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カインの末裔(カインのまつえい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-21 11:07:43 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 そこに妻もおずおずと這入って来て、恐る恐る頭を下げた。それを見ると仁右衛門は土間に向けてかっと唾を吐いた。馬はびくんとして耳をたてたが、やがて首をのばしてその香をかいだ。
 帳場は妻のさし出す白湯さゆの茶碗を受けはしたがそのまま飲まずに蓆の上に置いた。そしてむずかしい言葉で昨夜の契約書の内容をいい聞かし初めた。小作料は三年ごとに書換えの一反歩二円二十銭である事、滞納には年二割五分の利子を付する事、村税は小作に割宛てる事、仁右衛門の小屋は前の小作から十五円で買ってあるのだから来年中に償還すべき事、作跡さくあと馬耕うまおこしして置くべき事、亜麻は貸付地積の五分の一以上作ってはならぬ事、博奕ばくちをしてはならぬ事、隣保相助けねばならぬ事、豊作にも小作料は割増しをせぬ代りどんな凶作でも割引は禁ずる事、場主に直訴じきそがましい事をしてはならぬ事、掠奪りゃくだつ農業をしてはならぬ事、それから云々、それから云々。
 仁右衛門はいわれる事がよく飲み込めはしなかったが、腹の中ではくそらえと思いながら、今まで働いていた畑を気にして入口から眺めていた。
「お前は馬を持ってるくせに何んだって馬耕をしねえだ。幾日いくんちもなく雪になるだに」
 帳場は抽象論から実際論に切込んで行った。
「馬はあるが、プラオがねえだ」
 仁右衛門は鼻の先きであしらった。
「借りればいいでねえか」
銭子ぜにこがねえかんな」
 会話はぷつんと途切とぎれてしまった。帳場は二度の会見でこの野蛮人をどう取扱わねばならぬかを飲み込んだと思った。面と向ってらちのあく奴ではない。うっかり女房にでも愛想を見せれば大事おおごとになる。
「まあ辛抱してやるがいい。ここの親方は函館はこだて金持まるもちで物のわかった人だかんな」
 そういって小屋を出て行った。仁右衛門も戸外に出て帳場の元気そうな後姿を見送った。川森は財布から五十銭銀貨を出してそれを妻の手に渡した。何しろ帳場につけとどけをして置かないと万事に損が行くから今夜にも酒を買って挨拶に行くがいいし、プラオなら自分の所のものを借してやるといっていた。仁右衛門は川森の言葉を聞きながら帳場の姿を見守っていたが、やがてそれが佐藤の小屋に消えると、突然馬鹿らしいほど深い嫉妬しっとが頭を襲って来た。彼れはかっとのどをからしてたんを地べたにいやというほどはきつけた。
 夫婦きりになると二人はまた別々になってせっせと働き出した。日が傾きはじめると寒さは一入ひとしおに募って来た。汗になった所々は氷るように冷たかった。仁右衛門はしかし元気だった。彼れの真闇まっくらな頭の中の一段高い所ともおぼしいあたりに五十銭銀貨がまんまるく光って如何どうしても離れなかった。彼れは鍬を動かしながら眉をしかめてそれを払い落そうと試みた。しかしいくら試みても光った銀貨が落ちないのを知ると白痴ばかのようににったり独笑ひとりわらいをもらしていた。
 昆布岳こんぶだけの一角には夕方になるとまた一叢ひとむらの雲が湧いて、それを目がけて日が沈んで行った。
