ところがこの時白髪小僧は、美留女姫に誘われて一所にあとから逃げながら、このお爺さんの喚めき声を聞き付けて不図うしろをふり返ると、その顔を一目見るや否や、お爺さんは又もや腰の抜ける程驚いた様子で―― 「ヤヤ。貴方様は藍丸国王様では御座いませぬか。どうしてここにお出で遊ばしました。そうしてそのお姿は……まあ、何という恐れ多い……浅ましいお姿……」 と呆気に取られて立ち止まった。けれども美留女姫は少しも気が付かずに先へ走るし、白髪小僧もそのあとからくっついて、お爺さんが立ち止まった隙にドンドン駈け出して行った。この様子を見るとお爺様はもう狂気のように周章出して―― 「あれ。王様。王様。これはどうした事で御座います。お待ち下さりませ。お待ち遊ばせ。その女は悪魔……大悪魔で御座いますぞ。飛んでもない。飛んでもない。お待ち……お待ち遊ばせ。王様。王様」 と息を機ませて、又もや宙を飛んで追っかけた。 こうして三人は追いつ逐われつ、だんだん人里遠く走って来たが、美留女姫はもう苦しくて苦しくて堪らないような声を出して―― 「白髪小僧さん……白髪小僧さん……」 と呼びながらふり返りふり返り走って行く。うしろからはお爺さんが青い眼玉を血走らして―― 「藍丸王様……王様……藍丸様ア」 と呼びながら追っかける。白髪小僧は只無暗に息を切らして駈け続けた。 やがて夕日は西の山にとっぷりと落ち込んで、あたりが冷たく薄暗くなった。野原には露が降りて、空には星が光り初めた。けれどもお爺さんは追っかける事を止めなかった。とうとう山の中へ分け入って、小さな池の縁をめぐって、深い大きな杉の森に這入った時は、あたりがすっかり真暗になって、あとにも先にももう何にも見えず、只怖ろしさの余り声を震わして泣いて行く美留女姫の声を便りに、木の幹を手探りにして追うて行った。その内に白髪小僧は、ヒョロヒョロに疲れて、息をぜいぜい切らすようになった。それでも構わずに走っていると、あっちの根っ子に引っかかり、こっちの幹に打っつかり、もうこの上には一足も行かれないようになって―― 「オーッ」 と呼んだと思うと、そのままそこによろめき倒れてしまった。
五 七ツの灯火
すると不思議な事には今呼んだ声が、誰かの耳に這入ったものと見えて、遠くで高らかに―― 「オ――オ……」 と返事をする声がきこえた。白髪小僧はじっと顔を挙げて向うを見ると、丁度今声の聞こえたあたりに小さな燈光が一ツチラリと光り初めた。やがて、その光りが三ツになった。五ツになった。七ツになった。と思う間もなくその七ツの燈火が行儀よく並んでこちらへ進んで来た。その七ツの燈火に照らされた向うの有様を見ると、見事な飾りをした広い廊下で、天井や壁に飾り付けてある宝石だか金銀だかが五色の光りを照り返して、まことに眼も眩むばかりの美しさである。そのうちに燈火はだんだん近附いて、やがて持っている人の姿がはっきりと見えるようになった。 見ると七人の持ち人の内真中の一人だけは黄色の着物を着たお爺さんで、あとの六人は皆空色の着物を着た十二三の男の児であった。そうしてそのお爺さんは、最前美留女姫と白髪小僧とを追っかけた、眼の玉の青いお爺さんに相違なかった。その中に七人は直ぐに自分の傍まで近付いて来たが、その持っている手燭の光りで四方を見ると、ここは又大きい広い、そうして今の廊下よりもずっと見事な室である。そうして白髪小僧自身の姿をふりかえって見ると、こは如何に。最前までは粗末な着物を着た乞食姿で、土の上に倒れていた筈なのに、今は白い軽い絹の寝巻を着て、柔らかい厚い布団の中に埋もっている。