そうして思いもかけぬ後ろから、そっと姫の肩に手をかけた者がありますから、ハッとしてふりかえって見ますと、それは懐かしい藍丸王でありました。王は親切に姫の手を執って―― 「お前はもうすっかり気分はよいのか。昨日の朝お前が気絶した時、俺は随分心配したが、最早すっかり治ったのか。それは何より嬉しい事だ。では最早夜が明けたから二人で花園に散歩に行こうではないか」 と仰せられます。濃紅姫は不思議に思って、今は冬で御座いますから何の花も御座いますまいと申しますと、王様は御笑いになって、まあ来て見るがいいと無理に姫を花園に連れておいでになりました。 来て見るとこれは不思議――春秋の花が一時に咲き揃って、露に濡れ旭に輝やいていますから、濃紅姫は呆れてしまって、恍惚と見とれていますと、王様はニコニコお笑いになりながら―― 「どうだ、濃紅姫。俺が咲かせようと思えば花はいつでもこの通りに咲くのだ。併しお前に聞いて見るが、お前はこの沢山ある花の中で、どの花が一番好きなのか。赤か。青か。黄色か。それとも白か。黒か」 とお尋ねになりました。 濃紅姫は暫く返事に困って考えていましたが、やがて悲し気に低頭れて―― 「妾はもとは桃色の花が大好きで御座いましたが、今は青いのが大好きになりました」 とこう御返事を申し上げました。すると王様は暫くの間何のお言葉もなく、棒のように突立っておいでになる様子ですから不思議に思って、姫はヒョイとお顔を見上げますと、こは如何に。王の顔はいつの間にか恐ろしい青鬼の顔に変っていました。 姫は気絶する程驚いて、そのままあとも見返らずに、夢中で王宮を走り出て自分の家に逃げ帰りましたが、門を這入るとほっと一息安心すると一所に、急に淋しく悲しくなりました。そうして早くお父様やお母様に会おうと思って、家中を探しましたが、家は只一日しか留守にしないのに、ガランとした空家になって、庭には草が茫々と生い茂り、池の水も涸れてしまって、まるで様子が変っています。濃紅姫はこの有様を見て、何だかもう堪らない程悲しくなって来て、思わずそこに泣き倒れようとしますと、不意にうしろから兄様の紅矢が来て抱き止めて、何をそんなに泣いているのだと尋ねました。姫は嬉しさの余り紅矢に獅噛み付いて―― 「あッ。お兄様。お父さまやお母様やそれからあの美紅はどこに居ますか」 と聞きました。すると紅矢はニコニコ笑いながら―― 「妹は兄さんのお使いで今一寸他所へ行っている。それから御両親は今遠い処へお出でになっているが、そこを知っているのはあの『瞬』だけだ。丁度今『瞬』は門の前の馬車に繋いであるから、あれに乗って行ったら会えるだろう」 と申しました。姫は直ぐにその気になりまして、急いで門の前に引き返して見ますと、兄様の言葉の通り、「瞬」が馬車を引っぱって、そこにちゃんと待っていましたから、直ぐに飛び乗って手綱を取り上げて、鞭を高く鳴らしました。 馬車は野を越え川を渡って、山を乗り越し谷を飛び渡りながら、北の方へ流星のように走りましたが、やがて涯しもなく広い砂原へ来ますと、轍が砂の中へ沈んで一歩も進まなくなりましたから、今度は馬車を乗り棄てて徒歩で行きました。やがて四方には何も見えず、只砂の山と雲の峰ばかり見える処に出ましたが、そこには山のように大きな石で出来た男が寝ていまして、濃紅姫を見るとむっくりと起き上って、見かけに似合わぬ細い優しい声で―― 「お前さんはこんな処へ何しに来たのだ。どこから来てどこへ行くのだ」 と尋ねました。姫はこの石男のあまり大きいのに吃驚して、暫くは返事も何も出来ませんでしたが、併し別に悪い者でもなさそうですから、今までの自分の身の上をすっかり話して、何卒お父さまやお母様に会わして下さいと頼みました。石男は濃紅姫の身の上話を聞きますと、どうした訳か解かりませんが大層歎き悲しみました。そうして吾れと自分の頭の毛を掻きむしって―― 「吁。皆俺が悪いのだ」 と泣きながら水晶の玉を眼からぼろぼろと落していましたが、やがて気を取り直しまして、濃紅姫に向って親切に―― 「噫、お嬢様。貴女がそんなに非道い目にお会いになるのは、皆私が悪いからで御座います。何卒御勘弁なすって下さいまし。けれども今更どうする事も出来ませぬから、その代り貴女に御両親のおいでになる処を教えてあげましょう。そこへ行って貴女は今までの苦労をすっかり忘れて、楽しく眠っておいでなさい。決して眼を覚ましてはいけませぬよ。眼を覚ますと貴女は又、あの恐ろしい藍丸王や海の女王の処に帰って、悲しい目を見なければなりませぬから、そのおつもりでいらっしゃい。貴女はこれから真直に北の方へ、どこまでも歩いてお出でなさい。そうすれば決定そこで貴女の御両親にお会いなさるでしょう。左様なら。御機嫌よう。可愛い、可愛い濃紅姫」 と云うかと思うと、そのまま又もやゴロリと仰向けに引っくり返って眠ってしまいました。 姫はこの石男に別れてから、その教えの通りに猶ずんずんと北に向って進んで行きますと、やがて日が暮れ初めた頃、向うに火に柱を吹き出している岩山と、その火の柱の光りに輝やいている一つの湖が見えて来ました。その火の柱の美しい事。まるで千も万もの花火を一時に連けて打ち上げるようで、紅や青や黄色やその他種々の火花が散り乱れて、大空に舞い昇っていましたが、不思議な事にはその轟々と鳴る音をじっと聞いていますと、お父様の声のように思われるではありませぬか。濃紅姫は嬉しくて堪らず、足の疲れも忘れてなおも進んで行きますと、やがて今度はどこからとなく懐かしいお母様の声が聞こえて来ました。姫は思わずその声の方に誘われて、その方へ迷って行きますと、やがて湖の岸まで来ましたが、その声はどうも湖の真中あたりから聞こえて来るようです。 姫は直ぐにザブザブと湖の中に這入って行きましたが、水は次第に深くなって、膝から腰へ腰から胸へと届いて来ました。