 仁右衛門は自分の耕した畑の広さを一わたり満足そうに見やって小屋に帰った。手ばしこく鍬を洗い、馬糧を作った。そして鉢巻はちまきの下ににじんだ汗を袖口そでぐちぬぐって、炊事にかかった妻に先刻の五十銭銀貨を求めた。妻がそれをわたすまでには二、三度横面よこつらをなぐられねばならなかった。仁右衛門はやがてぶらりと小屋を出た。妻は独りで淋しく夕飯を食った。仁右衛門は一片の銀貨を腹がけのどんぶりに入れて見たり、出して見たり、親指で空にはじき上げたりしながら市街地の方に出懸けて行った。
 九時――九時といえば農場では夜更よふけだ――を過ぎてから仁右衛門はいい酒機嫌で突然佐藤の戸口に現われた。佐藤の妻も晩酌に酔いしれていた。与十と鼎座ていざになって三人は囲炉裡をかこんでまた飲みながら打解けた馬鹿話をした。仁右衛門が自分の小屋に着いた時には十一時を過ぎていた。妻は燃えかすれる囲炉裡火に背を向けて、綿のはみ出た蒲団ふとんかしわに着てぐっすり寝込んでいた。仁右衛門は悪戯者いたずらものらしくよろけながら近寄ってわっといって乗りかかるように妻を抱きすくめた。驚いて眼を覚した妻はしかし笑いもしなかった。騒ぎに赤坊が眼をさました。妻が抱き上げようとすると、仁右衛門はさえぎりとめて妻を横抱きに抱きすくめてしまった。
「そうれまんだきもべ焼けるか。こう可愛めんこがられても肝べ焼けるか。可愛めんこ獣物けだものぞいわれは。見ずに。いんまになら汝に絹の衣装べ着せてこすぞ。帳場の和郎わろ(彼れは所きらわずつばをはいた)が寝言べこく暇に、俺ら親方と膝つきあわして話して見せるかんな。白痴奴こけめ。俺らが事誰れ知るもんで。わりゃ可愛いぞ。心から可愛いぞ。し。宜し。汝ゃこれ嫌いでなかんべさ」
といいながら懐から折木へぎに包んだ大福を取出して、その一つをぐちゃぐちゃに押しつぶして息気いきのつまるほど妻の口にあてがっていた。

     (三)

 から風の幾日も吹きぬいた挙句あげくに雲が青空をかき乱しはじめた。みぞれと日の光とが追いつ追われつして、やがて何所どこからともなく雪が降るようになった。仁右衛門の畑はそうなるまでに一部分しか耡起すきおこされなかったけれども、それでも秋播あきまき小麦をきつけるだけの地積は出来た。妻の勤労のおかげ一冬分ひとふゆぶんの燃料にも差支さしつかえない準備は出来た。ただ困るのは食料だった。馬の背に積んで来ただけでは幾日分のしにもならなかった。仁右衛門はある日馬を市街地に引いて行って売り飛ばした。そして麦とあわと大豆とをかなり高い相場で買って帰らねばならなかった。馬がないので馬車追いにもなれず、彼れは居食いぐいをして雪が少し硬くなるまでぼんやりと過していた。
 根雪ねゆきになると彼れは妻子を残して木樵きこりに出かけた。マッカリヌプリのふもと払下はらいさげ官林に入りこんで彼れは骨身を惜まず働いた。雪が解けかかると彼れは岩内いわないに出て鰊場にしんばかせぎをした。そして山の雪が解けてしまう頃に、彼れは雪焼けと潮焼けで真黒になって帰って来た。彼れの懐は十分重かった。仁右衛門は農場に帰るとすぐたくましい一頭の馬と、プラオと、ハーローと、必要な種子たねを買い調えた。彼れは毎日毎日小屋の前に仁王立におうだちになって、五カ月間積り重なった雪の解けたためにみ放題に膿んだ畑から、恵深い日の光に照らされて水蒸気の濛々もうもうと立上る様を待ち遠しげに眺めやった。マッカリヌプリは毎日紫色に暖かくかすんだ。林の中の雪の叢消むらぎえの間には福寿草ふくじゅそうの茎が先ず緑をつけた。つぐみしじゅうからとが枯枝をわたってしめやかなささきを伝えはじめた。腐るべきものは木の葉といわず小屋といわず存分に腐っていた。
