ああかも知れぬ、こうかも知れぬと、吾が事のように皆の者は八釜しく評議を初めましたが、この時宇潮と藻取とはやっと気を取り直して、皆の者に向って異口同音に叫びました―― 「皆の衆、聞いて下さい。私達はもう立派に諦めを付けました。二人の者は水の底で、鏡を見付けて、綱を結び付けて帰って来る途中で、何か悪い魚の餌食になったに違いない。そうでなければ最早疾くに浮き上って来る筈だ。こうと知ったらば、前から刃物の一ツも持たせてやるところだったものを。けれども今は歎いても仕方がない。それよりももっと大切な鏡を引き上げるのが、何より肝要だ。 この鏡は二人の身代りだ。この上もない大切な形見だ。王様のお望みの品だ。さあ御苦労だが皆の衆、元気を出して引いた引いた」 と涙を払って頼みましたから、皆の者も励まされて、疲れた身体を起こして、一所に涙を拭き拭き、又もや綱に取り付きました。 それからその夜は夜通し引きましたが、綱は相変らず二三寸宛しか上って来ませぬ。とうとうその翌日終日、その翌る晩も夜通し、その又翌る日も終日、入れ代り立ち代り大勢の人々が、オイオイ泣きながらこの綱を引きましたが、やっと三日目の晩方、いよいよ綱が残り少なくなりますと、不思議や今まで雲一ツ見えなかった空が、俄に墨を流したように掻き曇って来まして、忽ち轟々と雷鳴が鳴り初め、風が吹き、雨が降りしきりまして、海の上は何千何万の白馬黒馬が駈けまわるように波が立って、沢山に繋ぎ合わせた船を一時に揉み潰そうとしました。けれども皆の者は、今度はちっとも気を落しませんでした。最早この鏡を取らなければ、香潮と美留藻が死んだ甲斐もなく、王様のお望みも絶えてしまうのだ。死んでもこの鏡を引き上げなければ、第一亡くなった二人に対して済まないと、死に物狂いになって夜半過ぎまで引いていますと、その中に雨も止み風も絶えて、湧き返る波の上の遠くに、電光がするばかりとなりました。 すると間もなく海の上に何か真黒な大きなのが出て来て、舷にドシンと打っつかった様子ですから、ソレッとばかり皆が手を添えて、船の上に引き上げました折柄、又一しきり吹き出した風に忽ち空の黒雲が裂けて、磨ぎ澄ましたような白い月の光りが、颯と輝き落ちて来ましたから、その光りで初めて浮き上ったものの正体を見ますと、皆の者は一度にワッと叫んで飛び退きました。 真黒く、又真白く湧き返る波の飛沫を浴みて、船の上に倒れているものは、見るからに凄い程光る白銀の鏡で、ギラギラ月の光りを照り返しています。そうしてその真中には顔や手足の肉が落ちて、濡れた髪毛をふり乱して、眼を剥き歯を噛み出した生きた骸骨のようなものが、呼吸をぜいぜい切らして、あおむけに寝ているではありませんか。皆の者はその恐ろしさ物凄さに、皆ペタペタと座ったまま、暫くは口も利けず、身体も固くなっていますと、今の怪物はなおも烈しい呼吸を続けて、唇を笛のようにヒューヒューと鳴らしていましたが、やがて片手で身体の綱を解いて、立ち上ってあたりを見まわしまして、皺枯れた声で―― 「美留藻は帰ったか」 と尋ねました。その時その白い歯は、月の光りに輝いて、皆を嘲り笑っているように見えました。 この声を聞くと、今まで腰を抜かしていた藻取爺と宇潮は、こいつが何でも香潮と美留藻を殺した化物に違いないと思い詰めましたから、急に元気が出て立ち上りまして―― 「これ化物、美留藻も香潮も帰って来ぬぞ」 「大方貴様が喰ったのだろう」 と掴みかからんばかりに睨め付けました。 その声を聞くと又怪物は急に嬉しそうに―― 「オオ。そう云う貴方はお父さん、私はその香潮です。そして美留藻はまだ帰らぬと仰しゃるのですか」 と早や声を震わしています。二人は香潮と聞いてハッと驚きましたが、併しこんな化物が香潮などとは思いも寄りませぬから、異口同音に怒鳴り付けました―― 「馬鹿な事を云うな。香潮は貴様のような化け物ではない」 「そんな事はありませぬ。私は香潮です。私が香潮です」 と云いながら狼狽て宇潮の傍へ走り寄ろうとしましたが、折から又もや雲の間を洩る月の光りに自分の姿がありありと鏡の中へ映りました。その姿をチラリと見ますと、化物は今度は自分の姿に驚いて、キャッと云うとそのまま眼をまわして、又もや湧き立つ大浪小浪の間に真逆様に落ち込んでしまいました。そうしてあとには只白銀の鏡だけが、ありありと月の光りに輝いて残っておりました。
十一 金銀の舟
香潮は浅ましい姿になって、不思議に生命を長らえまして、一度は人々の前に姿を見せましたが、憐れや化物と間違えられて、そのまま又、湖の波の間に沈んでしまいました。美留藻も最初から湖に沈んだまま姿を見せませぬ。とうとう二人共死んだ事に定まりましたから、人々は泣く泣く船を陸の方へ漕ぎ返しました。二人の形見の鏡を載せて、漕いで行く二人の両親の心地はどんなでしたろう。又彼の鏡を車に載せて、都へ送る両方の村人の思いはどんなでしたろう。やがて藍丸の都の王様の御殿へ着いて、御殿の大広間で皆が王様にお目通りを許されて、この鏡を取った前後のお話しを申し上げた時、この珍らしい鏡というものを拝見に来ていた、沢山の貴い人々の内で、泣かぬ者は一人もありませんでした。そうして両方の村の人達には、王様から沢山の御褒美を下さるし、又香潮と美留藻の両親には、約束通り金の船と銀の舟を一艘宛賜わってお帰しになりましたが、二人の親達はもしも今二人が無事に生きていて、この金銀の船を見たならば、どんなにか嬉しかろうと云って歎きました。 藍丸王はこのお目見得が済むと、直ぐに紅木大臣を呼んで二つの事を申し付けました。一ツはこの鏡を自分の居間の壁に掛けて、まわりに美事な飾りを付ける事。それからも一ツは国中に布告を出して、「今度藍丸王様がお妃を御迎え遊ばすに就ては、国中で一番の美しい利口な女を御撰みになる事になった。だから今から一週間の内に、東西南北の四ツの国の中で一番の美しい賢い娘を一人宛撰り抜いて御殿まで差し出せ。