十三
その間もあの快活な娘の姿は、絶えず素戔嗚の心を領していた。殊に時たま部落の内外で、偶然彼女と顔を合わせると、ほとんどあの山腹の柏の下で、始めて彼女と遇った時のように、訳もなく顔が熱くなったり、胸がはずんだりするのが常であった。が、彼女はいつも取澄まして、全然彼を見知らないかのごとく、頭を下げる容子も見せなかった。―― ある朝彼は山へ行く途中、ちょうど部落のはずれにある噴き井の前を通りかかると、あの娘が三四人の女たちと一しょに、水甕へ水を汲んでいるのに遇った。噴き井の上には白椿が、まだ疎に咲き残って、絶えず湧きこぼれる水の水沫は、その花と葉とを洩れる日の光に、かすかな虹を描いていた。娘は身をかがめながら、苔蒸した井筒に溢れる水を素焼の甕へ落していたが、ほかの女たちはもう水を汲み了えたのか、皆甕を頭に載せて、しっきりなく飛び交う燕の中を、家々へ帰ろうとする所であった。が、彼がそこへ来た途端に、彼女は品良く身を起すと、一ぱいになった水甕を重そうに片手に下げたまま、ちらりと彼の顔へ眼をやった、そうしていつになく、人懐しげに口元へ微笑を浮べて見せた。 彼は例の通り当惑しながら、ちょいと挨拶の点頭を送った。娘は水甕を頭へ載せながら、眼でその挨拶に答えると、仲間の女たちの後を追って、やはり釘を撒くような燕の中を歩き出した。彼は娘と入れ違いに噴井の側へ歩み寄って、大きな掌へ掬った水に、二口三口喉を沾した。沽しながら彼女の眼つきや唇の微笑を思い浮べて、何か嬉しいような、恥かしいような心もちに顔を赤めていた。と同時にまた己自身を嘲りたいような気もしないではなかった。 その間に女たちはそよ風に領巾を飜しながら、頭の上の素焼の甕にさわやかな朝日の光を浴びて次第に噴き井から遠ざかって行った。が、間もなく彼等の中からは一度に愉快そうな笑い声が起った。それにつれて彼等のある者は、笑顔を後へ振り向けながら、足も止めずに素戔嗚の方へ、嘲るような視線を送りなぞした。 噴き井の水を飲んでいた彼は、幸その視線に煩わされなかった。しかし彼等の笑い声を聞くと、いよいよ妙に間が悪くなって、今更飲みたくもない水を、もう一杯手で掬って飲んだ。すると中高になった噴き井の水に、意外にも誰か人の姿が、咄嗟に覚束ない影を落した。素戔嗚は慌てた眼を挙げて、噴き井の向うの白椿の下へ、鞭を持った一人の若者が、のそのそと歩み寄ったのと顔を合せた。それは先日草山の喧嘩に、とうとう彼まで巻添えにした、あの牛飼の崇拝者であった。 「お早うございます。」 若者は愛想笑いを見せながら、恭しく彼に会釈をした。 「お早う。」 彼はこの若者にまで、狼狽した所を見られたかと思うと、思わず顔をしかめずにはいられなかった。
十四
が、若者はさり気ない調子で、噴き井の上に枝垂れかかった白椿の花を りながら、 「もう瘤は御癒りですか。」 「うん、とうに癒った。」 彼は真面目にこんな返事をした。 「生米を御つけになりましたか。」 「つけた。あれは思ったより利き目があるらしかった。」 若者は った椿の花を噴き井の中へ抛りこむと、急にまたにやにや笑いながら、 「じゃもう一つ、好い事を御教えしましょうか。」 「何だ。その好い事と云うのは。」 彼が不審そうにこう問返すと、若者はまだ意味ありげな笑を頬に浮べたまま、 「あなたの頸にかけて御出でになる、勾玉を一つ頂かせて下さい。」と云った。 「勾玉をくれ? くれと云えばやらないものでもないが、勾玉を貰ってどうするのだ?」 「まあ、黙って頂かせて下さい。悪いようにはしませんから。」 「嫌だ。どうするのだか聞かない内は、勾玉なぞをやる訳には行かない。」 素戔嗚はそろそろ焦れ出しながら、突慳貪に若者の請を却けた。すると相手は狡猾そうに、じろりと彼の顔へ眼をやって、 「じゃ云いますよ。あなたは今ここへ水を汲みに来ていた、十五六の娘が御好きでしょう。」 彼は苦い顔をして、相手の眉の間を睨みつけた。が、内心は少からず、狼狽に狼狽を重ねていた。 「御好きじゃありませんか、あの思兼尊の姪を。」 「そうか。あれは思兼尊の姪か。」 彼は際どい声を出した。若者はその容子を見ると、凱歌を挙げるように笑い出した。 「そら、御覧なさい。隠したってすぐに露われます。」 彼はまた口を噤んで、じっと足もとの石を見つめていた。水沫を浴びた石の間には、疎に羊歯の葉が芽ぐんでいた。 「ですから私に勾玉を一つ、御よこしなさいと云うのです。御好きならまた御好きなように、取計らいようもあるじゃありませんか。」 若者は鞭を弄びながら、透かさず彼を追窮した。彼の記憶には二三日前に、思兼尊と話し合った、あの古沼のほとりの柳の花が、たちまち鮮に浮んで来た。もしあの娘が尊の姪なら――彼は眼を足もとの石から挙げると、やはり顔をしかめたなり、 「そうして勾玉をどうするのだ?」と云った。 しかし彼の眼の中には、明かに今まで見えなかった希望の色が動いていた。
