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素戔嗚尊(すさのおのみこと)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/8/16 10:26:40 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



        二十九

 素戔嗚すさのおは一日ののち、またあの洞中に帰って来た。十六人の女たちは、皆彼の逃げた事も知らないような顔をしていた。それはどう考えても、無関心をよそおっているとは思われなかった。むしろ彼等は始めから、ある不思議な無感受性を持っているような気がするのであった。
 この彼等の無感受性は、当座の間彼を苦しませた。が、さらに一月ばかり経って見ると、かえって彼はそのために、前よりもなお安々やすやすと、いつまでもめないよいのような、怪しい幸福にひたる事が出来た。
 一年ばかりの月日は、再び夢のように通り過ぎた。
 するとある日女たちは、どこから洞穴ほらあなへつれて来たか、一頭の犬を飼うようになった。犬は全身まっ黒な、こうしほどもあるおすであった。彼等は、殊に大気都姫おおけつひめは、人間のようにこの犬を可愛がった。彼も始は彼等と一しょに、さらの魚やけものの肉を投げてやる事を嫌わなかった。あるいはまた酒後のたわむれに、相撲すもうをとる事も度々あった。犬は時々前足を飛ばせて、れた彼を投げ倒した。彼等はその度に手を叩いて、賑かに笑い興じながら、意気地いくじのない彼を嘲り合った。
 ところが犬は一日毎に、益々彼等に愛されて行った。大気都姫はとうとう食事の度に、彼と同じさらほたりを、犬の前にも並べるようになった。彼はにがい顔をして、一度は犬をい払おうとした。が、彼女はいつになく、美しい眼の色を変えて、彼の我儘をとがめ立てた。その怒を犯してまでも、犬を成敗せいばいしようと云う勇気は、すでに彼には失われていた。彼はそこで犬と共に、肉を食ったり酒を飲んだりした。犬は彼の不快を知っているように、いつもさらめ廻しながら、彼の方へきばいて見せた。
 しかしその間は、まだ好かった。ある朝彼は女たちに遅れて、例の通りたきを浴びに行った。季節は夏に近かったが、そのあたりの桃は相不変あいかわらず、谷間の霧の中に開いていた。彼は熊笹くまざさを押し分けながら、桃の落花をたたえている、すぐ下の瀑壺たきつぼへ下りようとした。その時彼の眼は思いがけなく、水を浴びている××××××黒いけものが動いているのを見た。××××××××××××××××××××××××××××××。彼はすぐに腰のつるぎを抜いて、一刺しに犬を刺そうとした。が、女たちはいずれも犬をかばって、自由に剣をふるわせなかった。その暇に犬は水を垂らしながら、瀑壺たきつぼの外へ躍り上って、洞穴の方へ逃げて行ってしまった。
 それ以来夜毎の酒盛りにも、十六人の女たちが、一生懸命に奪い合うのは、素戔嗚ではなくて、黒犬であった。彼は酒にひたりながら、洞穴の奥にうずくまって、一夜中ひとよじゅうよい泣きの涙を落していた。彼の心は犬に対する、燃えるような嫉妬しっとで一ぱいであった。が、その嫉妬の浅間あさましさなどは、寸毫すんごうも念頭にはのぼらなかった。
 ある夜彼がまた洞穴の奥に、泣き顔を両手へうずめていると、突然誰かが忍びよって、両手に彼をいだきながらなまめかしい言葉をささやいた。彼は意外な眼を挙げて、油火あぶらびには遠い薄暗がりに、じっと相手の顔をかして見た。と同時に怒声を発して、いきなり相手を突き放した。相手は一たまりもなくゆかに倒れて、苦しそうな呻吟しんぎんの声を洩らした。――それはあの腰もろくに立たない、猿のような老婆の声であった。

