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開扉一妖帖(かいひいちようちょう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-22 12:34:05 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 突俯つっぷして、(ただ仰向あおむけに倒れないばかり)であった――
 で、背くぐみに両膝を抱いて、動悸どうきおさえ、つぶされた蜘蛛くものごとくビルジングの壁際にしゃがんだ処は、やすものの、探偵小説の挿画さしえに似て、われながら、浅ましく、なさけない。

南無なむ身延様みのぶさま――三百六十三段。南無身延様、三百六十四段、南無身延様、三百六十五段……」
 もう一息で、頂上の境内という処だから、団扇太鼓うちわだいこもだらりと下げて、音も立てず、千箇寺せんがじ参りの五十男が、口で石段の数取りをしながら、顔色も青くあえぎ喘ぎ上るのを――下山の間際にたことがある。
 思出す、あの……五十段ずつ七折ばかり、つないで掛け、雲のかけはしに似た石段を――ふもと旅籠屋はたごやで、かき玉の椀に、きざみ昆布のつくだ煮か、それはいい、あろう事か、朝酒をあおりつけたいきおいで、通しの夜汽車で、疲れたのを顧みず――時も八月、極暑に、矢声を掛けて駆昇った事がある。……
 呼吸いきが切れ、目がくらむと、あたかも三つ目と想う段の継目の、わずかに身をるるばかりの石の上へ仰ぎ倒れた。胸は上の段、およそ百ばかりに高く波を打ち、足は下の段、およそ百ばかりに震えて重い。いまにも胴中から裂けそうで、串戯じょうだんどころか、その時は、合掌に胸をめて、真蒼まっさおになって、日盛ひざかり蚯蚓みみずでのびた。叔父の鉄枴ヶ峰ではない。身延山の石段の真中まんなかで目をつぶろうとしたのである。
 上へも、下へも、身動きが出来ない。一滴の露、水がなかった。
 酒さえのまねば、そうもなるまい。故郷も家も、くるくると玉に廻って、生命いのち数珠じゅずが切れそうだった。が、三十分ばかり、じっとしていて辛うじてった。――もっともその折は同伴つれがあって、力をつけ、介抱した。手を取って助けるのに、すがってうばかりにして、辛うじて頂上へ辿たどることが出来た。立処たちどころに、無熱池の水は、白き蓮華れんげとなって、水盤にふきあふれた。
 ――ああ、一口、水がほしい――
 実際、信也氏は、身延山の石段で倒れたと同じ気がした、と云うのである。
 何より心細いのは、つれがない。樹の影、草の影もない。みたいほどの雨気あまけを帯びた辻の風も、そよとも通わぬ。
 ……その冷く快かった入口の、立看板の白くえて寂しいのも、再び見る、露に濡れた一叢ひとむらの花の水のしおりをすると思うのも、いまは谷底のように遠く、深い。ここに、突当りに切組んで、二段ばかり目に映る階段を望んで次第に上層を思うと、峰のごとくはるかに高い。
 気が違わぬから、声を出して人は呼ばれず、たすけを、人を、水をあこがれ求むる、瞳ばかり※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはったが、すぐ、それさえもぼうとなる。
 その目に、ひらりと影が見えた。真向うに、矗立ちくりつした壁面と、相接するその階段へ、上から、黒く落ちて、鳥影のように映った。が、羽音はしないで、すぐその影にうっすりと色が染まって、おんなすそになり、白い蝙蝠こうもりほどの足袋が出て、踏んだ草履の緒が青い。
 翼に藍鼠あいねずみしまがある。大柄なこの怪しい鳥は、円髷まるまげが黒かった。
 目鼻立ちのばらりとした、額のやや広く、鼻のたかいのが、……段の上からと、廊下からと、二ヶ処の電燈のせいか、その怪しい影を、やっぱり諸翼もろはのごとく、両方の壁に映しながら、ふらりと来て、朦朧もうろうと映ったが、近づくと、こっちの息だかおんなの肌のかおりだか、ぷんとにおって酒臭い。
「酔ってますね、ほほほ。」
 蓮葉はすはに笑った、おんなの方から。――これが挨拶あいさつらしい。が、私が酔っています、か、お前さんは酔ってるね、だか分らない。
「やあ。」
 と、渡りに船の譬喩たとえも恥かしい。水に縁の切れた糸瓜へちまが、物干の如露じょろへ伸上るように身を起して、
「――御連中ですか、お師匠……」
 と言った。
 薄手のお太鼓だけれども、今時珍らしい黒繻子くろじゅす豆絞りの帯がゆるんで、一枚小袖もずるりとした、はだかった胸もとを、きちりと紫の結目むすびめで、西行法師――いや、大宅光国おおやけみつくにという背負方しょいかたをして、かしであろう、手馴てなれて研ぎのかかった白木の細い……所作、稽古けいこの棒をついている。とりなりの乱れた容子ようすが、長刀なぎなたに使ったか、太刀か、刀か、舞台で立廻りをして、引込ひっこんで来たもののように見えた。