一週間目の朝、藍丸王様が御自身で御撰みになるから」という事を知らせろとの事でした。 第一の命令は、この都で第一の名高い飾職と宝石商人とが、大勢の弟子を連れて御殿へ参りまして、その日の内に仕上げてしまいました。それから第二の御布告は銅の板に書きまして、馬乗の上手な四人の兵士に渡して、四方の国々の王宮へ即座に出発させました。 藍丸王は鏡の取り付けが出来上るのを待ちかねて、直ぐに只一人、自分の室に這入って、入り口の扉の内側からピタリと掛け金をかけました。それから四方の窓をすっかりと締め切って真暗にしてしまいますと、今まで室の隅の留り木に凝然として留っていた赤鸚鵡は、忽ち真赤な光りを放って飛んで来て、王の頭の上に停まりました。そうしてその眼の光りで水底の鏡の表面を照しますと、鏡の表面は見る見る緑色に曇って来まして、間もなくその中から美紅姫の姿が朦朧と現われましたが、見ると今美紅姫は自分の室に閉じ籠もって、机の上に頬杖を突いて窓の外を見ながら何か恍惚と考えているところでした。この時赤鸚鵡は一声高く叫びました―― 「王様。王様。御覧遊ばせ。 美紅の姿。美紅の姿。 紅木の娘。美紅の姿」 王はこれを聞くと莞爾と笑いまして―― 「ハハア。これが美紅姫か。成る程、これは美しい利口そうな娘だ」 と申しましたが、その中に鏡の中の美紅姫がこの方を向いて、王の顔をじっと見たと思うと、美紅の室も机も着ている着物も消え失せてしまって、あとに残った美紅の姿はそっくりそのまま、海の中の藻の林で、美留藻が鏡を覗いているところになりました。この時赤鸚鵡は又も一声高く叫びました―― 「王様。王様。御覧遊ばせ。 美留藻の姿。美留藻の姿。 藻取の娘。美留藻の姿」 美留藻は鏡の中から王の姿を見て莞爾と笑いましたが、王もこれを見て莞爾と笑いまして―― 「オオ。これが美留藻の姿か。成る程。美紅姫と少しも違わぬわ。してこの美留藻の許嫁となっていた、香潮というのはどんな男であろう」 と身を乗り出しました。すると間もなく美留藻の姿は鏡の表から消え失せまして、今度は醜い、怖ろしい、骸骨のような化物の姿が現われました。そこは丁度鏡を取り上げた船の上の景色で、荒れ狂う波の上には、月の光りが物凄く輝いて、化物の姿を照しておりました。 「何だ。これが美留藻の許嫁の香潮という奴か。何という恐ろしい姿であろう。此奴が今に美留藻が俺の后になった事を知ったならば、嘸俺を怨む事であろう。成程、これは面白い。赤鸚鵡赤鸚鵡、何卒して此奴が死なないように考えて話してくれ。そうして俺に刃向って、大騒動を起すようにしてくれ。こんな珍らしい化物を無残無残と殺しては、面白い話しの種が無くなる。相手に取って不足のない化物だ」 と叫びました。すると赤鸚鵡は静かに答えました―― 「はい、畏まりました。もとより御言葉が無くとも香潮の身の上は今に屹度そうなって参ります」 この言葉の終るか終らぬに又鏡の中の様子が変って、今度は広い往来が見え初めました。その往来の左右はどこかの青物市場と見えまして、大勢の人々が、新らしい野菜や果物を、忙しそうに売ったり、買ったり、運んだりしています。そこへどう迷ったものか、白髪小僧が遣って来ましたが、見るとこの間の通り顔は焼け爛れて、眼も鼻もわからず、身には汚い衣服を着て、鈴や月琴を一纏めにして首にかけ、左手には孔の無い笛を持ち、右手には字の書いてない書物を持っておりました。その姿が珍らしいので、あとから大勢の小供が従いて来て、石や泥を雨のように投げ附けていますが、白髪小僧は痛くも何ともない様子で、平生のようにニコニコ笑いながら、ぼんやり突立って逃げようともせぬ様子です。するとそこへ又一人、手足から顔まで襤褄で包んだ男が出て来まして、白髪小僧の様子を見て気の毒に思いましたものか、小供を四方に追い散らして白髪小僧の傍へ寄って、手を引いてどこかへ連れて行こうとする様子でしたが、その時どうした途端か顔を包んでいた布が取れると、これが彼の半腐れの香潮で、集まっている者は皆その顔付の恐ろしさに、大人も小供も肝を潰して、散り散りに逃げ失せてしまいました。 その間に香潮と白髪小僧が急いでここを立ち去りますと、その後暫くの間は誰一人ここへ出て来るものはありませんでした。 すると不思議にも直ぐに眼の前に並べてある昆布の籠の内の一ツが、独り手にむくむくと動き出して、やがて横に引っくり返りますと、その中から海に飛び込んで行衛知れずになっていた美留藻が、首だけ出しましてじっと周囲の様子を見まわしました。見るとそこ等には誰も居ませんで、直ぐ前の横路地に、香潮の姿を見て逃げ出して行った果物屋の婆さんが、逃げかけに打っ棄って行った灰色の大きなマントと、黒い覆面の付いた茶色の頭巾と、毛皮の手袋と木靴とがありましたから、それを盗んで手早く身に着けて、すっかりお婆さんに化けてしまいました。それから又あたりを見まわして、まだ誰も来ない事がわかりますと、今度は傍にあった果物の籠を抱えて、その中にいろいろの果物を拾い込んで外套の下に隠して、傍に在る金箱に手をかけようとしました。その時にどうしたものか鏡の表が急に暗くなって、何も見えなくなったと思うと、今まで身動きもせずに王の頭の上に留っていた赤鸚鵡が、何に驚いたか急にバタバタと飛び降り、机の下に隠れてしまいました。
十二 三ツの掟
