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カインの末裔(カインのまつえい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-21 11:07:43 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「痛い」
 それが聞きたかったのだ。彼れの肉体は一度に油をそそぎかけられて、そそり立つ血のきおいに眼がくるめいた。彼れはいきなり女に飛びかかって、所きらわず殴ったり足蹴あしげにしたりした。女は痛いといいつづけながらも彼れにからまりついた。そしてみついた。彼れはとうとう女を抱きすくめて道路に出た。女は彼れの顔に鋭く延びた爪をたてて逃れようとした。二人はいがみ合う犬のように組み合って倒れた。倒れながら争った。彼れはとうとう女を取逃がした。はね起きて追いにかかると一目散に逃げたと思った女は、反対に抱きついて来た。二人は互に情に堪えかねてまた殴ったり引掻ひっかいたりした。彼れは女のたぶさつかんで道の上をずるずる引張って行った。集会所に来た時は二人とも傷だらけになっていた。有頂天になった女は一塊の火の肉となってぶるぶる震えながら床の上にぶっ倒れていた。彼れは闇の中に突っ立ちながら焼くような昂奮こうふんのためによろめいた。

     (四)

 春の天気の順当であったのに反して、その年は六月の初めから寒気と淫雨いんうとが北海道を襲って来た。旱魃かんばつ饑饉ききんなしといい慣わしたのは水田の多い内地の事で、畑ばかりのK村なぞは雨の多い方はまだ仕やすいとしたものだが、その年の長雨には溜息をもらさない農民はなかった。
 森も畑も見渡すかぎり真青になって、掘立小屋ほったてごやばかりが色を変えずに自然をよごしていた。時雨しぐれのような寒い雨が閉ざし切った鈍色にびいろの雲から止途とめどなく降りそそいだ。低味ひくみ畦道あぜみちに敷ならべたスリッパ材はぶかぶかと水のために浮き上って、その間から真菰まこもが長く延びて出た。蝌斗おたまじゃくしが畑の中を泳ぎ廻ったりした。郭公ほととぎすが森の中で淋しくいた。小豆あずきを板の上に遠くでころがすような雨の音が朝から晩まで聞えて、それが小休おやむと湿気を含んだ風が木でも草でもしぼましそうに寒く吹いた。
 ある日農場主が函館はこだてから来て集会所で寄合うという知らせが組長から廻って来た。仁右衛門はそんな事には頓着とんじゃくなく朝から馬力ばりきをひいて市街地に出た。運送店の前にはもう二台の馬力があって、脚をつまだてるようにしょんぼりと立つ輓馬ひきうまたてがみは、幾本かのむちを下げたように雨によれて、その先きから水滴が絶えず落ちていた。馬の背からは水蒸気が立昇った。戸を開けて中に這入はいると馬車追いを内職にする若い農夫が三人土間に焚火たきびをしてあたっていた。馬車追いをする位の農夫は農夫の中でも冒険的な気の荒い手合だった。彼らは顔にあたる焚火のほてりを手や足を挙げて防ぎながら、長雨につけこんで村に這入って来た博徒ばくとの群の噂をしていた。げようとして這入り込みながら散々手を焼いて駅亭から追い立てられているような事もいった。
「お前も一番乗ってもうかれや」
とその中の一人は仁右衛門をけしかけた。店の中はどんよりと暗く湿っていた。仁右衛門は暗い顔をしてつばをはき捨てながら、焚火の座に割り込んで黙っていた。ぴしゃぴしゃと気疎けうと草鞋わらじの音を立てて、往来を通る者がたまさかにあるばかりで、この季節のにぎわった様子は何処どこにも見られなかった。帳場の若いものは筆を持った手を頬杖ほおづえにして居眠っていた。こうして彼らは荷の来るのをぼんやりして二時間あまりも待ち暮した。聞くに堪えないような若者どもの馬鹿話も自然と陰気な気分に押えつけられて、ややともすると、沈黙と欠伸あくびが拡がった。
「一はたりはたらずに」
 突然仁右衛門がそういって一座を見廻した。彼れはその珍らしい無邪気な微笑をほほえんでいた。一同は彼れのにこやかな顔を見ると、吸い寄せられるようになって、いう事をきかないではいられなかった。むしろが持ち出された。四人は車座くるまざになった。一人は気軽く若い者の机の上から湯呑茶碗を持って来た。もう一人の男の腹がけの中からは骰子さいが二つ取出された。