それでも構わずになおも進んで行きますと、姫はとうとうすっかり水の底へ沈んでしまいました。けれどもちっとも息苦しい事はなく、四方は皆緑色になってしまって、その中に火の山の光りが輝き落ちて、沢山の花の形になって浮かんで、まるで花園のようになってしまいました。その中を押しわけ押しわけ行きますと、やがてその花園の真中に、お母さまが白い衣服を着て立っておいでになりまして、姫を見ますと莞爾とお笑いになり、そのまま姫を軽々と抱き上げて、優しい手で髪を撫で上げながら―― 「まあ、お前は今までどこへ行っていたの。これからお母さまに云わないで遊びに行ってはいけませんよ。さぞお腹が空いたでしょう。さ、お乳をお上り」 と云いながら懐を開いて、乳房を出してお含ませになりました。 姫は身も心もいつの間にか、赤ん坊になってしまった心地がして、何だか悲しいような嬉しいような気になりまして、涙が止め度なく流れましたが、やがてお母様の静かに御歌いになる子守歌を聞きながら、暖い乳房を含んで柔順しく眠ってしまいました。 「牡丹の花がひイらいた。 桜の花がひイらいた。 夢の中からひイらいた。 可愛いお眼々がひイらいた。 お太陽様がニコニコと、 お月様がニコニコと、 可愛いお眼元お口もと、 一所に笑ってニコニコと。 百合の花が閉んだ。 お太陽様が沈んだ。 可愛いお眼々もうとうとと、 夢の中へと閉んだ」
二十二 白木の寝台
翌る朝まだ夜が明け切らぬうちに王宮の表門が左右に開いて二人の騎兵が駈け出しましたが、門を出ると二ツにわかれて、一ツは青眼先生の方へ駈け出し、一ツは紅木大臣の家の方に飛んで行きました。 紅木大臣は昨日濃紅姫を送り出すと直ぐに門を固く鎖して、二人の小供の死骸を石神の部屋に移して、そこで公爵夫人と一所に一日一夜の間泣き明かしましたが、一方濃紅姫の事も気にかかって心配で堪りませぬ。最早お后になった知らせが来るか。最早王宮からお祝いの品物が届くかと待っておりましたが、とうとうその日一日は何の知らせもありませぬ。紅木大臣は心配のあまり家来を町に出して人の噂を聞かせますと、お目見得に来た女は六人共、皆宮中に留っているとの事で、詳しい事はよくわかりませぬ。その中にやがて翌る朝になって、夜がやっと明けかかった時、紅木大臣は室の窓を開いて王宮の方を見ました。すると王宮の方から馬の蹄鉄の音が高く響いて来て、その一ツは青眼先生の家の方へ行き、一ツは自分の家の門の中へ駈け込んで、玄関の処でピタリと止まりました。紅木大臣はこれは屹度濃紅姫が后になったその知らせのための使いであろうと思って、取り次の者も待たずにツカツカと玄関に出て見ますと、案の定、背の高い騎兵が一人、見事な逞ましい馬を控えて立っています。 その騎兵は紅木大臣を見るとハッと固くなって敬礼をしました。そうしてはっきりとした言葉付で―― 「女王様からのお言葉で紅木大臣へ直ぐ宮中にお出で下さるようにとの事で御座います」 と申しました。 「何。濃紅女王様が俺に直ぐ来いと仰せられたか」 これを聞くと騎兵はキョトンと妙な顔をしました。 「イエ。女王様は濃紅という御名では御座いませぬ」 「エエッ。ナ、何という」 騎兵は紅木大臣のこう云った声と見幕に驚いて震え上って了いました。そうして六尺にあまる大きな身体をブルブルと戦かせて返事も出来ずにいますと、紅木大臣はつかつかと玄関の石段を降りて来て騎兵の胸倉をぐっと掴みました―― 「ナ、何という……御名だ」 「ウ……海の女王」 「どんなお方だ」 「美しい……お方」 「馬鹿者……それはわかっている。どんなお姿だ」 「紫の髪毛を垂らして」 「エエッ」 「銀の剣と……コ、金剛石の……」 「何ッ」 「オ……男の着物を召して……」 「悪魔だッ……」 と叫びながら紅木大臣は、騎兵を突き飛ばして奥へ駈け込みました。そうして何事と驚く家の者には一言も云わず、剣を腰に吊るして外套を着て帽子を冠るが早いか、廏へ行って馬を引き出して鞍も置かずに飛び乗りますと、イキナリ馬の横腹を破れる程蹴付けました。 馬は驚いて狂気のようになって、一足飛びに飛び出しましたが、いつ迄も往来に出ずに同じ処ばかりぐるぐるまわっていますから、紅木大臣は自烈度がって―― 「エエ。何をしているのだッ」 と叫びましたが、見ると馬はいつの間にか、紅木大臣の屋敷の中にある、大きな丸い馬場の中に駈け込んで、死に物狂いに駆けまわっています。紅木大臣は歯噛みをして―― 「エエッ。この畜生ッ。表門へ出るのだッ」 と罵りながら、馬をキリキリ引きまわして、花園も芝生も一飛びに、表門に飛び出しましたが、その時はもう最前の騎兵は疾くに王宮に帰り着いている頃でした。 紅木大臣は王宮の表門を這入ると、一直線に玄関まで乗り付けて、馬からヒラリと飛び降りましたが、帽子はいつの間にか吹き飛んで了っていました。そうして取り次の者も待たずに勝手知った奥の方へズンズン這入って行きますと、今日は平生と違って王宮の中はどの廊下もどの廊下も鎧を着た兵士が立っていて、皆鞘を払った鎗や刀を提げて、奥の方を一心に見詰めながら、素破といわば駈け出しそうにしています。けれども紅木大臣はそんなものには眼もくれず、つかつかと奥へ進み入って、王様のお居間に参りましたが、そこには只玉座ばかりで王も女王もおいでになりませぬ。そうしてずっと向うの腰元の室から、思いがけない青眼先生の慌てた声で―― 「女王様。お気を静かに。お気を静かに」 と云うのが聞こえましたから、扨はと思ってその方に急ぎました。 ところが腰元部屋の入り口に来て中を一眼見るや否や、紅木大臣は身体中の筋が一時に硬わばって、そのまま床から生えた石像のように突立ちながら、中の様子を睨み詰めました。 室の真中には綺麗な白木の寝台があって、その上には絹張りの雪洞が釣るしてありました。寝台の上には死人があると見えて、白い布が覆せてあり、寝台の四隅の足には四人の宮女と見える女が髪をふり乱して気絶したまま、グルグル巻きに縛り付けてあります。