藍丸王はこれを見ると、急に不機嫌な顔になって、椅子から立ち上りました―― 「何だ。何だ。誰かお前の嫌いなものが、扉の外に近づいて来るのか。よしよし。お前はそこに隠れておれ。俺が追い払ってやる」 と云いながら急いで四方の窓を明け放して扉の傍へ来て―― 「誰だ。そこに来ているのは」 と云いながら扉を開きました。 外には黄色い着物を着た青眼が、謹しんで敬礼をして立っていました。 「何だ。お前か。そして何の用事があってここへ来たのか。又この間の鸚鵡の時のように、鏡を乃公から奪いに来たのか。鏡は最早疾くの昔に受け取りの儀式を済まして、居間の壁に取り付けてあるぞ。それとも他に用事でもあるのか。早く云え」 と畳みかけて尋ねました。 青眼は静に顔を挙げて王の顔を見ましたが、忽ちハラハラと涙を流して申しました―― 「嗚呼。王様。御察しの通り、私が参りましたのはその鏡の事に就てで御座います。承れば王様は、私がお止め申し上げるのも御聴き入れ遊ばさず、あの水底の白銀の鏡を御取り寄せ遊ばして、御居間に御据え遊ばしたとの事。まあ、何という恐ろしい事を遊ばすので御座いましょう。 この間申し上げた、この国の古い掟を最早お忘れ遊ばしましたか。 『人の声を盗む者。人の姿を盗む者。人の生き血を盗む者。この三ツは悪魔である。見当り次第に打ち壊せ。打ち殺せ』 只今までこの国に、人の声を盗む鸚鵡という鳥が一匹も居ず、人の姿を盗む鏡というものが一ツも無く、人の生血を盗む蛇というものが一ツも無いのはこの掟があるために人々が……」 「八釜しい。黙れ」 と王は烈しく叱り付けました。 「そのような事は貴様から聞かずとも、疾くに俺は知っている。俺は今までのように、貴様に欺されてばかりはおらぬぞ。貴様は悪魔でもないものを悪魔と云って、俺を馬鹿にしようとしたのだ。この鸚鵡の御蔭で、俺は居ながらに世界中の声を聞き取る事が出来、又この鏡の御蔭で、俺は世界中の出来事をいつでも見る事が出来るのだぞ。この二ツのものがある御蔭で、俺は世界一の賢い者になったのだぞ。それに貴様はこの重宝な宝物を無理に俺から取り上げて、俺を王宮の中に睡むらせて、世界一の馬鹿者にしようとする。貴様はこの国第一の不忠者だぞ。貴様、よく考えて見ろ。何にも知らぬ世界一の馬鹿が王様になっているがいいか。それとも何でも知らぬという事は一ツも無い、世界一の賢い者が王様になっているがいいか。どっちがいいか」 「はい。それは賢こいお方が王様になっておいでになる方が、この国の仕合わせで御座います」 「それ見ろ。それに貴様は何のためにこの俺を、何にも知らぬ馬鹿者にしようとしたのか。何のために鸚鵡や鏡を王宮に入れまいとするのか」 「噫、王様。それは御無理と申すもので御座います。王様はそんな鏡や鸚鵡をお使い遊ばさずとも、旧来から御賢こい有り難い王様でいらせられるので御座います。それにその鏡や鸚鵡が参りましてからは、王様の御眼を眩まし御耳を聾いさせて……」 「黙れ。黙れ。この二ツのものは、今まで一度も俺を欺いた事はないのだぞ。それにこの二ツの物を悪魔だなぞと、無礼者奴が。何を証拠にこの二つが悪魔だと云うのだ。その証拠を見せろ」 「その証拠は昔から申し伝えて御座りまする、この三ツの掟が何よりの証拠……」 「アハハハハ」 と王は不意に高らかに笑い出しました。そうして意地の悪い眼付で青眼の顔を見つめながら尋ねました―― 「その掟は誰が作ったのだ」 「ハイ。それは私の先祖の矢張り青眼と申す者が、申し残しておるので御座います」 「ウム、そうか。してその先祖はなぜこの三ツのものを悪魔だと定めたのか。この三ツのものを悪魔と定めるには何か深い仔細があるのか。仔細が無くて、只無暗にこのような重宝なものを悪魔だと定めるわけはあるまい。その仔細を云え」 この藍丸王の言葉を聞くと青眼はどうした訳か急に真青になって、唇までも見る見るうちに血の色が失せてしまいました。そうしてそれと一緒に手足をぶるぶると震わせながら、返事も何も出来なくなって、只その青い眼を一層まん丸く見張って、王の顔を見つめておりました。この様子を見ると王は益々勢込んで青眼の前に一歩進み寄りながら、一層厳格な顔をして睨み付けて申しました―― 「これ、青眼。貴様はなぜ返事を仕ないのだ。なぜその証拠が云われぬのだ。さ、その証拠を云え。その仔細を云え。なぜその三ツの者が悪魔なのだ。なぜこの鏡と鸚鵡が悪魔の片われなのだ。貴様は今まで何一ツとして俺に隠した事はないではないか。云え。云え。その三ツの掟の出来た訳を云え」 と王は如何にも言葉鋭く詰め寄りました。けれども青眼先生は王の勢が烈しくなればなる程縮み上って、ふるえ方が烈しくなって、今は立っている事が出来ず、床の上にペタリと座り込んでしまいました。王はじっとその有様を見ておりましたが、なおも厳そかな口調で責めました―― 「青眼。これ、青眼。貴様はなぜそのように恐れるのだ。なぜそのように顫えるのだ。なぜその仔細を俺に隠すのだ。一体貴様の為る事は俺にはちっとも訳が解からぬぞ。この間のように見もせぬ夢を見たろう等と尋ねたり、又はこのような重宝なものを俺から奪い取って、罪も無い鸚鵡を殺そうとしたり、又は大勢の者が生命を棄てて拾い上げてくれたこの貴い鏡を打ち壊そうとする。俺にとってはこれ位有り難い貴い重宝な宝物は無いのだぞ。それをなぜ貴様はそのように悪むのだ。そうしてその仔細を云えと云えばそのように青くなって顫え上ってしまう。一体どういう訳でそのような妙な事を云ったり為たりするのだ。少しも訳がわからぬではないか。なぜそのように隠すのだ。なぜそのように恐れるのだ。さあ、云え。さあ、返事をしろ。すっかり白状してしまえ」 王はこう云いながら一層鋭く青眼を見つめました。けれども青眼は矢張りその眼を ったまま返事をしませぬ。じっとその顔を見ていた王は、やがて莞爾と笑って申しました―― 「ハハア、解かった。貴様が隠す訳がわかった。恐れる訳がわかった。隠す筈だ。云えない筈だ。その掟は矢張り嘘の掟だからだ。貴様の先祖から代々貴様までも、根も葉もない作り事をして、俺にこのような貴い有り難い宝物を近づけぬようにして、自分だけ世界一の利口者になろうとしているのだ」 「いえ、決してそんな事は御座いませぬ。悪魔はどうしても悪魔で御座います。何卒何卒王様、私の申す事を……」 と青眼は慌てて口を利きました。 「黙れ。青眼。貴様はどうしても俺を欺そうとする。