その上に自分の顔にふりかかる髪毛を見るとどうであろう! 今まで滝の水のように白かった筈なのが、今は濃い緑色の光沢のある房々とした髪毛になって、振り動かす度に云うに云われぬ美しい芳香が湧き出すのであった。重ね重ねの奇妙不思議に当り前の者ならば、屹度気絶でもするか、それとも夢を見ているのだと思って身体でも抓って見るところだが、併し白髪小僧は平気であった。昨夜も一昨夜もそのずっと前からここに居て、たった今眼が覚めたような顔をして、先に立ったお爺さんの顔を横になったまま見ていた。 お爺さんは六人の小供を従えて、寝台の前に来て叮嚀にお辞儀をした。そうして畏る畏る口を開いた―― 「藍丸王様。青眼爺で御座います。お召しに依って参りました。何の御用で入らせられまするか。何卒何なりと御仰せ付けを願います」 白髪小僧はこう尋ねられても何も返事をせずに、只ぼんやりと青眼爺さんの顔を見ていた。 するとお爺さんは何やら思い当る事があると見えて、傍の小供に眼くばせをしたが、やがてその中の一人が玉のような水を水晶の盃に掬んで来て、謹しんで眼の前に差し出したから、取り上げて飲んで見ると……その美味しかった事……そうしてその水には何か貴い薬でも這入っていたものと見えて、今までの疲れも苦しさもすっかりと忘れてしまって、身体中に新らしい元気が満ち渡るように思った。 青眼爺様は白髪小僧の藍丸王が飲み干した盃を受け取って、傍の小供に渡すと直ぐに又眼くばせをして、六人の小供を皆遠くの廊下へ退けて、只独り王の前に蹲いて恐る恐る口を開いた―― 「王様。恐れながら王様は只今何か夢を御覧遊ばしたのでは御座いませぬか」 藍丸王は又もや言葉がよく解らないために返事が出来なかった。只何だかわからないという徴に、頭を軽く左右に振って見せた。けれども青眼爺は何だか心配で堪らぬように、じっと藍丸王の顔を見つめていた。そうして重ねて一層叮嚀な言葉で恐る恐る尋ねた。 「王様。私は今日迄王様のお守り役で御座いました。で御座いますから、今まで何事も私にお隠し遊ばした事は一ツとして御座いませんでした。私は王様を御疑い申し上げる訳では御座いませぬけれども、もしや王様は、只今御覧遊ばした夢を御忘れ遊ばしたのでは御座いませぬか。白い着物を着た悪魔の娘と一所に、私の跡をお追い遊ばして、銀杏の葉に書いた文字を御覧遊ばしたのでは御座いませぬか。屹度、屹度御覧遊ばしませぬか。もし御隠し遊ばすと王様の御身の上やこの国の行く末に容易ならぬ災いが起りまするぞ」 青眼の言葉は次第に烈しくなって来た。そしてさも恐ろしそうに王の顔を見入りながら、力を籠めて問い詰めた。 青眼がどうしてこんな事を尋ねるのか、又あの銀杏の葉に書いてあったお話が何故こんなに気にかかるのか。そうして又あのお話を聞けば何故そんな災いがふりかかるのか――そして青眼はどうしてそれを知っているのであろうか。藍丸王がもし当り前の人間ならば、こんないろいろの疑いを起して青眼にその仔細を尋ねるであろう。ところが藍丸王は旧来の白髪小僧の通り白痴で呑気でだんまりであった。第一今の身の上と最前までの身の上とはどっちが本当なのか嘘なのか、それすら全く気にかけなかった。その上に自分が白髪小僧であった事なぞは疾くの昔に忘れてしまっている。そして只眼を丸く大きくパチパチさせながら頭を今一度軽く左右に振った切りであった。 青眼は、いよいよ王があの夢を見ていないのだと思うと、急に安心したらしく、ほっと嬉しそうな溜め息をした。そして又恭しく長いお辞儀をしながら―― 「王様。