十五
若者の答えは無造作であった。 「何、その勾玉をあの娘に渡して、あなたの思召しを伝えるのです。」 素戔嗚はちょいとためらった。この男の弁舌を弄する事は、何となく彼には不快であった。と云って彼自身、彼の心を相手に訴えるだけの勇気もなかった。若者は彼の醜い顔に躊躇の色が動くのを見ると、わざと冷やかに言葉を継いだ。 「御嫌なら仕方はありませんが。」 二人はしばらくの間黙っていた。が、やがて素戔嗚は頸に懸けた勾玉の中から、美しい琅 の玉を抜いて、無言のまま若者の手に渡した。それは彼が何よりも、大事にかけて持っている、歿くなった母の遺物であった。 若者はその琅 に物欲しそうな眼を落しながら、 「これは立派な勾玉ですね、こんな性の好い琅 は、そう沢山はありますまい。」 「この国の物じゃない。海の向うにいる玉造が、七日七晩磨いたと云う玉だ。」 彼は腹立たしそうにこう云うと、くるりと若者に背を向けて、大股に噴き井から歩み去った。若者はしかし勾玉を掌の上に載せながら、慌てて後を追いかけて来た。 「待っていて下さい。必ず二三日中には、吉左右を御聞かせしますから。」 「うん、急がなくって好いが。」 彼等は倭衣の肩を並べて、絶え間なく飛び交う燕の中を山の方へ歩いて行った。後には若者の投げた椿の花が、中高になった噴き井の水に、まだくるくる廻りながら、流れもせず浮んでいた。 その日の暮方、若者は例の草山の楡の根がたに腰を下して、また素戔嗚に預けられた勾玉を掌へ載せて見ながら、あの娘に云い寄るべき手段をいろいろ考えていた。するとそこへもう一人の若者が、斑竹の笛を帯へさして、ぶらりと山を下って来た。それは部落の若者たちの中でも、最も精巧な勾玉や釧の所有者として知られている、背の高い美貌の若者であった。彼はそこを通りかかると、どう思ったかふと足を止めて、楡の下の若者に「おい、君。」と声をかけた。若者は慌てて、顔を挙げた。が、彼はこの風流な若者が、彼の崇拝する素戔嗚の敵の一人だと云う事を承知していた。そこでいかにも無愛想に、 「何か御用ですか。」と返事をした。 「ちょいとその勾玉を見せてくれないか。」 若者は苦い顔をしながら、琅 を相手の手に渡した。 「君の玉かい。」 「いいえ、素戔嗚尊の玉です。」 今度は相手の若者の方が、苦い顔をしずにはいられなかった。 「じゃいつもあの男が、自慢そうに下げている玉だ。もっともこのほかに下げているのは、石塊同様の玉ばかりだが。」 若者は毒口を利きながら、しばらくその勾玉を弄んでいたが、自分もその楡の根がたへ楽々と腰を下すと、 「どうだろう。物は相談と云うが、一つ君の計らいで、この玉を僕に売ってくれまいか。」と、大胆な事を云い出した。
十六
牛飼いの若者は否と返事をする代りに、頬を脹らせたまま黙っていた。すると相手は流し眼に彼の顔を覗きこんで、 「その代り君には御礼をするよ。刀が欲しければ刀を進上するし、玉が欲しければ玉も進上するし、――」 「駄目ですよ。その勾玉は素戔嗚尊が、ある人に渡してくれと云って、私に預けた品なのですから。」 「へええ、ある人へ渡してくれ? ある人と云うのは、ある女と云う事かい。」 相手は好奇心を動かしたと見えて、急に気ごんだ調子になった。 「女でも男でも好いじゃありませんか。」 若者は余計なおしゃべりを後悔しながら面倒臭そうにこう答を避けた。が、相手は腹を立てた気色もなく、反って薄気昧が悪いほど、優しい微笑を漏らしながら、 「そりゃどっちでも好いさ。どっちでも好いが、その人へ渡す品だったら、そこは君の働き一つで、ほかの勾玉を持って行っても、大した差支はなさそうじゃないか。」 