寝台の向うにこちら向きに椅子を置いて、腕を組んで、眼を閉じて座っているのは藍丸王で、寝台の前には青眼先生が突立って、両手をさし展べています。そしてその手に縋って、青眼先生の顔を見上げている、女王の姿をした者の顔を見ると、どうでしょう。一晩夜の晩氷になってたった今まで石神の前に置いてあった、あの美紅姫に寸分違わぬではありませんか。 悪魔、悪魔と思い込んで来た紅木大臣も、これを見ると今更に、吾れと吾が眼を疑って呼吸も出来ぬ位固くなってしまいました。そうして眼を皿のようにして女王の姿を見詰めていました。 女王は髪を藻のようにふり乱し、顔の色は真青になって、震える唇を噛み締め噛み締め、はふり落ちる涙を拭いもせずに、青眼先生の顔をふり仰いでおりましたが、忽ち血を吐くような声をふり絞って叫びました―― 「青眼先生。教えて下さい。これは夢でしょうか。本当でしょうか」 すると青眼先生は女王の顔を穴の開く程見ながら、落ち付いた力強い声で答えました―― 「夢だか本当だかは女王様のお言葉に依って定まります。何卒、何事も包まずに、私にお話し下さいませ。私は只今王様からの御使者を受けまして、女王様が今朝濃紅姫の御逝れになった御姿を御覧になると直ぐに、恐れ多い事ながら気が御狂い遊ばして、あるにあられぬ奇妙な事ばかり仰せられるとの事。それで私の今までの罪を赦すから、直ぐに女王の病気を見に来るようにとの、有り難い御言葉を承りまして、取るものも取り敢えず参いった次第で御座います。ところが只今女王様の御姿を拝しますると、女王様は決してそんな忌わしい御病気におなり遊ばしたのでは御座いませぬ。そして私はそれよりもずっと驚きましたのは、女王様がどうして生きてここにおいでになるかという事で御座います。何をお隠し申しましょう。昨日の朝女王様がまだ美紅姫で入らせられる時に、私はたしかに女王様を殺しました。その女王様がここにこうして生きておいでになろうとは、私は夢にも存じませんで御座いました。何に致してもこれには何か深い仔細がある事と思います。私は、決して女王様の御言葉を御疑い申し上げませぬ。さあ、女王様。決して御心配には及びませぬ。女王様が、その石神の夢を御覧遊ばしてからどうなされましたか、詳しく御話し下されませ。石神の話はこの国の秘密の話で、これを聞いた者は、その話しの中に居る悪魔に取り憑かれると、昔から申し伝えて御座います。私は今日までその悪魔を固く封じておりましたが、それがいつの間にか逃れ出て、女王様に取り憑いたと見えまする。こうなれば王様と女王様には、秘密に致す要も御座いませぬ。却ってその秘密を破って、何も彼も御話し下されました方が悪魔を退治るのに都合がよろしゅう御座います。ここには仕合わせと王様と私より他に聞いているものは御座いませぬ。何卒御構いなく御話し下さいませ。決定女王様の御心の迷いを晴らして、悪魔を退治て差し上げましょう」 と云いながらも女王の手をしっかりと握り締めました。女王は最早立っている力も無くて床の上に頽折れました。そうして―― 「ハイ。何卒聞いて下さい。そうしてよく考えて妾を助けて下さい」 と云いながら、涙を拭い拭い言葉を続けました―― 「妾はあの夢を見てから後は、明け暮れ自分の室に閉じ籠もって、美留女姫であった昔が本当か、今の美紅の身の上が本当か考えましたが、どうしても解りませんでした。そうしてこれが解からぬ内は、何をしても張り合いがないような気がして、誰に何と云われても何も為る気になりませんでした。紅矢……兄様のお怪我も……濃紅姉様の身の上も……何だか……夢のような気がしていたので御座います。 すると丁度そのお兄様がお怪我遊ばした日の事、妾は青眼先生がお出でになるという事を聞き、扉の隙間からソッと覗いていましたが、前をお通りになる先生の御姿を一目見るや否や、妾は扉をしっかり閉じると、そのまま気絶してしまいました。青眼先生は妾の思い通り、あの夢の中で、妾を悪魔だといって殺そうとしたお方で御座いましたから、もし見付かったらどうしようと思ったからで御座います。 それからどれ程位の間気絶したままでいましたものか、不図気が付いて見ますと、時分は丁度真夜中で、妾はいつの間にか戸棚の中に突立っています。そうして戸棚の扉の鳥の形をした透し彫りが、丁度眼の前に見えます。 妾は暫くの間は何事かわからずに、ぼんやりと鳥の透し彫りから洩れて来るラムプの光りを見詰めたまま突立っておりました。もしやこれはまだ本当に眼が醒めずに、夢を見ているのではないかと思いました。ですから妾はよく心を落ち付けて、眼をしっかりと見開いて、鳥の透し彫りから覗いて見ました。そうして室の中に灯れている丸硝子の行燈の、薄黄色い光りで向うを見ますと、妾は自分の眼を疑わずにはおられませんでした。妾の寝台の上には、妾の寝巻を着た、妾そっくりの女が、平然妾がする通りに髪毛を寝台の左右に垂らして、スヤスヤと睡っているでは御座いませんか……ハッと驚いて自分の着物を探って見ますと、どうでしょう。妾の着物はいつの間にか、奇妙な男の着物とかわっていたので御座います」 「貴女そっくりの女。そうして貴女は男の着物……」 と青眼先生は魘えたような声で申しました。
二十三 自分の寝姿
