四
二人はこう云う力競べを何回となく闘わせた。その内に追い追い二人とも、疲労の気色を現して来た。彼等の顔や手足には、玉のような汗が滴っていた。のみならず彼等の着ている倭衣は、模様の赤黒も見えないほど、一面に砂にまみれていた。それでも彼等は息を切らせながら、必死に巌石を擡げ合って、最後の勝敗が決するまでは容易に止めそうな容子もなかった。 彼等を取り巻いた若者たちの興味は、二人の疲労が加わるのにつれて、益々強くなるらしかった。この点ではこの若者たちも闘鶏や闘犬の見物同様、残忍でもあれば冷酷でもあった。彼等はもう猪首の若者に特別な好意を持たなかった。それにはすでに勝負の興味が、余りに強く彼等の心を興奮の網に捉えていた。だから彼等は二人の力者に、代る代る声援を与えた。古来そのために無数の鶏、無数の犬、無数の人間が徒らに尊い血を流した、――宿命的にあらゆる物を狂気にさせる声援を与えた。 勿論この声援は二人の若者にも作用した。彼等は互に血走った眼の中に、恐るべき憎悪を感じ合った。殊に背の低い猪首の若者は、露骨にその憎悪を示して憚らなかった。彼の投げ捨てる巌石は、しばしば偶然とは解釈し難いほど、あの容貌の醜い若者の足もとに近く転げ落ちた。が、彼はそう云う危険に全然無頓着でいるらしかった。あるいは無頓着に見えるくらい、刻々近づいて来る勝敗に心を奪われているのかも知れなかった。 彼は今も相手の投げた巌石を危く躱しながら、とうとうしまいには勇を鼓して、これも水際に横わっている牛ほどの岩を引起しにかかった。岩は斜に流れを裂いて、淙々とたぎる春の水に千年の苔を洗わせていた。この大岩を擡げる事は、高天原第一の強力と云われた手力雄命でさえ、たやすく出来ようとは思われなかった。が、彼はそれを両手に抱くと、片膝砂へついたまま、渾身の力を揮い起して、ともかくも岩の根を埋めた砂の中からは抱え上げた。 この人間以上の膂力は、周囲に佇んだ若者たちから、ほとんど声援を与うべき余裕さえ奪った観があった。彼等は皆息を呑んで千曳の大岩を抱えながら、砂に片膝ついた彼の姿を眼も離さずに眺めていた。彼はしばらくの間動かなかった。しかし彼が懸命の力を尽している事だけは、その手足から滴り落ちる汗の絶えないのにも明かであった。それがやや久しく続いた後、声をひそめていた若者たちは、誰からともなくまたどよみを挙げた。ただそのどよみは前のような、勢いの好い声援の叫びではなく、思わず彼等の口を洩れた驚歎の呻きにほかならなかった。何故と云えばこの時彼は、大岩の下に肩を入れて、今までついていた片膝を少しずつ擡げ出したからであった。岩は彼が身を起すと共に、一寸ずつ、一分ずつ、じりじり砂を離れて行った。そうして再び彼等の間から一種のどよみが起った時には、彼はすでに突兀たる巌石を肩に支えながら、みずらの髪を額に乱して、あたかも大地を裂いて出た土雷の神のごとく、河原に横わる乱石の中に雄々しくも立ち上っていた。
五
千曳の大岩を担いだ彼は、二足三足蹌踉と流れの汀から歩みを運ぶと、必死と食いしばった歯の間から、ほとんど呻吟する様な声で、「好いか渡すぞ。」と相手を呼んだ。 猪首の若者は逡巡した。少くとも一瞬間は、凄壮そのもののような彼の姿に一種の威圧を感じたらしかった。が、これもすぐにまた絶望的な勇気を振い起して、 「よし。」と噛みつくように答えたと思うと、奮然と大手を拡げながら、やにわにあの大岩を抱き取ろうとした。 岩はほどなく彼の肩から、猪首の若者の肩へ移り出した。それはあたかも雲の堰が押し移るがごとく緩漫であった。と同時にまた雲の峰が堰き止め難いごとく刻薄であった。猪首の若者はまっ赤になって、狼のように牙を噛みながら、次第にのしかかって来る千曳の岩を逞しい肩に支えようとした。しかし岩が相手の肩から全く彼の肩へ移った時、彼の体は刹那の間、大風の中の旗竿のごとく揺れ動いたように思われた。するとたちまち彼の顔も半面を埋めた鬚を除いて、見る見る色を失い出した。そうしてその青ざめた額から、足もとの眩い砂の上へ頻に汗の玉が落ち始めた。――と思う間もなく今度は肩の岩が、ちょうどさっきとは反対に一寸ずつ、一分ずつ、じりじり彼を圧して行った。