突俯して、(ただ仰向けに倒れないばかり)であった―― で、背くぐみに両膝を抱いて、動悸を圧え、潰された蜘蛛のごとくビルジングの壁際に踞んだ処は、やすものの、探偵小説の挿画に似て、われながら、浅ましく、情ない。
「南無、身延様――三百六十三段。南無身延様、三百六十四段、南無身延様、三百六十五段……」 もう一息で、頂上の境内という処だから、団扇太鼓もだらりと下げて、音も立てず、千箇寺参りの五十男が、口で石段の数取りをしながら、顔色も青く喘ぎ喘ぎ上るのを――下山の間際に視たことがある。 思出す、あの……五十段ずつ七折ばかり、繋いで掛け、雲の桟に似た石段を――麓の旅籠屋で、かき玉の椀に、きざみ昆布のつくだ煮か、それはいい、あろう事か、朝酒を煽りつけた勢で、通しの夜汽車で、疲れたのを顧みず――時も八月、極暑に、矢声を掛けて駆昇った事がある。…… 呼吸が切れ、目が眩むと、あたかも三つ目と想う段の継目の、わずかに身を容るるばかりの石の上へ仰ぎ倒れた。胸は上の段、およそ百ばかりに高く波を打ち、足は下の段、およそ百ばかりに震えて重い。いまにも胴中から裂けそうで、串戯どころか、その時は、合掌に胸を緊めて、真蒼になって、日盛の蚯蚓でのびた。叔父の鉄枴ヶ峰ではない。身延山の石段の真中で目を瞑ろうとしたのである。 上へも、下へも、身動きが出来ない。一滴の露、水がなかった。 酒さえのまねば、そうもなるまい。故郷も家も、くるくると玉に廻って、生命の数珠が切れそうだった。が、三十分ばかり、静としていて辛うじて起った。――もっともその折は同伴があって、力をつけ、介抱した。手を取って助けるのに、縋って這うばかりにして、辛うじて頂上へ辿ることが出来た。立処に、無熱池の水は、白き蓮華となって、水盤にふき溢れた。 ――ああ、一口、水がほしい―― 実際、信也氏は、身延山の石段で倒れたと同じ気がした、と云うのである。 何より心細いのは、つれがない。樹の影、草の影もない。噛みたいほどの雨気を帯びた辻の風も、そよとも通わぬ。 ……その冷く快かった入口の、立看板の白く冴えて寂しいのも、再び見る、露に濡れた一叢の卯の花の水の栞をすると思うのも、いまは谷底のように遠く、深い。ここに、突当りに切組んで、二段ばかり目に映る階段を望んで次第に上層を思うと、峰のごとく遥に高い。 気が違わぬから、声を出して人は呼ばれず、たすけを、人を、水をあこがれ求むる、瞳ばかりったが、すぐ、それさえも茫となる。 その目に、ひらりと影が見えた。真向うに、矗立した壁面と、相接するその階段へ、上から、黒く落ちて、鳥影のように映った。が、羽音はしないで、すぐその影に薄りと色が染まって、婦の裾になり、白い蝙蝠ほどの足袋が出て、踏んだ草履の緒が青い。 翼に藍鼠の縞がある。大柄なこの怪しい鳥は、円髷が黒かった。 目鼻立ちのばらりとした、額のやや広く、鼻の隆いのが、……段の上からと、廊下からと、二ヶ処の電燈のせいか、その怪しい影を、やっぱり諸翼のごとく、両方の壁に映しながら、ふらりと来て、朦朧と映ったが、近づくと、こっちの息だか婦の肌の香だか、芬とにおって酒臭い。 「酔ってますね、ほほほ。」 蓮葉に笑った、婦の方から。――これが挨拶らしい。が、私が酔っています、か、お前さんは酔ってるね、だか分らない。 「やあ。」 と、渡りに船の譬喩も恥かしい。水に縁の切れた糸瓜が、物干の如露へ伸上るように身を起して、 「――御連中ですか、お師匠……」 と言った。 薄手のお太鼓だけれども、今時珍らしい黒繻子豆絞りの帯が弛んで、一枚小袖もずるりとした、はだかった胸もとを、きちりと紫の結目で、西行法師――いや、大宅光国という背負方をして、樫であろう、手馴れて研ぎのかかった白木の細い……所作、稽古の棒をついている。とりなりの乱れた容子が、長刀に使ったか、太刀か、刀か、舞台で立廻りをして、引込んで来たもののように見えた。 ところが、目皺を寄せ、頬を刻んで、妙に眩しそうな顔をして、 「おや、師匠とおいでなすったね、おとぼけでないよ。」 