貴様こそ悪魔だぞ。イヤ悪魔だ。悪魔に違いない。貴様の家は先祖代々云い伝えて、俺のお守役になって、嘘の掟を作って、こんな重宝なものを遠ざけて終いに俺を何にも知らぬ馬鹿者にしようとしたのだ。最早俺は貴様の云う事を聞かぬ。俺はこの鸚鵡から、世界中の事を聞かせてもらった。又この鏡から、世界中の事を見せてもらった。御蔭で大層利口になった。こんな嬉しい事はない。こんな有り難い事はない。今まで俺に何事も知らせまい知らせまいとしていた貴様は、大不忠者だぞ。これ兵隊共、此奴を王宮の外に抓み出せ。以後俺が許す迄は王宮に来る事は相成らぬぞ」 と云いながら扉をドシンと閉めました。 青眼は忽ちむっくと起き上って、今閉まったばかりの扉に取り付いて男泣きに泣き出しました。 青眼は藍丸王のこのように荒々しい、狂気じみた姿を見たのはこれが初めてでした。又このように無慈悲な言葉で、嘲けられ罵しられた事も初めてでした。あまりの事に扉に取り付いて、流るる涙を拭いもあえず―― 「王様。王様。王様は気でもお狂い遊ばしましたか。この間まであのように優しく、あのように気高くておいで遊ばした王様が、どうしてそのようなお情ない浅ましい御心にお変り遊ばしたので御座いましょう。これと申すもあの鏡と鸚鵡、二ツの魔物が、王様の御心を眩ましたからで御座いましょう。何卒、王様。御心を御静め遊ばして私の申す事を御用い遊ばして……」 と喘ぎ喘ぎ口説き立てましたが何にもなりませんでした。扉の中からは何の返事も聞こえず、却て廊下番の兵隊共に引き立てられて、王宮の御門から逐い出されてしまいました。 ところが青眼先生が引っ立てられて行くと間もなく、又もや赤鸚鵡が叫び立てました―― 「あれあれ、王様、今度は紅矢が御目にかかりに来る様子で御座います。今家から馬に乗りまして、この御殿の方へ出かけるところで御座います。 只今紅矢が参りますのは他の事でも御座いませぬ。紅矢はずっと以前に旧の藍丸王から、自分の第一番目の妹濃紅姫をお后に差し上げるよう、固い御言葉を受けておりまして、まだ家の者には話しませぬが、兄妹共はそれを楽しみに致しておったので御座います。ところが紅矢はこの間から父の用事で、北の加美足国へ参いっておりましたが、今日帰って参りますと、今朝王様があのような御布告をお出し遊ばして、他の国々からお后をお選みになるという事を聞いて、妹思いの事で御座いますから、夢かとばかり驚きまして、直ぐに王様の御布告が本当かどうか伺いに参いるので御座います。今紅矢は廊下の番兵にお取次を頼みました。御聞き遊ばせ」 と云いも了らぬうちに兵士の声が扉の外から―― 「紅矢様の御出でで御座います」 と高らかに聞こえました。 王は直ぐに返事をしました―― 「まだ誰もこの室に這入る事は相成らぬ。用事があるなら後に来い」 この言葉を扉の外で聞いていた紅矢は、全く夢に夢見る心地がしました。紅矢も青眼先生と同じように、王様からこのような荒々しい、菅無い言葉を受けたのは、これが初めてでした。それでなくても濃紅姫の事を思うて、胸が一パイになっていた紅矢は思わず扉に取り付いて叫びました―― 「王様。王様。王様は如何遊ばしたので御座いますか。どうしてそのようなお情ない事を仰せられますか。紅矢で御座います。紅矢で御座います。何卒一度だけ御眼にかからせて下さいまし。私の妹の濃紅の事で、是非申し上げなければならぬ事が御座いますから」 「濃紅がどうしたというのだ」 「エエッ。最早王様は御忘れ遊ばしましたか。彼の御約束を御忘れ遊ばしましたか」 「忘れはせぬ。けれども約束を守るなぞという事は大嫌いになった。昨日の王と今日の王は別人だ。そんな約束を守らなくともよい。もしその濃紅姫とやらを后に為たいと思うならば、最前国中に布告さした通りに、今日から一週間の後に、国々の女と一所に宮中へ差し出せ。もし気に入ったら后にしてやる。帰ってその事を妹に知らして、支度をさせておけ。間違うと許さぬぞ。その他に用事は無い。帰れ」 と世にも無法な言葉です。紅矢は今日まで、両親よりも、妹共よりも、誰よりも慕わしく懐かしく、天にも地にも二人と無い、慈悲深い気高い王様と思い込んでいたのに、今は鬼よりも無慈悲な、獣よりも賤しい御心になられて、その声までも虎のように荒々しくなられた事が解かりました。その上に今まで、何よりも楽しみにしていた濃紅姫の事を、王は自分で約束しながら、自分で破って、あられもない国々の賤しい女共と一所に、一週間の後に御目見得に出せとは、まあ何という浅ましい仰せであろうと、余りの悲しさ情なさに紅矢は前後を忘れてしまって、泣くにも泣かれず、只狂気のように頭の毛を掻きむしりながら、驀然に王宮を駈け出ました。
十三 名馬の蹄音
紅矢が王宮を駈け出ますと、直ぐに王は又鏡に向って、最前の美留藻がお婆さんに化けた後の有様を見せろと命じました。けれどもまだ鏡に何も映らぬ前に、王は不意に恐ろしい物音を聞きつけて叫びました―― 「あれ。あの音は何だ。雷の響か。霰の音か。否々。馬の蹄の音だ。何という高い蹄の音であろう。何という疾い馬であろう。あれ、王宮の周囲を街伝いに、もう一度廻ってしまった。あの馬の騎り手はこの夜更けに何のためにこの王宮のまわりを駈けめぐるのであろう。あんな疾い馬がこの世に在るか知らん。騎り人は俺の知らぬ魔者ではないか知らん。あれ、最早二度まわってしまった。今度は三度目だ。これ、白銀の鏡。赤鸚鵡。美留藻の行衛は最早見なくともよい。それよりも早くあの馬と、その騎り人を見せてくれ。あれ、もう三度まわった。疾い疾い。何者だ。何者だ」 と呼吸は機ませて尋ねました。この言葉の終らぬうちに、早くも赤鸚鵡の眼から電光のように光りがさして、鏡の表面が颯と緑色に曇って来ました。そうして又ギラリと晴れ渡ったと思うと、一人の騎馬の少年の姿が現われました。それは最前王宮を出て行った紅矢でした。 