彼はそれでも死力を尽して、両手に岩を支えながら、最後まで悪闘を続けようとしたが、岩は依然として運命のごとく下って来た。彼の体は曲り出した。彼の頭も垂れるようになった。今の彼はどこから見ても、石塊の下にもがいている蟹とさらに変りはなかった。 周囲に集まった若者たちは、余りの事に気を奪われて、茫然とこの悲劇を見守っていた。また実際彼等の手では、到底千曳の大岩の下から彼を救い出す事はむずかしかった。いや、あの容貌の醜い若者でさえ、今となっては相手の背からさっき擡げた大盤石を取りのける事が出来るかどうか、疑わしいのは勿論であった。だから彼もしばらくの間は、恐怖と驚愕とを代る代る醜い顔に表しながら、ただ、漫然と自失した眼を相手に注ぐよりほかはなかった。 その内に猪首の若者は、とうとう大岩に背を圧されて、崩折れるように砂へ膝をついた。その拍子に彼の口からは、叫ぶとも呻くとも形容出来ない、苦しそうな声が一声溢れて来た。あの容貌の醜い若者は、その声が耳にはいるが早いか、急に悪夢から覚めたごとく、猛然と身を飜して、相手の上に蔽いかぶさった大岩を向うへ押しのけようとした。が、彼がまだ手さえかけない内に、猪首の若者は多愛もなく砂の上にのめりながら、岩にひしがれる骨の音と共に、眼からも口からも夥しく鮮な血を迸らせた。それがこの憐むべき強力の若者の最期であった。 あの容貌の醜い若者は、ぼんやり手を束ねたまま、陽炎の中に倒れている相手の屍骸を見下した。それから苦しそうな視線を挙げて、無言の答を求めるように、おずおず周囲に立っている若者たちを見廻した。が、大勢の若者たちは麗らかな日の光を浴びて、いずれも黙念と眼を伏せながら、一人も彼の醜い顔を仰ぎ見ようとするものはなかった。
六
高天原の国の若者たちは、それ以来この容貌の醜い若者に冷淡を装う事が出来なくなった。彼等のある一団は彼の非凡な腕力に露骨な嫉妬を示し出した。他の一団はまた犬のごとく盲目的に彼を崇拝した。さらにまた他の一団は彼の野性と御目出度さとに残酷な嘲笑を浴せかけた。最後に数人の若者たちは心から彼に信服した。が、敵味方の差別なく彼等がいずれも彼に対して、一種の威圧を感じ始めた事は、打ち消しようのない事実であった。 こう云う彼等の感情の変化は、勿論彼自身も見逃さなかった。が、彼のために悲惨な死を招いた、あの猪首の若者の記憶は、未だに彼の心の底に傷ましい痕跡を残していた。この記憶を抱いている彼は、彼等の好意と反感との前に、いずれも当惑に似た感じを味わないではいられなかった。殊に彼を尊敬する一団の若者たちに接する時は、ほとんど童女にでも似つかわしい羞恥の情さえ感じ勝ちであった。これが彼の味方には、今までよりまた一層、彼に好意の目なざしを向けさせることになるらしかった。と同時に彼の敵には、それだけ彼に反感を加えさせる事にもなるらしかった。 彼はなるべく人を避けた。そうして多くはたった一人、その部落を繞る山間の自然の中に時を過ごした。自然は彼に優しかった。森は木の芽を煙らせながら、孤独に苦しんでいる彼の耳へも、人懐しい山鳩の声を送って来る事を忘れなかった。沢も芽ぐんだ蘆と共に、彼の寂寥を慰むべく、仄かに暖い春の雲を物静な水に映していた。藪木の交る針金雀花、熊笹の中から飛び立つ雉子、それから深い谷川の水光りを乱す鮎の群、――彼はほとんど至る所に、仲間の若者たちの間には感じられない、安息と平和とを見出した。そこには愛憎の差別はなかった、すべて平等に日の光と微風との幸福に浴していた。しかし――しかし彼は人間であった。 時々彼が谷川の石の上に、水を掠めて去来する岩燕を眺めていると、あるいは山峡の辛夷の下に、蜜に酔って飛びも出来ない虻の羽音を聞いていると、何とも云いようのない寂しさが突然彼を襲う事があった。彼はその寂しさが、どこから来るのだかわからなかった。ただ、それが何年か前に、母を失った時の悲しみと似ているような気もちだけがした。彼はその当座どこへ行っても、当然そこにいるべき母のいない事を見せられると、必ず落莫たる空虚の感じに圧倒されるのが常であった。