 ところが、目皺めじわを寄せ、頬を刻んで、妙にまぶしそうな顔をして、
「おや、師匠とおいでなすったね、おとぼけでないよ。」
 とのっけから、
「ちょいと旦那だんな、この敷石の道の工合ぐあいは、河岸じゃありませんね、五十間。しゃっぽの旦那は、金やろかいじゃあない……何だっけ……ぜにとるめんでしょう、その口から、お師匠さん、あれ、恥かしい。」
 と片袖をわざと顔にあてて俯向うつむいた、襟が白い、が白粉おしろいまだらで。……
「……風体を、ごらんなさいよ。ピイと吹けば瞽女ごぜさあね。」
 と仰向けに目をぐっとつむり、口をひょっとこにゆがませると、所作の棒をつえにして、コトコトと床を鳴らし、めくらりに胸を反らした。
按摩あんまかみしも三百もん――ひけ過ぎだよ。あいあい。」
 あっと呆気あっけに取られていると、
鉄棒かなぼうの音に目をさまし、」
 じゃらんとついて、ぱっちりと目を開いた。が、わが信也氏をじっと見ると、
「おや、先生じゃありませんか、まあ、先生。」
「…………」
「それ……と、たしか松村さん。」
 心当りはまるでない。
「松村です、松村は確かだけれど、あやふやな男ですがね、弱りました、弱ったとも弱りましたよ。いや、何とも。」
 上脊があるから、下にしゃがんだ男を、のぞくように傾いて、
「どうなさいました、まあ。」
「何の事はありません。」
 鉄枴ヶ峰では分るまい……
「身延山の石段で、行倒れになったようなんです。口も利けない始末ですがね、場所はどこです、どこにあります、あと何階あります、場所は、おさらいの会場は。」
「おさらい……おさらいなんかありませんわ。」
「ええ。」
 ビルジングの三階から、ほうり出されたようである。
「しかし、師匠は。」
「あれさ、それだけはよして頂戴よ。ししょう……もようもない、ほほほ。こりゃ、これ、かみがたの口合くちあいや。」
 と手の甲で唇をたたきながら、
「場末の……いまの、ルンならいいけど、足の生えた、ぱんぺんさ。先生、それも、お前さん、いささかどうでしょう、ぷんと来た処をふり売りの途中、下の辻で、木戸かしら、入口の看板を見ましてね、あれさ、お前さん、ご存じだ……」
 という。が、お前さんにはいよいよ分らぬ。
「鶏卵と、玉子と、字にかくとおんなじというめくらだけれど、おさらいの看板ぐらいは形でわかりますからね、叱られやしないと多寡たかをくくって、ふらふらと入って来ましたがね。おさらいや、おおさえや、そんなものは三番叟さんばそうだって、どこにも、やってやしませんのさ。」
「はあ。」
 とばかり。
「お前さんも、おさらいにおいでなすったという処で見ると、満ざら、私も間違えたんじゃアありませんね。ことによったら、もうねっちまったんじゃありませんか。」
 さあ……
「成程、で、その連中でないとすると、弱ったなあ。……失礼だが、まるっきりお見それ申したがね。」
「ええ、ええ、ごもっとも、お目にかかったのは震災ずっと前でござんすもの。こっちは、商売、慾張よくばってますから、両三度だけれど覚えていますわ。お分りにならないはず……」
 と無雑作な中腰で、廊下に、ななめに向合った。
「吉原の小浜屋(引手茶屋)が、焼出されたあと、仲之町なかのちょうをよして、浜町はまちょうで鳥料理をはじめました。それさ、お前さん、鶏卵と、玉子と同類の頃なんだよ。京千代さんの、ときさんと、一座で、お前さんおいでなすった……」
「ああ、そう……」
 夢のように思出した。つれだったという……京千代のお京さんは、もとその小浜屋に芸妓げいしゃの娘分が三人あった、一番の年若で。もうその時分は、鴾の細君であった。鴾氏――画名は遠慮しよう、実の名は淳之助じゅんのすけである。
(――つい、今しがた銀座で一所に飲んでいた――)
 この場合、うっかり口へ出そうなのを、ふと控えたのは、このおんなが、見た処の容子だと、銀座へ押掛けようと言いかねまい。……
 そこの腰掛では、現に、ならんで隣合った。画会では権威だと聞く、いかめしい審査員でありながら、厚ぼったくなく、ものやわらかにすらりとしたのが、小丼のもずくのわきで、海を飛出し、銀に光る、かつおの皮づくりで、しずか猪口ちょくを傾けながら、
「おや、もう帰る。」信也氏が早急に席を出た時、つまのたで真青まっさおんで立ったのがその画伯であった。

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