私はこのように安堵致した事は御座いませぬ。夜分にお邪魔を致しましていろいろ失礼な事を申し上げた段は、幾重にも御許し下さいまし。最早夜が明けて参りました。小供達を喚んで朝のお支度を致させましょう」 と云った。 老人が又改めて長い最敬礼をして退くと、入れ交って空色の着物を来た最前の小供等が六人、今度は手に手に種々な化粧の道具を捧げながら行列を立てて這入って来て、藍丸王に朝の身支度をさせた。 一人がやおら手を取って王を寝床から椅子へ導くと、一人は大きな黄金の盥に湯を張ったのを持って、その前に立った。傍の一人は着物を脱がせる。他の一人は嗽をさせる。も一人は身体中を拭い上げる。残った一人はうしろから髪を梳く。おしまいの一人は香油を振りかける。皆順序よく静かに役目をつとめて、先ず黒い地に金モールを附けた着物を着せ、柔らかい青い革の靴を穿かせ、金銀を鏤めた剣を佩かせて、おしまいに香油を塗った緑色の髪を長く垂らした上に、見事な黄金の王冠を戴せて、その上に厚い白い、床に引きずる位長い毛皮の外套を着せたから、今まで着物一枚に跣足でいた白髪小僧の藍丸王は、急に重たく窮屈なものに縛られて、身動きも出来ない位になった。それから六人の小供達は三組に分れて、室の三方に付いている六ツの窓を開いて、朝の清らかな光りと軽い風とを室一パイに流れ込ませた。そうして暁の透き通った青い光りの裡にうつらうつら瞬く星と、夢のように並び立っている宮殿と、その前の花園と、噴水と、そのような美しい景色を見て恍惚としている藍丸王を残して、種々の化粧道具と一所に、六人の小供はどこへか音も無く退いてしまった。
六 大臣と漁師
これから後、藍丸王が見たいろいろの出来事は、当り前の者ならばその都度驚いて、眼でも眩わして終わなければならぬような事ばかりであった。 今日は藍丸国王の御誕生日だというので、紅木公爵という、丈の高い、黒い髪を生やした、あの美留女姫のお父様によく肖た総理大臣と、沢山の護衛の兵士に連れられて、お城の北の紫紺樹という樹の林の中に在る、石神の御廟に朝の御参りをしたが、その時沢山の兵士が皆一時に剣を捧げて敬礼をした時の神々しかった事。それから宮中の大広間に出て、大勢の尊い役人や、この国の四方を守る四人の王様や、その家来達から、一々御祝いの言葉を受けた時の厳そかだった事。又は美事な十二頭立の馬車に乗って、前後を騎兵に守らせながらお城の南の広い野原に出て、何万何千とも知れぬ兵隊の観兵式を行らせた時の勇ましかった事。それから夜になって、宮中に催された大音楽会と、大舞踏会と、大晩餐会の大袈裟であった事。その他見る者聞くもの何一ツとして、眼を驚かし耳を驚かさぬものはなかった。 けれども白痴の白髪小僧の藍丸王は、相変らず悠々と落ち付いて、まるで生れながらの王ででもあるように、ニコニコ笑いながら澄まし込んで、大勢の家来に平常よりずっと気高く有り難く思わせた。 けれどもこの日の内に藍丸王が心から美しい、可愛らしい、珍しい、不思議だと感心したらしいものが只一ツあった。それは一羽の赤い羽子を持った鸚鵡であった。この鸚鵡は最前の紅木という総理大臣の息子で、平生王の御遊び相手として毎日宮中に来ている紅矢という児が、今日は少し加減が悪くて御機嫌伺いに参りかねます故、代りの御慰みにと云って遣したもので、王の室の真中の象牙張りの机の上に籠に入れて置いてあったが、奇妙な事にはその歌う声が昨夜夢の中で聞いた美留女姫の声にそっくりで、眼を瞑って聞いていると姫が直ぐ側に来ているように思われた。 