若者はまた口を噤んで、草の上へ眼を反らせていた。 「勿論多少は面倒が起るかも知れないさ。しかしそのくらいな事はあっても、刀なり、玉なり、鎧なり、乃至はまた馬の一匹なり、君の手にはいった方が――」 「ですがね、もし先方が受け取らないと云ったら、私はこの玉を素戔嗚尊へ返さなければならないのですよ。」 「受け取らないと云ったら?」 相手はちょいと顔をしかめたが、すぐに優しい口調に返って、 「もし先方が女だったら、そりゃ素戔嗚の玉なぞは受け取らないね。その上こんな琅 は、若い女には似合わないよ。だから反ってこの代りに、もっと派手な玉を持って行けば、案外すぐに受け取るかも知れない。」 若者は相手の云う事も、一理ありそうな気がし出した。実際いかに高貴な物でも、部落の若い女たちが、こう云う色の玉を好むかどうか、疑わしいには違いなかったのであった。 「それからだね――」 相手は唇を舐めながら、いよいよもっともらしく言葉を継いだ。 「それからだね、たとい玉が違ったにしても、受け取って貰った方が、受け取らずに返されるよりは、素戔嗚も喜ぶだろうじゃないか。して見れば玉は取り換えた方が、反って素戔嗚のためになるよ。素戔嗚のためになって、おまけに君が刀でも、馬でも手に入れるとなれば、もう文句はない筈だがね。」 若者の心の中には、両方に刃のついた剣やら、水晶を削った勾玉やら、逞ましい月毛の馬やらが、はっきりと浮び上って来た。彼は誘惑を避けるように、思わず眼をつぶりながら、二三度頭を強く振った。が、眼を開けると彼の前には、依然として微笑を含んでいる、美しい相手の顔があった。 「どうだろう。それでもまだ不服かい。不服なら――まあ、何とか云うよりも、僕の所まで来てくれ給え。刀も鎧もちょうど君に御誂えなのがある筈だ。厩には馬も五六匹いる。」 相手は飽くまでも滑な舌を弄しながら気軽く楡の根がたを立ち上った。若者はやはり黙念と、煮え切らない考えに沈んでいた。しかし相手が歩き出すと、彼もまたその後から、重そうな足を運び始めた。―― 彼等の姿が草山の下に、全く隠れてしまった時、さらに一人の若者が、のそのそそこへ下って来た。夕日の光はとうに薄れて、あたりにはもう靄さえ動いていたが、その若者が素戔嗚だと云う事は、一目見てさえ知れる事であった。彼は今日射止めたらしい山鳥を二三羽肩にかけて、悠々と楡の下まで来ると、しばらく疲れた足を休めて、暮色の中に横たわっている部落の屋根を見下した。そうして独り唇に幸福な微笑を漂わせた。 何も知らない素戔嗚は、あの快活な娘の姿を心に思い浮べたのであった。
十七
素戔嗚は一日一日と、若者の返事を待ち暮した。が、若者はいつになっても、容易に消息を齋さなかった。のみならず故意か偶然か、ほとんどその後素戔嗚とは顔も合さないぐらいであった。彼は若者の計画が失敗したのではないかと思った。そのために彼と会う事が恥しいのではないかと思った。が、そのまた一方では、やはりまだあの快活な娘に、近づく機会がないのかも知れないと思い返さずにはいられなかった。 その間に彼はあの娘と、朝早く同じ噴き井の前で、たった一度落合った事があった。娘は例のごとく素焼の甕を頭の上に載せながら、四五人の部落の女たちと一しょに、ちょうど白椿の下を去ろうとしていた。が、彼の顔を見ると、彼女は急に唇を歪めて、蔑むような表情を水々しい眼に浮べたまま、昂然と一人先に立って、彼の傍を通り過ぎた。彼はいつもの通り顔を赤めた上に、その日は何とも名状し難い不快な感じまで味わされた。「おれは莫迦だ。あの娘はたとい生まれ変っても、おれの妻になるような女ではない。」――そう云う絶望に近い心もちも、しばらくは彼を離れなかった。しかし牛飼の若者が、否やの返事を持って来ない事は、人の好い彼に多少ながら、希望を抱かせる力になった。彼はそれ以来すべてをこの未知の答えに懸けて、二度と苦しい思いをしないために、当分はあの噴き井の近くへも立ち寄るまいと私かに決心した。 ところが彼はある日の日暮、天の安河の河原を歩いていると、折からその若者が馬を洗っているのに出会った。若者は彼に見つかった事が、明かに気まずいようであった。同時に彼も何となく口が利き悪い気もちになって、しばらくは入日の光に煙った河原蓬の中へ佇みながら、艶々と水をかぶっている黒馬の毛並を眺めていた。