紅矢は今まで親よりも敬って、兄弟よりも親しく思っていた藍丸王が、まるで鬼よりも無慈悲な心になり、虎よりも荒々しい声に変って、その上に今は又、自分の妹の事を露程も思って下さらない事がわかりますと、あまりの事に驚き悲しんで狂気のようになって王宮を駈け出ると直ぐ、そこに繋いでおいたこの国第一の名馬「瞬」というのに飛び乗って、手綱を執るが早いか馬の横腹を拍車で千切れる程蹴り付けました。すると今まで只の一度も鞭の影さえ見せられた事のない「瞬」は、思いがけない主人の乱暴な乗り方に驚いて、これも夢中になってしまいまして、ヒーンと一声棹立ちになったと思うと、そのまま一足飛びに駈け出しました。 けれども紅矢は「瞬」がどんなに驚いて、どんなに疾く駈けているのか気が付きませんでした。只最前の王の荒々しい言葉や声が、まだ聞こえるように思い、又家に帰ってこの事を濃紅姫に話す時の濃紅姫の顔が、今眼に見えるように思って、胸の内は掻き られるようでした。そうしてこのままこの馬と一所に高い崖からでも落ちて死ねばいいと思いながら、両手を手綱から放して、頭の毛を掻き掴んで、星の光りの冴え渡った空を仰ぎながら、馬の横腹を蹴立て蹴立てて、人通りの無くなった都の街を、滅茶苦茶に走らせました。 すると馬は益々驚き慌てまして、白泡を噛み立髪を逆立てながら、足を空に揚げて王宮の周囲を瞬く間に六七遍ぐるぐるとまわりましたが、七遍目に王城の前の広い通りへ出ますと、そのまま南の宇美足国へ通う街道を一散に駈け下りました。 紅矢は馬が走れば走る程、気持ちがだんだん晴々して来るようですから、なおも構わずに走らせていますと、その中に夜が明け離れて、向うに遠く白く光るものが見えて来ました。これは一つの湖で、大層大きい様子ですから、紅矢ははじめて馬を控えて通りがかりのお婆さんに―― 「お婆さん。あの湖は何という湖ですか」 と尋ねました。そのお婆さんは頭巾と覆面で顔をすっかり隠して、片手に短い杖を突き片手に重たい果物の籠を提げて、さも疲れたらしくよぼよぼと歩いていましたが、今紅矢からこう尋ねられると、立ち停まりながらやっとこさと腰を延ばしまして―― 「はい。あれは多留美という湖で御座います」 と教えました。紅矢は思いの外に遠くに来ているのに驚きまして―― 「何。あれが多留美という湖かい。これは驚いた。では南の国の都も最早遠くないんだ。それではそろそろ引き返そうか」 と馬の首を引き廻しましたが、又不図このお婆さんが如何にも疲れているのに気が付きまして―― 「お婆さんはどこへ行くのですか」 と尋ねました。そのお婆さんは覆面の下から、しきりに紅矢の様子を見ている様子でしたが、この時さも弱り切ったように溜息をしまして、自分はあの多留美の湖の片傍りに住んでいる者だが、近い内に王様がお后を御迎え遊ばすという事を聞いたから、そのお祝いに自分の家の庭の樹に生った果物を籠に入れて差し上げに行くのだと答えました。これを聞くと紅矢は濃紅姫の事を思い出して、嗚呼これをもし自分の妹が受け取るのだったら、どんなにか嬉しい事だろうと胸が一杯になりました。併し今このお婆さんの忠義な心掛けにも大層感心をしまして、いよいよその疲れているのが気の毒になりまして、それでは自分も都からここまで散歩に来たもので、今から引きかえすのだから丁度いい、一所に馬に乗せて宿屋の在る処まで連れて行って上げようと勧めました。お婆さんは頻りに遠慮をしました。けれどもとうとう紅矢の親切な言葉を断り切れず、鞍の前輪に乗せられて都の方へ連れて行かれました。 紅矢はお婆さんが眼をまわすといけないと思いまして、わざとそろそろ馬を歩かせましたが、このお婆さんは中々話し上手で、紅矢の顔色の悪いのを見て、いろいろ親切に尋ねましたから、紅矢もうっかり釣り込まれまして、自分の心配の種の濃紅姫の事や、王様の御気性が荒々しくならせられた事、それからあまりの事に驚いて何が何やら解からなくなって、夢中に王宮を飛び出して、無茶苦茶に街中を駈けめぐって、夜通しの裡にここまで来た事、又この馬はこの国第一の名馬で瞬く間に千里走るという評判があるから、名を「瞬」と付けてある事等を、詳しく話して聞かせました。お婆さんは聞く事毎に感心をして、紅矢が天子様の御言葉に少しも反かなかった心掛けを無暗に賞め千切りましたが、なおその上にも紅矢の家や、王宮の中の模様を根ほり葉掘り尋ねましたから、紅矢は少し気味が悪くなりまして、終いには極く短い返事ばかりしていました。けれどもお婆さんは中々止めませぬ。 やがてさも勿体らしく、咳払いを一つしまして―― 「紅矢様。よく教えて下さいました。御蔭で妾は貴方様の御宅の様子や、王宮の中の様子がよくわかりました。けれどもそれと一所に、妾は世にも恐ろしい災が、貴方のお身体や、貴方の御家にふりかかっている事を知りまして、どうしたらよいかと思っております」 「何。災が降りかかっている」 と紅矢は思わず釣り込まれて尋ねました。 「お婆さん、それは本当かえ」 「ハイ。何をお隠し申しましょう。妾は南の国で名高い女の占者で、今年で丁度八百八十歳になりますが、まだ一度も嘘を云った事は御座いませぬ。今ここに持っておりまする果物も、その占いに使うための不思議な果物で、今度王様が御妃を御迎え遊ばすに就いて、この世で一番賢い美しい姫君をお撰みになるように、この果物を差し上げに行くので御座います。この果物がどんな不思議な働を致しますかという事は、直きに貴方にもお目にかける事が出来ましょう。そうしたら貴方もこの婆の申し上げる事が、嘘でないと思し召すで御座いましょう」 と申しました。 この婆さんの落ち付いた話ぶりには、流石の紅矢もすっかり引き込まれてしまいました―― 「何。それは本当かえ。私の家にはそんな恐ろしい災が降りかかろうとしているのかえ。どうしてそれがわかるの、お婆さん。教えておくれ」 と急き込んで尋ねました。
