二十四
やがて足もとの岩は、湿った苔になった。苔はまた間もなく、深い羊歯の茂みになった。それから丈の高い熊笹に、――いつの間にか素戔嗚は、山の中腹を埋めている森林の中へはいったのであった。 森林は容易に尽きなかった。風雨も依然として止まなかった。空には樅や栂の枝が、暗い霧を払いながら、悩ましい悲鳴を挙げていた。彼は熊笹を押し分けて、遮二無二その中を下って行った。熊笹は彼の頭を埋めて、絶えず濡れた葉を飛ばせていた。まるで森全体が、彼の行手を遮るべく、生きて動いているようであった。 彼は休みなく進み続けた。彼の心の内には相不変鬱勃として怒が燃え上っていた。が、それにも関らず、この荒れ模様の森林には、何か狂暴な喜びを眼ざまさせる力があるらしかった。彼は草木や蔦蘿を腕一ぱいに掻きのけながら、時々大きな声を出して、吼って行く風雨に答えたりした。 午もやや過ぎた頃、彼はとうとう一すじの谷川に、がむしゃらな進路を遮られた。谷川の水のたぎる向うは、削ったような絶壁であった。彼はその流れに沿って、再び熊笹を掻き分けて行った。するとしばらくして向うの岸へ、藤蔓を編んだ桟橋が、水煙と雨のしぶきとの中に、危く懸っている所へ出た。 桟橋を隔てた絶壁には、火食の煙が靡いている、大きな洞穴が幾つか見えた。彼はためらわずに桟橋を渡って、その穴の一つを覗いて見た。穴の中には二人の女が、炉の火を前に坐っていた。二人とも火の光を浴びて、描いたように赤く見えた。一人は猿のような老婆であったが、一人はまだ年も若いらしかった。それが彼の姿を見ると、同時に声を挙げながら、洞穴の奥へ逃げこもうとした。が、彼は彼等のほかに男手のないのを見るが早いか、猛然と穴の中へ突き進んだ。そうしてまず造作もなく、老婆をそこへ じ伏せてしまった。 若い女は壁に懸けた刀子へ手をかけるや否や、素早く彼の胸を刺そうとした。が、彼は片手を揮って、一打にその刀子を打ち落した。女はさらに剣を抜いて、執念く彼を襲って来た。しかし剣は一瞬の後、やはり鏘然と床に落ちた。彼はその剣を拾い取ると、切先を歯に啣えながら苦もなく二つに折って見せた。そうして冷笑を浮べたまま、戦いを挑むように女を見た。 女はすでに斧を執って、三度彼に手向おうとしていた。が、彼が剣を折ったのを見ると、すぐに斧を投げ捨てて、彼の憐に訴うべく、床の上にひれ伏してしまった。 「おれは腹が減っているのだ。食事の仕度をしれい。」 彼は捉えていた手を緩めて、猿のような老婆をも自由にした。それから炉の火の前へ行って、楽々とあぐらをかいた。二人の女は彼の命令通り、黙々と食事の仕度を始めた。
二十五
洞穴の中は広かった。壁にはいろいろな武器が懸けてあった。それが炉の火の光を浴びて、いずれも美々しく輝いていた。床にはまた鹿や熊の皮が、何枚もそこここに敷いてあった。その上何から起るのか、うす甘い が快く暖な空気に漂っていた。 その内に食事の仕度が出来た。野獣の肉、谷川の魚、森の木の実、干した貝、――そう云う物が盤や坏に堆く盛られたまま、彼の前に並べられた。若い女は瓶を執って、彼に酒を勧むべく、炉のほとりへ坐りに来た。目近に坐っているのを見れば、色の白い、髪の豊な、愛嬌のある女であった。 彼は獣のように、飮んだり食ったりした。盤や坏は見る見る内に、一つ残らず空になった。女は健啖な彼を眺めながら子供のように微笑していた。彼に刀子を加えようとした、以前の慓悍な気色などは、どこを探しても見えなかった。 「さあ、これで腹は出来た。今度は着る物を一枚くれい。」 彼は食事をすませると、こう云って、大きな欠伸をした。女は洞穴の奥へ行って、絹の着物を持って来た。