        三十

 老婆を投げ倒した素戔嗚すさのおは、涙に濡れた顔をしかめたまま、とらのように身を起した。彼の心はその瞬間、嫉妬と憤怒ふんぬ屈辱くつじょくとの煮え返っている坩堝るつぼであった。彼は眼前に犬とたわむれている、十六人の女たちを見るが早いか、頭椎かぶつちの太刀を引き抜きながら、この女たちのむらがった中へ、我を忘れて突進した。
 犬は咄嗟とっさに身を飜して、危く彼の太刀を避けた。と同時に女たちは、たけり立った彼を引き止むべく、右からも左からもからみついた。が、彼はその腕を振り離して、切先下きっさきさがりにもう一度狂いまわる犬をそうとした。
 しかし大刀は犬の代りに、彼の武器を奪おうとした、大気都姫おおけつひめの胸を刺した。彼女は苦痛の声をらして、のけざまに床の上へ倒れた。それを見た女たちは、皆悲鳴を挙げながら、糅然じゅうぜんと四方へ逃げのいた。燈台の倒れる音、けたたましく犬の吠える声、それからさらだのほたりだのが粉微塵こなみじんに砕ける音、――今まで笑い声に満ちていた洞穴ほらあなの中も、一しきりはまるで嵐のような、混乱の底に投げこまれてしまった。
 彼は彼自身の眼を疑うように、一刹那いっせつなは茫然とたたずんでいた。が、たちまち大刀を捨てて、両手に頭を抑えたと思うと、息苦しそうなうめき声を発して、いとを離れた矢よりも早く、洞穴の外へ走り出した。
 空にはかさのかかった月が、無気味ぶきみなくらいぼんやりあおざめていた。森の木々もその空に、暗枝あんしをさしかわせて、ひっそり谷を封じたまま、何か凶事きょうじが起るのを待ち構えているようであった。が、彼は何も見ず、何も聞かずに走り続けた。熊笹は露を振いながら、あたかも彼をうずめようとするごとく、どこまで行ってもなみを立てていた。時々夜鳥よどりがその中から、翼に薄い燐光りんこうを帯びて、風もないこずえへ昇って行った。……
 がた彼は彼自身を、大きな湖の岸に見出した。湖は曇った空の下にちょうどなまりの板かと思うほど、波一つ揚げていなかった。周囲にそびえた山々も重苦しい夏の緑の色が、わずかに人心地のついた彼には、ほとんど永久にやす事を知らない、憂鬱そのもののごとくに見えた。彼は岸の熊笹を分けて、乾いた砂の上に下りた。それからそこに腰をおろして、寂しい水面みのもへ眼を送った。湖には遠く一二点、かいつぶりの姿が浮んでいた。
 すると彼の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。彼は高天原たかまがはらの国にいた時、無数の若者を敵にしていた。それが今では、一匹の犬が、彼の死敵してきのすべてであった。――彼は両手に顔をうずめて、長い間大声に泣いていた。
 その間に空模様が変った。対岸をふさいだ山の空には、二三度かぎの手の稲妻いなずまが飛んだ。続いて殷々いんいんいかずちが鳴った。彼はそれでも泣きながら、じっと砂の上に坐っていた。やがて雨をはらんだ風が、大うねりに岸の熊笹を渡った。と、にわかに湖が暗くなって、ざわざわ波が騒ぎ始めた。
 いかずちが猶鳴り続けた。その内に対岸の山が煙り出すと、どこともなくざっと木々が鳴って、一旦暗くなった湖が、見る見る向うからまた白くなった。彼は始めて顔を挙げた。その途端とたんに天を傾けて、たきのような大雨おおあめが、沛然はいぜんと彼を襲って来た。

        三十一

 対岸の山はすでに見えなくなった。湖も立ちめた雲煙うんえんの中に、ややともするとまぎれそうであった。ただ、稲妻のひらめく度に、波の逆立さかだった水面が、一瞬間遠くまで見渡された。と思うといかずちの音が、必ず空をきむしるように、続けさまに轟々ごうごうと爆発した。
 素戔嗚すさのおはずぶ濡れになりながら、いまだなぎさの砂を去らなかった。彼の心は頭上の空より、さらに晦濛かいもうの底へ沈んでいた。そこにはけがれ果てた自己に対する、憤懣ふんまんよりほかに何もなかった。しかし今はその憤懣をほしいままらす力さえ、――大樹の幹に頭を打ちつけるか、湖の底に身を投ずるか、一気に自己を亡すべき、最後の力さえれ尽きていた。だから彼は心身とも、まるで破れた船のように、空しく騒ぎ立つ波に臨んだまま、まっ白に落す豪雨を浴びて、黙然もくねんと坐っているよりほかはなかった。
 天はいよいよ暗くなった。風雨も一層力を加えた。そうして――突然彼の眼の前が、ぎらぎらと凄まじい薄紫うすむらさきになった。山が、雲が、湖が皆半空はんくうに浮んで見えた。同時に地軸ちじくも砕けたような、落雷の音が耳をいた。彼は思わず飛び立とうとした。が、すぐにまた前へ倒れた。雨は俯伏うつぶせになった彼の上へ未練未釈みれんみしゃくなく降りそそいだ。しかし彼は砂の中に半ば顔をうずめたまま、身動きをする気色けしきも見えなかった。……
 何時間か過ぎたのち、失神した彼はおもむろに、砂の上から起き上った。彼の前には静な湖が、油のように開いていた。空にはまだ雲が立ち迷ってただ一幅の日の光が、ちょうど対岸の山の頂へ帯のように長く落ちていた。そうしてその光のさした所が、そこだけほかよりあざやかな黄ばんだ緑にほのめいていた。
 彼は茫然と眼を挙げて、この平和な自然を眺めた。空も、木々も、雨後の空気も、すべてが彼には、昔見た夢の中の景色のような、懐しい寂莫せきばくあふれていた。
「何かおれの忘れていた物が、あの山々の間に潜んでいる。」――彼はそう思いながら、むさぼるように湖を眺め続けた。しかしそれが何だったかは、遠い記憶を辿たどって見ても、容易に彼には思い出せなかった。
 その内に雲の影が移って、彼を囲む真夏の山々へ、一時に日の光が照り渡った。山々をうずめる森の緑は、それと共に美しく湖の空に燃え上った。この時彼の心には異様な戦慄せんりつが伝わるのを感じた。彼は息を呑みながら、熱心に耳を傾けた。すると重なり合った山々の奥から、今まで忘れていた自然の言葉が声のないいかずちのようにとどろいて来た。
 彼は喜びにおののいた。戦きながらその言葉の威力の前に圧倒された。彼はしまいには砂に伏して、必死に耳をふさごうとした。が、自然は語り続けた。彼は嫌でもその言葉に、じっと聞き入るよりみちはなかった。
 湖は日に輝きながら、溌溂はつらつとその言葉に応じた。彼は――そのなぎさにひれ伏している、小さな一人の人間は、代る代る泣いたり笑ったりしていた。が、山々の中から湧き上る声は、彼の悲喜には頓着なく、あたかも目に見えない波濤のように、絶えまなく彼の上へみなぎって来た。

