で、其方法も別に面倒な事は無い。立つ前に密り衣服などを取纒めて、幸ひ此村から盛岡の停車場に行つて驛夫をしてる千太郎といふ人があるから、馬車追の權作老爺に頼んで、豫じめ其千太郎の宅まで屆けて置く。そして、源助さんの立つ前日に、一晩泊で盛岡に行つて來ると言つて出て行つて、源助さんと盛岡から一緒に乘つて行く。汽車賃は三圓五十錢許りなさうだが、自分は郵便局へ十八圓許りも貯金してるから、それを引出せば何も心配がない。若し都合が惡いなら、お定の汽車賃も出すと言ふ。然しお定も、二三年前から田の畔に植ゑる豆を自分の私得に貰つてるので、それを賣つたのやら何やらで、矢張九圓近くも貯めてゐた。 東京に行けば、言ふまでもなく女中奉公をする考へなので、それが奈何に辛くとも野良稼ぎに比べたら、朝飯前の事ぢやないかとお八重が言つた。日本一の東京を見て、食はして貰つた上に月四圓。此村あたりの娘にはこれ程好い話はない。二人は、白粉やら油やら元結やら、月々の入費を勘定して見たが、それは奈何に諸式の高い所にしても、月に一圓とは要らなかつた。毎月三圓宛殘して年に三十六圓、三年辛抱すれば百圓の餘にもなる、歸りに半分だけ衣服や土産を買つて來ても、五十圓の正金が持つて歸られる。 『末藏が家でや、唯四十圓で家屋敷白井樣に取上げられでねえすか。』とお八重が言つた。 『雖然なす、お八重さん、源助さん眞に伴れてつて呉えべすか?』とお定は心配相に訊く。 『伴れて行くともす。今朝誰も居ねえ時聞いて見たば、伴れてつても可えつて居たもの。』 『雖然、あの人だつて、お前達の親達さ、申譯なくなるべす。』 『それでなす、先方ア着いてから、一緒に行つた樣でなく、後から追驅けて來たで、當分東京さ置ぐからつて手紙寄越す筈にしたものす。』 『あの人だばさ、眞に世話して呉える人にや人だども。』 此時、懐手してぶらりと裏口から出て來た源助の姿が、小屋の入口から見えたので、お八重は手招ぎしてそれを呼び入れた。源助はニタリ相好を崩して笑ひ乍ら、入口に立ち塞つたが、 『まだ、日が暮れねえのに情夫の話ぢや、天井の鼠が笑ひますぜ。』 お八重は手を擧げて其高聲を制した。『あの源助さん、今朝の話ア眞實でごあんすよ。』 源助は一寸眞面目な顏をしたが、また直ぐ笑ひを含んで、『、好し/\、此老爺さんが引受けたら間違ツこはねえが、何だな、お定さんも謀叛の一味に加つたな?』 『謀叛だど、まあ!』とお定は目を大きくした。 『だがねお八重さん、お定さんもだ、まあ熟く考へてみる事たね。俺は奈何でも構はねえが、彼方へ行つてから後悔でもする樣ぢや、貴女方自分の事たからね。汽車の中で乳飮みたくなつたと言つて、泣出されでもしちや、大變な事になるから喃。』 『誰ア其に……。』とお八重は肩を聳かした。 『まあさ。然う直ぐ怒らねえでも可いさ。』 と源助さんはまたしても笑つて、『一度東京へ行きや、もう恁所にや一生歸つて來る氣になりませんぜ。』 お八重は「歸つて來なくつても可い。」と思つた。お定は「歸つて來られぬ事があるものか。」と思つた。 程なく四邊がもう薄暗くなつて行くのに氣が附いて、二人は其處を出た。此時までお定は、まだ行くとも行かぬとも言はなかつたが、兎も角も明日決然した返事をすると言つて置いて、も一人お末といふ娘にも勸めようと言ふお八重の言葉には、お末の家が寡人だから勸めぬ方が可いと言ひ、此話は二人限の事にすると堅く約束して別れた。そして、表道を歩くのが怎やら氣が咎める樣で、裏路傳ひに家へ歸つた。明日返事をするとは言つたものゝ、お定はもう心の底では確然と行く事に決つてゐたので。 家に歸ると、母は勝手に手ランプを點けて、夕餉の準備に急はしく立働いてゐた。お定は馬に乾秣を刻つて鹽水に掻して與つて、一擔ぎ水を汲んで來てから夕餉の膳に坐つたが、無暗に氣がそはそはしてゐて、麥八分の飯を二膳とは喰べなかつた。 お定の家は村でも兎に角食ふに困らぬ程の農家で、借財と云つては一文もなく、多くはないが田も畑も自分の所有、馬も青と栗毛と二頭飼つてゐた。