(五)
よくこれほどあるもんだと思わせた長雨も一カ月ほど降り続いて漸く晴れた。一足飛びに夏が来た。何時の間に花が咲いて散ったのか、天気になって見ると林の間にある山桜も、辛夷も青々とした広葉になっていた。蒸風呂のような気持ちの悪い暑さが襲って来て、畑の中の雑草は作物を乗りこえて葎のように延びた。雨のため傷められたに相異ないと、長雨のただ一つの功徳に農夫らのいい合った昆虫も、すさまじい勢で発生した。甘藍のまわりにはえぞしろちょうが夥しく飛び廻った。大豆にはくちかきむしの成虫がうざうざするほど集まった。麦類には黒穂の、馬鈴薯にはべと病の徴候が見えた。虻と蚋とは自然の斥候のようにもやもやと飛び廻った。濡れたままに積重ねておいた汚れ物をかけわたした小屋の中からは、あらん限りの農夫の家族が武具を持って畑に出た。自然に歯向う必死な争闘の幕は開かれた。 鼻歌も歌わずに、汗を肥料のように畑の土に滴らしながら、農夫は腰を二つに折って地面に噛り付いた。耕馬は首を下げられるだけ下げて、乾き切らない土の中に脚を深く踏みこみながら、絶えず尻尾で虻を追った。しゅっと音をたてて襲って来る毛の束にしたたか打れた虻は、血を吸って丸くなったまま、馬の腹からぽとりと地に落ちた。仰向けになって鋼線のような脚を伸したり縮めたりして藻掻く様は命の薄れるもののように見えた。暫くするとしかしそれはまた器用に翅を使って起きかえった。そしてよろよろと草の葉裏に這いよった。そして十四、五分の後にはまた翅をはってうなりを立てながら、眼を射るような日の光の中に勇ましく飛び立って行った。 夏物が皆無作というほどの不出来であるのに、亜麻だけは平年作位にはまわった。青天鵞絨の海となり、瑠璃色の絨氈となり、荒くれた自然の中の姫君なる亜麻の畑はやがて小紋のような果をその繊細な茎の先きに結んで美しい狐色に変った。 「こんなに亜麻をつけては仕様がねえでねえか。畑が枯れて跡地には何んだって出来はしねえぞ。困るな」 ある時帳場が見廻って来て、仁右衛門にこういった。 「俺らがも困るだ。汝れが困ると俺らが困るとは困りようが土台ちがわい。口が干上るんだあぞ俺がのは」 仁右衛門は突慳貪にこういい放った。彼れの前にあるおきては先ず食う事だった。 彼れはある日亜麻の束を見上げるように馬力に積み上げて倶知安の製線所に出かけた。製線所では割合に斤目をよく買ってくれたばかりでなく、他の地方が不作なために結実がなかったので、亜麻種を非常な高値で引取る約束をしてくれた。仁右衛門の懐の中には手取り百円の金が暖くしまわれた。彼れは畑にまだしこたま残っている亜麻の事を考えた。彼れは居酒屋に這入った。そこにはK村では見られないような綺麗な顔をした女もいた。仁右衛門の酒は必ずしも彼れをきまった型には酔わせなかった。或る時は彼れを怒りっぽく、或る時は悒鬱に、或る時は乱暴に、或る時は機嫌よくした。その日の酒は勿論彼れを上機嫌にした。一緒に飲んでいるものが利害関係のないのも彼れには心置きがなかった。彼れは酔うままに大きな声で戯談口をきいた。そういう時の彼れは大きな愚かな子供だった。居合せたものはつり込まれて彼れの周囲に集った。女まで引張られるままに彼れの膝に倚りかかって、彼れの頬ずりを無邪気に受けた。 「汝がの頬に俺が髭こ生えたらおかしかんべなし」 彼れはそんな事をいった。重いその口からこれだけの戯談が出ると女なぞは腹をかかえて笑った。陽がかげる頃に彼れは居酒屋を出て反物屋によって華手なモスリンの端切れを買った。またビールの小瓶を三本と油糟とを馬車に積んだ。倶知安からK村に通う国道はマッカリヌプリの山裾の椴松帯の間を縫っていた。彼れは馬力の上に安座をかいて瓶から口うつしにビールを煽りながら濁歌をこだまにひびかせて行った。幾抱えもある椴松は羊歯の中から真直に天を突いて、僅かに覗かれる空には昼月が少し光って見え隠れに眺められた。