 店の若い者が眼をさまして見ると、彼らは昂奮こうふんした声を押つぶしながら、無気むきになって勝負にふけっていた。若い者は一寸ちょっと誘惑を感じたが気を取直して、
「困るでねえか、そうした事店頭みせさきでおっぴろげて」
というと、
「困ったら積荷こと探してう」
と仁右衛門は取り合わなかった。
 昼になっても荷の回送はなかった。仁右衛門は自分からいい出しながら、面白くない勝負ばかりしていた。何方どっちに変るか自分でも分らないような気分が驀地まっしぐらに悪い方に傾いて来た。気を腐らせれば腐らすほど彼れのやまは外れてしまった。彼れはくさくさしてふいと座を立った。相手が何とかいうのを振向きもせずに店を出た。雨は小休おやみなく降り続けていた。昼餉ひるげの煙が重く地面の上をっていた。
 彼れはむしゃくしゃしながら馬力を引ぱって小屋の方に帰って行った。だらしなく降りつづける雨に草木も土もふやけ切って、空までがぽとりと地面の上に落ちて来そうにだらけていた。面白くない勝負をして焦立いらだった仁右衛門の腹の中とは全く裏合せならない景色だった。彼れは何か思い切った事をしてでも胸をすかせたく思った。丁度自分の畑の所まで来ると佐藤の年嵩としかさの子供が三人学校の帰途かえりと見えて、荷物をはすに背中に背負って、頭からぐっしょり濡れながら、近路ちかみちするために畑の中を歩いていた。それを見ると仁右衛門は「待て」といって呼びとめた。振向いた子供たちは「まだか」の立っているのを見ると三人とも恐ろしさに顔の色を変えてしまった。殴りつけられる時するように腕をまげて目八分の所にやって、逃げ出す事もし得ないでいた。
童子連わらしづれ何条なじょういうて他人ひとの畑さ踏み込んだ。百姓の餓鬼がきだに畑のう大事がる道知んねえだな。う」
 仁王立におうだちになってにらみすえながら彼れは怒鳴どなった。子供たちはもうおびえるように泣き出しながらず仁右衛門の所に歩いて来た。待ちかまえた仁右衛門の鉄拳はいきなり十二ほどになる長女のせたほおをゆがむほどたたきつけた。三人の子供は一度に痛みを感じたように声を挙げてわめき出した。仁右衛門は長幼の容捨ようしゃなく手あたり次第に殴りつけた。
 小屋に帰ると妻は蓆の上にペッたんこに坐って馬にやるわらをざくりざくり切っていた。赤坊はいんちこの中で章魚たこのような頭を襤褸ぼろから出して、軒から滴り落ちる雨垂れを見やっていた。彼れの気分にふさわない重苦しさがみなぎって、運送店の店先にくらべては何から何まで便所のようにきたなかった。彼は黙ったままで唾をはき捨てながら馬の始末をするとすぐまた外に出た。雨ははだまでとおってぞくぞく寒かった。彼れの癇癪かんしゃくらにつのった。彼れはすたすたと佐藤の小屋に出かけた。が、ふと集会所に行ってる事に気がつくとその足ですぐ神社をさして急いだ。
 集会所には朝のうちから五十人近い小作者が集って場主の来るのを待っていたが、昼過ぎまで待ちぼけをわされてしまった。場主はやがて帳場をともにつれて厚い外套がいとうを着てやって来た。上座かみざに坐ると勿体もったいらしく神社の方を向いて柏手かしわでを打って黙拝をしてから、居合わせてる者らには半分も解らないような事をしたり顔にいい聞かした。小作者らはけげんな顔をしながらも、場主の言葉が途切れるともっともらしくうなずいた。やがて小作者らの要求が笠井によって提出せらるべき順番が来た。彼れは先ず親方は親で小作は子だと説き出して、小作者側の要求をかなり強くいい張った跡で、それはしかし無理な御願いだとか、物の解らない自分たちが考える事だからだとか、そんな事は先ず後廻しでもいい事だとか、自分のいい出した事を自分で打壊すような添言葉そえことばを付加えるのを忘れなかった。仁右衛門はちょうどそこに行き合せた。彼れは入口の羽目板はめいたに身をよせてじっと聞いていた。
「こうまあ色々とお願いしたじゃからは、お互も心をしめて帳場さんにも迷惑をかけぬだけにはせずばなあ(ここで彼れは一同を見渡した様子だった)。『万国心をあわせてな』と天理教のお歌様にもある通り、まった事は定まったようにせんとならんじゃが、多い中じゃに無理もないようなものの、亜麻などを親方、ぎょうさんつけたものもあって、まこと済まん次第じゃが、無理が通れば道理もひっこみよるで、なりませんじゃもし」