とのっけから、 「ちょいと旦那、この敷石の道の工合は、河岸じゃありませんね、五十間。しゃっぽの旦那は、金やろかいじゃあない……何だっけ……銭とるめんでしょう、その口から、お師匠さん、あれ、恥かしい。」 と片袖をわざと顔にあてて俯向いた、襟が白い、が白粉まだらで。…… 「……風体を、ごらんなさいよ。ピイと吹けば瞽女さあね。」 と仰向けに目をぐっと瞑り、口をひょっとこにゆがませると、所作の棒を杖にして、コトコトと床を鳴らし、めくら反りに胸を反らした。 「按摩かみしも三百もん――ひけ過ぎだよ。あいあい。」 あっと呆気に取られていると、 「鉄棒の音に目をさまし、」 じゃらんとついて、ぱっちりと目を開いた。が、わが信也氏を熟と見ると、 「おや、先生じゃありませんか、まあ、先生。」 「…………」 「それ……と、たしか松村さん。」 心当りはまるでない。 「松村です、松村は確かだけれど、あやふやな男ですがね、弱りました、弱ったとも弱りましたよ。いや、何とも。」 上脊があるから、下にしゃがんだ男を、覗くように傾いて、 「どうなさいました、まあ。」 「何の事はありません。」 鉄枴ヶ峰では分るまい…… 「身延山の石段で、行倒れになったようなんです。口も利けない始末ですがね、場所はどこです、どこにあります、あと何階あります、場所は、おさらいの会場は。」 「おさらい……おさらいなんかありませんわ。」 「ええ。」 ビルジングの三階から、ほうり出されたようである。 「しかし、師匠は。」 「あれさ、それだけはよして頂戴よ。ししょう……もようもない、ほほほ。こりゃ、これ、かみがたの口合や。」 と手の甲で唇をたたきながら、 「場末の……いまの、ルンならいいけど、足の生えた、ぱんぺんさ。先生、それも、お前さん、いささかどうでしょう、ぷんと来た処をふり売りの途中、下の辻で、木戸かしら、入口の看板を見ましてね、あれさ、お前さん、ご存じだ……」 という。が、お前さんにはいよいよ分らぬ。 「鶏卵と、玉子と、字にかくとおんなじというめくらだけれど、おさらいの看板ぐらいは形でわかりますからね、叱られやしないと多寡をくくって、ふらふらと入って来ましたがね。おさらいや、おおさえや、そんなものは三番叟だって、どこにも、やってやしませんのさ。」 「はあ。」 とばかり。 「お前さんも、おさらいにおいでなすったという処で見ると、満ざら、私も間違えたんじゃアありませんね。ことによったら、もう刎ねっちまったんじゃありませんか。」 さあ…… 「成程、で、その連中でないとすると、弱ったなあ。……失礼だが、まるっきりお見それ申したがね。」 「ええ、ええ、ごもっとも、お目に掛ったのは震災ずっと前でござんすもの。こっちは、商売、慾張ってますから、両三度だけれど覚えていますわ。お分りにならない筈……」 と無雑作な中腰で、廊下に、斜に向合った。 「吉原の小浜屋(引手茶屋)が、焼出されたあと、仲之町をよして、浜町で鳥料理をはじめました。それさ、お前さん、鶏卵と、玉子と同類の頃なんだよ。京千代さんの、鴾さんと、一座で、お前さんおいでなすった……」 「ああ、そう……」 夢のように思出した。つれだったという……京千代のお京さんは、もとその小浜屋に芸妓の娘分が三人あった、一番の年若で。もうその時分は、鴾の細君であった。鴾氏――画名は遠慮しよう、実の名は淳之助である。 (――つい、今しがた銀座で一所に飲んでいた――) この場合、うっかり口へ出そうなのを、ふと控えたのは、この婦が、見た処の容子だと、銀座へ押掛けようと言いかねまい。…… そこの腰掛では、現に、ならんで隣合った。画会では権威だと聞く、厳しい審査員でありながら、厚ぼったくなく、もの柔にすらりとしたのが、小丼のもずくの傍で、海を飛出し、銀に光る、鰹の皮づくりで、静に猪口を傾けながら、 「おや、もう帰る。」信也氏が早急に席を出た時、つまの蓼を真青に噛んで立ったのがその画伯であった。
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