石川啄木作品集 第二巻 |
昭和出版社 |
1970(昭和45)年11月20日 |
1970(昭和45)年11月20日発行 |
1972(昭和47)年6月20日発行 |
一
理髮師の源助さんが四年振で來たといふ噂が、何か重大な事件でも起つた樣に、口から口に傳へられて、其午後のうちに村中に響き渡つた。 村といつても狹いもの。盛岡から青森へ、北上川に縺れて逶と北に走つた、坦々たる其一等道路(と村人が呼ぶ)の、五六町並木の松が斷絶えて、兩側から傾き合つた茅葺勝の家並の數が、唯九十何戸しか無いのである。村役場と駐在所が中央程に向合つてゐて、役場の隣が作右衞門店、萬荒物から酢醤油石油莨、罎詰の酒もあれば、前掛半襟にする布帛もある。箸で斷れぬ程堅い豆腐も賣る。其隣の郵便局には、此村に唯一つの軒燈がついてるけれども、毎晩點火る譯ではない。 お定がまだ少かつた頃は、此村に理髮店といふものが無かつた。村の人達が其頃、頭の始末を奈何してゐたものか、今になつて考へると、隨分不便な思をしたものであらう。それが、九歳か十歳の時、大地主の白井樣が盛岡から理髮師を一人お呼びなさるといふ噂が恰も今度源助さんが四年振で來たといふ噂の如く、異樣な驚愕を以て村中に傳つた。間もなく、とある空地に梨箱の樣な小さい家が一軒建てられて、其家が漸々壁塗を濟ませた許りの處へ、三十恰好の、背の低い、色の黒い理髮師が遣つて來た。頗るの淡白者で、上方辯の滑かな、話巧者の、何日見てもお愛想が好いところから、間もなく村中の人の氣に入つて了つた。それが即ち源助さんであつた。 源助さんには、お内儀さんもあれば息子もあるといふ事であつたが、來たのは自分一人。愈々開業となつてからは、其店の大きい姿見が、村中の子供等の好奇心を刺戟したもので、お定もよく同年輩の遊び仲間と一緒に行つて、見た事もない白い瀬戸の把手を上に捻り下に捻り、辛と少許入口の扉を開けては、種々な道具の整然と列べられた室の中を覗いたものだ。少し開けた扉が、誰の力ともなく、何時の間にか身體の通るだけ開くと、田舍の子供といふものは因循なもので、盜みでもする樣に怖な怯り、二寸三寸と物も言はず中に入つて行つて、交代に其姿見を覗く。訝な事には、少し離れて寫すと、顏が長くなつたり、扁くなつたり、目も鼻も歪んで見えるのであつたが、お定は幼心に、これは鏡が餘り大き過ぎるからだと考へてゐたものだ。 月に三度の一の日を除いては、(此日には源助さんが白井樣へ上つて、お家中の人の髮を刈つたり顔を剃つたりするので、)大抵村の人が三人四人、源助さんの許で莨を喫しながら世間話をしてゐぬ事はなかつた。一年程經つてから、白井樣の番頭を勤めてゐた人の息子で、薄野呂なところからノロ勘と綽名された、十六の勘之助といふのが、源助さんに弟子入をした。それからといふものは、今迄近づき兼ねてゐた子供等まで、理髮店の店を遊場にして、暇な時にはよく太閤記や、義經や蒸汽船や加藤清正の譚を聞かして貰つたものだ。源助さんが居ない時には、ノロ勘が錢函から銅貨を盜み出して、子供等に餡麺麭を振舞ふ事もあつた。振舞ふといつても、其實半分以上はノロ勘自身の口に入るので。 源助さんは村中での面白い人として、衆人に調法がられたものである。春秋の彼岸にはお寺よりも此人の家の方が、餅を澤山貰ふといふ事で、其代り又、何處の婚禮にも葬式にも、此人の招ばれて行かぬ事はなかつた。