三十三
それ以来彼はたった一人、ある時は海を渡り、ある時はまた山を越えて、いろいろな国をさまよって歩いた。しかしどの国のどの部落も、未嘗て彼の足を止めさせるには足らなかった。それらは皆名こそ変っていたが、そこに住んでいる民の心は、高天原の国と同じ事であった。彼は――高天原の国に未練のなかった彼は、それらの民に一臂の労を借してやった事はあっても、それらの民の一人となって、老いようと思った事は一度もなかった。「素戔嗚よ。お前は何を探しているのだ。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。……」 彼は風が囁くままに、あの湖を後にしてから、ちょうど満七年の間、はてしない漂泊を続けて来た。そうしてその七年目の夏、彼は出雲の簸の川を遡って行く、一艘の独木舟の帆の下に、蘆の深い両岸を眺めている、退屈な彼自身を見出したのであった。 蘆の向うには一面に、高い松の木が茂っていた。この松の枝が、むらむらと、互に鬩ぎ合った上には、夏霞に煙っている、陰鬱な山々の頂があった。そうしてそのまた山々の空には、時々鷺が両三羽、眩く翼を閃かせながら、斜に渡って行く影が見えた。が、この鷺の影を除いては、川筋一帯どこを見ても、ほとんど人を脅すような、明い寂寞が支配していた。 彼は舷に身を凭せて、日に蒸された松脂の を胸一ぱいに吸いこみながら、長い間独木舟を風の吹きやるのに任せていた。実際この寂しい川筋の景色も、幾多の冒険に慣れた素戔嗚には、まるで高天原の八衢のように、今では寸分の刺戟さえない、平凡な往来に過ぎないのであった。 夕暮が近くなった時、川幅が狭くなると共に、両岸には蘆が稀になって、節くれ立った松の根ばかりが、水と泥との交る所を、荒涼と絡っているようになった。彼は今夜の泊りを考えながら、前よりはやや注意深く、両岸に眼を配って行った。松は水の上まで枝垂れた枝を、鉄網のように纏め合せて、林の奥の神秘な世界を、執念く人目から隠していた。それでも時たまその松が、鹿でも水を飲みに来るせいか、疎に透いている所には不気味なほど赤い大茸が、薄暗い中に簇々と群っている朽木も見えた。 益々夕暮が迫って来た。その時、彼は遥か向うの、水に臨んでいる一枚岩の上に、人間らしい姿が一つ、坐っているのを発見した。勿論この川筋には、さっきから全然人煙の挙っている容子は見えなかった。だからこの姿を発見した時も、彼は始は眼を疑って、高麗剣の柄にこそ手をかけて見たが、まだ体は悠々と独木舟の舷に凭せていた。 その内に舟は水脈を引いて、次第にそこへ近づいて来た。すると一枚岩の上にいるのも、いよいよ人間に紛れなくなった。のみならずほどなくその姿は、白衣の据を長く引いた、女だと云う事まで明らかになった。彼は好奇心に眼を輝かせながら、思わず独木舟の舳に立ち上った。舟はその間も帆に微風を孕んで、小暗く空に蔓った松の下を、刻々一枚岩の方へ近づきつつあった。
三十四
舟はとうとう一枚岩の前へ釆た。岩の上には松の枝が、やはり長々と枝垂れていた。素戔嗚は素早く帆を下すと、その松の枝を片手に掴んで、両足へうんと力を入れた。と同時に舟は大きく揺れながら、舳に岩角の苔をかすって、たちまちそこへ横づけになった。 女は彼の近づくのも知らず、岩の上へ独り泣き伏していた。が、人のけはいに驚いたのか、この時ふと顔を擡げて、舟の中の彼を見たと思うと、やにわに悲鳴を挙げながら、半ば岩を抱いている、太い松の蔭に隠れようとした。しかし彼はその途端に、片手に岩角を掴んだまま、「御待ちなさい。」と云うより早く、後へ引き残した女の裳を、片手にしっかり握りとめた。女は思わずそこへ倒れて、もう一度短い悲鳴を漏らした。が、それぎり身を起す気色もなく、また前のように泣き入ってしまった。 彼は纜を松の枝に結ぶと、身軽く岩の上へ飛び上った。そうして女の肩へ手をかけながら、 「御安心なさい。私は何もあなたの体に、害を加えようと云うのじゃありません。ただ、あなたがこんな所に、泣いているのが不審でしたから、どうしたのかと思って、舟を止めたのです。」と云った。 女はやっと顔を挙げて、水の上を罩めた暮色の中に、怯ず怯ず彼の姿を見上げた。彼はその刹那にこの女が、夢の中にのみ見る事が出来る、例えばこの夏の夕明りのような、どことなくもの悲しい美しさに溢れている事を知ったのであった。 「どうしたのです。