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カインの末裔(カインのまつえい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-21 11:07:43 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


ぜにこ一文も持たねえからちょっぴり借りたいだが」
 赤坊の事を思うと、急に小銭がほしくなって、彼れがこういい出すと、帳場はあきれたように彼れの顔を見詰めた、――こいつは馬鹿なつらをしているくせに油断のならない横紙破りだと思いながら。そして事務所では金の借貸は一切しないから縁者になる川森からでも借りるがいいし、今夜は何しろ其所そこに行って泊めてもらえと注意した。仁右衛門はもう向腹むかっぱらを立ててしまっていた。黙りこくって出て行こうとすると、そこに居合わせた男が一緒に行ってやるから待てととめた。そういわれて見ると彼れは自分の小屋が何所どこにあるのかを知らなかった。
「それじゃ帳場さん何分よろしゅう頼むがに、塩梅あんばいよう親方の方にもいうてな。広岡さん、それじゃ行くべえかの。何とまあ孩児ややの痛ましくさかぶぞい。じゃまあおやすみ」
 彼れは器用に小腰をかがめて古い手提鞄てさげかばんと帽子とを取上げた。すそをからげて砲兵の古靴ふるぐつをはいている様子は小作人というよりも雑穀屋の鞘取さやとりだった。
 戸を開けて外に出ると事務所のボンボン時計が六時を打った。びゅうびゅうと風は吹きつのっていた。赤坊の泣くのにこうじ果てて妻はぽつりと淋しそうに玉蜀黍殻とうきびがらの雪囲いの影に立っていた。
 足場が悪いから気を付けろといいながらの男は先きに立って国道から畦道あぜみち這入はいって行った。
 大濤おおなみのようなうねりを見せた収穫後の畑地は、広く遠く荒涼としてひろがっていた。眼をさえぎるものは葉を落した防風林の細長い木立ちだけだった。ぎらぎらとまたたく無数の星は空の殊更ことさら寒く暗いものにしていた。仁右衛門を案内した男は笠井という小作人で、天理教の世話人もしているのだといって聞かせたりした。
 七町も八町も歩いたと思うのに赤坊はまだ泣きやまなかった。くびり殺されそうな泣き声が反響もなく風に吹きちぎられて遠く流れて行った。
 やがて畦道あぜみちが二つになる所で笠井は立停った。
「この道をな、こう行くと左手にさえて小屋が見えようがの。な」
 仁右衛門は黒い地平線をすかして見ながら、耳に手を置き添えて笠井の言葉を聞き漏らすまいとした。それほど寒い風は激しい音で募っていた。笠井はくどくどとそこに行き着く注意を繰返して、しまいに金がるなら川森の保証で少し位は融通すると付加えるのを忘れなかった。しかし仁右衛門は小屋の所在が知れると跡は聞いていなかった。餓えと寒さがひしひしと答え出してがたがた身をふるわしながら、挨拶一つせずにさっさと別れて歩き出した。
 玉蜀黍殻とうきびがらいたどりの茎で囲いをした二間半四方ほどの小屋が、前のめりにかしいで、海月くらげのような低い勾配こうばいの小山の半腹に立っていた。物のえた香と積肥つみごえの香がほしいままにただよっていた。小屋の中にはどんな野獣が潜んでいるかも知れないような気味悪さがあった。赤坊の泣き続ける暗闇の中で仁右衛門が馬の背からどすんと重いものを地面におろす音がした。痩馬は荷が軽るくなると鬱積うっせきした怒りを一時にぶちまけるようにいなないた。遙かの遠くでそれにこたえた馬があった。跡は風だけが吹きすさんだ。