彼れは遂に馬力の上に酔い倒れた。物慣れた馬は凸凹の山道を上手に拾いながら歩いて行った。馬車はかしいだり跳ねたりした。その中で彼れは快い夢に入ったり、面白い現に出たりした。 仁右衛門はふと熟睡から破られて眼をさました。その眼にはすぐ川森爺さんの真面目くさった一徹な顔が写った。仁右衛門の軽い気分にはその顔が如何にもおかしかったので、彼れは起き上りながら声を立てて笑おうとした。そして自分が馬力の上にいて自分の小屋の前に来ている事に気がついた。小屋の前には帳場も佐藤も組長の某もいた。それはこの小屋の前では見慣れない光景だった。川森は仁右衛門が眼を覚ましたのを見ると、 「早う内さ行くべし。汝が嬰子はおっ死ぬべえぞ。赤痢さとッつかれただ」 といった。他愛のない夢から一足飛びにこの恐ろしい現実に呼びさまされた彼れの心は、最初に彼れの顔を高笑いにくずそうとしたが、すぐ次ぎの瞬間に、彼れの顔の筋肉を一度気にひきしめてしまった。彼れは顔中の血が一時に頭の中に飛び退いたように思った。仁右衛門は酔いが一時に醒めてしまって馬力から飛び下りた。小屋の中にはまだ二、三人人がいた。妻はと見ると虫の息に弱った赤坊の側に蹲っておいおい泣いていた。笠井が例の古鞄を膝に引つけてその中から護符のようなものを取出していた。 「お、広岡さんええ所に帰ったぞな」 笠井が逸早く仁右衛門を見付けてこういうと、仁右衛門の妻は恐れるように怨むように訴えるように夫を見返って、黙ったまま泣き出した。仁右衛門はすぐ赤坊の所に行って見た。章魚のような大きな頭だけが彼れの赤坊らしい唯一つのものだった。たった半日の中にこうも変るかと疑われるまでにその小さな物は衰え細っていた。仁右衛門はそれを見ると腹が立つほど淋しく心許なくなった。今まで経験した事のないなつかしさ可愛さが焼くように心に逼って来た。彼れは持った事のないものを強いて押付けられたように当惑してしまった。その押付けられたものは恐ろしく重い冷たいものだった。何よりも先ず彼れは腹の力の抜けて行くような心持ちをいまいましく思ったがどうしようもなかった。 勿体ぶって笠井が護符を押いただき、それで赤坊の腹部を呪文を称えながら撫で廻わすのが唯一の力に思われた。傍にいる人たちも奇蹟の現われるのを待つように笠井のする事を見守っていた。赤坊は力のない哀れな声で泣きつづけた。仁右衛門は腸をむしられるようだった。それでも泣いている間はまだよかった。赤坊が泣きやんで大きな眼を引つらしたまま瞬きもしなくなると、仁右衛門はおぞましくも拝むような眼で笠井を見守った。小屋の中は人いきれで蒸すように暑かった。笠井の禿上った額からは汗の玉がたらたらと流れ出た。それが仁右衛門には尊くさえ見えた。小半時赤坊の腹を撫で廻わすと、笠井はまた古鞄の中から紙包を出して押いただいた。そして口に手拭を喰わえてそれを開くと、一寸四方ほどな何か字の書いてある紙片を摘み出して指の先きで丸めた。水を持って来さしてそれをその中へ浸した。仁右衛門はそれを赤坊に飲ませろとさし出されたが、飲ませるだけの勇気もなかった。妻は甲斐甲斐しく良人に代った。渇き切っていた赤坊は喜んでそれを飲んだ。仁右衛門は有難いと思っていた。 「わしも子は亡くした覚えがあるで、お主の心持ちはようわかる。この子を助けようと思ったら何せ一心に天理王様に頼まっしゃれ。な。合点か。人間業では及ばぬ事じゃでな」 笠井はそういってしたり顔をした。仁右衛門の妻は泣きながら手を合せた。 赤坊は続けさまに血を下した。そして小屋の中が真暗になった日のくれぐれに、何物にか助けを求める成人のような表情を眼に現わして、あてどもなくそこらを見廻していたが、次第次第に息が絶えてしまった。 赤坊が死んでから村医は巡査に伴れられて漸くやって来た。香奠代りの紙包を持って帳場も来た。