刃庖丁を提げて、白糸を追っ取り巻きぬ。 心剛なる女なれども、渠はさすがに驚きて佇めり。狼藉者の一個は濁声を潜めて、 「おう、姉さん、懐中のものを出しねえ」 「じたばたすると、これだよ、これだよ」 かく言いつつ他の一個はその庖丁を白糸の前に閃かせば、四挺の出刃もいっせいに晃きて、女の眼を脅かせり。 白糸はすでにその身は釜中の魚たることを覚悟せり。心はいささかも屈せざれども、力の及ぶべからざるをいかにせん。進みて敵すべからず、退きては遁るること難し。 渠はその平生においてかつ百金を吝しまざるなり。されども今夜懐にせる百金は、尋常一様の千万金に直するものにして、渠が半身の精血とも謂っつべきなり。渠は換えがたく吝しめり。今ここにこれを失わんか、渠はほとんど再びこれを獲るの道あらざるなり。されども渠はついに失わざるべからざるか、豪放豁達の女丈夫も途方に暮れたりき。 「何をぐずぐずしてやがるんで! サッサと出せ、出せ」 白糸は死守せんものと決心せり。渠の脣は黒くなりぬ。渠の声はいたく震いぬ。 「これは与られないよ」 「与れなけりゃ、ふんだくるばかりだ」 「遣っつけろ、遣っつけろ!」 その声を聞くとひとしく、白糸は背後より組み付かれぬ。振り払わんとする間もあらで、胸も挫ぐるばかりの翼緊めに遭えり。たちまち暴くれたる四隻の手は、乱雑に渠の帯の間と内懐とを撈せり。 「あれえ!」と叫びて援いを求めたりしは、このときの血声なりき。 「あった、あった」と一個の賊は呼びぬ。 「あったか、あったか」と両三人の声は※[#「應」の「心」に代えて「言」、53-13]えぬ。 白糸は猿轡を吃されて、手取り足取り地上に推し伏せられつ。されども渠は絶えず身を悶えて、跋ね覆えさんとしたりしなり。にわかに渠らの力は弛みぬ。虚さず白糸は起き復るところを、はたと仆されたり。賊はその隙に逃げ失せて行くえを知らず。 惜しみても、惜しみてもなお余りある百金は、ついに還らざるものとなりぬ。白糸の胸中は沸くがごとく、焚ゆるがごとく、万感の心を衝くに任せて、無念已む方なき松の下蔭に立ち尽くして、夜の更くるをも知らざりき。 「ああ、しかたがない、何も約束だと断念めるのだ。なんの百ぐらい! 惜しくはないけれど、欣さんに済まない。さぞ欣さんが困るだろうねえ。ええ、どうしよう、どうしたらよかろう」 渠はひしとわが身を抱きて、松の幹に打ち当てつ。ふとかたわらを見れば、漾々たる霞が池は、霜の置きたるように微黯き月影を宿せり。 白糸の眼色はその精神の全力を鍾めたるかと覚しきばかりの光を帯びて、病めるに似たる水の面を屹と視たり。 「ええ、もうなんともかとも謂えないいやな心地だ。この水を飲んだら、さぞ胸が清々するだろう! ああ死にたい。こんな思いをするくらいなら死んだほうがましだ。死のう! 死のう!」 渠は胸中の劇熱を消さんがために、この万斛の水をば飲み尽くさんと覚悟せるなり。渠はすでに前後を忘じて、一心死を急ぎつつ、蹌踉と汀に寄れば、足下に物ありて晃きぬ。思わず渠の目はこれに住まりぬ。出刃庖丁なり! これ悪漢が持てりし兇器なるが、渠らは白糸を手籠めにせしとき、かれこれ悶着の間に取り遺せしを、忘れて捨て行きたるなり。 白糸はたちまち慄然として寒さを感えたりしが、やがて拾い取りて月に翳しつつ、 「これを証拠に訴えれば手掛かりがあるだろう。そのうちにはまたなんとか都合もできよう。……これは今死ぬのは。……」 この証拠物件を獲たるがために、渠はその死を思い遏りて、いちはやく警察署に赴かんと、心変わればいまさら忌まわしきこの汀を離れて、渠は推し仆されたりしあたりを過ぎぬ。無念の情は勃然として起これり。繊弱き女子の身なりしことの口惜しさ! 男子にてあらましかばなど、言い効もなき意気地なさを憶い出でて、しばしはその恨めしき地を去るに忍びざりき。 渠は再び草の上に一物を見出だせり。近づきてとくと視れば、浅葱地に白く七宝繋ぎの洗い晒したる浴衣の片袖にぞありける。 またこれ賊の遺物なるを白糸は暁りぬ。けだし渠が狼藉を禦ぎし折に、引き断りたる賊の衣の一片なるべし。渠はこれをも拾い取り、出刃を裹みて懐中に推し入れたり。 夜はますます闌けて、霄はいよいよ曇りぬ。湿りたる空気は重く沈みて、柳の葉末も動かざりき。歩むにつれて、足下の叢より池に跋ね込む蛙は、礫を打つがごとく水を鳴らせり。 行く行く項を低れて、渠は深くも思い悩みぬ。 