 仁右衛門は眼路めじのかぎりに見える小作小屋の幾軒かを眺めやってくそでもくらえと思った。未来の夢がはっきりと頭に浮んだ。三年った後には彼れは農場一の大小作おおこさくだった。五年の後には小さいながら一箇の独立した農民だった。十年目にはかなり広い農場を譲り受けていた。その時彼れは三十七だった。帽子を被って二重マントを着た、護謨ゴム長靴ばきの彼れの姿が、自分ながら小恥こはずかしいように想像された。
 とうとう播種時たねまきどきが来た。山火事で焼けた熊笹くまざさの葉が真黒にこげて奇跡の護符のように何所どこからともなく降って来る播種時が来た。畑の上は急に活気だった。市街地にも種物商や肥料商が入込んで、たった一軒の曖昧屋ごけやからは夜ごとに三味線の遠音とおねが響くようになった。
 仁右衛門はたくましい馬に、ぎすましたプラオをつけて、畑におりたった。耡き起される土壌は適度の湿気をもって、裏返るにつれてむせるような土の香を送った。それが仁右衛門の血にぐんぐんと力を送ってよこした。
 すべてが順当に行った。播いた種はのびをするようにずんずん生い育った。仁右衛門はあたり近所の小作人に対して二言目には喧嘩面けんかづらを見せたが六尺ゆたかの彼れにたてつくものは一人もなかった。佐藤なんぞは彼れの姿を見るとこそこそと姿を隠した。「それ『まだか』が来おったぞ」といって人々は彼れを恐れはばかった。もう顔がありそうなものだと見上げても、まだ顔はその上の方にあるというので、人々は彼れを「まだか」と諢名あだなしていたのだ。
 時々佐藤の妻と彼れとの関係が、人々のうわさに上るようになった。

 一日働き暮すとさすが労働に慣れ切った農民たちも、眼の廻るようなこの期節の忙しさに疲れ果てて、夕飯もそこそこに寝込んでしまったが、仁右衛門ばかりは日が入っても手がかゆくてしようがなかった。彼れは星の光をたよりに野獣のように畑の中で働き廻わった。夕飯は囲炉裡の火の光でそこそこにしたためた。そうしてはぶらりと小屋を出た。そして農場の鎮守ちんじゅの社の傍の小作人集会所で女と会った。
 鎮守は小高い密樹林の中にあった。ある晩仁右衛門はそこで女を待ち合わしていた。風も吹かず雨も降らず、音のない夜だった。女の来ようは思いのほか早い事も腹の立つほどおそい事もあった。仁右衛門はだだっ広い建物の入口の所でひざをだきながら耳をそばだてていた。
 枝に残った枯葉が若芽にせきたてられて、時々かさっと地に落ちた。天鵞絨ビロードのように滑かな空気は動かないままに彼れをいたわるように押包んだ。荒くれた彼れの神経もそれを感じない訳には行かなかった。物なつかしいようななごやかな心が彼れの胸にも湧いて来た。彼れは闇の中で不思議な幻覚に陥りながら淡くほほえんだ。
 足音が聞こえた。彼れの神経は一時に叢立むらだった。しかしやがて彼れの前に立ったのはたしかに女の形ではなかった。
「誰れだわりゃ」
 低かったけれども闇をすかして眼を据えた彼れの声は怒りに震えていた。
「お主こそ誰れだと思うたら広岡さんじゃな。何んしに今時こないな所にいるのぞい」
 仁右衛門は声の主が笠井の四国猿奴しこくざるめだと知るとかっとなった。笠井は農場一の物識ものしりで金持まるもちだ。それだけで癇癪かんしゃくの種には十分だ。彼れはいきなり笠井に飛びかかって胸倉むなぐらをひっつかんだ。かーっといって出したつばを危くそのかおに吐きつけようとした。
 この頃浮浪人が出て毎晩集会所に集って焚火たきびなぞをするから用心が悪い、と人々がいうので神社の世話役をしていた笠井は、おどかしつけるつもりで見廻りに来たのだった。彼れはもとよりかしの棒位の身じたくはしていたが、相手が「まだか」では口もきけないほど縮んでしまった。