提灯という見慣れないものが小屋の中を出たり這入ったりした。仁右衛門夫婦の嗅ぎつけない石炭酸の香は二人を小屋から追出してしまった。二人は川森に付添われて西に廻った月の光の下にしょんぼり立った。 世話に来た人たちは一人去り二人去り、やがて川森も笠井も去ってしまった。 水を打ったような夜の涼しさと静かさとの中にかすかな虫の音がしていた。仁右衛門は何という事なしに妻が癪にさわってたまらなかった。妻はまた何という事なしに良人が憎まれてならなかった。妻は馬力の傍にうずくまり、仁右衛門はあてもなく唾を吐き散らしながら小屋の前を行ったり帰ったりした。よその農家でこの凶事があったら少くとも隣近所から二、三人の者が寄り合って、買って出した酒でも飲みちらしながら、何かと話でもして夜を更かすのだろう。仁右衛門の所では川森さえ居残っていないのだ。妻はそれを心から淋しく思ってしくしくと泣いていた。物の三時間も二人はそうしたままで何もせずにぼんやり小屋の前で月の光にあわれな姿をさらしていた。 やがて仁右衛門は何を思い出したのかのそのそと小屋の中に這入って行った。妻は眼に角を立てて首だけ後ろに廻わして洞穴のような小屋の入口を見返った。暫らくすると仁右衛門は赤坊を背負って、一丁の鍬を右手に提げて小屋から出て来た。 「ついて来う」 そういって彼れはすたすたと国道の方に出て行った。簡単な啼声で動物と動物とが互を理解し合うように、妻は仁右衛門のしようとする事が呑み込めたらしく、のっそりと立上ってその跡に随った。そしてめそめそと泣き続けていた。 夫婦が行き着いたのは国道を十町も倶知安の方に来た左手の岡の上にある村の共同墓地だった。そこの上からは松川農場を一面に見渡して、ルベシベ、ニセコアンの連山も川向いの昆布岳も手に取るようだった。夏の夜の透明な空気は青み亘って、月の光が燐のように凡ての光るものの上に宿っていた。蚊の群がわんわんうなって二人に襲いかかった。 仁右衛門は死体を背負ったまま、小さな墓標や石塔の立列った間の空地に穴を掘りだした。鍬の土に喰い込む音だけが景色に少しも調和しない鈍い音を立てた。妻はしゃがんだままで時々頬に来る蚊をたたき殺しながら泣いていた。三尺ほどの穴を掘り終ると仁右衛門は鍬の手を休めて額の汗を手の甲で押拭った。夏の夜は静かだった。その時突然恐ろしい考が彼れの吐胸を突いて浮んだ。彼れはその考に自分ながら驚いたように呆れて眼を見張っていたが、やがて大声を立てて頑童の如く泣きおめき始めた。その声は醜く物凄かった。妻はきょっとんとして、顔中を涙にしながら恐ろしげに良人を見守った。 「笠井の四国猿めが、嬰子事殺しただ。殺しただあ」 彼れは醜い泣声の中からそう叫んだ。 翌日彼れはまた亜麻の束を馬力に積もうとした。そこには華手なモスリンの端切れが乱雲の中に現われた虹のようにしっとり朝露にしめったまま穢ない馬力の上にしまい忘られていた。
(六)
狂暴な仁右衛門は赤坊を亡くしてから手がつけられないほど狂暴になった。その狂暴を募らせるように烈しい盛夏が来た。春先きの長雨を償うように雨は一滴も降らなかった。秋に収穫すべき作物は裏葉が片端から黄色に変った。自然に抵抗し切れない失望の声が、黙りこくった農夫の姿から叫ばれた。 一刻の暇もない農繁の真最中に馬市が市街地に立った。普段ならば人々は見向きもしないのだが、畑作をなげてしまった農夫らは、捨鉢な気分になって、馬の売買にでも多少の儲を見ようとしたから、前景気は思いの外強かった。当日には近村からさえ見物が来たほど賑わった。丁度農場事務所裏の空地に仮小屋が建てられて、爪まで磨き上げられた耕馬が三十頭近く集まった。その中で仁右衛門の出した馬は殊に人の眼を牽いた。 その翌日には競馬があった。場主までわざわざ函館からやって来た。屋台店や見世物小屋がかかって、祭礼に通有な香のむしむしする間を着飾った娘たちが、刺戟の強い色を振播いて歩いた。 