十四 果物の占い
するとお婆さんはうしろから覗き込んでいる紅矢の顔を、黒い覆面の下からそっと見返りながら申しました。 「そんなにお騒ぎにならなくとも大丈夫で御座います。災というものは前からわかっていれば、誰でも免れる事が出来るもので御座います。けれども貴方のお家の災がどんな災か、はっきり前からわかるためには、妾はまだもっと貴方のお家の中の事に就いて、お尋ね申し上げねばならぬ事が御座います。貴方は少しも隠さずに、私が尋ねる事をお答えになりますか」 「ああ、どんな事でも。屹度」 「ではお尋ね致しますが、貴方の末のお妹さんは、美紅姫と仰しゃるのですね」 「そうだ」 「その美紅姫は貴方とお顔付きがよく肖ておいでになりますか」 「ああ……よく肖ていて、着物を取りかえると一寸わからない位だよ」 「その美紅姫に就いて、この頃何か不思議な事は御座いませぬか」 「ああ、よく知っているね。お婆さん。本当に私はその妹の事に就て解からない事があるのだよ。一体その美紅姫は、小さいときからお話が何より好きで、今まで毎日毎日お話の書物ばかり読んでいたのだが、この頃急にそのお話が嫌いになって、只一人自分の室に閉じ籠もって何かしきりに考えながら、折々解からない解からないと独言を云っているのだよ。だから皆心配してその訳を聞いて見るけれども、どうしてもその訳を云わないで、只明けても暮れても解からない解からないと云い続けている。けれども別段病気でもなさそうだから、打っちゃらかしておくのだよ」 「まあ、そうで御座いますか。それでやっとわかりました。それではその美紅姫は、黒い大きな眼をした、眉の長い、そして紫色の髪毛が地面まで引きずる位、長いお方では御座いませんか」 紅矢はこのお婆さんが、自分の妹の事を、どうしてこんなによく知っているのかと、怪しみながら答えました。 「そうだよ。それにすこしも違はない」 「フム、そうで御座いましょう。ではもしやその美紅姫は、この間の朝不思議な夢を御覧になりはしませんでしたか」 この言葉を聞いた紅矢はあまりよく中るのに驚いてしまって、口を利く事が出来ず只やっとうなずいたばかりでした。けれども婆さんは構わずに―― 「フム。フム。フム。いよいよ妾の占いは本当だ。では今一つお尋ね申し上げます。その美紅姫がその夢を御覧遊ばした朝、お眼が覚めて吃驚なすった時、窓の処に一匹の赤い鳥が居はしませんでしたか」 紅矢はもう、余りの不思議に呆れてしまって、只深いため息をつくばかりでした。 「ヘヘヘ……。よく中りましたで御座いましょう。妾はこの国第一の年寄りで、又この国第一の占者なので御座いますもの。当らない筈は御座いませぬ。妾は初め、向うから貴方が馬に乗ってお出でになるのを見付けまして、貴方のお顔を見ました時、すぐに貴方は貴い身分の御方で、御両親や妹御様方があり、しかもその末の妹御様は、この間十何年の長い間、他の国で美留女姫と名乗ってお話狂気とまで云われた夢を御覧になって、その夢が覚めると、枕元の窓の処に一匹の赤い鳥が居た事、そうしてその長い夢の間に、昨日までの事を忘れてしまって、却って今の御身の上を夢ではないかと思っておいでになる事なぞが、一時にすっかり解かったので御座います。 紅矢様。お気をお付け遊ばせ。その妹御様の美紅姫こそ、貴方のお家の災の種で御座いますぞ。美紅姫はこの間御覧になった夢の中で悪魔になってしまって、赤い鸚鵡という鳥を召し使いにして、貴方のお家に恐ろしい災を降らせ、貴方の御両親や、貴方や、濃紅姫や、家中の人々を鏖にして、只自分独り生き残って、そうしてこの国の女王となって、勝手気儘な事をしようと思っておられるので御座いますぞ」 「では濃紅姫はお后になる事は出来ないのか」 と紅矢は声を震わして尋ねました。 「はい、出来ませぬ。出来ませぬ。妹御の美紅姫が邪魔を遊ばします。いや、美紅姫ではない。悪魔に咀われた美紅姫、つまり夢の中の美留女姫が邪魔を遊ばします」 「嘘だ。美紅姫はそんな悪い女でない。又そんな悪魔に魅入られるような女ではない。私はお婆さんの云う事を本当にする事は出来ない。他の占は皆当ったけれども、今の占だけは決して当らない」 と紅矢は顔を真赤にして、身を震わしながら云い切りました。けれどもお婆さんは中々凹みませんでした―― 「今までの占がもし当ったとすれば、今の占も決して中らぬ筈は御座いませぬ。嘘だと思し召すならば、その証拠を御覧に入れましょうか」 紅矢はお婆さんからこう云われても、どうしても妹の美紅がそんな事をするとは思われませんでした。そしてあの可愛い妹を悪魔のように云うこの婆さんが、心から憎くなりまして、もう一時も馬に乗せておく事は出来ない位腹が立ちました。けれども又思い直しまして、この婆さんは決して悪い気で云っているのではあるまい。屹度占いを間違えて、それを本当にして心配して、自分に教えてくれるのに違いないと考え付きましたから、それならば一つその証拠を見て、それから間違っている事を教えてやろうと思いまして―― 「では、お婆さん、その証拠を見せておくれ」 と頼みました。 「その証拠というのは、これ、この果物で御座います」 と云いながら婆様は、手に持った果物の籠を見せました。 「何、その果物が証拠とは……」 と紅矢は驚いて中を覗きますと、中には見事な林檎が七ツ這入っておりました。 「妾はこれでその占いを立てたので御座います。御覧遊ばせ、七ツ御座いましょう。丁度悪魔の数で御座います。これを倍にすると美紅姫のお年になります。つまり美紅姫は悪魔に取り付かれて身体が二ツになって、その半分は今貴方の御命をつけねらっているという事になります」 「馬鹿な。そんな事があるものか。都からここまでは何百里とあるものを」 と又紅矢は馬鹿馬鹿しくなって笑い出しました―― 「ではその果物が美紅姫だと云うのかえ」 「イイエ。そうでは御座いませぬ。