その上にも不思議な事には、何事に依らず見た事は見たまま、聞いた事は聞いたままその場限りで綺麗に忘れて了う白髪小僧の藍丸王が、彼の美留女姫の姿や声だけははっきりとよく記憶えていたものと見えて、今しも宴会が済んで自分の室に連れられて帰ると直ぐに、この赤鸚鵡の声に耳を留めて、着物を着かえる間も待ち遠しそうに、急いで傍の銀の椅子に腰を卸すとそのまま一心にその歌に聞き惚れた。 その歌の節は云うに及ばず、文句までも昨夜の夢の美留女の読み上げた歌によく似ていた。 「青い空には雲が湧く、けれども直ぐに消え失せる。 黒い海には波が立つ、それでも直ぐに消えて行く。 昔ながらの世の不思議、見たか聞いたか解かったか。
昨夕妾が見た夢の、扨も不思議さ恐ろしさ。 白髪小僧の物語。そして妾の物語。
その又夢の中で見た、この身の上のおしまいに、 昨夜どこかの森中へ、白髪小僧と逃げ込んで、 樹の根に倒れたそれ迄は、妾は美留楼公爵の、 第三番目の女の子、名をば美留女というたのに、 今朝眼が覚めて気が付けば、扨も不思議や見も知らぬ、 藍丸国の大臣で、紅木と名乗る公爵の、 第三番目のお姫様、これはどうした事でしょう。
着物も家も何もかも、すっかり変って吾が名さえ、 美紅とかわっておりまする。只変らぬは御両親、 お兄様や姉様や、又は家来の顔ばかり。
これは夢かと疑えば、傍から皆笑い出し、 お前は何を云うのです、何か夢でも見たのかえ。 お前は旧来からこの家の、可愛い可愛い美紅姫。
ずっと前からお話が、何より何より大好きで、 御本ばかりを読み続け、夢中になっておった故、 いくらか気持が変になり、十幾年のその間、 他の処へ居たという、馬鹿気た長い夢を見て、 それを本当にして終い、寝ぼけているのに違いない、 可笑しい人と皆から、お笑い草にされました。
けれども妾はどうしても、今の妾が本当か、 昔の妾が夢なのか、疑わしくてなりませぬ。
妾の今が夢ならば、あれだけ皆で笑われて、 また疑っている筈は、どう考えてもありませぬ。 昔の妾が本当なら、まだ夢を見ぬその前を、 少しも思い出す事が、出来ない筈はありませぬ。 今も昔も本当なら、又はどちらも夢ならば、 妾は居るのか居ないのか、解らぬようになりまする。
よし夢にせよ何にせよ、妾の不思議な身の上を、 よく考えて頂戴な、妾の窓の直ぐ傍に、 妾の歌の真似をする、大きな綺麗な赤鸚鵡。
怪しい夢の今朝醒めて、日が出て月は沈んでも、 鳥が木の間に歌うても、まだ眼に残る幻影は、 白い御髪に白い肌、月の御顔雲の眉、 世にも気高い御姿、乞食の王の御姿。
白い御髪を染め上げて、緑の波をうずまかせ、 金の冠差し上げて、銀の椅子に召されたら、 まだ拝まねどこの国の、尊いお方に劣るまい。
妾の大切な姉様は、はや近い内皇后の、 位に御即きなさるとか、今朝兄上が仰しゃった。 兄上様の御名前は、聞くも凜々しい紅矢様、 姉上様の御名前は、花の色添う濃紅姫。
妾は大切な姉様の、世にも目出度い御仕合わせ、 嬉しい事と思いつつ、楽しい事と思いつつ、 自分は独り居残って、昨夜の夢の御姿、 白いお髪の御方を、又無いものと慕うては、 淋しく暮す身の上を、誰かあわれと思おうか。
よしや憐れと思うても、よしや不憫と思うても、 昨夜の夢をくり返し、又見る術はないものを、 青い空には雲が湧く、けれども直ぐに散り失せる。 黒い海には波が立つ、けれども直ぐに消えて行く。 消えぬ妾のこの思い、見たか聞いたか解ったか。