外に立っている紅木大臣も、この時両方の拳も砕けよと握り締めましたが、女王も亦恐ろしくて堪らぬように、身を震わして答えました―― 「ハイ。昨日海の女王と名乗って、お眼見得に来た時の姿と同じ男の着物でした」 「してそれから貴女はどうなされましたか」 「妾はあまりの不思議に身動き一つ出来ず、自分の寝姿を見詰めていました。そしてその中にどちらが妾なのかわからなくなりました。妾が美紅か、向うが美紅か。妾が美紅ならばあの眠っているのは誰であろう。睡っているのが美紅ならば、この醒めている妾は何者であろう。もしや妾が何かの魔法で、二人にされているのではあるまいか。それでなくてこんなによく肖ている筈はない。それとも身体が向うに残って、心がこちらにあるのではあるまいか。それならばこの身体は誰の身体であろう。又は心が向うに幽霊になって抜け出して現われているのであろうか。それならばこの心は誰の心であろう。どちらが本当であろう。どちらが嘘であろう。両方とも本当か。両方とも嘘か。向うとこちらは別か一所か。もしや眼の迷いではあるまいか。心の迷いではあるまいか。それとも夢かまぼろしかと、すっかり迷ってしまいまして、今にも太陽の光りがさし込んで来たらば、妾は消え失せてしまうのではないか。それでなくとも、このまま戸棚の外に出たならば、直ぐに眼が覚めるのではあるまいかと、迷って、恐れて、震えて、立ち竦んでおりますと、不意に窓の外に人の来る気はいがしました。 妾はこの時何だか自分の身の上に、怖ろしい事が起りかかっているように思われて、恐ろしさの余り呼吸を吐く事も出来ませんでした。そうして戸棚の中から一心に、窓の処を見つめておりますと、間もなく窓からそっと顔を出して中の様子を見た人がありました。それが青眼先生、貴方でした」 「あっ。それではあの時貴女は戸棚の中から見ておいでになりましたか」 と青眼先生は呼吸を機ませて尋ねました。 「けれどもその時の恐ろしかった事。扨は青眼先生はいよいよ妾がこの家に居る事がおわかりになって、この間の夢の中で銀杏の葉の袋を切り破った時と同じように、妾を矢張り悪魔と思って、殺しにおいでになったに違いない。それにしても青眼先生は、あの寝床の中の美紅を妾と思ってお出でになるのであろうか。それとも妾がここに隠れているのを御存じなのであろうか。どちらを御殺しになるであろうと、息を殺して震えながら見ておりました」 「噫。私はあの時寝台の中の女を悪魔だと思い込んで殺したので御座いました。この国の秘密を守るため。王様のため。国のため」 と青眼先生は吾れを忘れて叫びました。 「ハイ。けれどもそれは大変な間違いで御座いました。貴方が悪魔と思ってお殺しになった女は、悪魔でも何でもない美紅姫で、かく云う妾こそ悪魔で御座いました。妾はその時から美紅姫では御座いませんでした」 「エ。エ。エ」 と青眼先生はよろよろとあと退りをして、屹と身構えをして女王の顔を穴の明く程見詰めました―― 「女王様。貴女は本当に気がお狂い遊ばしたので御座いますか」 「イエイエ。少しも狂いませぬ。又嘘も申しませぬ。妾こそ悪魔で御座いました。美紅姫にそっくりそのままの姿をした悪魔で御座いました」 「ウーム」 と青眼先生が両方の手を石のように握り固めながら、女王の顔を睨み詰めますと、室の外の紅木大臣も、思わず刀の柄に手をかけて身構えました。けれども女王は騒ぎませんでした。落ち付いて床の上に座ったまま、青眼先生の顔を仰いで話しを続けました―― 「御疑いになるのも御尤もで御座います。本当は妾もまだその時の疑いが晴れませぬ。ですからこのように打ち明けてお話しをするので御座います。本当の事を申しますと、妾はあの時貴方にあの毒薬を注ぎかけられて、氷になってしまった方が仕合わせで御座いました。なまじいに生き残ったために、妾は悪魔に魅入られた女になってしまいました。 あの時あの少女が悪魔と呼ばれて眼をさまして、『妾は美紅です。この家の娘です』と叫ぶ間もなく、青眼先生から毒薬を注ぎかけられてたおれました時、妾は自分の身体の血が凍ったように思って、心も身体も一所に消え失せたと思いました。けれども間もなく又ふっと気が付きますと、不思議やその時妾の心は、今までとすっかり違って、世にも恐ろしい女の心と入れかわっておりました。妾はその時から今朝まで、美紅姫でも何でもない――多留美という湖の近くに住む、藻取という者の娘で、美留藻という女――美紅姫と同じように夢の中で美留女姫となって、白髪小僧と一所に銀杏の葉に書いた石神のお話を読んだ女――湖の底に鏡を取りに行ったまま、行衛知れずになった女そのままの美留藻になっておりました。そしてそれと一所に、妾はたった今まで美紅姫であった事を忘れてしまって、貴方が美紅姫の死骸を残して、窓から出てお出でになると直ぐに、戸棚の扉を開いて外に出まして、眼の前の寝台の上に横たわっている、美紅姫の氷の死骸を見ると、思わず莞爾と笑いました。そして先ずこれで美紅は死んだ。あとは明日のお眼見得の式で濃紅姫に勝ちさえすれば、妾は間違いなく女王になれると思いました。 青眼先生。妾は全く恐ろしい女で御座いました。悪魔よりももっと無慈悲な女で御座いました。初め妾が夢の中で美留女でいる時に、銀杏の根元で拾った書物に、妾が女王になった挿し絵があるのを見ますと、妾は急に女王になりたくなりました。それと一所に石神のお話の続きも見とう御座いました。つまり夢の中で見た美留女姫の心を、眼が覚めてからも忘れる事が出来なかったので御座います。そうして眼が覚めて後赤い鸚鵡だの、宝蛇だの、水底の鏡だのを見ますと、いよいよあの夢は本当の事に違いないと思いまして、どんな事をしても構わないから、あの夢の通りに自分の身の上をして仕舞おうと思いました。それから妾は親を棄て、夫を捨てて只一人、女王になるために都に向いました。 妾はそれから女王になるためにいろいろな悪い事を致しました。 青眼先生。この間紅矢様が大怪我をなすった時、初めに先生が御覧になった紅矢様は、本当の紅矢様では御座いませぬ。妾が紅矢様の馬と着物を詐欺り取って、紅矢様に化けて来ていたので御座います。それから二度目の時は、妾が『瞬』に乗って、紅矢様のお帰り途に押しかけて、出会い頭に馬を乗りかけて怪我をさせましたので、妾はその死骸を先生の御門の処まで持って来て、放り出して逃げて行ったので御座います。 妾はそれから又もや紅木大臣のお邸敷へ、騒ぎに紛れて忍び入って、美紅姫の室に這入りました。