それは今まで彼の見た事のない、精巧な織模様のある着物であった。彼は身仕度をすませると、壁の上の武器の中から、頭椎の剣を一振とって、左の腰に結び下げた。それからまた炉の火の前へ行って、さっきのようにあぐらを掻いた。 「何かまだ御用がございますか。」 しばらくの後、女はまた側へ来て、ためらうような尋ね方をした。 「おれは主人の帰るのを待っているのだ。」 「待って、――どうなさるのでございますか。」 「太刀打をしようと思うのだ。おれは女を劫して、盗人を働いたなどとは云われたくない。」 女は顔にかかる髪を掻き上げながら、鮮な微笑を浮べて見せた。「それでは御待ちになるがものはございません。私がこの洞穴の主人なのでございますから。」 素戔嗚は意外の感に打たれて、思わず眼を大きくした。 「男は一人もいないのか。」 「一人も居りません。」 「この近くの洞穴には?」 「皆私の妹たちが、二三人ずつ住んで居ります。」 彼は顔をしかめたまま二三度頭を強く振った。火の光、床の毛皮、それから壁上の太刀や剣、――すべてが彼には、怪しげな幻のような心もちがした。殊にこの若い女は、きらびやかな頸珠や剣を飾っているだけに、余計人間離れのした、山媛のような気がするのであった。しかし風雨の森林を長い間さまよった後この危害の惧のない、暖な洞穴に坐っているのは、とにかく快いには違いなかった。 「妹たちは大勢いるのか。」 「十六人居ります。――ただ今姥が知らせに参りましたから、その内に皆御眼にかかりに、出て参るでございましょう。」 成程そう云われて見れば、あの猿のような老婆の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。
二十六
素戔嗚は膝を抱えたまま、洞外をどよもす風雨の音にぼんやり耳を傾けていた。すると女は炉の中へ、新に焚き木を加えながら、 「あの――御名前は何とおっしゃいますか。私は大気都姫と申しますが。」と云った。 「おれは素戔嗚だ。」 彼がこう名乗った時、大気都姫は驚いた眼を挙げて、今更のようにこの無様な若者を眺めた。素戔嗚の名は彼女の耳にも、明かに熟しているようであった。 「では今まではあの山の向うの、高天原の国にいらしったのでございますか。」 彼は黙って頷いた。 「高天原の国は、好い所だと申すではございませんか。」 この言葉を聞くと共に、一時静まっていた心頭の怒火が、また彼の眼の中に燃えあがった。 「高天原の国か。高天原の国は、鼠が猪よりも強い所だ。」 大気都姫は微笑した。その拍子に美しい歯が、鮮に火の光に映って見えた。 「ここは何と云う所だ?」 彼は強いて冷かに、こう話頭を転換した。が、彼女は微笑を含んで、彼の逞しい肩のあたりへじっと眼を注いだまま、何ともその問に答えなかった。彼は苛立たしい眉を動かして、もう一度同じ事を繰返した。大気都姫は始めて我に返ったように、滴るような媚を眼に浮べて、 「ここでございますか。ここは――ここは猪が鼠より強い所でございます。」と答えた。 その時俄に人のけはいがして、あの老婆を先頭に、十五人の若い女たちが、風雨にめげた気色もなく、ぞろぞろ洞穴の中へはいって来た。彼等は皆頬に紅をさして、高々と黒髪を束ねていた。それが順々に大気都姫と、親しそうな挨拶を交換すると、呆気にとられた彼のまわりへ、馴れ馴れしく手ん手に席を占めた。頸珠の色、耳環の光、それから着物の絹ずれの音、――洞穴の内はそう云う物が、榾明りの中に充ち満ちたせいか、急に狭くなったような心もちがした。 十六人の女たちは、すぐに彼を取りまいて、こう云う山の中にも似合わない、陽気な酒盛を開き始めた。