空行く鳥を追い止むる、それより難いこの願い。 早瀬の香魚を掬い取る、それより難いこの願い。 夢かまことかまだ知らぬ、うつつともないまぼろしを、 愚かに慕うこの心、見たか聞いたか解ったか」 藍丸王は我れを忘れてこの歌に聞き惚れていた。そうして昨夜の夢の続きでも見ているように、美留女姫の姿を想い浮めていると、暫く黙っていた鸚鵡は又もや頭を低く下げて前と同じ声の同じ節で違った歌を唄い出した。 「青い空には雲が湧く、けれども直ぐに消え失せる。 黒い海には波が立つ、けれども直ぐに凪いでゆく。 昔ながらの世の不思議、見たか聞いたかわかったか。
藍丸国のその中で、南の国に湖の、 数ある中で名も高い、多留美と呼ばるる湖は、 お年寄られた父様と、妾が魚を捕るところ。 翡翠の波を潜っては、金銀の魚を追いまわし、 瑠璃の深淵に沈んでは、真珠の貝を探り取る。 捕って尽きせぬ魚の数、拾うて尽きぬ貝の数。 扨は楽しい明け暮れに、小さい船と小さい帆を、 風と波とに送られて、歌うて尽きぬ海の歌。
けれども妾は昨夜から、この身の上の幸福は、 只これ切りのものなのか、それとももっとこの世には、 楽しい事があるのかと、疑わしくてなりませぬ。
今朝明け方に見た夢の、扨も不思議さ面白さ。 漁師であった父様が、美留楼公爵様となり、 おわかれ申した母様と、兄様姉様お揃いで、 十幾年のその間、楽しく暮したものがたり。
銀杏の文字のお話しの、惜しいところであと絶えて、 石神様のお話しは、わが身の上の事となり、 白髪小僧と青眼玉、それに妾と三人で、 追いつ追われつ行く末は、真暗闇の森の中。
扨眼が覚めて気が付けば、この身は矢張旧のまま。 十幾年の栄燿をば、只片時の夢に見た、 枕に響く波の音、窓に吹き込む風の声、 身は干し藁のその中に、襤褸を着たまま寝ています。
今の妾が仕合わせか、夢の妾が仕合わせか。 青い空には雲が湧く、黒い海には波が出づ。
よしや夢でも構わない。よしうつつでも構わない。 妾は不思議な珍しい、又面白い恐ろしい、 あの石神のお話しの、続きをもっと見たかった。 ほんとに惜しい事をした、ほんとに惜しい事をした。
おやまあお前は赤鸚鵡、夢に出て来た赤鸚鵡。 まだ夜も明けぬ窓に来て、窓の敷居に掴まって、 星の光りを浴みながら、ハタハタ羽根を打っている。 お前は本当に居たのかえ、本当にこの世に居たのかえ。
もしもお前が夢でなく、本当にこの世に居るのなら、 お前の仲間の化け物の、四つの道具や扨は又、 蛇や鏡もこの国の、どこかに居るに違いない。
そしてお前が眼の前に、今まざまざと居るように、 美留女の智恵や学問を、妾はちゃんと持っている。 夢は覚めても忘れずに、妾はちゃんと持っている。
扨は今のは正夢か、本当にあった事なのか。 そして妾があのように貴い身分になる事を、 前兆らせする夢なのか、本当に不思議な今朝の夢。
銀杏の根本で繙いた、不思議な書物の中にある、 妾の女王の絵姿は、絵空事ではなかったか。
空には白い星の数、海には青い波の色。 棚引く雲の匂やかに、はや暁の色染めて、 東の空にほのぼのと、夢より綺麗な日の光り。
赤い鸚鵡よどうしたの、まあ恐ろしい美しい、 真赤な真赤な光明を、眩しい位輝やかし、 あれ羽ばたきをするうちに、窓から高く飛び上り、 東の空に太陽の、光りが出ると一時に、 海の面に湧き上る、金銀の波雲の波、 蹴立て蹴立てて行く末は、あと白波の沖の方、 あれあれ見えなくなりました……」 藍丸王は又もやこの歌に聞き惚れて、うっとりと眼を細くして夜の更けるのも忘れていた。 