あなたは路でも迷ったのですか。それとも悪者にでも浚われたのですか。」 女は黙って、首を振った。その拍子に頸珠の琅 が、かすかに触れ合う音を立てた。彼はこの子供のような、否と云う返事の身ぶりを見ると、我知らず微笑が唇に上って来ずにはいられなかった。が、女はその次の瞬間には、見る見る恥しそうな色に頬を染めて、また涙に沾んだ眼を、もう一度膝へ落してしまった。 「では、――ではどうしたのです。何か難儀な事でもあったら、遠慮なく話して御覧なさい。私に出来る事でさえあれば、どんな事でもして上げます。」 彼がこう優しく慰めると、女は始めて勇気を得たように、時々まだ口ごもりながら、とにかく一切の事情を話して聞かせた。それによると女の父は、この川上の部落の長をしている、足名椎と云うものであった。ところが近頃部落の男女が、続々と疫病に仆れるため、足名椎は早速巫女に命じて、神々の心を尋ねさせた。すると意外にも、ここにいる、櫛名田姫と云う一人娘を、高志の大蛇の犠にしなければ、部落全体が一月の内に、死に絶えるであろうと云う託宣があった。そこで足名椎は已むを得ず、部落の若者たちと共に舟を艤して、遠い部落からこの岩の上まで、櫛名田姫を運んで来た後、彼女一人を後に残して、帰って行ったと云う事であった。
三十五
櫛名田姫の話を聞き終ると、素戔嗚は項を反らせながら、愉快そうに黄昏の川を見廻した。 「その高志の大蛇と云うのは、一体どんな怪物なのです。」「人の噂を聞きますと、頭と尾とが八つある、八つの谷にも亘るくらい、大きな蛇だとか申す事でございます。」 「そうですか。それは好い事を聞きました。そんな怪物には何年にも、出合った事がありませんから、話を聞いたばかりでも、力瘤の動くような気がします。」 櫛名田姫は心配そうに、そっと涼しい眼を挙げて、無頓着な彼を見守った。 「こう申す内にもいつ何時、大蛇が参るかわかりませんが、あなたは――」 「大蛇を退治する心算です。」 彼はきっぱりこう答えると、両腕を胸に組んだまま、静に一枚岩の上を歩き出した。 「退治すると仰有っても、大蛇は只今申し上げた通り、一方ならない神でございますから――」 「そうです。」 「万一あなたがそのために、御怪我をなさらないとも限りませんし、――」 「そうです。」 「どうせ私は犠になるものと、覚悟をきめた体でございます。たといこのまま、――」 「御待ちなさい。」 彼は歩みを続けながら、何か眼に見えない物を払いのけるような手真似をした。 「私はあなたをおめおめと大蛇の犠にはしたくないのです。」 「それでも大蛇が強ければ――」 「仕方がないと云うのですか。たとい仕方がないにしても、私はやはり戦うのです。」 櫛名田姫はまた顔を赤めて、帯に下げた鏡をまさぐりながら、かすかに彼の言葉を押し返した。 「私が大蛇の犠になるのは、神々の思召しでございます。」 「そうかも知れません。しかし犠になると云う事がなかったら、あなたは今時分たった一人、こんな所に来てはいないでしょう。して見ると神々の思召しは、あなたを大蛇の犠にするより、反って私に大蛇の命を断たせようと云うのかも知れません。」 彼は櫛名田姫の前に足を止めた。と同時に一瞬間、厳な権威の閃きが彼の醜い眉目の間に磅 したように思われた。 「けれども巫女が申しますには――」 櫛名田姫の声はほとんど聞えなかった。 「巫女は神々の言葉を伝えるものです。神々の謎を解くものではありません。」 この時突然二頭の鹿が、もう暗くなった向うの松の下から、わずかに薄白んだ川の中へ、水煙を立てて跳りこんだ。そうして角を並べたまま、必死にこちらへ泳ぎ出した。 「あの鹿の慌てようは――もしや来るのではございますまいか。あれが、――あの恐ろしい神が、――」 櫛名田姫はまるで狂気のように、素戔嗚の腰へ縋りついた。 「そうです。とうとう来たようです。神々の謎の解ける時が。」 彼は対岸に眼を配りながら、おもむろに高麗剣の柄へ手をかけた。するとその言葉がまだ終らない内に、驟雨の襲いかかるような音が、対岸の松林を震わせながら、その上に疎な星を撒いた、山々の空へ上り出した。
(大正九年五月)
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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