彼は始は唖のように、ただ勧められる盃を一息にぐいぐい飲み干していた。が、酔がまわって来ると、追いおい大きな声を挙げて、笑ったり話したりする様になった。女たちのある者は、玉を飾って琴を弾いた。またある者は、盃を控えて、艶かしい恋の歌を唱った。洞穴は彼等のえらぐ声に、鳴りどよむばかりであった。 その内に夜になった。老婆は炉に焚き木を加えると共に、幾つも油火の燈台をともした。その昼のような光の中に、彼は泥のように酔い痴れながら、前後左右に周旋する女たちの自由になっていた。十六人の女たちは、時々彼を奪い合って、互に嬌嗔を帯びた声を立てた。が、大抵は大気都姫が、妹たちの怒には頓着なく、酒に中った彼を壟断していた。彼は風雨も、山々も、あるいはまた高天原の国も忘れて、洞穴を罩めた脂粉の気の中に、全く沈湎しているようであった。ただその大騒ぎの最中にも、あの猿のような老婆だけは、静に片隅に蹲って、十六人の女たちの、人目を憚らない酔態に皮肉な流し目を送っていた。
二十七
夜は次第に更けて行った。空になった盤や瓶は、時々けたたましい音を立てて、床の上にころげ落ちた。床の上に敷いた毛皮も、絶えず机から滴る酒に、いつかぐっしょり濡らされていた。十六人の女たちは、ほとんど正体もないらしかった。彼等の口から洩れるものは、ただ意味のない笑い声か、苦しそうな吐息の音ばかりであった。 やがて老婆は立ち上って、明るい油火の燈台を一つ一つ消して行った。後には炉に消えかかった、煤臭い榾の火だけが残った。そのかすかな火の光は、十六人の女に虐まれている、小山のような彼の姿を朦朧といつまでも照していた。…… 翌日彼は眼をさますと、洞穴の奥にしつらえた、絹や毛皮の寝床の中に、たった一人横になっていた。寝床には菅畳を延べる代りに、堆く桃の花が敷いてあった。昨日から洞中に溢れていた、あのうす甘い、不思議な は、この桃の花の に違いなかった。彼は鼻を鳴らしながら、しばらくはただぼんやりと岩の天井を眺めていた。すると気違いじみた昨夜の記憶が、夢のごとく眼に浮んで来た。と同時にまた妙な腹立たしさが、むらむらと心頭を襲い出した。 「畜生。」 素戔嗚はこう呻きながら、勢いよく寝床を飛び出した。その拍子に桃の花が、煽ったように空へ舞い上った。 洞穴の中には例の老婆が、余念なく朝飯の仕度をしていた。大気都姫はどこへ行ったか、全く姿を見せなかった。彼は手早く靴を穿いて、頭椎の太刀を腰に帯びると、老婆の挨拶には頓着なく、大股に洞外へ歩を運んだ。 微風は彼の頭から、すぐさま宿酔を吹き払った。彼は両腕を胸に組んで、谷川の向うに戦いでいる、さわやかな森林の梢を眺めた。森林の空には高い山々が、中腹に懸った靄の上に、 たる肌を曝していた。しかもその巨大な山々の峰は、すでに朝日の光を受けて、まるで彼を見下しながら、声もなく昨夜の狂態を嘲笑っているように見えるのであった。 この山々と森林とを眺めていると、彼は急に洞穴の空気が、嘔吐を催すほど不快になった。今は炉の火も、瓶の酒も、乃至寝床の桃の花も、ことごとく忌わしい腐敗の に充満しているとしか思われなかった。殊にあの十六人の女たちは、いずれも死穢を隠すために、巧な紅粉を装っている、屍骨のような心もちさえした。彼はそこで山々の前に、思わず深い息をつくと、悄然と頭を低れながら、洞穴の前に懸っている藤蔓の橋を渡ろうとした。 が、その時賑かな笑い声が、静な谷間に谺しながら、活き活きと彼の耳にはいった。彼は我知らず足を止めて、声のする方を振り返った。と、洞穴の前に通っている、細い岨路の向うから、十五人の妹をつれた、昨日よりも美しい大気都姫が、眼早く彼の姿を見つけて、眩い絹の裳を飜しながら、こちらへ急いで来る所であった。 「素戔嗚尊。素戔嗚尊。」 彼等は小鳥の囀るように、口々に彼を呼びかけた。その声はほとんど宿命的に、折角橋を渡りかけた素戔嗚の心を蕩漾させた。彼は彼自身の腑甲斐なさに驚きながら、いつか顔中に笑を浮べて、彼等の近づくのを待ちうけていた。