するとその中お寝みの時刻が来たと見えて、今朝の青眼老人が、六人の小供と一所に、手燭を持って這入って来たが、王が真暗な室の中に鸚鵡の籠を置いて、一心にその歌に聞き入っている様子を見ると、何故だか大層驚いた様子で、慌てて王の前に進み寄って―― 「王様は飛んでもない事を遊ばします。王様はこの国の古い掟をお忘れ遊ばしましたか。『人の声を盗む者、他の姿を盗む者、他の生血を盗む者、この三つは悪魔である。見当り次第に打ち壊せ、打ち殺せ、焼いて灰にして土に埋めよ』この言葉をお忘れ遊ばしましたか。この鳥こそは今申し上げた、人の声を盗む悪魔で御座りまするぞ。悪魔が王様の御声を盗みに来ているので御座りまするぞ。吁。恐ろしい、恐ろしい。御免下されませ。この鳥は私が頂戴して殺して仕舞います」 と云う中に籠を取り上げて持って行こうとした。するとその時どうした拍子か籠の底が抜け落ちたから、鸚鵡は直ぐにパッと飛び出して、さも嬉しそうに羽ばたきを為たが、忽ち眼も眩む程真赤な光りを放ちながら闇の中を大空高く舞い上がって雲の中へ隠れてしまった。
七 眼、耳、鼻、口
藍丸王は翌る朝眼を覚ますと直ぐに身支度を済まして、昨日のように紅木大臣と一所にお城の北の先祖の御廟へ参詣をしたが、それから後は昨日のように種々な大仕掛な出来事は無かった。お附の者に連れられて自分の室に帰って、昨日にも倍して結構な朝御飯を済ました。ところがその御飯が済むと、やがて一人の立派な軍人が這入って来て藍丸王に最敬礼を為ながら―― 「紅矢様が御出でになりました」 と云った。そうして王が軽く頷くと間もなく軍人と入れ違って、紅い服に白い靴を穿いた、彼の美紅姫とよく肖た少年がさも嬉しそうに元気よく走り込んで来た。そうして藍丸王と抱き合って挨拶をしたが、紅矢は抱き合った手を離すと直ぐに口を開いた―― 「王様。昨日は私、本当に参りたくて参りたくて堪りませんで御座いましたよ。本当に私は一日王様にお眼にかかりませぬと、淋しくて淋しくて一年も二年も独りで居るような心地が致しますよ。今日はその代り何か面白い遊びを致しましょう。魚釣りに致しましょうか、馬乗りに致しましょうか。それとも山狩りに致しましょうか。私は何でも御供致しますよ」 と凜とした活発な声で熱心に話す顔を見ると、どんな者でも誘い込まれて、一所に遊びたくなりそうである。すると紅矢は不図、昨夜青眼老人が机の傍に置き忘れて行った鸚鵡の空籠を見付けて、驚いて眼を真円にして尋ねた―― 「オヤ。この籠は空では御座いませぬか。あの赤い鳥は逃げたので御座いますか」 王はニコニコ笑いながら点頭いた。 「オヤッ。最早逃げてしまったか。憎い奴め。私がいろんな面白い芸当を教えておきましたのに。そしてどちらへ逃げて参りましたか」 藍丸王は矢張り黙って、昨夜鸚鵡が逃げ出した東の窓を指した。これを見ると紅矢は膝をハタと打って―― 「ああ。解りました。解りました。それでは自分の旧居た山へ帰ったので御座います。何でも私の家来が四五日前に彼の山へ小鳥を捕りに参りました時に一所に網に掛かりましたのだそうで、私もあまり珍しゅう御座いましたから妹に預けておいたので御座います。名前は何と申しますか存じませぬが、何の声でもよく真似る面白い鳥で御座いましたのに惜しい事を為ました。ではこう遊ばしませぬか。今日は山狩りの御供を致しましょう。そうして今一度彼の鳥を捕えようでは御座いませぬか。何、訳は御座いませぬ。直ぐに捕まえてこの籠に入れられますよ。如何で御座います。そう為様では御座いませぬか」 と熱心に勧めた。そうして藍丸王が軽く点頭くのを見るや否や、気の早い児と見えて直ぐに兵隊に云い付けて狩りの支度をして仕舞った。 