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素戔嗚尊(すさのおのみこと)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/8/16 10:26:40 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



        三十三

 それ以来彼はたった一人、ある時は海を渡り、ある時はまた山を越えて、いろいろな国をさまよって歩いた。しかしどの国のどの部落も、未嘗いまだかつて彼の足をとどめさせるには足らなかった。それらは皆名こそ変っていたが、そこに住んでいる民の心は、高天原の国と同じ事であった。彼は――高天原の国に未練のなかった彼は、それらの民に一臂いちびの労を借してやった事はあっても、それらの民の一人となって、老いようと思った事は一度もなかった。「素戔嗚すさのおよ。お前は何を探しているのだ。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。……」
 彼は風がささやくままに、あの湖をあとにしてから、ちょうど満七年の間、はてしない漂泊ひょうはくを続けて来た。そうしてその七年目の夏、彼は出雲いずもの川をさかのぼって行く、一艘いっそう独木舟まるきぶねの帆の下に、あしの深い両岸を眺めている、退屈な彼自身を見出したのであった。
 あしの向うには一面に、高い松の木が茂っていた。この松の枝が、むらむらと、互にせめぎ合った上には、夏霞なつがすみに煙っている、陰鬱な山々のいただきがあった。そうしてそのまた山々の空には、時々さぎが両三羽、まばゆく翼をひらめかせながら、ななめに渡って行く影が見えた。が、この鷺の影を除いては、川筋一帯どこを見ても、ほとんど人をおびやかすような、明い寂寞が支配していた。
 彼はふなばたに身をもたせて、日にされた松脂まつやに※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においを胸一ぱいに吸いこみながら、長い間独木舟まるきぶねを風の吹きやるのに任せていた。実際この寂しい川筋の景色も、幾多の冒険にれた素戔嗚には、まるで高天原たかまがはら八衢やちまたのように、今では寸分すんぶん刺戟しげきさえない、平凡な往来に過ぎないのであった。
 夕暮が近くなった時、川幅が狭くなると共に、両岸にはあしまれになって、ふしくれ立った松の根ばかりが、水と泥とのまじる所を、荒涼とかがっているようになった。彼は今夜の泊りを考えながら、前よりはやや注意深く、両岸に眼をくばって行った。松は水の上まで枝垂しだれた枝を、鉄網のようにからめ合せて、林の奥の神秘な世界を、執念しゅうね人目ひとめから隠していた。それでも時たまその松が、鹿しかでも水を飲みに来るせいか、まばらいている所には不気味なほど赤い大茸おおたけが、薄暗い中に簇々そうそうむらがっている朽木も見えた。
 益々夕暮が迫って来た。その時、彼は遥か向うの、水に臨んでいる一枚岩の上に、人間らしい姿が一つ、坐っているのを発見した。勿論この川筋には、さっきから全然人煙じんえんあがっている容子ようすは見えなかった。だからこの姿を発見した時も、彼は始は眼を疑って、高麗剣こまつるぎつかにこそ手をかけて見たが、まだ体は悠々と独木舟の舷に凭せていた。
 その内に舟は水脈みおを引いて、次第にそこへ近づいて来た。すると一枚岩の上にいるのも、いよいよ人間にまぎれなくなった。のみならずほどなくその姿は、白衣びゃくいの据を長く引いた、女だと云う事まで明らかになった。彼は好奇心に眼を輝かせながら、思わず独木舟のみよしに立ち上った。舟はその間もに微風をはらんで、小暗おぐらく空にはびこった松の下を、刻々一枚岩の方へ近づきつつあった。