わりらが媾曳あいびきの邪魔べこく気だな、俺らがする事にわれが手だしはいんねえだ。首ねっこべひんぬかれんな」
 彼れの言葉はせき上る息気いきの間に押しひしゃげられてがらがら震えていた。
「そりゃ邪推じゃがなおぬし
と笠井は口早にそこに来合せた仔細しさいと、丁度いい機会だから折入って頼む事がある旨をいいだした。仁右衛門は卑下して出た笠井にちょっと興味を感じて胸倉から手を離して、しきいに腰をすえた。暗闇の中でも、笠井が眼をきょとんとさせて火傷やけどの方の半面を平手ででまわしているのが想像された。そしてやがて腰をおろして、今までのあわてかたにも似ず悠々ゆうゆう煙草入たばこいれを出してマッチをった。折入って頼むといったのは小作一同の地主に対する苦情に就いてであった。一反歩二円二十銭の畑代はこの地方にない高相場であるのに、どんな凶年でも割引をしないために、小作は一人として借金をしていないものはない。金では取れないと見ると帳場は立毛たちけうちに押収してしまう。従って市街地の商人からは眼の飛び出るような上前うわまえをはねられて食代くいしろを買わねばならぬ。だから今度地主が来たら一同で是非とも小作料の値下を要求するのだ。笠井はその総代になっているのだが一人では心細いから仁右衛門も出て力になってくれというのであった。
白痴こけなことこくなてえば。二両二貫が何高値たかいべ。われたちが骨節ほねっぷしかせぐようには造ってねえのか。親方には半文の借りもした覚えはねえからな、俺らその公事くじには乗んねえだ。われ先ず親方にべなって見べし。ここのがよりも欲にかかるべえに。……芸もねえこん可愛めんこくもねえつらつんだすなてば」
 仁右衛門はまた笠井のてかてかした顔に唾をはきかけたい衝動にさいなまれたが、我慢してそれを板の間にはき捨てた。
「そうまあ一概にはいうもんでないぞい」
「一概にいったが何条なじょう悪いだ。ね。去ねべし」
「そういえど広岡さん……」
わり拳固げんここと喰らいていがか」
 女を待ちうけている仁右衛門にとっては、この邪魔者の長居しているのがいまいましいので、言葉も仕打ちも段々あららかになった。
 執着の強い笠井もたたなければならなくなった。その場を取りつくろう世辞をいって怒ったふうも見せずに坂を下りて行った。道の二股ふたまたになった所で左に行こうとすると、闇をすかしていた仁右衛門はえるように「右さ行くだ」と厳命した。笠井はそれにもそむかなかった。左の道を通って女が通って来るのだ。
 仁右衛門はまた独りになって闇の中にうずくまった。彼れは憤りにぶるぶる震えていた。生憎あいにく女の来ようがおそかった。怒った彼れには我慢が出来きらなかった。女の小屋にあばれこむ勢で立上ると彼れは白昼大道を行くような足どりで、藪道やぶみちをぐんぐん歩いて行った。ふとある疎藪ぼさの所で彼れは野獣の敏感さを以て物のけはいをぎ知った。彼れははたと立停ってその奥をすかして見た。しんとした夜の静かさの中で悪謔からかうようなみだらな女の潜み笑いが聞こえた。邪魔の入ったのを気取けどって女はそこに隠れていたのだ。嗅ぎ慣れた女のにおいが鼻を襲ったと仁右衛門は思った。
「四つ足めが」
 叫びと共に彼れは疎藪ぼさの中に飛びこんだ。とげとげする触感が、寝る時のほか脱いだ事のない草鞋わらじの底に二足三足感じられたと思うと、四足目は軟いむっちりした肉体を踏みつけた。彼れは思わずその足の力をぬこうとしたが、同時に狂暴な衝動にられて、満身の重みをそれにたくした。

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