弓矢を背負うた四十人の騎馬武者と、角笛を胸に吊した紅矢を後前に従えた藍丸王は白い馬に乗って、華やかな鎧を着た番兵の敬礼を受けながら、悠々とお城の門を出かけたが、流石藍丸国第一の都だけあって、王の通った街々はどこでも賑やかでない処は無く、雲を突き抜く程高い家が隙間もなく立ち並んでいるために、往来は井戸の底のように昼間でも薄暗く、馬や、牛や、犬や、駱駝や、駝鳥だの、鹿だの、その他種々のものに引かせた様々の形をした車が、行列を立てて歩いて行く。そうして髪毛や、眼色や、顔色が赤や、白や、鳶色や、黒等とそれぞれに違った人々が、各自に好きな仕立ての着物を着て、華やかに飾り立てた店の間を、押し合いへし合して行き違う有様は、まるで春秋の花が一時に河を流れて行くようである。けれども藍丸王の行列が見えると、こんなに繁華な往来が皆一時にピタリと静まって、見る間に途を左右に開いて、馭者は鞭を捧げ畜生は前膝を折り、途行く人々は帽子を取って最敬礼をする。その間を王の行列は静々と通り抜けて、間もなく街外れに来ると、そこから馬を早めて野を横切って、東の方に並んでいる山の中に駈け入った。 この日お供をしている四十人の騎馬武者は、皆紅矢の命令を守って他の鳥獣には眼もくれずに、只赤い羽根を持って人間の声を出す鳥が居たらばと、そればかり心掛けて、眼を見張り、耳を澄まして行った。中にも紅矢は真先に立って、もしや人間のような鳥の鳴き声がするか、赤い羽根の影が見えはせぬかと、皆と一所に油断なく気を付けて次第に山深く分け入ったが、見ゆるものとては山々の燃え立つような紅葉ばかり。聞こゆるものとては遠くを流るる谷川の音。それさえ折々は途絶え途絶えて、空には雲一つ見えず、地には木の葉一枚動かず、気味の悪い程静かに晴れ渡った日であった。 それでも皆気を落さずに一心になって探し続けたが、やがて正午近くなって、人も馬もとある樫の樹の森に這入って、兵糧を遣いながら一休みしてからは、夕方ここで又会う約束で、四十人が四組にわかれて、四方の山や谷を残る処無く探した。けれども相変らず森閑としていて、眼指す赤い鳥は影も形も見せない。 中にも藍丸王の十人の組は、以前の樫の森から東側へかけて、夕方まで探していたが、最早日が暮れかかってもそれらしい影は愚か、小雀一羽眼に這入らぬから、皆落胆して疲れ切ってしまって、約束の通り最前の樫の樹の森へ帰ろうとした。 するとこの時不意にどこか遠い処で、鳥のような人間のような奇態な声で歌を唄っているのを十人が一時に聞いた。 「妾はここに居りまする。淋しくここに居りまする。 恋しい御方の御出でをば。御待ち申しておりまする。
青い空には雲が湧く。黒い海には波が立つ。 昔ながらの世の不思議。見たか聞いたか解ったか。
よしや夢でも現でも。妾はここに居りまする。 淋しくここに居りまする。妾の名前は赤鸚鵡」 皆は顔を見合わせて、それっというと俄に元気百倍して駈け出したが、どう為たものか十人が十人共、各自に一人は東、一人は西と違った方に声を聞いて、こっちだこっちだと云いながら、八方に散って行った。 あとに残った藍丸王は、どっちとも解らず、只その声の為る方に迷い迷うて、いつの間にか只ある谷の奥深く、真暗な杉の木立の中へ這入って仕舞った。 その時は最早短い秋の日が暮れて、鳥の声も聞こえなくなっていたが、その代り真暗な杉の森の奥にチラチラと焚火の光りが見えて来た。その火を見ると今まで音なしく王を乗せて来た白馬が驚いたと見えて、急に四足を突張って動かなくなったから、藍丸王は馬から降りて手綱を放り出したまま、つかつかと焚火の側に近寄って来た。 