        三十四

 舟はとうとう一枚岩の前へ釆た。岩の上には松の枝が、やはり長々と枝垂しだれていた。素戔嗚すさのおは素早く帆を下すと、その松の枝を片手につかんで、両足へうんと力を入れた。と同時に舟は大きく揺れながら、舳に岩角いわかどこけをかすって、たちまちそこへ横づけになった。
 女は彼の近づくのも知らず、岩の上へ独り泣き伏していた。が、人のけはいに驚いたのか、この時ふと顔をもたげて、舟の中の彼を見たと思うと、やにわに悲鳴を挙げながら、半ば岩をいだいている、太い松の蔭に隠れようとした。しかし彼はその途端とたんに、片手に岩角をつかんだまま、「御待ちなさい。」と云うより早く、うしろへ引き残した女のもすそを、片手にしっかり握りとめた。女は思わずそこへ倒れて、もう一度短い悲鳴をらした。が、それぎり身を起す気色けしきもなく、また前のように泣き入ってしまった。
 彼はともづなを松の枝に結ぶと、身軽く岩の上へ飛び上った。そうして女の肩へ手をかけながら、
「御安心なさい。私は何もあなたの体に、害を加えようと云うのじゃありません。ただ、あなたがこんな所に、泣いているのが不審ふしんでしたから、どうしたのかと思って、舟を止めたのです。」と云った。
 女はやっと顔を挙げて、水の上をめた暮色の中に、ず彼の姿を見上げた。彼はその刹那にこの女が、夢の中にのみ見る事が出来る、例えばこの夏の夕明ゆうあかりのような、どことなくもの悲しい美しさにあふれている事を知ったのであった。
「どうしたのです。あなたは路でも迷ったのですか。それとも悪者にでもさらわれたのですか。」
 女は黙って、首を振った。その拍子ひょうし頸珠くびだま※(「王へん+干」、第3水準1-87-83)ろうかんが、かすかに触れ合う音を立てた。彼はこの子供のような、いやと云う返事の身ぶりを見ると、我知らず微笑が唇にのぼって来ずにはいられなかった。が、女はその次の瞬間には、見る見る恥しそうな色に頬を染めて、また涙にうるんだ眼を、もう一度ひざへ落してしまった。
「では、――ではどうしたのです。何か難儀な事でもあったら、遠慮なく話して御覧なさい。私に出来る事でさえあれば、どんな事でもして上げます。」
 彼がこう優しく慰めると、女は始めて勇気を得たように、時々まだ口ごもりながら、とにかく一切の事情を話して聞かせた。それによると女の父は、この川上かわかみの部落のおさをしている、足名椎あしなつちと云うものであった。ところが近頃部落の男女なんによが、続々と疫病えきびょうたおれるため、足名椎は早速巫女みこに命じて、神々の心を尋ねさせた。すると意外にも、ここにいる、櫛名田姫くしなだひめと云う一人娘を、高志こし大蛇おろちいけにえにしなければ、部落全体が一月ひとつきの内に、死に絶えるであろうと云う託宣たくせんがあった。そこで足名椎はむを得ず、部落の若者たちと共に舟をして、遠い部落からこの岩の上まで、櫛名田姫を運んで来たあと、彼女一人を後に残して、帰って行ったと云う事であった。

        三十五

 櫛名田姫くしなだひめの話を聞き終ると、素戔嗚すさのおうなじらせながら、愉快そうに黄昏たそがれの川を見廻した。
「その高志こし大蛇おろちと云うのは、一体どんな怪物なのです。」「人のうわさを聞きますと、かしらと尾とが八つある、八つの谷にもわたるるくらい、大きなくちなわだとか申す事でございます。」
「そうですか。それはい事を聞きました。そんな怪物には何年にも、出合った事がありませんから、話を聞いたばかりでも、力瘤ちからこぶの動くような気がします。」
 櫛名田姫は心配そうに、そっと涼しい眼を挙げて、無頓着な彼を見守った。
「こう申す内にもいつ何時なんどき、大蛇が参るかわかりませんが、あなたは――」
「大蛇を退治たいじする心算つもりです。」
 彼はきっぱりこう答えると、両腕を胸に組んだまま、静に一枚岩の上を歩き出した。
「退治すると仰有おっしゃっても、大蛇は只今申し上げた通り、一方ひとかたならない神でございますから――」
「そうです。」
「万一あなたがそのために、御怪我おけがをなさらないとも限りませんし、――」
「そうです。」
「どうせ私はいけにえになるものと、覚悟をきめた体でございます。たといこのまま、――」
「御待ちなさい。」
 彼は歩みを続けながら、何か眼に見えない物を払いのけるような手真似をした。
「私はあなたをおめおめと大蛇のいけにえにはしたくないのです。」
「それでも大蛇が強ければ――」
「仕方がないと云うのですか。たとい仕方がないにしても、私はやはり戦うのです。」
 櫛名田姫くしなだひめはまた顔を赤めて、帯に下げた鏡をまさぐりながら、かすかに彼の言葉を押し返した。
「私が大蛇のいけにえになるのは、神々の思召おぼしめしでございます。」
「そうかも知れません。しかしいけにえになると云う事がなかったら、あなたは今時分たった一人、こんな所に来てはいないでしょう。して見ると神々の思召しは、あなたを大蛇のいけにえにするより、かえって私に大蛇の命を断たせようと云うのかも知れません。」
 彼は櫛名田姫の前に足を止めた。と同時に一瞬間、おごそかな権威のひらめきが彼のみにくい眉目の間に※(「石+薄」、第3水準1-89-18)ぼうはくしたように思われた。
「けれども巫女みこが申しますには――」
 櫛名田姫の声はほとんど聞えなかった。
「巫女は神々の言葉を伝えるものです。神々の謎を解くものではありません。」
 この時突然二頭の鹿が、もう暗くなった向うの松の下から、わずかに薄白うすじらんだ川の中へ、水煙みずけむりを立てておどりこんだ。そうしてつのを並べたまま、必死にこちらへ泳ぎ出した。
「あの鹿のあわてようは――もしや来るのではございますまいか。あれが、――あの恐ろしい神が、――」
 櫛名田姫はまるで狂気のように、素戔嗚の腰へすがりついた。
「そうです。とうとう来たようです。神々の謎の解ける時が。」
 彼は対岸に眼をくばりながら、おもむろに高麗剣こまつるぎつかへ手をかけた。するとその言葉がまだ終らない内に、驟雨しゅううの襲いかかるような音が、対岸の松林を震わせながら、その上にまばらな星をいた、山々の空へのぼり出した。

(大正九年五月)




 



底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
   1996(平成8)年4月1日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:湯地光弘
1999年8月27日公開
2004年3月13日修正
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