源助さんは、啻に話巧者で愛想が好い許りでなく、葬式に行けば青や赤や金の紙で花を拵へて呉れるし、婚禮の時は村の人の誰も知らぬ「高砂」の謠をやる、加之何事にも器用な人で、割烹の心得もあれば、植木弄りも好き、義太夫と接木が巧者で、或時は白井樣の子供衆のために大奉八枚張の大紙鳶を拵へた事もあつた。其處此處の夫婦喧嘩や親子喧嘩に仲裁を怠らなかつたは無論の事。 左う右うしてるうちに、お定は小学校も尋常科だけ卒へて、子守をしてる間に赤い袖口が好になり、髮の油に汚れた手拭を獨自に洗つて冠る樣になつた。土土用が過ぎて、肥料つけの馬の手綱を執る樣になると、もう自づと男羞しい少女心が萠して來て、盆の踊に夜を明すのが何より樂しい。隨つて、ノロ勘の朋輩の若衆が、無駄口を戰はしてゐる理髮師の店にも、おのづと見舞ふ事が稀になつたが、其頃の事、源助さんの息子さんだといふ親に似ぬ色白の、背のすらりとした若い男が、三月許りも來てゐた事があつた。 お定が十五(?)の年、も少しで盆が來るといふ暑氣盛りの、踊に着る浴衣やら何やらの心構へで、娘共にとつては一時も氣の落着く暇がない頃であつた。源助さんは、郷里(と言つても、唯上方と許りしか知らなかつたが、)にゐる父親が死んだとかで、俄かに荷造をして、それでも暇乞だけは家毎にして、家毎から御餞別を貰つて、飼馴した籠の鳥でも逃げるかの樣に村中から惜まれて、自分でも甚く殘惜しさうにして、二三日の中にフイと立つて了つた。立つ時は、お定も人々と共に、一里許りのステーションまで見送つたのであつたが、其歸途、とある路傍の田に、稻の穗が五六本出初めてゐたのを見て、せめて初米の餅でも搗くまで居れば可いのにと、誰やらが呟いた事を、今でも夢の樣に記憶えて居る。 何しろ極く狹い田舍なので、それに足下から鳥が飛立つ樣な別れ方であつたから、源助一人の立つた後は、祭禮の翌日か、男許りの田植の樣で、何としても物足らぬ。閑人の誰彼は、所在無げな顏をして呆然と門口に立つゐた。一月許りは、寄ると障ると行つた人の話で、立つ時は白井樣で二十圓呉れたさうだし、村中からの御餞別を合せると、五十圓位集つたらうと、羨ましさうに計算する者もあつた。それ許りぢやない、源助さんは此五六年に、百八十兩もおツ貯めたげなと、知つたか振をする爺もあつた。が、此源助が、白井樣の分家の、四六時中リユウマチで寢てゐる奧樣に、或る特別の慇懃[#ルビの「いんぎん」は底本では「いんじん」]を通じて居た事は、誰一人知る者がなかつた。 二十日許りも過ぎてからだつたらうか、源助の禮状の葉書が、三十枚も一度に此村に舞込んだ。それが又、それ相應に一々文句が違つてると云ふので、人々は今更の樣に事々しく、渠の萬事に才がつて、器用であつた事を語り合つた。其後も、月に一度、三月に二度と、一年半程の間は、誰へとも限らず、源助の音信があつたものだ。 理髮店の店は、其頃兎や角一人前になつたノロ勘が讓られたので、唯一軒しか無い僥倖には、其間が抜けた無駄口に華客を減らす事もなく、かの凸凹の大きな姿見が、今猶人の顏を長く見せたり、扁く見せたりしてゐる。 其源助さんが四年振で、突然遣つて來たといふのだから、もう殆ど忘れて了つてゐた村の人達が、男といはず女といはず、腰の曲つた老人や子供等まで、異樣に驚いて目をつたのも無理はない。
二