見ると火の傍には四人の不思議な人間が、寝たり座ったりして火にあたっている。右の端に坐っているのは黄色い髪を垂らして、穴の無い笛を吹いている汚いお爺さんで、その次に寝ころんでいるのは絶えず振り子の無い木の鈴を振り立てている、眉毛も髯も無いクリクリ坊主である。 それからその端にうつ伏せに寝ころんでいるのは、瘠せこけて青ざめた、眼ばかり光る顔に、黒い髪毛をバラバラと垂らした女で、手には一冊の字も絵も何も書いて無い、白紙の書物を拡げて読んでいる。そしてその右には赤膨れに肥った真裸体の赤ん坊が座って、糸も何も張って無い古月琴を一挺抱えて弾いていた。並大抵の者がこのような処でこんな者を見たならば、身体中の血が凍えて終うかも知れないのであるが、そこは藍丸王は平気な者で、却て珍しそうにニコニコ笑いながらその前へ近寄って、火の上に手を翳した。 すると今まで顔中皺だらけで、どこに眼があるか口があるか解からなかったお爺さんは、藍丸王が側に来て踞んだのを見るや否や、皺の間から大きな皿のような眼と、真赤な口をパッと開いてゲラゲラと笑ったと思うと、それを相図に他の三人は一度に立ち上って、焚火と藍丸王の周囲をグルグルまわりながら、奇妙な舞踊を始めた。先ず瘠せ女が白紙の書物を開いて、奇妙な節を付けて歌を唄いながら踊り初めると、あとから赤ん坊が糸の無い月琴をバタンバタンと掌で叩きながら従いて行く。それにつれてあとの二人は、手に持った道具を振り廻しながら、まるで蟋蟀か海老のように、調子を揃えてはねまわって行った。その歌はこうであった。 「占めた。占めた。旨い。旨い。 王様になる時が来た。 この国取って我儘云うて 楽しみをする時が来た」 俺達は石神様の 大切な四人の家来。 眼と口と。鼻と耳と」 藍丸の国のはじめに 御主人の石神様が 見るもの聞くもの何にも無くて たった一人の淋しさつらさ 我慢出来ずに吾が身を咀い 天地を咀って死んでしまった」 眼には荒野の石より他に 見るものも無い恨みを籠めて 耳には風音波音ばかり 他には何にも聞かれぬ恨み 鼻には湖の香埃のかおり 他には何にも嗅がれぬ恨み 舌には話しの相手も無くて 泣くも笑うも只身一ツの 淋しい淋しい怨みを籠めて あとに残して死んでしまった」 見たい見たいが眼玉の望み―― 耳は何でも聞きたい願い―― 鼻は何でも嗅ぎたい願い―― 舌は何でも話したい―― 俺等が主人の石神様の 怨みの籠もった四つの道具」 書物から出た瘠せ女。 笛から湧き出たお爺さん。 月琴から出た裸体の赤児。 鈴から出て来たクリクリ坊主」 四人の家来は石神様の この世を咀う使わしめ」 坊主の持ってる木の鈴は 王の口をば閉じるため。 女の持ってる書き物は 王の眼玉を潰すため。 赤児の持ってる月琴は 王の鼻をば塞ぐため。 爺の持ってる石笛は 王の耳をば鎖すため。 そうして王を追い出して 四人が代りに王様の 一人の姿に化け込んで 王の威光を振りまわし 勝手な事を為度いため」 面白い。面白い。有難い。有難い。 占めた。占めた。旨い。旨い。 王様に。なる時が来た。 この国とって。我儘云うて 楽しみをする時が来た」 とこんな風に繰り返し繰り返し唄っては踊り、踊っては唄いしていたが、その内に真裸体の赤ん坊が、糸の無い月琴を弾き止めると、皆一時にピタリと踊りを止めて、手に手に持っている道具を藍丸王に渡した。
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