その悲しみに比べると、今の彼の寂しさが、より強いものとは思われなかった。が、一人の母を恋い歎くより、より大きいと云う心もちはあった。だから彼は山間の春の中に、鳥や獣のごとくさまよいながら、幸福と共に不可解な不幸をも味わずにはいられなかった。 彼はこの寂しさに悩まされると、しばしば山腹に枝を張った、高い柏の梢に上って、遥か目の下の谷間の景色にぼんやりと眺め入る事があった。谷間にはいつも彼の部落が、天の安河の河原に近く、碁石のように点々と茅葺き屋根を並べていた。どうかするとまたその屋根の上には、火食の煙が幾すじもかすかに立ち昇っている様も見えた。彼は太い柏の枝へ馬乗りに跨がりながら、長い間その部落の空を渡って来る風に吹かれていた。風は柏の小枝を揺って、折々枝頭の若芽の を日の光の中に煽り立てた。が、彼にはその風が、彼の耳元を流れる度に、こう云う言葉を細々と囁いて行くように思われた。 「素戔嗚よ。お前は何を探しているのだ。お前の探しているものは、この山の上にもなければ、あの部落の中にもないではないか。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。お前は何をためらっているのだ。素戔嗚よ。……」
七
しかし素戔嗚は風と一しょに、さまよって歩こうとは思わなかった。では何が孤独な彼を高天原の国に繋いでいたか。――彼は自らそう尋ねると、必ず恥かしさに顔が赤くなった。それはこの容貌の醜い若者にも、私かに彼が愛している部落の娘がいたからであった。そうしてその娘に彼のような野人が恋をすると云う事は、彼自身にも何となく不似合の感じがしたからであった。 彼が始めてこの娘に遇ったのは、やはりあの山腹の柏の梢に、たった一人上っていた時であった。彼はその日も茫然と、目の下に白くうねっている天の安河を眺めていると、意外にも柏の枝の下から晴れ晴れした女の笑い声が起った。その声はまるで氷の上へばらばらと礫を投げたように、彼の寂しい真昼の夢を突嗟の間に打ち砕いてしまった。彼は眠を破られた人の腹立たしさを感じながら、柏の下に草を敷いた林間の空き地へ眼を落した。するとそこには三人の女が、麗らかな日の光を浴びて、木の上の彼には気がつかないのか、頻に何か笑い興じていた。 彼等は皆竹籠を臂にかけている所を見ると、花か木の芽か山独活を摘みに来た娘らしかった。素戔嗚はその女たちを一人も見知って居なかった。が、彼等があの部落の中でも、卑しいものの娘でない事は、彼等の肩に懸っている、美しい領巾を見ても明かであった。彼等はその領巾を微風に飜しながら、若草の上に飛び悩んでいる一羽の山鳩を追いまわしていた。鳩は女たちの手の間を縫って、時々一生懸命に痛めた羽根をばたつかせたが、どうしても地上三尺とは飛び上る事が出来ないようであった。 素戔嗚は高い柏の上から、しばらくこの騒ぎを見下していた。するとその内に女たちの一人は臂に懸けた竹籠もそこへ捨てて、危く鳩を捕えようとした。鳩はまた一しきり飛び立ちながら、柔かい羽根を雪のように紛々とあたりへ撒き散らした。彼はそれを見るが早いか、今まで跨っていた太枝を掴んで、だらりと宙に吊り下った。と思うと一つ弾みをつけて、柏の根元の草の上へ、勢いよくどさりと飛び下りた。が、その拍子に足を辷らせて、呆気にとられた女たちの中へ、仰向けさまに転がってしまった。 女たちは一瞬間、唖のように顔を見合せていたが、やがて誰から笑うともなく、愉快そうに皆笑い出した。すぐに草の上から飛び起きた彼は、さすがに間の悪そうな顔をしながら、それでもわざと傲然と、女たちの顔を睨めまわした。鳩はその間に羽根を引き引き、木の芽に煙っている林の奥へ、ばたばた逃げて行ってしまった。 「あなたは一体どこにいらしったの?」 やっと笑い止んだ女たちの一人は蔑むようにこう云いながら、じろじろ彼の姿を眺めた。が、その声には、まだ抑え切れない可笑しさが残っているようであった。 「あすこにいた。あの柏の枝の上に。」 素戔嗚は両腕を胸に組んで、やはり傲然と返事をした。
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