競馬場の埒の周囲は人垣で埋った。三、四軒の農場の主人たちは決勝点の所に一段高く桟敷をしつらえてそこから見物した。松川場主の側には子供に付添って笠井の娘が坐っていた。その娘は二、三年前から函館に出て松川の家に奉公していたのだ。父に似て細面の彼女は函館の生活に磨きをかけられて、この辺では際立って垢抜けがしていた。競馬に加わる若い者はその妙齢な娘の前で手柄を見せようと争った。他人の妾に目星をつけて何になると皮肉をいうものもあった。 何しろ競馬は非常な景気だった。勝負がつく度に揚る喝采の声は乾いた空気を伝わって、人々を家の内にじっとさしては置かなかった。 仁右衛門はその頃博奕に耽っていた。始めの中はわざと負けて見せる博徒の手段に甘々と乗せられて、勢い込んだのが失敗の基で、深入りするほど損をしたが、損をするほど深入りしないではいられなかった。亜麻の収利は疾の昔にけし飛んでいた。それでも馬は金輪際売る気がなかった。剰す所は燕麦があるだけだったが、これは播種時から事務所と契約して、事務所から一手に陸軍糧秣廠に納める事になっていた。その方が競争して商人に売るのよりも割がよかったのだ。商人どもはこのボイコットを如何して見過していよう。彼らは農家の戸別訪問をして糧秣廠よりも遙かに高価に引受けると勧誘した。糧秣廠から買入代金が下ってもそれは一応事務所にまとまって下るのだ。その中から小作料だけを差引いて小作人に渡すのだから、農場としては小作料を回収する上にこれほど便利な事はない。小作料を払うまいと決心している仁右衛門は馬鹿な話だと思った。彼れは腹をきめた。そして競馬のために人の注意がおろそかになった機会を見すまして、商人と結托して、事務所へ廻わすべき燕麦をどんどん商人に渡してしまった。 仁右衛門はこの取引をすましてから競馬場にやって来た。彼れは自分の馬で競走に加わるはずになっていたからだ。彼れは裸乗りの名人だった。 自分の番が来ると彼れは鞍も置かずに自分の馬に乗って出て行った。人々はその馬を見ると敬意を払うように互にうなずき合って今年の糶では一番物だと賞め合った。仁右衛門はそういう私語を聞くといい気持ちになって、いやでも勝って見せるぞと思った。六頭の馬がスタートに近づいた。さっと旗が降りた時仁右衛門はわざと出おくれた。彼れは外の馬の跡から内埒へ内埒へとよって、少し手綱を引きしめるようにして駈けさした。ほてった彼の顔から耳にかけて埃を含んだ風が息気のつまるほどふきかかるのを彼れは快く思った。やがて馬場を八分目ほど廻った頃を計って手綱をゆるめると馬は思い存分頸を延ばしてずんずんおくれた馬から抜き出した。彼れが鞭とあおりで馬を責めながら最初から目星をつけていた先頭の馬に追いせまった時には決勝点が近かった。彼れはいらだってびしびしと鞭をくれた。始めは自分の馬の鼻が相手の馬の尻とすれすれになっていたが、やがて一歩一歩二頭の距離は縮まった。狂気のような喚呼が夢中になった彼れの耳にも明かに響いて来た。もう一息と彼れは思った。――その時突然桟敷の下で遊んでいた松川場主の子供がよたよたと埒の中へ這入った。それを見た笠井の娘は我れを忘れて駈け込んだ。「危ねえ」――観衆は一度に固唾を飲んだ。その時先頭にいた馬は娘の華手な着物に驚いたのか、さっときれて仁右衛門の馬の前に出た。と思う暇もなく仁右衛門は空中に飛び上って、やがて敲きつけられるように地面に転がっていた。彼れは気丈にも転がりながらすっくと起き上った。直ぐ彼れの馬の所に飛んで行った。馬はまだ起きていなかった。後趾で反動を取って起きそうにしては、前脚を折って倒れてしまった。訓練のない見物人は潮のように仁右衛門と馬とのまわりに押寄せた。
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