二十八
それ以来素戔嗚は、この春のような洞穴の中に、十六人の女たちと放縦な生活を送るようになった。 一月ばかりは、瞬く暇に過ぎた。 彼は毎日酒を飮んだり、谷川の魚を釣ったりして暮らした。谷川の上流には瀑があって、そのまた瀑のあたりには年中桃の花が開いていた。十六人の女たちは、朝毎にこの瀑壺へ行って、桃花の を浸した水に肌を洗うのが常であった。彼はまだ朝日のささない内に、女たちと一しょに水を浴ぶべく、遠い上流まで熊笹の中を、分け上る事も稀ではなかった。 その内に偉大な山々も、谷川を隔てた森林も、おいおい彼と交渉のない、死んだ自然に変って行った。彼は朝夕静寂な谷間の空気を呼吸しても、寸毫の感動さえ受けなくなった。のみならずそう云う心の変化が、全然彼には気にならなかった。だから彼は安んじて、酒びたりな日毎を迎えながら、幻のような幸福を楽んでいた。 しかしある夜夢の中に、彼は山上の岩むらに立って、再び高天原の国を眺めやった。高天原の国には日が当って、天の安河の大きな水が焼太刀のごとく光っていた。彼は勁い風に吹かれながら、眼の下の景色を見つめていると、急に云いようのない寂しさが、胸一ぱいに漲って来た、そうして思わず、声を立てて泣いた。その声にふと眼がさめた時、涙は実際彼の煩に、冷たい痕を止めていた。彼はそれから身を起して、かすかな榾明りに照らされた、洞穴の中を見廻した。彼と同じ桃花の寝床には、酒の のする大気都姫が、安らかな寝息を立てていた。これは勿論彼にとって、珍しい事でも何でもなかった。が、その姿に眼をやると、彼女の顔は不思議にも、眉目の形こそ変らないが、垂死の老婆と同じ事であった。 彼は恐怖と嫌悪とに、わななく歯を噛みしめながら、そっと生暖い寝床を辷り脱けた。そうして素早く身仕度をすると、あの猿のような老婆も感づかないほど、こっそり洞穴の外へ忍んで出た。 外には暗い夜の底に、谷川の音ばかりが聞えていた。彼は藤蔓の橋を渡るが早いか、獣のように熊笹を潜って、木の葉一つ動かない森林を、奥へ奥へと分けて行った。星の光、冷かな露、苔の 、梟の眼――すべてが彼には今までにない、爽かな力に溢れているようであった。 彼は後も振返らずに、夜が明けるまで歩み続けた。森林の夜明けは美しかった。暗い栂や樅の空が燃えるように赤く染まった時、彼は何度も声を挙げて、あの洞穴を逃れ出した彼自身の幸福を祝したりした。 やがて太陽が、森の真上へ来た。彼は梢の山鳩を眺めながら、弓矢を忘れて来た事を後悔した。が、空腹を充すべき木の実は、どこにでも沢山あった。 日の暮は瞼しい崖の上に、寂しそうな彼を見出した。森はその崖の下にも、針葉樹の鋒を並べていた。彼は岩かどに腰を下して、谷に沈む日輪を眺めながら、うす暗い洞穴の壁に懸っている、剣や斧を思いやった。すると何故か、山々の向うから、十六人の女の笑い声が、かすかに伝わって来るような心もちがした。それは想像も出来ないくらい、怪しい誘惑に富んだ幻であった。彼は暮れかかる岩と森とを、食い入るように見据えたまま、必死にその誘惑を禦ごうとした。が、あの洞穴の榾火の思い出は、まるで眼に見えない網のように、じりじり彼の心を捉えて行った。
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