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開扉一妖帖(かいひいちようちょう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/8/22 12:34:05 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 泉鏡花集成9
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1996(平成8)年6月24日
入力に使用: 1996(平成8)年6月24日第1刷
校正に使用: 1996(平成8)年6月24日第1刷

 

ただ仰向(あおむ)けに倒れなかったばかりだったそうである、松村信也(しんや)氏――こう真面目(まじめ)に名のったのでは、この話の模様だと、御当人少々極(きま)りが悪いかも知れない。信也氏は東――新聞、学芸部の記者である。
 何しろ……胸さきの苦しさに、ほとんど前後を忘じたが、あとで注意すると、環海ビルジング――帯暗白堊(はくあ)、五階建の、ちょうど、昇って三階目、空に聳(そび)えた滑かに巨大なる巌(いわお)を、みしと切組んだようで、芬(ぷん)と湿りを帯びた階段を、その上へなお攀上(よじのぼ)ろうとする廊下であった。いうまでもないが、このビルジングを、礎(いしずえ)から貫いた階子(はしご)の、さながら只中(ただなか)に当っていた。

 浅草寺観世音の仁王門、芝の三門など、あの真中(まんなか)を正面に切って通ると、怪異がある、魔が魅(さ)すと、言伝える。偶然だけれども、信也氏の場合は、重ねていうが、ビルジングの中心にぶつかった。
 また、それでなければ、行路病者のごとく、こんな壁際に踞(しゃが)みもしまい。……動悸(どうき)に波を打たし、ぐたりと手をつきそうになった時は、二河白道(にがびゃくどう)のそれではないが――石段は幻に白く浮いた、卍(まんじ)の馬の、片鐙(かたあぶみ)をはずして倒(さかさま)に落ちそうにさえ思われた。
 いや、どうもちっと大袈裟(おおげさ)だ。信也氏が作者に話したのを直接に聞いた時は、そんなにも思わなかった。が、ここに書きとると何だか誇張したもののように聞こえてよくない。もっとも読者諸賢に対して、作者は謹んで真面目である。処を、信也氏は実は酔っていた。
 宵から、銀座裏の、腰掛ではあるが、生灘(きなだ)をはかる、料理が安くて、庖丁の利く、小皿盛の店で、十二三人、気の置けない会合があって、狭い卓子(テエブル)を囲んだから、端から端へ杯が歌留多(かるた)のようにはずむにつけ、店の亭主が向顱巻(むこうはちまき)で気競(きそ)うから菊正宗の酔(えい)が一層烈(はげ)しい。
 ――松村さん、木戸まで急用――
 いけ年(どし)を仕(つかまつ)った、学芸記者が馴(な)れない軽口の逃(にげ)口上で、帽子を引浚(ひっさら)うと、すっとは出られぬ、ぎっしり詰合って飲んでいる、めいめいが席を開き、座を立って退口(のきぐち)を譲って通した。――「さ、出よう、遅い遅い。」悪くすると、同伴(つれ)に催促されるまで酔潰(よいつぶ)れかねないのが、うろ抜けになって出たのである。どうかしてるぜ、憑(つき)ものがしたようだ、怪我(けが)をしはしないか、と深切なのは、うしろを通して立ったまま見送ったそうである。
 が、開き直って、今晩は、環海ビルジングにおいて、そんじょその辺の芸妓(げいしゃ)連中、音曲のおさらいこれあり、頼まれました義理かたがた、ちょいと顔を見に参らねばなりませぬ。思切って、ぺろ兀(はげ)の爺(じい)さんが、肥(ふと)った若い妓(こ)にしなだれたのか、浅葱(あさぎ)の襟をしめつけて、雪駄(せった)をちゃらつかせた若いものでないと、この口上は――しかも会費こそは安いが、いずれも一家をなし、一芸に、携わる連中に――面と向っては言いかねる、こんな時に持出す親はなし、やけに女房が産気づいたと言えないこともないものを、臨機縦横の気働きのない学芸だから、中座の申訳に困り、熱燗(あつかん)に舌をやきつつ、飲む酒も、ぐッぐと咽喉(のど)へ支(つか)えさしていたのが、いちどきに、赫(かっ)となって、その横路地から、七彩の電燈の火山のごとき銀座の木戸口へ飛出した。
 たちまち群集の波に捲(ま)かれると、大橋の橋杭(はしぐい)に打衝(ぶッつか)るような円タクに、
「――環海ビルジング」