        三十二

 素戔嗚すさのおはその湖の水を浴びて、全身のけがれを洗い落した。それから岸に臨んでいる、大きなもみの木の陰へ行って、久しぶりにすこやな眠に沈んだ。が、夢はその間も、深い真夏の空の奥から、鳥の羽根が一すじ落ちるように、静に彼の上へ舞いさがって来た。――
 夢の中は薄暗かった。そうして大きな枯木が一本、彼の前に枝をのばしていた。
 そこへ一人の大男が、どこからともなく歩いて来た。顔ははっきり見えなかったが、つかりゅうかざりのある高麗剣こまつるぎいている事は、その竜の首が朦朧もうろう金色こんじきに光っているせいか、一目にもすぐに見分けられた。
 大男は腰のつるぎを抜くと、無造作むぞうさにそれを鍔元つばもとまで、大木の根本へ突き通した。
 素戔嗚はその非凡な膂力りょりょくに、驚嘆しずにはいられなかった。すると誰か彼の耳に、
「あれは火雷命ほのいかずちのみことだ。」と、囁いてくれるものがあった。 大男は静に手を挙げて、彼に何か相図あいずをした。それが彼には何となく、その高麗剣こまつるぎを抜けと云う相図のように感じられた。そうして急に夢が覚めた。
 彼は茫然と身を起した。微風に動いているもみこずえには、すでに星がかれていた。周囲にも薄白い湖のほかは、熊笹のそよぎやこけ※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においが、かすかに動いている夕闇があった。彼は今見た夢を思い出しながら、そう云うあたりへ何気なにげなく、ものう視線しせんただよわせた。
 と、十歩と離れていない所に、夢の中のそれと変りのない、一本の枯木のあるのが見えた。彼は考えるいとまもなく、その枯木の側へ足を運んだ。
 枯木はさっきの落雷に、かれたものに違いなかった。だから根元には何かの針葉しんようが、枝ごと一面に散らばっていた。彼はその針葉を踏むと同時に、夢が夢でなかった事を知った。――枯木の根本には一振ひとふり高麗剣こまつるぎが竜の飾のあるつかを上にほとんどつばも見えないほど、深く突き立っていたのであった。
 彼は両手に柄をつかんで、渾身こんしんの力をこめながら、一気にそのつるぎを引き抜いた。剣は今し方いだように鍔元つばもとから切先きっさきまで冷やかな光を放っていた。「神々はおれを守って居て下さる。」――そう思うと彼の心には、新しい勇気が湧くような気がした。彼は枯木の下にひざまずいて天上の神々に祈りを捧げた。
 そののち彼はまたもみ木陰こかげへ帰って、しっかり剣をいだきながら、もう一度深い眠に落ちた。そうして三日三晩の間、死んだように眠り続けた。
 眠から覚めた素戔嗚は再び体を清むべく、湖のなぎさへ下りて行った。風のぎ尽した湖は、小波さざなみさえ砂をすらなかった。その水が彼の足もとへ、汀に立った彼の顔を、鏡のごとく鮮かに映して見せた。それは高天原たかまがはらの国にいた時の通り、心も体もたくましい、みにくい神のような顔であった。が、彼の眼の下には、今までにない一筋のしわが、いつの間にか一年間の悲しみのあとを刻んでいた。

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