 夫婦はかじかんだ手で荷物をげながら小屋に這入った。永く火の気は絶えていても、吹きさらしから這入るとさすがに気持ちよくあたたかかった。二人は真暗な中を手さぐりであり合せの古蓆ふるむしろわらをよせ集めてどっかと腰をえた。妻は大きな溜息をして背の荷と一緒に赤坊を卸して胸に抱き取った。乳房をあてがって見たが乳は枯れていた。赤坊は堅くなりかかった歯齦はぐきでいやというほどそれをんだ。そして泣き募った。
腐孩子くされにが! 乳首たたら食いちぎるに」
 妻は慳貪けんどんにこういって、ふところから塩煎餅しおせんべいを三枚出して、ぽりぽりと噛みくだいては赤坊の口にあてがった。
らがにもせ」
 いきなり仁右衛門が猿臂えんぴを延ばして残りを奪い取ろうとした。二人は黙ったままで本気に争った。食べるものといっては三枚の煎餅しかないのだから。
白痴たわけ
 吐き出すように良人がこういった時勝負はきまっていた。妻は争い負けて大部分を掠奪りゃくだつされてしまった。二人はまた押黙って闇の中でしない食物をむさぼり喰った。しかしそれは結局食欲をそそる媒介なかだちになるばかりだった。二人は喰い終ってから幾度も固唾かたずを飲んだが火種のない所では南瓜かぼちゃを煮る事も出来なかった。赤坊は泣きづかれに疲れてほっぽり出されたままに何時いつの間にか寝入っていた。
 居鎮いしずまって見ると隙間すきまもる風はやいばのように鋭く切り込んで来ていた。二人は申合せたように両方から近づいて、赤坊を間に入れて、抱寝だきねをしながら藁の中でがつがつと震えていた。しかしやがて疲労はすべてを征服した。死のような眠りが三人を襲った。
 遠慮会釈もなく迅風はやては山と野とをこめて吹きすさんだ。うるしのような闇が大河のごとく東へ東へと流れた。マッカリヌプリの絶巓ぜってんの雪だけが燐光を放ってかすかに光っていた。荒らくれた大きな自然だけがそこによみがえった。
 こうして仁右衛門夫婦は、何処どこからともなくK村に現われ出て、松川農場の小作人になった。

     (二)

 仁右衛門の小屋から一町ほど離れて、K村から倶知安くっちゃんに通う道路添みちぞいに、佐藤与十という小作人の小屋があった。与十という男は小柄で顔色も青く、何年たってもとしをとらないで、働きも甲斐かいなそうに見えたが、子供の多い事だけは農場一だった。あすこのかかあは子種をよそからもらってでもいるんだろうと農場の若い者などが寄ると戯談じょうだんを言い合った。女房と言うのは体のがっしりした酒喰さけぐらいの女だった。大人数なためにかせいでもかせいでも貧乏しているので、だらしのない汚い風はしていたが、その顔付きは割合に整っていて、不思議に男にせま淫蕩いんとうな色をたたえていた。
 仁右衛門がこの農場に這入はいった翌朝早く、与十の妻はあわせ一枚にぼろぼろの袖無そでなしを着て、井戸――といっても味噌樽みそだるを埋めたのに※(「金+肅」、第3水準1-93-39)あかさびの浮いた上層水うわみずが四分目ほど溜ってる――の所でアネチョコといい慣わされた舶来の雑草の根に出来るいもを洗っていると、そこに一人の男がのそりとやって来た。六尺近い背丈せいを少し前こごみにして、営養の悪い土気色つちけいろの顔が真直に肩の上に乗っていた。当惑した野獣のようで、同時に何所どこ奸譎わるがしこい大きな眼が太い眉の下でぎろぎろと光っていた。それが仁右衛門だった。彼れは与十の妻を見ると一寸ちょっとほほえましい気分になって、
「おっかあ、火種べあったらちょっぴり分けてくれずに」
といった。与十の妻は犬に出遇った猫のような敵意と落着おちつきをもって彼れを見た。そして見つめたままで黙っていた。