 仁右衛門は場規もかまわず畑の半分を亜麻にしていた。で、その言葉は彼れに対するあてこすりのように聞こえた。
「今日なども顔を出しよらん横道者よこしまものもありますじゃで……」
 仁右衛門は怒りのために耳がかァんとなった。笠井はまだ何か滑らかにしゃべっていた。
 場主がまだ何か訓示めいた事をいうらしかったが、やがてざわざわと人の立つ気配がした。仁右衛門は息気いきを殺して出て来る人々をうかがった。場主が帳場と一緒に、後から笠井にかさをさしかけさせて出て行った。労働で若年の肉をきたえたらしい頑丈がんじょうな場主の姿は、何所どこか人をはばからした。仁右衛門は笠井をにらみながら見送った。ややしばらくすると場内から急にくつろいだ談笑の声が起った。そして二、三人ずつ何かかたいながら小作者らは小屋をさして帰って行った。やや遅れてれもなく出て来たのは佐藤だった。小さな後姿は若々しくって青年あんこのようだった。仁右衛門は木の葉のように震えながらずかずかと近づくと、突然後ろからその右の耳のあたりを殴りつけた。不意をくらって倒れんばかりによろけた佐藤は、跡も見ずに耳を押えながら、猛獣の遠吠とおぼえを聞いたうさぎのように、前に行く二、三人の方に一目散にかけ出してその人々をたてに取った。
わり乞食ほいと盗賊ぬすっとか畜生か。よくもわれが餓鬼どもさ教唆しかけて他人ひとの畑こと踏み荒したな。ちのめしてくれずに。
 仁右衛門は火の玉のようになって飛びかかった。当の二人と二、三人の留男とめおとことはまりになって赤土の泥の中をころげ廻った。折重なった人々がようやく二人を引分けた時は、佐藤は何所どこかしたたか傷を負って死んだように青くなっていた。仲裁したものはかかり合いからやむなく、仁右衛門に付添って話をつけるために佐藤の小屋まで廻り道をした。小屋の中では佐藤の長女がすみの方に丸まって痛い痛いといいながらまだ泣きつづけていた。を間に置いて佐藤の妻と広岡の妻とはさし向いにののしっていた。佐藤の妻は安座あぐらをかいて長い火箸ひばしを右手に握っていた。広岡の妻も背に赤ん坊を背負って、早口にいい募っていた。顔を血だらけにして泥まみれになった佐藤の跡から仁右衛門が這入って来るのを見ると、佐藤の妻は訳を聞く事もせずにがたがた震える歯をみ合せて猿のようにくちびるの間からむき出しながら仁右衛門の前に立ちはだかって、飛び出しそうな怒りの眼でにらみつけた。物がいえなかった。いきなり火箸を振上げた。仁右衛門は他愛もなくそれを奪い取った。噛みつこうとするのを押しのけた。そして仲裁者が一杯飲もうと勧めるのも聴かずに妻を促して自分の小屋に帰って行った。佐藤の妻は素跣すはだしのまま仁右衛門の背に罵詈ばりを浴せながら怒精フューリーのようについて来た。そして小屋の前に立ちはだかって、さえずるように半ば夢中で仁右衛門夫婦を罵りつづけた。
 仁右衛門は押黙ったまま囲炉裡いろり横座よこざに坐って佐藤の妻の狂態を見つめていた。それは仁右衛門には意外の結果だった。彼れの気分は妙にかたづかないものだった。彼れは佐藤の妻の自分から突然離れたのを怒ったりおかしく思ったりおしんだりしていた。仁右衛門が取合わないので彼女はさすがに小屋の中には這入らなかった。そして皺枯しわがれた声でおめき叫びながら雨の中を帰って行ってしまった。仁右衛門の口の辺にはいかにも人間らしい皮肉なゆがみが現われた。彼れは結局自分の智慧ちえの足りなさを感じた。そしてままよと思っていた。
 すべての興味が全く去ったのを彼れは覚えた。彼れは少し疲れていた。始めて本統ほんとうの事情を知った妻から嫉妬しっとがましい執拗しつこい言葉でも聞いたら少しの道楽気どうらくげもなく、どれほどな残虐な事でもやり兼ねないのを知ると、彼れは少し自分の心を恐れねばならなかった。彼れは妻に物をいう機会を与えないために次から次へと命令を連発した。そしておそい昼飯をしたたか喰った。がらっとはしくと泥だらけなびしょぬれな着物のままでまたぶらりと小屋を出た。この村に這入りこんだ博徒らの張っていた賭場とばをさして彼の足はしょう事なしに向いて行った。

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