「だが、警察署へ訴えたところで、じきにあいつらが捕ろうか。捕ったところで、うまく金子が戻るだろうか。あぶないものだ。そんなことを期にしてぐずぐずしているうちには、欣さんが食うに窮ってくる。私の仕送りを頼みにしている身の上なのだから、お金が到かなかった日には、どんなに窮るだろう。はてなあ! 福井の金主のほうは、三百円のうち二百円前借りをしたのだから、まだ百円というものはあるのだ。貸すだろうか、貸すまい。貸さない、貸さない、とても貸さない! 二百円のときでもあんなに渋ったのだ。けれども、こういう事情だとすっかり打ち明けて、ひとつ泣き付いてみようかしらん。だめなことだ、あの老爺だもの。のべつに小癪に障ることばっかり陳べやがって、もうもうほんとに顔を見るのもいやなんだ。そのくせまた持ってるのだ! どうしたもんだろうなあ。ああ、窮った、窮った。やっぱり死ぬのか。死ぬのはいいが、それじゃどうも欣さんに義理が立たない。それが何より愁い! といって才覚のしようもなし。……」 陰々として鐘声の度るを聞けり。 「もう二時だ。はてなあ!」 白糸は思案に余って、歩むべき力も失せつ。われにもあらで身を靠せたるは、未央柳の長く垂れたる檜の板塀のもとなりき。 こはこれ、公園地内に六勝亭と呼べる席貸しにて、主翁は富裕の隠居なれば、けっこう数寄を尽くして、営業のかたわらその老いを楽しむところなり。 白糸が佇みたるは、その裏口の枝折門の前なるが、いかにして忘れたりけむ、戸を鎖さでありければ、渠が靠るるとともに戸はおのずから内に啓きて、吸い込むがごとく白糸を庭の内にぞ引き入れたる。 渠はしばらく惘然として佇みぬ。その心には何を思うともなく、きょろきょろとあたりをせり。幽寂に造られたる平庭を前に、縁の雨戸は長く続きて、家内は全く寝鎮まりたる気勢なり。白糸は一歩を進め、二歩を進めて、いつしか「寂然の森」を出でて、「井戸囲い」のほとりに抵りぬ。 このとき渠は始めて心着きて驚けり。かかる深夜に人目を窃みて他の門内に侵入するは賊の挙動なり。われははからずも賊の挙動をしたるなりけり。 ここに思い到りて、白糸はいまだかつて念頭に浮かばざりし盗というなる金策の手段あるを心着きぬ。ついで懐なる兇器に心着きぬ。これ某らがこの手段に用いたりし記念なり。白糸は懐に手を差し入れつつ、頭を傾けたり。 良心は疾呼して渠を責めぬ。悪意は踴躍して渠を励ませり。渠は疾呼の譴責に遭いては慚悔し、また踴躍の教峻を受けては然諾せり。良心と悪意とは白糸の恃むべからざるを知りて、ついに迭いに闘いたりき。 「道ならないことだ。そんな真似をした日には、二度と再び世の中に顔向けができない。ああ、恐ろしいことだ、……けれども才覚ができなければ、死ぬよりほかはない。この世に生きていないつもりなら、羞汚も顔向けもありはしない。大それたことだけれども、金は盗ろう。盗ってそうして死のう死のう!」 かく思い定めたれども、渠の良心はけっしてこれを可さざりき。渠の心は激動して、渠の身は波に盪るる小舟のごとく、安んじかねて行きつ、還りつ、塀ぎわに低徊せり。ややありて渠は鉢前近く忍び寄りぬ。されどもあえて曲事を行なわんとはせざりしなり。渠は再び沈吟せり。 良心に逐われて恐惶せる盗人は、発覚を予防すべき用意に遑あらざりき。渠が塀ぎわに徘徊せしとき、手水口を啓きて、家内の一個は早くすでに白糸の姿を認めしに、渠は鈍くも知らざりけり。 鉢前の雨戸は不意に啓きて、人は面を露わせり。白糸あなやと飛び退る遑もなく、 「偸児!」と男の声は号びぬ。 白糸の耳には百雷の一時に落ちたるごとく轟けり。精神錯乱したるその瞬息に、懐なりし出刃は渠の右手に閃きて、縁に立てる男の胸をば、柄も透れと貫きたり。 戸を犇かして、男は打ち僵れぬ。朱に染みたるわが手を見つつ、重傷に唸く声を聞ける白糸は、戸口に立ち竦みて、わなわなと顫いぬ。 渠はもとより一点の害心だにあらざりしなり。われはそもそもいかにしてかかる不敵の振舞をなせしかを疑いぬ。見れば、わが手は確かに出刃を握れり。その出刃は確かに男の胸を刺しけるなり。胸を刺せしによりて、男は殪れたるなり。されば人を殺せしはわれなり、わが手なりと思いぬ。されども白糸はわが心に、わが手に、人を殺せしを覚えざりしなり。渠は夢かと疑えり。 「全く殺したのだ。こりゃ、まあ大変なことをした! どういう気で私はこんなことをしたろう?」 白糸は心乱れて、ほとんどその身を忘れたる背後に、 「あなた、どうなすった?」 