 仁右衛門はやにのつまった大きな眼を手の甲で子供らしくこすりながら、
「俺らあすこの小屋さ来たもんだのし。乞食ほいとではねえだよ」
といってにこにこした。罪のない顔になった。与十の妻は黙って小屋に引きかえしたが、真暗な小屋の中に臥乱ねみだれた子供を乗りこえ乗りこえ囲炉裡いろりの所に行って粗朶そだを一本提げて出て来た。仁右衛門は受取ると、口をふくらましてそれを吹いた。そして何か一言二言話しあって小屋の方に帰って行った。
 この日も昨夜ゆうべの風は吹き落ちていなかった。空はすみからすみまで底気味悪く晴れ渡っていた。そのために風は地面にばかり吹いているように見えた。佐藤の畑はとにかく秋耕あきおこしをすましていたのに、それにとなった仁右衛門の畑は見渡す限りかまどがえしみずひきあかざとびつかとで茫々ぼうぼうとしていた。ひき残された大豆のからが風に吹かれて瓢軽ひょうきんな音を立てていた。あちこちにひょろひょろと立った白樺しらかばはおおかた葉をふるい落してなよなよとした白い幹が風にたわみながら光っていた。小屋の前の亜麻をこいだ所だけは、こぼれ種から生えた細い茎が青い色を見せていた。跡は小屋も畑も霜のために白茶けた鈍い狐色きつねいろだった。仁右衛門の淋しい小屋からはそれでもやがて白い炊煙がかすかに漏れはじめた。屋根からともなく囲いからともなく湯気のように漏れた。
 朝食をすますと夫婦は十年も前から住みれているように、平気な顔で畑に出かけて行った。二人は仕事の手配もきめずに働いた。しかし、冬を眼の前にひかえて何を先きにすればいいかを二人ながら本能のように知っていた。妻は、模様も分らなくなった風呂敷ふろしきを三角に折って露西亜ロシアじんのようにほおかむりをして、赤坊を背中に背負いこんで、せっせと小枝や根っこを拾った。仁右衛門は一本のくわで四町にあまる畑の一隅から掘り起しはじめた。ほかの小作人は野良のら仕事に片をつけて、今は雪囲ゆきがこいをしたり薪を切ったりして小屋のまわりで働いていたから、畑の中に立っているのは仁右衛門夫婦だけだった。少し高い所からは何処どこまでも見渡される広い平坦な耕作地の上で二人は巣に帰りそこねた二匹のありのようにきりきりと働いた。果敢はかない労力に句点をうって、鍬の先きが日の加減でぎらっぎらっと光った。津波のような音をたてて風のこもる霜枯れの防風林にはからすもいなかった。荒れ果てた畑に見切りをつけてさけの漁場にでも移って行ってしまったのだろう。
 昼少しまわった頃仁右衛門の畑に二人の男がやって来た。一人は昨夜事務所にいた帳場だった。今一人は仁右衛門の縁者という川森じいさんだった。眼をしょぼしょぼさせた一徹らしい川森は仁右衛門の姿を見ると、怒ったらしい顔付をしてずかずかとその傍によって行った。
わりゃ辞儀一つ知らねえ奴の、何条なんじょういうて俺らがには来くさらぬ。帳場さんのう知らしてくさずば、いつまでも知んようもねえだった。先ずもって小屋さ行ぐべし」
 三人は小屋に這入はいった。入口の右手に寝藁ねわらを敷いた馬の居所と、皮板を二、三枚ならべた穀物置場があった。左の方には入口の掘立柱ほったてばしらから奥の掘立柱にかけて一本の丸太を土の上にわたして土間に麦藁を敷きならしたその上に、所々むしろひろげてあった。その真中に切られた囲炉裡にはそれでも真黒にすすけた鉄瓶てつびんがかかっていて、南瓜かぼちゃのこびりついた欠椀かけわんが二つ三つころがっていた。川森は恥じ入るごとく、
「やばっちい所で」
といいながら帳場を炉の横座よこざに招じた。

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