が、追い追いその沈黙が、妙に苦しくなり始めたので、とり敢えず話題を開拓すべく、目前の馬を指さしながら、 「好い馬だな。持主は誰だい。」と、まず声をかけた。すると意外にも若者は得意らしい眼を挙げて、 「私です。」と返事をした。 「そうか。そりゃ――」 彼は感嘆の言葉を呑みこむと、また元の通り口を噤んでしまった。が、さすがに若者は素知らぬ顔も出来ないと見えて、 「先達あの勾玉を御預りしましたが――」と、ためらい勝ちに切り出した。 「うん、渡してくれたかい。」 彼の眼は子供のように、純粋な感情を湛えていた、若者は彼と眼を合わすと、慌ててその視線を避けながら、故に馬の足掻くのを叱って、 「ええ、渡しました。」 「そうか。それでおれも安心した。」 「ですが――」 「ですが? 何だい。」 「急には御返事が出来ないと云う事でした。」 「何、急がなくっても好い。」 彼は元気よくこう答えると、もう若者には用がないと云ったように、夕霞のたなびいた春の河原を元来た方へ歩き出した。彼の心の中には、今までにない幸福の意識が波立っていた。河原蓬も、空も、その空に一羽啼いている雲雀も、ことごとく彼には嬉しそうであった。彼は頭を挙げて歩きながら、危く霞に紛れそうな雲雀と時々話をした。 「おい、雲雀。お前はおれが羨ましそうだな。羨ましくないと? 嘘をつけ。それなら何故そんなに啼き立てるのだ。雲雀。おい、雲雀。返事をしないか。雲雀。……」
十八
素戔嗚はそれから五六日の間、幸福そのもののような日を送った。ところがその頃から部落には、作者は誰とも判然しない、新しい歌が流行り出した。それは醜い山鴉が美しい白鳥に恋をして、ありとあらゆる空の鳥の哂い物になったと云う歌であった。彼はその歌が唱われるのを聞くと、今まで照していた幸福の太陽に、雲が懸ったような心もちがした。 しかし彼は多少の不安を感じながら、まだ幸福の夢から覚めずにいた。すでに美しい白鳥は、醜い山鴉の恋を容れてくれた。ありとあらゆる空の鳥は、愚な彼を哂うのではなく、反って仕合せな彼を羨んだり妬んだりしているのであった。――そう彼は信じていた。少くともそう信ぜずにはいられないような気がしていた。 だから彼はその後また、あの牛飼の若者に遇った時も、ただ同じ答を聞きたいばかりに、 「あの勾玉は確かに渡してくれたのだろうな。」と、軽く念を押しただけであった。若者はやはり間の悪るそうな顔をしながら、 「ええ、確かに渡しました。しかし御返事の所は――」とか何とか、曖昧に言葉を濁していた。それでも彼は渡したと云う言葉に満足して、その上立ち入った事情なぞは尋ねようとも思わなかった。 すると三四日経ったある夜の事、彼が山へ寝鳥でも捕えに行こうと思って、月明りを幸、部落の往来を独りぶらぶら歩いていると、誰か笛を吹きすさびながら、薄い靄の下りた中を、これも悠々と来かかるものがあった。野蛮な彼は幼い時から、歌とか音楽とか云うものにはさらに興味を感じなかった。が、藪木の花の のする春の月夜に包まれながら、だんだんこちらへやって来る笛の声に耳を傾けるのは、彼にとっても何となく、心憎い気のするものであった。 その内に彼とその男とは、顔を合せるばかりに近くなって来た。しかし相手は鼻の先へ来ても、相不変笛を吹き止めなかった。彼は路を譲りながら、天心に近い月を負って、相手の顔を透かして見た。美しい顔、燦びやかな勾玉、それから口に当てた斑竹の笛――相手はあの背の高い、風流な若者に違いなかった。彼は勿論この若者が、彼の野性を軽蔑する敵の一人だと云うことを承知していた。そこで始は昂然と肩を挙げて、挨拶もせずに通り過ぎようとした。が、いよいよ二人がすれ違おうとした時、何かがもう一度彼の眼を若者の体へ惹きつけた。と、相手の胸の上には、彼の母が遺物に残した、あの琅 の勾玉が、曇りない月の光に濡れて、水々しく輝いていたではないか。 「待て。」 彼は咄嗟に腕を伸ばすと、若者の襟をしっかり掴んだ。 「何をする。」 若者は思わずよろめきながら、さすがに懸命の力を絞って、とられた襟を振り離そうとした。が、彼の手はさながら万力にかけたごとく、いくらもがいても離れなかった。
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