兩親はまだ四十前の働者、母は眞の好人物で、吾兒にさへも強い語一つ掛けぬといふ性、父は又父で、村には珍しく酒も左程嗜まず、定次郎の實直といへば白井樣でも大事の用には特に選り上げて使ふ位で、力自慢に若者を怒らせるだけが惡い癖だと、老人達が言つてゐた。祖父も祖母も四五年前に死んで、お定を頭に男兒二人、家族といつては其丈で、長男の定吉は、年こそまだ十七であるけれども、身體から働振から、もう立派に一人前の若者である。 お定は今年十九であつた。七八年も前までは、十九にもなつて獨身でゐると、餘され者だと言つて人に笑はれたものであるが、此頃では此村でも十五六の嫁といふものは滅多になく、大抵は十八十九、隣家の松太郎の姉などは二十一になつて未だ何處にも縁づかずにゐる。お定は打見には一歳も二歳も若く見える方で、背恰好の乎としたさまは、農家の娘に珍らしい位、丸顏に黒味勝の眼が大きく、鼻は高くないが笑窪が深い。美しい顏立ではないけれど、愛嬌に富んで、色が白く、漆の樣な髮の生際の揃つた具合に、得も言へぬ艶かしさが見える。稚い時から極く穩しい性質で、人に抗ふといふ事が一度もなく、口惜しい時には物蔭に隱れて泣くぐらゐなもの、年頃になつてからは、村で一番老人達の氣に入つてるのが此お定で、「お定ツ子は穩しくて可え喃。」と言はれる度、今も昔も顏を染めては、「俺知らねえす。」と人の後に隱れる。 小學校での成績は、同じ級のお八重よりは遙と劣つてゐたさうだが、唯一つ得意なのは唱歌で、其爲に女教員からは一番可愛がられた。お八重は此反對に、今は他に縁づいた異腹の姉と一緒に育つた所爲か、負嫌ひの、我の強い兒で、娘盛りになつてからは、手もつけられぬ阿婆摺れになつた。顏も亦評判娘のお澄といふのが一昨年赤痢で亡くなつてから、村で右に出る者がないので、目尻に少し險しい皺があるけれど、面長のキリヽとした輪廓が田舍に惜しい。此反對な二人の莫迦に親密なのは、他の娘共から常に怪まれてゐた位で、また半分は嫉妬氣味から、「那阿婆摺と一緒にならねえ方が可えす。」と、態々お定に忠告する者もあつた。 お定が其夜枕についてから、一つには今日何にも働かなかつた爲か、怎しても眠れなくて、三時間許りも物思ひに耽つた。眞黒に煤けた板戸一枚の彼方から、安々と眠つた母の寢息を聞いては、此母、此家を捨てゝ、何として東京などへ行かれようと、すぐ涙が流れる。と、其涙の乾かぬうちに、東京へ行つたら源助さんに書いて貰つて、手紙だけは怠らず寄越す事にしようと考へる。すると、すぐ又三年後の事が頭に浮ぶ。立派な服裝をして、絹張の傘を持つて、金を五十圓も貯めて來たら、兩親だつて喜ばぬ筈がない。嗚呼其時になつたら、お八重さんは甚に美しく見えるだらうと思ふと、其お八重の、今日目を輝かして熱心に語つた美しい顏が、怎やら嫉ましくもなる。此夜のお定の胸に、最も深く刻まれてるのは、實に其お八重の顏であつた。怎してお八重一人だけ東京にやられよう! それからお定は、小學校に宿直してゐた藤田といふ若い教員の事を思出すと、何時になく激しく情が動いて、私が之程思つてるのにと思ふと、熱かい涙が又しても枕を濡らした。これはお定の片思ひなので、否、實際はまだ思ふといふ程思つてるでもなく、藤田が四月に轉任して來て以來、唯途で逢つて叩頭するのが嬉しかつた位で、遂十日許り前、朝草刈の歸りに、背負うた千草の中に、桔梗や女郎花が交つてゐたのを、村端で散歩してゐた藤田に二三本呉れぬかと言はれた、その時初めて言葉を交したに過ぎぬ。その翌朝からは、毎朝咲殘りの秋の花を一束宛、別に手に持つて來るけれども、藤田に逢ふ機會がなかつた。あの先生さへ優しくして呉れたら、何も私は東京などへ行きもしないのに、と考へても見たが、又、今の身分ぢや兎ても先生のお細君さんなどに成れぬから、矢張三年行つて來るのが第一だとも考へる。
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