けれども悪魔の美紅姫はこの果物の直ぐ傍に居るという事で御座います」 「何、私の傍に」 と紅矢は思わずそこらを見まわしましたが、そこは丁度只ある森の中の橋の上で、あたりには人一人通らず極く淋しい処でした……と思う間もなくどうした途端か、お婆さんは不意に今まで大切に抱えていた果物の籠を、馬の上から取り落しまして―― 「あれっ。大変だア」 と叫びながら、自分も一所に馬の上から転がり落ちて、周章て果物を拾おうとしましたが、生憎果物は橋板の上を八方に転がり出して、大方河の中へ落ちてしまいました。するとお婆さんは俄に泣き声を張り上げて―― 「あれッ。大切な果物が皆河へ落ちた。王様へ差し上げる占の果物は皆流れて行って終う。ああ、勿体ない。勿体ない。あれ、取って下さい。取って下さい。誰も取ってくれなければ妾が行く」 とそのまま欄干に走り寄って、今にも飛び込もうとしました。これを見た紅矢は驚くまい事か、「お婆さん、危い」と叫びながら直ぐに馬から飛び降りて、お婆さんを抱き止めて、代りに自分が素裸体になって、橋の欄干から身を躍らして河の中へ飛び込みました。 この体を見ますと、今まで橋の欄干に縋り付いて泣いていた婆さんが、急に泣き止んで矗と立ち上りまして、いきなり頭巾や、外套や、手袋をかなぐり棄てますと、お婆さんと見えたのは美留藻が化けたので、今ドンドン流れて行く果物と、それを追かけて行く紅矢を眺めて気味悪くケラケラと笑いました。そうして声高く、 「お兄様……悪魔の美紅をよく御覧なさい」 と云うかと思うと直ぐに、傍に脱ぎ棄ててある紅矢の帽子から靴まですっかり盗んで身に着けるが早いか、ヒラリと「瞬」に飛び乗って、強く横腹を蹴付けながら、一足飛びに都の方へ飛び出しました。
十五 白木綿
悪魔美留藻はやがて何百里という途を矢のように飛ばして、名前の通り瞬く間に都に到着しますと、美留藻は先ず呉服屋へ参りまして、晒木綿を買いまして、それからとある人通りの少ない横路地へ這入りました。そうして上衣やズボンの方々に泥を沢山なすり付け、その上に顔中すっかり繃帯をして眼ばかり出して、男だか女だか解らぬようにして終いますと、今度はこの都第一の仕立屋へ這入りまして、紅矢の声色を使って、自分は総理大臣の息子の紅矢である。最前馬から落ちて顔に怪我をした上に、大切な着物を汚してしまったのだが、明日は又王宮に行かねばならぬから、今日の正午迄に今一着同じ服と、外套一枚を仕立て上げろ。但し材料や飾りは出来るだけ派手な上等のものにして、鈕にはこれを附けるようにと云いながら、髪毛の中から大粒の金剛石を十二三粒取り出して渡しました。 折よくこの仕立屋の亭主は紅矢の家へ出入りの者で、紅矢の身体の寸法を心得ていて、委細承知致しましたと受け合って、金剛石を受け取りましたから、美留藻はなおも念を押して、家中総掛りで屹度間に合わせろと命じて、又馬を飛ばせました。それから帽子屋へ参りまして上等の帽子を、矢張り正午迄の約束で誂えまして、その飾りにと云って、ここへも大きな金剛石を一粒渡しました。それから剣屋へ行って剣を、靴屋へ行って靴を、手袋屋へ行って手袋を、皆正午までに最上等の分を調えておくように申し付けまして、今度は王城の西の方に向って馬を飛ばせました。どこへ行くのかと思うと、やがて美留藻は紅矢の家を尋ね当てまして、大胆にも表門から駈け込みましたが、馬から降りると直ぐに玄関に駈け寄って、その石段の上に伏し倒れて、悲し気な声で家の者を呼びました。 家の者は、紅矢が昨日旅から帰ると、直ぐに王宮へ行って、又王宮を飛び出して、「瞬」に騎って王宮の周囲を七遍も駈けまわって、そのまま昨夜の内に行衛が知れずになったという噂を聞きまして、薩張り理由が解らず、もしや王様から大層な急用でも仰せ付かったのではあるまいか。それとも帰り途に散歩に行って、大怪我でもしたのではあるまいかと、大層気を揉んでいるところでしたが、この声を聞くや否や皆一時に、素破こそと胸を轟かして玄関に駈け付けて見ますと、こは如何に。 紅矢は余程の大怪我をしたものと見えて、顔中繃帯をして、呼吸を機ませて倒おれております。この体を見た両親や、その他の者の驚きは一通りでありませんでした。直ぐに大勢で紅矢の寝床へ担ぎ込みましたが、生憎な時は仕方のないもので、この家のお抱えの医者は、二三日前から遠方の山奥へ薬になる艸や石を採りに行った留守で、とても一月や二月で帰って来る気遣いはなく、今の間には勿論合いませんでしたから、仕方なしに宮中のお抱えの青眼先生の処へ使いを立てて、大急ぎで御出で下さるようにと頼みました。丁度青眼先生は藍丸王のお叱りをうけて家に引き籠もっているところでしたが、紅矢が怪我をしたと聞くと直ぐに承知をしまして、薬を取り揃えて出かけました。 青眼先生が来る迄に、美留藻の似せ紅矢は鋭く眼を配って、家の中の様子を見ますと、案の定この家の中に居る人々は、この間自分が夢の中で見た、美留楼公爵の家の人々にそっくりで、声までも少しも違いませぬ。美留藻は吾れながら眼の前の不思議に、今更に驚いてしまいましたが、又気を取り直しまして、それではこの家の末娘の美紅というのが、いよいよ自分と同じ夢を見て、吾れと吾が身を疑っているのに違いない。そうしてその姉の濃紅姫は、自分と一所に王様の前にお眼見得に出るとの事、念のため今一度、二人の顔を見ておきたいと、なおもよく気を付けて眼を配っていますと、この時姉妹の二人は、兄の怪我を気遣いながら、両親の身体の間から涙ぐんだ顔を出して、一心に様子を見ておりましたが、やがて美留藻が二人の顔を見付けて、繃帯の中からじっと眼をつけますと、二人は悲しさと恐ろしさに堪え切れないで、顔に手を当ててこの室を出てしまいました。 あとを見送った美留藻は、ほっと深い溜め息をしました。美紅姫の姿の美しくて気高い事。湖の底の鏡の中で見た自分の姿に、一分一厘違わぬばかりでなく、ずっと清らかに神々しく見えたからで御座います。