それは盆が過ぎて二十日と經たぬ頃の事であつた。午中三時間許りの間は、夏の最中にも劣らぬ暑氣で、澄みきつた空からは習との風も吹いて來ず、素足の娘共は、日に燒けた礫の熱いのを避けて、軒下の土の濕りを歩くのであるが、裏畑の梨の樹の下に落ちて死ぬ蝉の數と共に、秋の香が段々深くなつて行く。日出前の水汲に素袷の襟元寒く、夜は村を埋めて了ふ程の蟲の聲。田といふ田には稻の穗が、琥珀色に寄せつ返しつ波打つてゐたが、然し、今年は例年よりも作が遙と劣つてゐると人々が呟しあつてゐた。 春から、夏から、待ちに待つた陰暦の盂蘭盆が來ると、村は若い男と若い女の村になる。三晩續けて徹夜に踊つても、猶踊り足らなくて、雨でも降れば格別、大抵二十日盆が過ぎるまでは、太鼓の音に村中の老人達が寢つかれぬと口説く。それが濟めば、苟くも病人不具者でない限り、男といふ男は一同泊掛で東嶽に萩刈に行くので、娘共の心が譯もなくがつかりして、一年中の無聊を感ずるのは此時である。それも例年ならば、收穫後の嫁取婿取の噂に、嫉妬交りの話の種は盡きぬのであるけれども、今年の樣に作が惡くては、田畑が生命の百姓村の悲さに、これぞと氣の立つ話もない。其處へ源助さんが來た。 突然四年振で來たといふ噂に驚いた人達は、更に其源助さんの服裝の立派なのに二度驚かされて了つた。萬の知識の單純な人達には何色とも呼びかねる、茶がかつた灰色の中折帽は、此村では村長樣とお醫者樣と、白井の若旦那の外冠る人がない。繪甲斐絹の裏をつけた羽織も、袷も、縞ではあるが絹布物で、角帶も立派、時計も立派、中にもお定の目を聳たしめたのは、づしりと重い總革の旅行鞄であつた。 宿にしたのは、以前一番懇意にした大工の兼さんの家であつたが、其夜は誰彼の區別なく其家を見舞つたので、奧の六疊間に三分心の洋燈は暗かつたが、入交り立交りるす人の數は少くなく、潮の樣な蟲の音も聞えぬ程、賑かな話聲が、十一時過ぐるまでも戸外に洩れた。娘共は流石に、中には入りかねて、三四人店先に腰掛けてゐたが、其家の總領娘のお八重といふのが、座敷から時々出て來て、源助さんの話を低聲に取次した。 源助さんは、もう四十位になつてゐるし、それに服裝の立派なのが一際品格を上げて、擧動から話振から、昔より遙かに容體づいてゐた。隨つて、其昔「お前」とか「其方」とか呼び慣してゐた村の人達も、期せずして皆「お前樣」と呼んだ。其夜の話では、源助は今度函館にゐる伯父が死んだのへ行つて來たので、汽車の歸途の路すがら、奈何しても通抜が出來なかつたから、突然ではあつたが、なつかしい此村を訪問したと云ふ事、今では東京に理髮店を開いてゐて、熟練な職人を四人も使つてるが、それでも手が足りぬ程忙がしいといふ事であつた。 此話が又、響を打つて直ぐに村中に傳はつた。 理髮師といへば、餘り上等な職業でない事は村の人達も知つてゐる。然し東京の理髮師と云へば、怎やら少し意味が別なので、銀座通の寫眞でも見た事のある人は、早速源助さんの家の立派な事を想像した。 翌日は、各々自分の家に訪ねて來るものと思つて、氣早の老人などは、花茣蓙を押入から出して爐邊に布いて、澁茶を一掴み隣家から貰つて來た。が、源助さんは其日朝から白井樣へ上つて、夕方まで出て來なかつた。 其晩から、かの立派な鞄から出した、手拭やら半襟やらを持つて、源助さんは殆ど家毎に訪ねて歩いた。 お定の家へ來たのは、三日目の晩で、晝には野良に出て皆留守だらうと思つたから、態々後しにして夜に訪ねたとの事であつた。そして、二時間許りも麥煎餅を噛りながら、東京の繁華な話を聞かせて行つた。