「――もう、ここかい――いや、御苦労でした――」
 おやおや、会場は近かった。土橋(どばし)寄りだ、と思うが、あの華やかな銀座の裏を返して、黒幕を落したように、バッタリ寂しい。……大きな建物ばかり、四方に聳立(しょうりつ)した中にこの仄白(ほのじろ)いのが、四角に暗夜(やみ)を抽(ぬ)いた、どの窓にも光は見えず、靄(もや)の曇りで陰々としている。――場所に間違いはなかろう――大温習会、日本橋連中、と門柱に立掛けた、字のほかは真白(まっしろ)な立看板を、白い電燈で照らしたのが、清く涼しいけれども、もの寂しい。四月の末だというのに、湿気(しっき)を含んだ夜風が、さらさらと辻惑(つじまど)いに吹迷って、卯(う)の花を乱すばかり、颯(さっ)と、その看板の面(おもて)を渡った。
 扉を押すと、反動でドンと閉ったあとは、もの音もしない。正面に、エレベエタアの鉄筋が……それも、いま思うと、灰色の魔の諸脚(もろあし)の真黒(まっくろ)な筋のごとく、二ヶ処に洞穴(ほらあな)をふんで、冷く、不気味に突立(つった)っていたのである。
 ――まさか、そんな事はあるまい、まだ十時だ――
 が、こうした事に、もの馴(な)れない、学芸部の了簡(りょうけん)では、会場にさし向う、すぐ目前、紅提灯(べにぢょうちん)に景気幕か、時節がら、藤、つつじ。百合、撫子(なでしこ)などの造花に、碧紫(あおむらさき)の電燈が燦然(さんぜん)と輝いて――いらっしゃい――受附でも出張(でば)っている事、と心得違いをしていたので。
 どうやら、これだと、見た処、会が済んだあとのように思われる。
 ――まさか、十時、まだ五分前だ――
 立っていても、エレベエタアは水に沈んだようで動くとも見えないから、とにかく、左へ石梯子(いしばしご)を昇りはじめた。元来慌てもののせっかちの癖に、かねて心臓が弱くて、ものの一町と駆出すことが出来ない。かつて、彼の叔父に、ある芸人があったが、六十七歳にして、若いものと一所に四国に遊んで、負けない気で、鉄枴(てっかい)ヶ峰へ押昇って、煩って、どっと寝た。
 聞いてさえ恐れをなすのに――ここも一種の鉄枴ヶ峰である。あまつさえ、目に爽(さわや)かな、敷波の松、白妙(しろたえ)の渚(なぎさ)どころか、一毛の青いものさえない。……草も木も影もない。まだ、それでも、一階、二階、はッはッ肩で息ながら上るうちには、芝居の桟敷裏(さじきうら)を折曲げて、縦に突立(つった)てたように――芸妓(げいしゃ)の温習(おさらい)にして見れば、――客の中(うち)なり、楽屋うちなり、裙模様(すそもよう)を着けた草、櫛(くし)さした木の葉の二枚三枚は、廊下へちらちらとこぼれて来よう。心だのみの、それが仇(あだ)で、人けがなさ過ぎると、虫も這(は)わぬ。
 心は轟(とどろ)く、脉(みゃく)は鳴る、酒の酔(えい)を円タクに蒸されて、汗ばんだのを、車を下りてから一度夜風にあたった。息もつかず、もうもうと四面(まわり)の壁の息(におい)を吸って昇るのが草いきれに包まれながら、性の知れない、魔ものの胴中(どうなか)を、くり抜きに、うろついている心地がするので、たださえ心臓の苦しいのが、悪酔に嘔気(はきけ)がついた。身悶(みもだ)えをすれば吐(つ)きそうだから、引返(ひっかえ)して階下(した)へ抜けるのさえむずかしい。

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