又姉の濃紅姫の方は、流石に紅矢が自慢するだけあって、本当に温柔しく優しいには違いありませぬが、併しその美しさは迚も妹の美紅や、又は美留藻自身の美しさとは比べものにならないと思いましたから、これならば自分と一所に藍丸王様の御前にお目見得に出ても、決して負けるような事はないと安心をしました。 けれどもとにかくこの家の人々は、この間の夢の中で、美留女姫の両親や兄妹となった人々で、しかもその末娘の美紅姫は、矢張り自分と同じように、美留女姫になった夢を見たのみならず、不思議にも自分と少しも違わぬ姿を持っているのですから、もしかすると美紅姫の方が本当の美留女姫の生れ変りで、自分が女王になるというのは嘘かも知れないと思いました。もしこの美紅姫があの夢を本当にして、女王になろうとでも思ったならばそれこそ大変で、折角自分が骨を折って、本当の事にしようと思っているあの夢が、皆嘘になって仕舞いますから、最早一寸も油断がなりませぬ。これは何でもこの美紅姫を亡いものにして、出来る事ならあの夢の事を知っているものは皆息の根を止めてしまわなければ、自分は一寸の間も安心して眠る事は出来ない。そうしなければあの夢のために自分に向いて来た幸福を、自分一人占めにする事は出来ないのだと、恐ろしい覚悟を定めてしまいました。けれども紅木公爵も公爵夫人も、こんな悪い女が似せ紅矢となって、今眼の前に寝ていようとは夢にも知りませぬ。只思いもかけぬ吾が児の大怪我に気も狂う程驚き慌てまして、一体どうしてこんな事になったのかと言葉を揃えて尋ねました。 似せ紅矢の美留藻はこの言葉を待ちかねて、紅矢の声色を使いまして、さも苦しそうな呼吸の下から、「何卒皆の者を遠ざけて下さい。只御両親だけ御残り下さい。他人に聞かれてはよくない事で御座いますから」と申しました。そうして両親と差し向いになりますと、美留藻はさも痛々し気に床の上に起き直りまして、両手を支えて、繃帯の間から涙をポロポロと落して見せました。 両親は益々驚き周章てまして左右から、 「お前はどうしたのだ。訳を云わずに泣いたとて訳が解からんではないか。どういう訳で涙を流すのだ。これ。紅矢。早く聞かせてくれ。心配で堪らない。ええ、紅矢」 と問い詰めました。この様子を見て美留藻は、先ず占めた、両親は飽くまで自分を紅矢と思っていると安心しました。そしてなおも弱り切った声で―― 「実は私は御両親に今日只今まで、固く御隠し申していた事が御座います。けれども最早斯様になりましては到底御隠し申す訳に参りませぬ故、すっかりお話し致します」 と申しましたが、これから濃紅姫が王様をお慕い申し上げていた事を初めとして、今度王様が御自身で濃紅姫を妃に迎える約束を遊ばしながら、又御自身でその約束をお破り遊ばした上に、今から一週間の後に他の女と一所にお目見得に出せと仰せられた事、自分は余りの切なさに夢中になって「瞬」に乗って駈け出した事、それからその夜の内に多留美の湖の傍まで行って帰りがけ、只ある橋の上で馬が躓いたために落ちて怪我をした事など、有る事無い事、紅矢から聞いた話に添えて、詳しく話して聞かせました。 両親は聞く事毎に驚く事ばかりでした。そうして事情はすっかり解かりましたが、その中で濃紅姫を他の女と一所にお目見得に出す事だけはあまりに情ない浅ましい事で、殊に都合よく御妃になる事が出来れば兎も角も、もし間違って王様の御気に入らないような事があると、これ位恥辱な事はないからと云って、両親は容易く承知致しませんでした。 併し美留藻の似せ紅矢はここが大切なところと思いまして、一生懸命になって濃紅姫の容色を賞め千切って、仮令どんな女が来ても妹以上に美しい女は居ないから大丈夫だ。それに藍丸王様も今は濃紅姫の美しさをお忘れになったから、あのような菅無い事を仰せられたのであろう。けれども又今度御覧になれば、屹度昔のように御気に入るに違いない。そしてもし濃紅姫がお目見得に出ないために、他の賤しい女がお妃になるような事になると、かえって王様に対して恐れ多い事になる。だから濃紅姫が今度のお目見得に出るという事は、十方八方のために大層都合のよい大切な事で御座いますと、さも苦しそうな呼吸の下からあらん限りの言葉を尽して勧めました。 両親も聞いて見れば成る程道理ですから、一つは濃紅姫の可愛さと親の贔負目で、やっとの事それに定めて両親揃って濃紅姫の室へ相談に出かけました。 そのあとへ青眼先生が、女中の案内を受けて大急ぎで遣って参りました。先生は今まで宮中より他にはどこにも行った事がなく、この家に来たのはこれが初めてで、宮中に来る紅木大臣と紅矢の他は一度も会った事のない人ばかりでしたから、一々皆に叮嚀に挨拶を致しましたが、只美紅姫だけは自分の室に隠れていて、姉様の濃紅姫が呼んでも出て来ませんでした。 美紅姫は青眼先生が来たと云う声を聞くや否や、もしやあの夢の中の怖いお爺さんではあるまいかと思ったので御座います。そうしてもしそうなれば、今の自分の身の上はどこからが夢でどこからが本当だかいよいよ解からなくなる。いよいよ不思議に恐ろしくなる。何にしても青眼先生という人が、あのお爺様かどうか見て見なければわからないと思いました。けれどももし真正面に顔を合わせて、又悪魔と間違えられでもしては大変と思いましたから、そっと扉に隙間を作ってそこからそっと眼ばかり出して様子を見ておりました。 その前を通る青眼先生の顔を一眼見ると、美紅姫は思わずアッと声を立てるところでした。その肩まで垂れた青い髪毛、その青くて鋭い眼付、青い髯、黒い顔色、そうしてその黄色い着物、皆あの夢の中のお爺さんにそっくりそのままで、歩きぶりまで違ったところはありません。美紅姫は恐ろしさの余り身体中の血が凍ったように思いました。
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