見ると美紅姫はどうした訳か、気絶して床の上に倒れたまま、誰も気付かずにおります。妾はよい都合と喜びまして、兼ねてから髪毛の中に隠しておいた宝蛇を、美紅姫の懐に押し込みました。これが今のように、美紅と美留藻と一所になってわからなくなるはじめとは、その時夢にも思い当りませんでした。 宝蛇が美紅姫の胸から血を吸い初めますと、不思議や妾は自分の身体の血が消え失せるように思いまして、急に眼が眩んで立っている事が出来ずに、床の上にたおれました。 妾はその時夢中になって藻掻きました。そして自分が宝蛇に噛まれて血を吸われていると思いましたから、一生懸命になって自分の胸を掻きまわして、掴み散らしますと、やがて急に胸の苦しみが除れてしまいましたから、ほっと一息安心をしました。が、それと一所にやっと正気になりましたから、眼を開いてあたりを見まわしますと……どうでしょう。最前お話しました時とは反対に、妾はいつの間にか美紅姫が今まで着ていた寝巻と着かえて、片手に宝蛇をしっかりと握って床の上に寝ております。そして直ぐ傍には妾そっくりの男の姿をした女が、あおむけにたおれているでは御座いませぬか。妾は驚きの余り思わず立ち上りました。するとそれと一所に妾の懐から一掴みの紅玉の粒がバラバラと床の上に落ちました。 その時の妾の心地――それは最前妾が美紅としてお話し致しました時と少しもかわりませぬ。全く妾は美紅か美留藻か自分でわからなくなりました。妾が誰を殺そうと思って宝蛇に血を吸わせたのか、それすらわからなくなりました。今の様子では自分を殺すために自分の胸に宝蛇の牙を当てがったとしか思われませぬ。妾はあまりの不思議にぼんやりとして、眼の前に横たわっている男の姿の自分そっくりの娘を見詰めたまま突立っておりました。 けれども暫くしてから、妾はやっと気を落ち付けて考える事が出来ました。これは屹度悪魔の仕業に違いない。何故かと云えば、美紅姫も妾も二人共同じ夢を見て、同じ悪魔の話を聞いたに違いないのだから、二人共悪魔に魅入られているにきまっている。そうして鏡だの、蛇だの、鸚鵡だのを妾の方が先に見たから、悪魔が妾の方に加勢して、妾に知恵を授けているのに違いない。妾に美紅姫に化けよと教えるのに違いない。屹度そうだと思いますと、妾は最早すっかり疑いが晴れました。妾は矢張美留藻であった。行く末は、この国の女王になる美留藻であった。こう思って妾は最早女王になったように喜び勇みました。そうして直ぐにたおれている美紅姫の懐を探って、兼ねてから隠しておきました青眼先生の眠り薬を取り出して、美紅姫に嗅がせまして、そのまま戸棚の中に押し隠しました。こうして妾はいよいよお目見得の式の朝になった時、着物を取り換えて自分の代りに本当の美紅姫を寝台に寝せて逃げて行くつもりでした。そして昼の間は妾は室に閉じ籠もって、成るたけ家の人にも姿を見せぬようにして、真夜中になってから起き上って、薬のために眠っている美紅姫の着物と着換えては、窓から飛び出して悪い事を致しました。 妾はこの時自分で自分の智恵に感心をしておりました。こうすれば妾はいつ家の人に見咎められても美紅としか見えませぬ。けれども一番おしまいの晩にとうとう貴方――青眼先生に見付けられてしまいました。 あの時妾は、紅矢様を苦しめに行きましたが、折角歌で誘い出した貴方が、引き返してお出でになる様子ですから、急いで自分の室に帰ろうとしましたが、その時妾があまり急いで紅矢様の身体から蛇を引き放しましたために、紅矢様は眼をさまして、妾を見るといきなり飛び付いて、左手で妾の胸の鈕を掴みました。今でも紅矢様の掌の中には一ツの大きな金剛石を握っておいでになるに違いありませぬ。妾はそれを振り千切って逃げて帰って、知らぬ顔をして寝ておりました。それを貴方に見付けられたので御座います。妾が貴方から氷の薬を注ぎかけられました時、妾はもう助からぬと思いました。けれども一旦気絶して、たおれて又気が付きますと、どうでしょう、妾はいつの間にか戸棚の中に、男の服を着て立っていたので御座います。 この時もし妾に今までの美紅の心が少しでも残っていたらば、妾は女王にはならなかったで御座いましょう。こんな恐ろしい悲しい思いを為ずとも済んだで御座いましょう。けれどもこの時は妾はすっかり美留藻の心になり切っておりましたから、少しも疑わず恐れずに、美留藻そのままの仕事を続けました。 妾はこの時美紅姫と紅矢様が、鉄と氷の二ツの死骸になってしまったのを見て、すっかり安心をしまして、この塩梅ならば紅木大臣を初め家の者は明日のお目見得に来ないであろう。そうすれば自分を見咎めるものは一人もあるまいから、安心して女王になる事が出来る。それからあとは青眼先生――貴方をどうかして罪に落して亡い者にし、又濃紅姫を無理にも宮中に止めて殺してしまえば、あとは一生安心と、こう思って紅木大臣の家を脱け出ました。そうして大急ぎで宮中に駈け付けて、お眼見得の式に間に合いました。そのあとは御存じの通り首尾よく女王になり済まして、濃紅姫を宮女にしました。そうして……そうして……」 と云う中に女王は急に床の上に突伏してワッとばかりに泣き出しました。 今まで固くなって身構えをしていた青眼先生は、これを見ると慌てて跪いて、女王の手を取って引き起しました。そうして声を震わせながら―― 「お泣き遊ばしてはわかりませぬ。それから……それからどうなされました」 と女王の顔を覗き込んで尋ねました。 するとこの時女王は急によろよろと立ち上りましたが、忽ち身を寝台の上に投げかけて泣き叫びました―― 「許して下さい、お姉様。貴女を殺したのは四人の女では御座いませぬ。妾で御座います。美留藻の美紅で御座います。昨夜まで美留藻であった妾は貴女が憎くて堪らずに、宝蛇を使って貴女の血を吸わせました。