銀座通りの賑ひ、淺草の水族館、日比谷の公園、西郷の銅像、電車、自動車、宮樣のお葬式、話は皆想像もつかぬ事許りなので、聞く人は唯もう目をつて、夜も晝もなく渦卷く火炎に包まれた樣な、凄じい程な華やかさを漠然と頭腦に描いて見るに過ぎなかつたが、淺草の觀音樣に鳩がゐると聞いた時、お定は其所にも鳥なぞがゐるか知らと、異樣に感じた。そして、其所から此人はまあ、怎して此處まで來たのだらうと、源助さんの得意氣な顏を打瞶つたのだ。それから源助さんは、東京は男にや職業が一寸見附り惡いけれど、女なら幾何でも口がある。女中奉公しても月に賄附で四圓貰へるから、お定さんも一二年行つて見ないかと言つたが、お定は唯俯いて微笑んだのみであつた。怎して私などが東京へ行かれよう、と胸の中で呟やいたのである。そして、今日隣家の松太郎といふ若者が、源助さんと一緒に東京に行きたいと言つた事を思出して、男ならばだけれども、と考へてゐた。
三
翌日は、例の樣に水を汲んで來てから、朝草刈に行かうとしてると、秋の雨がしと/\降り出して來た。厩には未だ二日分許り秣があつたので、隣家の松太郎の姉に誘はれたけれども、父爺が行かなくても可いと言つた。仕樣事なさに、一日門口へ立つて見たり、中へ入つて見たりしてゐたが、蛇の目傘をさした源助さんの姿が、時々彼方此方に見えた。禿頭の忠太爺と共に、お定の家の前を通つた事もあつた。其時、お定は何故といふ事もなく家の中へ隱れた。 一日降つた肅やかな雨が、夕方近くなつて霽つた。と穢らしい子供等が家々から出て來て、馬糞交りの泥濘を、素足で捏ね返して、學校で習つた唱歌やら流行歌やらを歌ひ乍ら、他愛もなく騷いでゐる。 お定は呆然と門口に立つて、見るともなく其を見てゐると、大工の家のお八重の小さな妹が驅けて來て、一寸來て呉れといふ姉の傳言を傳へた。 また曩日の樣に、今夜何處かに酒宴でもあるのかと考へて、お定は愼しやかに水潦を避けながら、大工の家へ行つた。お八重は欣々と迎へたが、何か四邊を憚る樣子で、密と裏口へ伴れて出た。 『何處さ行げや?』と大工の妻は爐邊から聲をかけたが、お八重は後も振向かずに、 『裏さ。』と答へた儘。戸を開けると、が三羽、こツこツといひながら入つた。 二人は、裏畑の中の材木小屋に入つて、積み重ねた角材に凭れ乍ら、雨に濕つた新しい木の香を嗅いで、小一時間許りも密々語つてゐた。 お八重の話は、お定にとつて少しも思設けぬ事であつた。 『お定さん。お前も聞いたべす、源助さんから昨晩、東京の話を。』 『聞いたす。』と穩かに言つて、お八重の顏を打瞶つたが、何故か「東京」の語一つだけで、胸が遽かに動悸がして來る樣な氣がした。 稍あつて、お八重は、源助さんと一緒に東京に行かぬかと言ひ出した。お定にとつては、無論思設けぬ相談ではあつたが、然し、盆過のがつかりした心に源助を見た娘には、必ずしも全然縁のない話でもない。切りなしに騷ぎ出す胸に、兩手を重ねながら、お定は大きい目をつて、言葉少なにお八重の言ふ所を聞いた。 お八重は、もう自分一人は確然と決心してる樣な口吻で、聲は低いが、眼が若々しくも輝く。親に言へば無論容易に許さるべき事でないから、默つて行くと言ふ事で、請賣の東京の話を長々とした後、怎せ生れたからには恁田舍に許り居た所で詰らぬから、一度東京も見ようぢやないか。「若い時ア二度無い」といふ流行唄の文句まで引いて、熱心にお定の決心を促すのであつた。
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