と聞こゆるは寝惚れたる女の声なり。白糸は出刃を隠して、きっとそなたを見遣りぬ。 灯影は縁を照らして、跫音は近づけり。白糸はひたと雨戸に身を寄せて、何者か来たるといぬ。この家の内儀なるべし。五十ばかりの女は寝衣姿のしどけなく、真鍮の手燭を翳して、覚めやらぬ眼をかんと面を顰めつつ、よたよたと縁を伝いて来たりぬ。死骸に近づきて、それとも知らず、 「あなた、そんな所に寝て……どうなすっ。……」 燈を差し向けて、いまだその血に驚く遑あらざるに、 「静かに!」と白糸は身を露わして、庖丁を衝き付けたり。 内儀は賊の姿を見るより、ペったりと膝を折り敷き、その場に打ち俯して、がたがたと慄いぬ。白糸の度胸はすでに十分定まりたり。 「おい、内君、金を出しな。これさ、金を出せというのに」 俯して答えなき内儀の項を、出刃にてぺたぺたと拍けり。内儀は魂魄も身に添わず、 「は、は、はい、はい、は、はい」 「さあ、早くしておくれ。たんとは要らないんだ。百円あればいい」 内儀はせつなき呼吸の下より、 「金子はあちらにありますから。……」 「あっちにあるならいっしょに行こう。声を立てると、おいこれだよ」 出刃庖丁は内儀の頬を見舞えり。渠はますます恐怖して立つ能わざりき。 「さあ早くしないかい」 「た、た、た、ただ……いま」 渠は立たんとすれども、その腰は挙がらざりき。されども渠はなお立たんと焦りぬ。腰はいよいよ挙がらず。立たざればついに殺されんと、渠はいとど慌てつ、悶えつ、辛くも立ち起がりて導けり。二間を隔つる奥に伴いて、内儀は賊の需むる百円を出だせり。白糸はまずこれを収めて、 「内君、いろいろなことを言ってきのどくだけれど、私の出たあとで声を立てるといけないから、少しの間だ、猿轡を箝めてておくれ」 渠は内儀を縛めんとて、その細帯を解かんとせり。ほとんど人心地あらざるまでに恐怖したりし主婦は、このときようよう渠の害心あらざるを知るより、いくぶんか心落ちいつつ、はじめて賊の姿をば認め得たりしなり。こはそもいかに! 賊は暴くれたる大の男にはあらで、軆度優しき女子ならんとは、渠は今その正体を見て、与しやすしと思えば、 「偸児!」と呼び懸けて白糸に飛び蒐りつ。 自糸は不意を撃たれて驚きしが、すかさず庖丁の柄を返して、力任せに渠の頭を撃てり。渠は屈せず、賊の懐に手を捻じ込みて、かの百円を奪い返さんとせり。白糸はその手に咬み着き、片手には庖丁振り抗げて、再び柄をもて渠の脾腹を吃わしぬ。 「偸児! 人殺し!」と地蹈鞴を踏みて、内儀はなお暴らかに、なおけたたましく、 「人殺し! 人殺しだ!」と血声を絞りぬ。 これまでなりと観念したる白糸は、持ちたる出刃を取り直し、躍り狂う内儀の吭を目懸けてただ一突きと突きたりしに、覘いを外して肩頭を刎ね斫りたり。 内儀は白糸の懐に出刃を裹みし片袖を撈り得てて、引っ掴みたるまま遁れんとするを、畳み懸けてその頭に斫り着けたり。渠はますます狂いて再び喚かんとしたりしかば、白糸は触るを幸いめった斫りにして、弱るところを乳の下深く突き込みぬ。これ実に最後の一撃なりけるなり。白糸は生まれてよりいまだかばかりおびただしき血汐を見ざりき。一坪の畳は全く朱に染みて、あるいは散り、あるいは迸り、あるいはぽたぽたと滴りたる、その痕は八畳の一間にあまねく、行潦のごとき唐紅の中に、数箇所の傷を負いたる内儀の、拳を握り、歯を噛い緊めてのけざまに顛覆りたるが、血塗れの額越しに、半ば閉じたる眼を睨むがごとく凝えて、折もあらばむくと立たんずる勢いなり。 白糸は生まれてより、いまだかかる最期の愴惻を見ざりしなり。かばかりおびただしき血汐! かかるあさましき最期! こはこれ何者の為業なるぞ。ここに立てるわが身のなせし業なり。われながら恐ろしきわが身かな、と白糸は念えり。渠の心は再び得堪うまじく激動して、その身のいまや殺されんとするを免れんよりも、なお幾層の危うき、恐ろしき想いして、一秒もここにあるにあられず、出刃を投げ棄つるより早く、あとをも見ずしていっさんに走り出ずれば、心急くまま手水口の縁に横たわる躯のひややかなる脚に跌きて、ずでんどうと庭前に転び墜ちぬ。渠は男の甦りたるかと想いて、心も消え消えに枝折門まで走れり。 風やや起こりて庭の木末を鳴らし、雨はぽっつりと白糸の面を打てり。
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