そうして……そうして……今朝……紅玉に埋まった貴女を見た時……その時の悲しさ恐ろしさ……。噫。妾は美留藻でしょうか。美紅でしょうか。噫。お父様。お母様。許して下さい。妾は兄様を殺し……姉様を殺しました。そうして妾は何故……何故死なぬのでしょう。噫、恐ろしい。情ない。死にたい死にたい。お姉様と一所に死にたい」 と死骸に縋り付いて、消え入らんばかりに泣き狂うて叫びました。 これを見た青眼先生の眼からは、忽ち涙がハラハラと溢れ落ちました。そうして慌てて走り寄って、女王を抱き除けながら―― 「女王様。気をお静かに。お静かに。女王様は美紅姫で入らせられます。今は御心も御身体も、美紅姫で入らせられます。貴女のお家に災を致しましたのは……お兄様やお姉様を殺しましたのは、今氷になっているあの美留藻の魂が、貴女に乗り移って為た事……」 と申しましたが、その言葉のまだ終るか終らぬかに、雷が落ちたような声を立ててこの室に飛び込んで来て、二人を左右に突き飛ばした者がありました。それは紅木大臣でした。それと見ると女王はよろめき倒れた身を起して―― 「あれ。お父様」 と一声高く叫びながら駈け寄ろうとしましたが、紅木大臣の見幕があまり恐ろしいので、思わずハッと踏み止まりました。そうしてワナワナ震えながら―― 「オ……お父様……お父……様……」 と云う中に次第にあと退りをして、一方の壁に倚りかかって身体を支えました。青眼先生も紅木大臣の見幕に驚いて、床の上に尻餅を突いたまま、呆気に取られて大臣の顔を見詰めておりました。 紅木大臣はその間につかつかと寝台に近寄って、白布を取り除けました。その下には髪毛から首のあたり――胸から爪先へかけて、一面に紅玉に包まれて、臘のように血の気を失った濃紅姫の死骸が仰向けに横たわっております。 それをじっと見ていた紅木大臣の髪毛は、見る見る中に皆逆さに立ちました。顔色は真青になって、眼は火のように血走りました。そうして歯をギリギリと噛み鳴らし、身体をワナワナと震わせながら、剣の柄を砕くるばかりに握り締めて、屹と女王の顔を睨み付けましたが、やがて火を吐くような声で罵りました。 「悪魔。悪魔。貴様は美紅ではない。女王ではない。又美留藻とかいう者でも何でもない。美紅を身代りとして青眼先生に殺させ、その次には紅矢を殺し、今は又この濃紅を殺して、この国の女王の位を奪おうとする悪魔。悪魔。大悪魔だ。根も葉もない作り事をして、美紅に化けて欺こうとしても、この紅木大臣は欺されぬぞ。その化けの皮を引ん剥いてくれる。吾が児の讐覚悟しろ」 その声は暴風のように室の中を渦巻きました。 そうして一歩退ってギラリと剣を引き抜いたと思うと、女王に飛びかかろうとしましたが、彼の時早くこの時遅く、青眼先生がうしろからしっかりと抱き止めました。すると紅木大臣は歯噛みをして―― 「エエッ、放せ。放さぬか。貴様も悪魔の片割れか。今まで悪魔と馴れ合っていたのか。放せ。放せ。奴レッ」 と身もだえをするその手に女王は走りかかって縋り付きました。そうしてその顔を見上げながら叫びました―― 「殺して下さい。お父様。妾は……もう……この上の苦しみは見られませぬ。生きては……生きてはおられませぬ。この剣で……さあ一思いに殺して下さい。姉様と一所に死なして下さい。青眼先生、放して下さい。この手を……お父様を放して下さい」 と無理に青眼先生の手を捕まえて引き離そうとしました。紅木大臣はこの時あらん限りの力を出して―― 「エエッ」 と一声叫ぶと一所に二人を両方に振り放しました。そうしてなおも縋り付こうとする二人を、又も左右に蹴倒しますと、二人共一時に気絶してグタリと床の上に横たわりました。 この時最前から椅子に腰を掛けたままこの場の様子を冷やかに笑って見ておりました藍丸王は、矗とばかり立ち上りましたが、その右手を高く挙げたのを見ると、一匹の恐ろしい姿をした蛇が、宝石の鱗を眩しい程光らせながら、真赤な舌をペロペロと吐いて巻き付いておりました。こうして王は高らかに叫びました―― 「紅木大臣。よく見よ、よく聞けよ。この蛇はこの国の大切な宝だ。誰でもこの蛇を持って来た者はこの国の女王になるのだ。美紅であろうが美留藻であろうが、そんな事は構わぬのだ。そうして女王に害をする者は、皆殺して終うのがこの蛇の役目だ。貴様とても許さぬぞ」 「何を……何をッ」 と紅木大臣は血走った眼で王を睨み付けて叫びました―― 「それならば貴様も悪魔だ。本当の藍丸王ならば、そんな汚らわしいものをお持ちになる筈はない。そんな無慈悲な事をなさる筈はない。貴様も悪魔が化けたのであろう。女王も悪魔。貴様も悪魔。悪魔。悪魔。大悪魔だ。エエ知らなんだ。気付かなんだ。そうと知ったら早く退治ておく者を。最早容赦はならぬ。この紅木大臣が忠義の刃を受けて見よ」 と云うより早く王を眼がけて飛びかかろうとしましたが、この時王が右手を挙げるのを見るや否や、一時にドッと籠み入った多くの兵士は、一方は王の周囲を取り囲んで仕舞い、一方は紅木大臣を取り巻いて身体中隙間もなく鎗を突き付けて、動かれぬようにしてしまいました。そうしてその間にその他の者は気絶した女王と青眼先生を抱え上げて、急いでどこかの室へ運んで行きました。 槍の穂先に取り囲まれた紅木大臣は、身動きも出来ぬようになりまして、棒のように突立ちながら歯切りをして、兵士の顔を睨みまわしていましたが、やがてその持っていた剣をカラリと床の上に取り落すと、そのまま高い暗い天井を仰いで、髪毛を一筋毎にビリビリと震わしながら―― 「アーッハッハッハッ」 と高らかに笑い出しました。その気味悪さ。恐ろしさ。周囲の兵士は思わず槍を手許に控えて、タジタジとあと退りをしました。 けれども紅木大臣の笑い声は、なおも高らかに続きました―― 「アッハッハッハッ。可笑しい可笑しい。こんな可笑しい事が又とあろうか。何という馬鹿馬鹿しい事だ。アッハッハッハッ、俺は今やっと思い出した。昔の名前を思い出した。俺の名前は美留楼公爵というのだった。何だ、馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい。アッハッハッ。 あれ、美留女が本を読んでいる。白髪小僧が居眠っている。アハ。アハ。何の事だ。俺はこのお話を本当の事かと思った。これ、美留女。止めろ。止めろ。そんな本を読むのを止めろ。あんまり非道いではないか。あんまり情ないではないか。お前はそれを平気で読むのか。お父さまは最早聞いていられない。コレ。止めろ。止めろと云うに」 と云いながらよろよろと前の方によろめき出ましたが、濃紅姫の寝台に行き当って、又ハッと気が付きました。そうして寝台に倒れかかったままじっと濃紅姫の死体を見ていましたが、見る見るその眼は又旧の通りに釣り上りました。 「エエッ。矢張り本当の事であったか。濃紅姫は死んだのであったか。よしそれならばこうして……」 と云う中に自分の外套を脱いで、濃紅姫の死体をクルクルと巻いたと思うと、肩に荷ぐが早いか一散にこの室を走り出ました。これを見ると火のように怒った藍丸王はそのあとから叫びました―― 「ソレッ。あの家の者を鏖にしてしまえ。あとは火を放けて焼いてしまえ」
二十四 生首の言葉
一方青眼先生は、一旦はすっかり気絶して終って、何も解からなくなっていましたが、やがて自然と気が付いて見ますと、どうでしょう。最前自分は藍丸王の眼の前で、紅木大臣に蹴られて気絶していた筈なのに、今は王宮の内のどこかの室で、見事な寝台の上に寝かされて、傍には最前縛られていた四人の宮女が控えております。そうしてなおよくあたりを見まわしますと、自分の枕元には藍丸王がニコニコ笑いながら立っていまして、その背後には宮中の凡ての役人が星のように居並んで、自分に向って敬礼をしている様子です。青眼先生はこの有様を見て何事かと驚きまして、慌てて寝台の上から辷り降りて床の上にひれ伏しますと、王はその肩に手を置きまして、 「オオそんなに恐れ入るには及ばぬ。俺は今までのお前の罪を許したのだぞ」 これを聞くと青眼先生は床の上にひれ伏して、恐れ入って申しました―― 「ハイ。有り難い事で御座います。私はもうその御言葉を承りました以上は明日死んでも少しも心残りは御座いませぬ。私の心がおわかり遊ばしますれば、何で私が王様の御心に背き奉りましょう。何卒今日までの私の無礼の罪は、平に御赦し下されまするよう御願い致します」 と誠意を籠めて申しました。藍丸王も如何にも嬉しそうに―― 「ウム。お前の罪は女王の言葉ですっかり許したから安心をしろ。女王は今居間で養生をしている。そうして世界中で本当の自分を知っている者はお前ばかりだと喜んで泣いているのだ。そうして今日お前の女王に尽した忠義の褒美に、女王は今からお前をこの国の総理大臣にしてくれと云ったぞ」 と思いもかけぬ御言葉です。青眼先生はあまりの不意な御言葉に驚いて、夢に夢見る心地で叫びました―― 「エッ。私をあの総理大臣に。そ……それは王様、私のようなものには」 「黙れ。もう俺の云う事には背かぬと、たった今云ったではないか。この心得違い者奴が。貴様も矢張り紅木大臣のような眼に会いたいのか」 と忽ち王は最前のような恐ろしい顔に変りました。 「エエッ。そして紅木大臣はどう致しましたか」 「ハハハハハ。紅木大臣がどんなになったか見たいのか。よし。それではお前は直ぐ紅木大臣の家へ行って、どんなになったか見て来い。そうして女王に無礼をする奴は親でも兄弟でも誰でも皆、こんな眼に会うのだという事をよく覚えて来い」 と言葉厳しく申し付けました。 このお言葉を聞くと一緒に青眼先生は、王が最前蛇を見せた時の事を思い出して、思わずゾッと身震いをしました。そうして直ぐに独りで王宮を出まして、急いで紅木大臣の家へ行って見ましたが、来て見るとどうでしょう。今まで深く茂った大きな常磐木の森の間に、王宮と向い合って立っていた紅木大臣の邸宅は住居も床も立ち樹もすっかり黒焦になってしまって、数限りなく立ち並んだ焼木杭の間から、白い烟が立ち昇っているではありませぬか。そうして玄関のあたりに大臣夫婦は手も足も切り離されて、方々焼け焦げたまま、眼も当てられぬ姿になって倒れております。 青眼先生は震える手で、その手足を集めて見ましたが、最早何の役にも立ちませんでした。大臣夫婦の死体は最早切れ切れに焼け爛れて、とても青眼先生の力では助ける事が出来ませんでした。 青眼先生は余りの事に声を立てて泣き出しました。そうしてもしや一ツでもいいから助かりそうな死骸は無いかと、暗の中に散らばっている死骸を一ツ一ツに検めながら、奥の方へ来る中に、不図青眼先生は屋敷の真中あたりで、切れるように冷たい者を探り当てて、ヒヤリとしながら手を引き退めました。それは鉄と氷との二ツの死骸でしたが、薄い月の光りはその物凄い白と黒の二ツの姿を照して、何だか両方とも青眼先生を睨んでいるように思わせました。 青眼先生は思わずタジタジとあと退りをしました。そうして二ツの死骸をじっと見入りました。すると不思議や、青眼先生の直ぐうしろに寝ていた一ツの首が、白い眼を開いて月の光りを見ながら、唇をムズムズと動かし始めましたが、やがて不意に―― 「嘘吐き」 と云いました。青眼先生はハッと驚いて背後をふり向きますと、うしろにはたった今検めた馬丁の死骸があるばかりで、しかも手も足もバラバラになっているのですから、口を利く気遣いはありませぬ。先生は大方耳の迷いだろうと思って、ここを立ち去ろうとしますと、今度は別の死骸の、身体から離れて転がっている首級が、眼をパッチリ開いて、月あかりに先生の顔をジッと睨みながら―― 「不忠者」 と叫びました。青眼先生は身体中が痺れる程驚いて、立ち竦んでしまいますと、今度は四方八方の死骸の首が、一時に眼を見開きまして、方々から青眼先生を睨みながら、口々に罵り始めました―― 「不忠者」 「紅矢を殺した」 「濃紅を殺した」 「美紅を殺した」 「女王に諛うた」 「紅木大臣を殺させた」 「紅木大臣の位を奪った」 「悪魔の王の家来になった」 「俺達までも皆殺させた」 「そして自分独り生きている」 「悪魔のために尽している」 「忠義に見える不忠者」 「善人のような悪人」 「卑怯な浅墓な」 「藪医者の青眼爺」 「貴様のために殺された」 「沢山の死骸を見ろ」 「俺達はこの恨みを」 「屹度貴様に返して見せる」 「死ぬより苦しい眼を見せるぞ」 「生きられるなら生きて見ろ」 「死なれるなら死んで見よ」 「覚えておれ」 「覚えておれ」 こう云って口々に罵る声が次第に高くなって来て、しまいには耳の穴が裂けてしまう程烈しくなりました。青眼先生はまるで氷の中に埋められたように、身体中がブルブルと震え出して、眼が眩んで倒おれそうになりましたが、やっと一生懸命の勇気を奮い起こして―― 「お前達は皆間違っている。私は一人も殺しはせぬ。私はこの国の秘密を守るため……宮中に出入りして悪魔の正体を見届けるため……そのために総理大臣になったのだ。それも自分からなったのではない。王様が無理になすったのだ。紅木大臣をこんな目に合わせたのは私ではない……王様でもない……」 こう申しますと、沢山の生首は一時に口を揃えて―― 「そんなら誰だ」 と申しました。 青眼先生は云おうとして云う事が出来ずに、ワナワナと戦きながら身のまわりを見まわしますと、沢山の生首が皆一心に自分を見つめて、今にも飛びかかりそうにしています。そうしてその真中の自分の足下には鉄と氷の二タ通りの死骸が虚空を掴んで倒れたまま、これも自分を睨んでいます。青眼先生はその氷の死骸を指して―― 「ココココココ……此奴だ」 と叫ぶと一所に力が尽きて、ウーンと云って気絶してしまいました。 するとこの時又もや耳の傍で不意に―― 「青眼総理大臣閣下へお祝いを申し上げます」 と云う声が聞こえましたから、誰かと思ってフッと眼を開きますと、こは如何に、最前から見たのはすっかり夢で、自分はちゃんと旧の寝台の上に寝たままでした。そうして寝台の周囲には最前の通りに御殿中の大勢の役人共が集まっておりました。 その役人共は青眼先生が眼を覚ますのを見るや否や、皆一時に手を挙げ頭を下げて―― 「総理大臣公爵青眼閣下。御祝いを申し上げます」 と口々に申しました。これを見た先生は呆気に取られてしまって、どこからが夢で又どこからが本当なのか、いくら考えてもわかりませんでした。そうしてこれはあまりいろいろの心配をするために、気持ちが変になっているのではあるまいかと思いました。けれども斯様に役人が大勢集まって、口々にお祝いの言葉を云うところを見ると、自分がこの国の総理大臣になった事だけは、どう考えても本当で、疑う事が出来ませんでした。
二十五 止まらぬ花馬車
一方、気が狂った紅木大臣は、濃紅姫の死骸を荷いだまま、一息に廊下をかけ抜けて、馬にも乗らず真一文字に、自分の家に帰り着きました。そうして門を這入るや否や、玄関の横に置いてあった昨日の花馬車の中に、濃紅姫の死骸を外套に包んだまま放り込んで、それから廏へ行って名馬の「瞬」を引き出して、自身に馬車に結び付けると、いきなり鞭をふり上げて―― 「もとの世界へ帰れ」 と叫びながら、尻ペタを千切れる程殴り付けました。 馬は驚いて棹立ちになって、驀然に表門を駈け出しますと、丁度そこへ王宮から、紅木大臣を追っかけて来た兵隊が往来一パイになって押し寄せて、一度に鬨と鯨波を挙げました。馬は益々驚いて、濃紅姫の死骸を載せた馬車を引いたまま大勢の兵隊の真中に駈け込んで、逃げ迷うものを蹴散らし轢き倒して、あれよあれよという中に往来を向うの方に疾風のように駈け出しました。 「それッ。今の馬車には誰か乗っていたぞ。一人も残さず殺してしまえ。逃がすな。余すな。追っかけろ」 と四五人の兵士が怒鳴りましたが、何しろこの国第一の名馬「瞬」が夢中になって駈け始めたのですから、迚も人間の足の力では追い附く気遣いはありませぬ。砂埃と蹄の音を高く揚げながら、千里一飛びという勢いで都の南の端にある青物市場へ一目散に飛び込みました。さあ大変だと大勢の人々が逃げ迷う間もなく、往来に積み重ねてある野菜や果物の籠を踏み散らし蹴飛ばして、雨か霰のように馬車に浴びせ、直ぐにその隣りの肉類の市場に暴れ込んで、鳥か獣のブラ下がったのを片端から引き落して駈け抜けると、今度はその次の反物市場に躍り込み、絹や木綿を引き散らして窓や轅や方々に引っかけ、穀物の市場では米麦や穀類を滝のように浴び、瀬戸物市場では小鉢を滅茶滅茶に打ち壊わし、花市場の花を蹴散らし、魚市場の魚を跳ね飛ばして散々に暴れ散らした揚句、今度は南の国へ通う広い往来を駈け下りました。 その間幾人の人間を轢きたおし、いくらの品物を打ち壊したかわかりませぬ。それでも狂うが上にも狂うた「瞬」の馬車はどうしても止まりませぬ。なおも足を宙に揚げて、死んでも止まらぬ勢いでどこまでもどこまでもと走りました。 すると丁度晩方頃「瞬」の馬車が走って行く向うから、顔や身体を襤褸切れですっかり包んで眼ばかり出した香潮が、白髪小僧の手を引いてやって来ました。雷のような音を立てて来る「瞬」の馬車を見て、慌てて白髪小僧を片傍へ引っぱって避けさせようとしましたが、彼の時早くこの時遅く、大風のように近附いた「瞬」の馬車は白髪小僧の背中を掠めて、背負っていた月琴を梶棒に引っかけたままドンドン走って行って、あれよあれよという中に見えなくなってしまいました。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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